江口きち えぐち・きち(1913—1938)      


 

本名=江口きち(えぐち・きち)
大正2年11月23日—昭和13年12月2日 
享年25歳(文暁妙珠大姉)
群馬県利根郡川場村谷地2009 桂昌寺(臨済宗)


 

歌人。群馬県生。流れ者の両親の長女として生まれ、高等小学校卒業後、郵便局に勤めたが、18歳の時母の急死によって営んでいた飲食店を継ぐ。年老いた父と白痴の兄、3歳年下の妹を養いながら独学で短歌を学び、昭和6年河井酔茗・島本久恵夫妻の主催する歌誌『女性時代』に投稿をはじめ生きがいとしたが、昭和13年兄を道連れに服毒自殺。遺稿集に『武尊の麓』がある。



 


 

おのづから亡びの家に生れし子ぞ死にまむかふはものの故にあらず

火の如くわが瞳に燃ゆる憎しびはけわしかるらし父を刺しつつ

いたづらに賤しき生業と焦りたるわれと愛しき齢過ぎにし

よもぎ餅つかぬを怒る児のごとき白痴の兄をなだめつつ悲し

かにかくに人に倣ひてわがたつる生活は疎く常乏しかり

いつまでか人にそむきゆくわれなりやゆき果てむ日の早かれとこそ

天つちの反逆もあれわれはわが行くべき道を譲らじと思う

砕けよと纏きしかいなを人の生のありなれごととのらせ給ふな

生き死にはさもあらばあれひとすじと相寄る魂のゆらぐはなきに

誰がために保ついのちぞ相見じと誓ひし面に紅ひくあはれ

睡たらいて夜は明けにけりうつそみに聴きをさめなる雀鳴き初む

 


 

 渡世人の父と温泉場の奉公人であった母が流浪の果てに住み着いた群馬県利根郡川場村谷地。父熊吉は家庭をかえりみず、母ユワの営む飲食店兼雑貨店「栃木屋」で生計を立てていた家を「亡びの家」と詠んだ江口きちの悲しみを思う。高等小学校を卒業後、沼田の郵便局に勤めはじめたものの、母が脳溢血で急逝。わずか四ヶ月で「栃木屋」を継ぐ。一家の生活はきちの肩にかかり、憎しみの対象であった父、白痴の兄、三歳下の妹との生活、孤独な環境は歌や詩の道へときちを導き、河井酔茗夫妻主宰の歌誌『女性時代』にであって以来、短歌はきちの命そのものとなったが、厭世の気持ちは深くなるばかり、前々から毒薬を入手、死の準備をして昭和13年12月2日未明、青酸カリをサイダーに混ぜて兄に与え、その死を見届けてから合掌させて香華を手向けた。純白のドレスをまとったきちに迷いはなく、冬の闇が明け始める頃、自らも服毒して果てた。



 

 河岸段丘の美しさで有名な沼田市街からバスで小一時間、武尊山のふところにある川場村谷地に着く。いまは星野商店となっている「栃木屋」の少し先を左に入ると菩提寺桂昌寺が見えてくる。生家近くにあるこの寺の墓地奥に江口家の墓碑三基が建っている。左に満州の収容所で亡くなった妹たき一家の墓、河井酔茗書の〈春にたのむ幸あらなくに春来なばと待ちし妹なりし〉、中央には死を覚悟したきちが建てた両親の墓、〈流れ来て異郷の土の祖となりし母のかなしきいのちおもほゆ〉、それぞれにきちの歌が刻まれてある。右に「文暁妙珠大姉」とあるのがきちの墓。左側面に兄広寿の戒名、右側面に辞世〈大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり〉、脇を流れる櫻川のせせらぎと杉木立を抜けてくる涼風が一息の安息をもたらしてくれた。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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