江國 滋  えくに・しげる(1934—1997) 


 

本名=江國 滋(えくに・しげる) 
昭和9年8月14日—平成9年8月10日 
享年62歳 
静岡県駿東郡小山町大御神888–2 冨士霊園・文學者の墓
 



 
随筆家。東京府生。慶應義塾大学卒。新潮社の『週刊新潮』編集部に勤務。昭和36年『落語手帖』を刊行。41年新潮社を退職、文筆業に転じ、随筆、紀行、大衆芸能の評論、俳句などの分野で幅広く活躍した。平成元年刊行の『日本語八つ当たり』はベストセラーになった。ほかに『俳句とあそぶ法』『慶弔俳句目録』などがある。



 

 


 

 「ボケ老人」でなぜ悪い。
 人間、年をとればボケるのである。そりゃ、なかには米寿、白寿と生きながらえながら、最後の最後まで頭だけはしっかりしたままめでたく大往生をとげる人間もいることはいるけれど、あれは稀有なる例外と知るべきであって、人間が天命に逆らってこんなに長生きするようになった以上、ボケて当然、ボケないほうが不自然である。
 幸か不幸か、たぶん不幸にちがいないと私は確信しているのだけれど、長生きしすぎてしまった報いがボケという肉体現象なのだと考える。「老心者」という新造語の発案者である東京都社会福祉協議会・老人福祉部会の委員長氏(七六)は「肉体ではなく、心が先に衰えた老人に対し、感謝と尊敬の気持ちも込めた」のがあの「老心者」ということばだと語っておられたが、これ、逆ではないのか。ボケというのは一〇〇パーセント肉体の欠損で、だからこそ「老人性痴呆症」という医学用語が生れたのではないか。
 私なら私が、このさき老人になって、遠からぬあるときを境にボケたとしよう。ボケていて、老人なんだから、ボケ老人、まちがいないではないか。
でもまあ、「ボケ」というのはあまりにも直截にすぎる、という気持はわからないでもない。どうしてもいやだというのなら、医学用語を、いままでどおり、そのまま使えばいい。エイズをどういいかえようと、症状が軽くなるわけがないのと同じように、「老人性痴呆症」を「老心症」といいかえたからといって、症状が好転することはありえない。
それに「老心症」といった場合、老人性の心臓疾患とまぎらわしいではないか。字面からすれば、どうしたって心臓病である。

(日本語八つ当たり)

 


 

 俳号を「滋酔郎」という。平成2年から7年もの間、新潮社の定期購読誌『フォーサイト』に連載した「慶弔俳句目録」、〈俳句で人間を詠む〉というライフワークの最終回に自身に対する追悼句〈墓洗ふ代りに酒をそそげかし〉をしたためた。その年の初秋から違和感を覚えて、ようやく精密検査をした9年2月6日、〈高見順ですね〉〈食道癌です〉という担当医師の言葉から始まった壮絶な癌との闘い。〈残寒やこの俺がこの俺が癌〉。生涯で一番長い日から183日。8月8日午前2時、誰も居なくなったたった一人の病室で「慶弔俳句目録」用の原稿用紙裏に書きおいた辞世の句〈おい癌め酌みかはさうぜ秋の酒〉、長い闘病生活に敗北宣言をした2日後の10日午後7時35分、江國滋は急性肺炎のため死去した。



 

 富士山を左後方にスキージャンプ台のようにせり上がっている霊園の大路。並木の桜がほころび始めている。桜の名所としても有名なこの霊園を訪れたのは六度や七度ではない。先の「森田たま」以来か、訪れれば必ず佇んでみる「文學者の墓」に今日の陽は少し霞んでいる。高原のこと、花冷えのするこんな日は否応もなく体中に震えが走るようだった。闘病中の病室で〈連日の桜だよりを病床で〉、〈見るだけの花見弁当ひたと見る〉などと詠んだ江國滋。連立する小さな石柱墓碑に刻まれた「俳句と遊ぶ法」は俳句ブームの火付け役ともなったが、地獄の闘病生活に〈死に尊厳なぞといふものなし残暑〉と詠み、〈涅槃西風「いい人だった」といわれても〉と慟哭した江國滋の墓に、今日は思いっきり美酒を注いでみよう。

 


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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