1848年、リストはかつてより交流があったワイマールの宮廷楽団の常任楽長に就任し、ワイマールに定住することを決意します。ワイマール大公はワイマールを文化の中心都市として繁栄させたかったため、リストの定住は歓迎されました。リストはかつてゲーテ、シラーが担ったワイマール文化の中心人物としての役割を引き受けることになります。こうしてリストの大作曲家、大指揮者としての時代の幕開けとなります。
この時代のリストはとにかく充実していました。溢れあがる創造の意欲とインスピレーションは、リストの代表作となる傑作群を産み出します。それらは新ドイツ楽派の先鋭作品として、リスト自身の手で演奏されていきました。また、この頃、急速に交流が深まったワーグナーの作品上演を実現したことは、大指揮者としてのリストの輝かしい功績です。
リストとヴィトゲンシュタイン侯爵夫人は結婚することを望みました。しかし侯爵夫人とヴィトゲンシュタイン侯との離婚手続きが思うように運ばなかったこと、また2人がカトリックであったことなどが影響し、その希望の実現は先送りとなりました。
ワイマールに定住したリストの下へは世界中から才能ある音楽家達が教えを請いに集まってきました。その中にリストの一番弟子となり、19世紀音楽界の大指揮者となるハンス・フォン・ビューローもいました。ビューローはその後リストの娘コージマと結婚します。
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