◎江川隆男著『哲学は何ではないのか』(ちくま新書)
否定神学っぽいタイトルがついているけど、副題に「差異のエチカ」とあるように(本書にはスピノザの『エチカ』からの引用がかなりある)、「差異」や「多様性」を主題にした哲学本だと言える。とりわけ、今日誰もが「多様性」という用語を使いたがるにもかかわらず、ネットでよく言われているように、「多様性」を高らかに叫ぶ人ほど、「多様性」を認めない、あるいは似たようなことで言うと「差別」を高らかに批判する人ほど「差別」を隠然と助長しているように思われる。基本的に何かを取り違えているからそんなケッタイなことが起こるのだろうと常日頃思っている私めには、興味深いテーマだったので買ったというわけ。とはいえ、内容は新書本にしてはかなりむずかしく、新書や選書のたぐいであっても普段哲学関係の本をそれなりに読んでいる私めにも(大学時代には哲学を専攻していた事実は今となってはまったく無意味なのであえて言わない)、よく意味のわからない箇所があちこちにあった。なので、いつものように逐一順番に内容を取り上げていくことはせず、私めが関心を持っている「多様性」というテーマのみを追いながら見ていくことにする。そのため「哲学は何ではないのか」というタイトルに見合った取り上げ方をしていないので悪しからず。よって肝心の部分をすっ飛ばしたり、まったく見当はずれのことを言ったりする可能性も大いにあるので、これを読んで興味を持った人は自分で買って読んでみてみて。むずかしいなりに、かなり興味深い本でもあるので。ところで、最初に表記法について補足しておくと、いつもは原文の傍点部分は{XXXX/傍点}と表記しているが、この本の場合は傍点部分が非常に多いため、いつもは私め自身の強調箇所で用いているアンダーライン(XXXX)を代わりに用いることにする。
ということでまず、前置きが記述されている「序論 これまでとは異なる哲学へ」から参りましょう。最初にこれまでの西洋哲学に関する次のような指摘から始まる。≪西洋哲学のメイン・ストリームは、同一性を過度に重要視し、差異を否定的にしか理解しないような仕方で展開され、それが頑強な位階序列や二元論として、あるいは二項対立や二重性として体系化され概念化されたものである。その代表的な図式――〈神/世界〉、〈英知界/感覚界〉、〈形而上学/自然学〉、〈精神/身体〉、〈意志/知性〉、〈理性/感情〉、〈道徳法則/自然法則〉、〈そこにあるべきもの/そこにあるもの〉、〈超越論的/経験的〉、〈男性/女性〉、等々。¶人間は、なぜこれほどまでに二階建ての思考様式を、そしてその意味と価値を必要とするのであろうか。ここでは、こうした枠組みのすべてを「超越主義」と呼ぶことにする(8頁)≫。西洋哲学がこれまで≪差異を否定的にしか理解しないような仕方で展開され≫てきたのに対し、本書では「差異を肯定的、能動的なあり方」で捉えようとする試みが展開されていると見ることができる。そうすると、「この新書本の否定神学的なタイトルはいったいどゆこと?」という気がしないでもないし、第三章には否定神学の思考法を≪ニヒリズムの特性に感染した人間が考え出した超越主義的な欲望(122頁)≫として批判していると思しき箇所もあるけど、それについては棚に上げておきましょう。
次に私めがここで着目している概念「多様性」について次のようにある。≪多様性とは何か。それは、第一に差異についての認識(知性)に関わり、また同時に差異そのものの肯定(意志)に関わるものにほかならない。あえて多様性に限定して言うなら、差異についての知性と意志は、つまり差異について知ることとそれを肯定することは、けっして分離してはならないという命令が多様性の概念には含まれているのである。そうでなければ、多様性について考える意味も価値もほとんどないであろう(12頁)≫。多様性を考える際には差異がカギになることはある意味で当たり前田のクラッカーに思えるけど、実はこの「差異」の意味を取り違えることによって、冒頭で述べたような多様性を声高に叫ぶ人ほど、実際には多様性をまったく認めない全体主義的言説を弄しているなどといったおかしな状況が生まれてくるのだろうと思う。また少しあとになるけど、それに関連して次のような指摘もある。≪今日、多様性が重要な「理念」の一つとして叫ばれている。しかしそれは、単なる理念ではなく、実在性の働きそのものだと認識されなければならない。現状では、人々が口にする「多様性」という理念や概念は、この実在性についての理解や認識にほとんどつながっていないように思われる。多様性は、それを口にすれば事が済むような一つの万能な言葉となって、もっぱら目的論化された理念となり、それゆえ単に神棚に祀られたようなものとなってしまっている(19〜20頁)≫。≪実在性の働き≫とは何のこっちゃと思えるかもしれないが、それについてはおいおい明らかになっていくはず。要は、「多様性」は本来あるべき意味で理解されておらず、単なるレッテルと化しているということ。
またニヒリズムについて次のようにある。≪人間は、ニヒリズムの歴史のなかで、意識的であれ無意識的であれ、つねに否定の優位さをさまざまな度合で貫いてきた。それゆえ哲学も、それに沿って、絶えずその否定性を複雑に概念化し、より巧妙に言語化し論理化すること、そしてそれらを体系化することをほとんど使命としてきた。では、どうして〈否定すること〉が優位であると考えられてきたのであろうか。克服すること、乗り越えること、目的を設定すること、進歩すること、等々が、実際に自分自身や他者を何よりも否定することで成立しているからである。¶こうした欲望や願望は、ニーチェによってまさに「ニヒリズム」として批判されたものでもある。本書は、否定欲望や超越願望を「超越主義」と規定して、その最大のモデルがニヒリズムとともにプラトン主義にあることを論及しつつ、内在性の思考様式を差異の哲学として提起するものである(19頁)≫。確かに現代の病的な言論空間においては、≪自分自身や他者を何よりも否定する≫態度が蔓延しているように思えるよね。なお、ニヒリズムは本書において否定的な意味で重要な役割を果たしているのでその点を念頭に置いておきましょう。その詳細は本論に入ってから明らかにされるので、ここではそれについてそれ以上は述べない。
最後は感情についてで、これは現在営為翻訳中のアントニオ・ダマシオ著Natural Intelligence & The Logic of Consciousnessや、同著者の『進化の意外な順序――感情、意識、創造性と文化の起源』にも大いに関係する主題なので、多様性には直接関係しないかもだけど、取り上げておきましょう。新書本に次のようにある。≪近年、地球の高温化、むしろ沸騰化が進行しつつあり、われわれは、たしかにそれを頭では理解している。しかし、猛暑や酷暑の夏に、エアコンの温度を公的機関から推奨された二八度設定を維持している人がどれほどいるであろうか(22頁)≫。どうでもいいことを指摘したいため、ここで一旦区切ることにする。公的機関が猛暑や酷暑の夏に、エアコンの温度を二八度設定に推奨しているというのは初めて聞いた。私めなど二四度に設定しているがな。ちなみにエアコンの温度と言えば、昔、エアコンをたとえば同じ二四度に設定した場合でも、夏には涼しく感じ、冬には暖かく感じるのはなぜなの?と疑問に思って、必死に哲学的に(そんなバナナ)頭を悩ませたことがあった。しかしよくよく考えてみると、夏は室温が二四度以上になっているのが普通だから二四度未満の冷風を送り、冬は室温が二四度未満になっているのが普通だから二四度以上の温風を送っているからそう感じられるというあまりにも当たり前田のクラッカーな事実に気がついて「ボ、ボ、ボクはもしかして天才なのかも」などと喜悦に浸ったことがある。まったくアホな私めでした。
と、どうでもいいことはそのくらいにして続きを引用しましょう。≪知性が理解していても、人は、感覚あるいは感情に――つまり、身体の変様に――よってその温度を下げてしまう。この事例が示しているのは、人間は、第一に身体として存在するものであり、知性など実は第二のものにすぎないということである。言い換えると、人間の精神あるいは知性は、その基本は自己の身体への配慮に向けられているということである。¶自己への配慮、それは、まずは自己の身体への配慮であり、それとともに自己についての認識が必然的に成立するのである。身体をモデルに考えるなら、精神や心のみから考えられるような〈私〉は実は虚構概念であり、自らの身体の外部に存在する諸々の事物や人間なしには存在しえないものとして〈自己〉を理解することであろう。自己とは、このように外部のものからの多様な触発なしには存在しえない一つの多様体のことである(22〜3頁)≫。これは基本的にダマシオの見方と同じだと言える。現代人の誤解は、感情や次の章で言及されている直観を知性に劣るものと見ている点にある。しかしそれが間違いであることを、ダマシオの他にもヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベルやジョセフ・ルドゥーらの認知科学者、神経科学者が論じていることは、すでに何度も紹介してきたのでここでは繰り返さない。また新書本の著者も、同様のことを序章の末尾で次のように述べている。≪こうした身体の触発や変様がなければけっして成立しえないもの、それが感情である。では、感情は、知性よりも劣った能力なのだろうか。(…)人は、感性を理性と比べたらはるかに重要度の低い能力だと評価していないだろうか……(24頁)≫。
ここまでが序論で、ここから本論に入る。本論に入って最初に私めが注目したのは直観に関する次のような記述。≪それ[直観]は、事物の周辺を回って、つねに外部からその対象を認識するような仕方での観測のことではない。というのも、観察は、つねに観点や記号や概念といった諸々の媒介物が必要となるような、〈相対的な認識〉の仕方にほかならないからである。これに対して直観は、まさに無媒介的に、つまり視点や言葉なしに対象を認識するような、言わば〈絶対的な認識〉の様式そのものである。(…)二元論や二項対立、そしてそれらについての意識や思考は、実際には過剰な媒介物――言語や概念、あるいは歴史や社会、等々――からもっぱら作られたまさに表象的なものである。われわれは、過剰な媒介物からなるこうした二元論や二項対立から、つまりそこにおける反対や対立といった思考法から解放される必要がある。¶そこには、差異を対立や反対や優劣という関係に至るまで拡張して物事を捉えようとするニヒリズムの特性がある。(…)しかしながら、こうした認識の様式に対して、無媒介的に肯定されるべきものの「直観」の作用が人間のうちに存在するのもたしかである(32〜3頁)≫。まず一点、ニヒリズムの特性が≪差異を対立や反対や優劣という関係に至るまで拡張して物事を捉えようとする≫という指摘を抑えておきましょう。さて著者はここで「直観」をベルクソン哲学に基づいて論じているけど(ただし引用文中ではベルクソンに関する記述はカットした)、個人的には認知科学や脳科学の観点から捉えたい。すでに述べたように、現代人は直観を理性に劣る能力として捉えているように思えるが、それが間違いであることは、最近の認知科学や脳科学の成果を参照すれば明らかだと言える。それについては、とりわけ「合理的思考は直観的推論の一形態である」と主張する、認知科学者のヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベルのThe Enigma of Reasonを参照されたい。それはそれとして、新書本の著者は、直観に関してさらに次のように述べている。≪例えば、空間を通過するという〈歩くこと〉、つまり持続における直観的行為は、悟性のもとでは、直ちに歩いた後の痕跡としての歩行距離やその平均速度などといった共通の単位に容易に還元されてしまうのである。悟性の光線は、このように何らかの分割不可能で質的な連続性を分割可能な共通の等質的単位に還元してしまうのである。これに対して直観は、言わば別の光であり、むしろ光と影からなる差異の戯れを捉えるのである(34頁)≫。悟性が事象を静的な形態で捉えるに対し、直観は力動的に捉えると考えればよさそう。そのことは、次の指摘によっても裏づけられる。≪動いているものの認識をそれらの動きそのもののもとで成立させること、これが哲学である、とベルクソンは述べている。それは、運動している物や物の運動ではなく、運動そのものとしての物についての知覚である。これこそが、哲学的直観と言われるべきものである(36〜7頁)≫。
次にスピノザが取り上げられており、≪精神とは、スピノザによれば、物の対象性が観念として自ずから展開される領域のことである。このことが成立するには、精神とともに身体においてその対象性を受動する身体の変様がともなっていなければならない(38頁)≫という記述と、≪直観の様式は、(…)スピノザにおいては精神における物の対象性の展開として捉えられている(39頁)≫という記述を総合すると、スピノザは「直観の様式は、精神における物の対象性の展開として捉えられ、それが成立するには精神においてその対象性を受動する身体の変様がともなっていなければならない」と考えていたことになる。神経科学者のダマシオは、直観ではなく感情に関してそれと似たようなことを述べていると考えられるが、直観も感情も現代人が軽視しているものである点を考えれば、それらの復権という意味ではかなり近いことを述べているようにも思える。
それから差異と、対立や反対や矛盾の違いについて次のように述べられている。≪西洋哲学は、基本的に「否定性の優位」に基づいた思考を展開してきた。その典型的な形式が対話あるいは弁証法と呼ばれるものである。では、これらの形式的な過程がどうして必要とされたのであろうか。それは、何よりも、より高次の同一性に到達するためである。その最適な方法がまさに〈否定する〉ということである。¶人間に関する進展、進歩、展開といったものは、すべてこうした意味での「否定」を介してもっぱら実現されると考えられてきた。そして、この「否定」が十分に機能するためには、対立や反対や矛盾といった特性が定立されなければならない。こうした対立や反対の素材とされるのが、まさに差異である。差異は、ここでは、残念ながら、こうした対立や反対のもとでしか、つまり乗り越えられるべきものとしてしか認識されえないのである(48〜9頁)≫。しかし著者は、≪これに対して差異を肯定として理解すること、つまり多様性を形成するような差異についての知性を、人間は今や身につけなければならないであろう(50頁)≫と述べ、差異の否定的な見方は本来的な側面を表しているのではなく、よって差異を肯定的に捉える見方が必要とされていると主張する。さらに次のようにある。≪今日、人々は、たとえわずかであっても、自分たち自身が定立したこうした二元論に縛られてきたことを理解し、さまざまな領域でこうした否定的な差異の捉え方そのものを徐々に解体する方向を意識しはじめたとも言える。つまり、差異をどのように肯定すべきなのか、人は差異の肯定の仕方、つまり多様性そのものについてようやく思考しはじめたのである。¶差異は、対立的でもなければ、相互に反対のものを示しているのではない。差異が対立や反対のものとしてしか理解され認識されないのは、「同一性」概念を前提とし、目的化するような固着した思想のもとでしかない。この考え方は、ニヒリズムがもつ人間精神における本質的な傾向性である(52頁)≫。最初の段落(¶が段落替えを意味する)の最後にある≪多様性そのもの≫が、冒頭で言及したようなネットで「多様性」を高らかに叫んでいるような人々が言う「多様性」とまったく異なることは言うまでもない。というのも、彼らはまさに≪「同一性」概念を前提とし、目的化するような固着した思想≫、つまりこの場合は「イデオロギー」に囚われているため、≪差異が対立や反対のものとしてしか理解され認識されない≫からなのですね。だから彼らは、自分たちを「同一性」を担保する超越的、普遍的な存在と見なし、自分たちとは異なる人々を、つまり本来は差異であるべきものを対立や反対の存在と見なして差別する根っからの差別主義者に成り下がる。「「多様性」を高らかに叫ぶ人ほど、「多様性」を認めない」、あるいは「「差別」を高らかに批判する人ほど「差別」を隠然と助長している」ことには、以上のような根本的な理由があると言えるでしょう。
次は多様性と「存在の一義性」と「存在の多義性」について。まず「存在の多義性」から。それについて次のようにある。≪ここで言う「多義性」とは、まさに多様性のうちに否定や差別、欠如に基づく優劣関係を介して、多様なすべての個体――存在者と称される――を序列化することを可能にするような特性のことである。これによって「多様性」の概念は、もっぱら「存在の多義性」による思念のもとに完全に囲い込まれることになる(65頁)≫。ちまたでよく言われている「多様性」は、まさしく≪「存在の多義性」による思念のもとに完全に囲い込まれ≫ているのでしょう。ところが著者によれば、≪多様性は、存在の多義性という思考様式では十全には捉えられず理解されえない。多様性とこれを形成する差異は、多義的存在論を形成する否定作用のための単なる素材になってしまう。(…)存在の多義性は、存在するものの多様性を、否定を媒介にして序列化し理解することで成立する「存在」概念である(65頁)≫。そしてそのような思考様式が成立した理由に関して、≪それは、ニーチェが明らかにしたように、人間本性のニヒリズム性以外にはありえないだろう(67頁)≫と述べる。
また次の指摘に着目しましょう。≪存在の多義性は、実際にわれわれの日常の潜在的な存在了解を形成している。「存在」を多義的に捉えることは、あらゆる〈存在するもの〉(存在者)を記憶と習慣の秩序において、つまり前−哲学的に形成された優劣関係のもとで評価することにある。人間精神が共同主観化されるということは、自己のうちに諸価値の位階序列が形成されることと一つである(79〜80頁)≫。この引用箇所からうかがえるように、著者は共同主観化された常識とか習慣に対して否定的な見方を取っているようで、それは以後の記述にも明瞭に見て取れる。個人的には、常識や習慣は、感情や直観と同様(こちらは著者も肯定的に捉えている)、知性にとっても非常に重要なものだと考えているので、その点に関しては違和感を覚えざるを得ない。常識や習慣は確かに非常に誤ったものにもなりうるけど、誤りの原因は、「同一性」概念を前提とし、肯定ではなく否定を媒介とする「存在の多義性」にあるというより、常識や慣習は本来、肯定性を媒介とする直観によって下支えされる必要があるにもかかわらず、その直観が、スピノザが唯一の誤りの源泉とみなす、否定性を媒介とする想像の知(スピノザの想像の知については『スピノザ』を参照されたいが、とりあえずイデオロギーや宗教的信念のようなものを考えてみればよい)によって曇らされるからだと考えている。なお引用文中にある「前−哲学的」とは、次のような意味らしい。≪では、前―哲学的な了解は、どのような具体的なものから形成されているのであろうか。それは、日常のなかの潜在的な価値評価の総体であり、それぞれの人間身体の変様や活動からなる過去の痕跡であり、歴史と習慣の秩序において共同主観化された表象の総体そのものである(81〜2頁)≫。
ここまで見てきた「存在の多義性」に対して「存在の一義性」については、かなりあとの章に次のようにある。≪「同一性」中心主義の哲学は、「同一性」概念を特権化することで、差異を「雑多なもの」として過小評価した。しかし、同一性は、本当に差異と対立するものなのであろうか。これは、差異の哲学において通奏低音のように静かに響きわたる問いの一つである。¶あの聖なるアルケーを神とするなら、神は完全で普遍的な同一性を有するものとして信じられることになる。そうなると、この同一性との類似性の度合いによって、つまり似ているかいないかの程度の差異によってその雑多性の度合いが決まるのである。¶しかし、同一性が差異と対立することなく、差異なしには存在が考えられないような同一性の思考様式がある。それが、すでに述べた「存在の一義性」である。ここでは、同一性は、あらゆる差異について「同じもの」あるいは「対等性」として理解される。こうした存在の一義性なしに差異を肯定する多様体についての言説を形成することはできないであろう(298〜9頁)≫。なんかわかったような、わからないような議論だけど、これは、ワープエンジンを全開にして途中をすっ飛ばしたせいでもあるのでもとに戻りましょう。
引用文中の最後にある≪差異を肯定する多様体についての言説≫として、次のようにスピノザの哲学があげられている。≪西洋哲学において内在性の思考様式――差異を肯定する思考――のモデルとなるのは、第一にスピノザの哲学以外にはありえない(95頁)≫。スピノザの本は、実はあの『エチカ』の記述様式に圧倒されてヘタレの私めはまったく読んだことがない。前述した『スピノザ』や『スピノザ』など、いわゆるスピノザ入門書や、哲学一般を解説した本でしか読んだことがない。でも最近は、その程度の努力しかしていないにもかかわらず、スピノザが非常に重要な考えを持っていたということが徐々にわかってきてはいた。なのでよい機会でもあり、本書におけるスピノザに関する記述を少しだけ詳しく取り上げることにしましょう。まずスピノザが否定するような見方について次のようにある。≪例えば、同一性、理性、知性、言語、精神、神、主体、といったような諸概念(これを「a系列」と呼ぶことにする)を中心にして哲学の思考が成立しているという事実がある。そして、こうした概念に共通しているのは、差異性、感性、感情、観念、身体、自然、生成変化、等々の諸概念(これを「b系列」と呼ぶことにする)に対する絶対的な優位性であり、これらを超えて価値ある存在であるという超越的な意味を有していることである(96頁)≫。私めなら、b系列にはすでに述べた直観、さらには欲求、欲動、動機づけなどといったおどろおどろしているかのように思える能力?を含めたいところだが、いずれにせよ現代人の大きな間違いは、著者の言うa系列をb系列より優位なものと見なしている点にある。これはある意味、a系列はダニエル・カーネマンの言うシステム2、b系列はシステム1に近いように思われる。現代の認知科学や脳科学が、このようなカーネマン流の二項分割的な見方に否をつきつけていることはすでに述べた。ここではステマ、もといアカラサマを兼ねて、現在鋭意翻訳中のダマシオの新刊Natural Intelligence & The Logic of Consciousnessから一箇所だけ適当に見繕って引用しておく。次のようにある。≪感情的な生活が人間存在の中心を占めていることに、またその核心に「感じる心」があったとしても何の不思議もない。「感じる心」は生命プロセス全体をめぐってつねに「コメント」しており、アフェクトという形態でその盛衰を記述している。それはリスクや危険について警告しもすれば、好機に注意を向けるよう仕向けもする。さらには、健康と喜びを与えることで人生の成功を寿ぐ。これらはすべて、「感じる心」が作り出し、つねに働いている生理的プロセスがまさに私たちのものであり、自己の身体として知られる世界の一部で起こっていることを確実に教えてくれるホメオスタシス感情のおかげなのである≫。アフェクトとは何かはここでは詳述しないが、とりあえず「気分」程度に理解しておけばよいでしょう。要するに、ダマシオは「感情」が人間存在の中心を占めていると考えているのですね。そして、ここではこれ以上同書からの引用は控えるけど、ダマシオは、感情と身体の密接な関係を論じている。つまり彼は、新書本の著者の言うb系列を重視しているということになる。
新書本に戻るとさらに次のようにある。≪差異の肯定は、広義の超越主義的な思想に対して内在性の哲学となる。なぜなら、もっとも低いものとして評価されるものでさえ肯定することのできる思考法が内在性の哲学にはあるからだ(97頁)≫。先の引用文中にあった≪内在性の思考様式≫とはそういう意味らしい。そしてスピノザの『エチカ』からの引用をもとに次のような議論を展開する。≪事物の完全性、すなわちその実在性の価値は、その事物における本性あるいは力能に基づいてなされるべきであり、われわれの感覚を喜ばせたり人間本性に役立つからその事物の完全性が高かったり、その反対であるからその完全性が低く[sic]かったりするわけではない。¶では、人々は、なぜそのように考えてしまうのであろうか。人間は、自然における事物を自分たちの目的を達成するための手段として存在するものだと考えているからである。西洋哲学のうちに深く刻印された古代以来のプラトン主義も近代以降の人間中心主義も、実際にはこうした価値評価がその発生的要素となっている。これに対して、スピノザによれば、そもそも自然のうちに不完全なものは何一つ存在しないのである(98頁)≫。≪そもそも自然のうちに不完全なものは何一つ存在しない≫というくだりを覚えておきましょうね。
次はこれまで何度か言及されていた「ニヒリズム」についてもう少し詳しく見てみましょう。ここまでは意味を明確にせずに「ニヒリズム」という言葉が使われていたけど、改めて次のような定義がなされている。≪ニヒリズム(虚無主義)とは何か。それは、何よりも「最高の諸価値が無価値になってしまうこと」である――自分たちが最高の価値と意識し信じていたものの価値が下落し、まったくその価値が失われてしまうこと。まったくの無価値になってしまうこと(127頁)≫。次に著者は、ジル・ドゥルーズ著『ニーチェと哲学』で展開されている、「否定的ニヒリズム」「反動的ニヒリズム」「受動的ニヒリズム」「能動的ニヒリズム」というニヒリズムの四段階を取り上げ、個々に詳細に説明している。ただしここでは細かくなるのでその詳細は取り上げず、「ニヒリズム」と「存在の多義性」「存在の一義性」の関係について述べた次の文章を引用しておく。≪ニヒリズムは、差異を否定する人間の意志のもとでつねに成立し続けることを前章でみた。ニヒリズムには、憎悪の感情や復讐の精神がともなっている。そして、これに対応する哲学は、まさにプラトンから始まる哲学であり、とりわけ「存在の多義性」によって明確に表象されることになる。それは、世界を二つに分け、優劣関係からなる位階序列を作るのである。これらの根底にあるのは、同一性の特権化であり、差異性の愚劣化である。¶さて、これに抗する仕方で、しかしきわめてマイナーな思想として存立したのが「存在の一義性」である。この特異な思考様式こそが差異を肯定するのに不可分な考え方になる(149〜50頁)≫。
それから「存在の一義性」の理解に関して次のような注意事項が書かれている。≪まず、注意すべき点がある――「存在の一義性」と言う場合のこの「一義性」は、けっして「同一性」の概念ではない。同一性は差異に対するもの、つまり差異とは反対のものあるいは対立的なものとして考えられるが、一義性はむしろ差異についてのみ言われるもの、その意味で差異を肯定する概念である。¶したがって、差異の哲学は、「同一性」の概念を前提とした個体的差異に関わる「概念的差異」ではなく、「同一性」の概念機能をほとんど前提としない「差異の概念」を形成しなければならないことになる(156頁)≫。一義性は≪差異を肯定する概念である≫というくだりに着目しましょう。また次の多様性に関する指摘も、冒頭で述べたような「多様性を声高に叫ぶ人ほど、多様性とはいったい何かをまったく理解していない」という現代的な現象の矛盾の原因の一つを示しているようで興味深い。≪多様性の大事さを語ることは、あらゆる存在するものの差異を肯定すること、これこそが多様性の意味と価値であろう。位階序列から相対的に解放され、たとえ多様性の重要さに気づいたとしても、人は依然としてその名目的な理解にとどまったままでいる。というのは、多様性は差異の肯定について実在的理解以外のなにものでもないからである。いずれにしても、相互に多様に異なる個物を肯定するには、つまり差異を肯定するには、存在は「一義的」でなければならない(161頁)≫。多様性を声高に叫ぶ人々が多様性をまったく理解していない理由の一つは、「同一性」に依拠する「存在の多義性」に囚われて多様性を捉えているからだと言えるかも。多様性を叫びながら多様性を認めているとは思えない人々には、同時に国境のない世界、つまり国家の多様性を認めない均質的な世界を称揚する人が多いように思われるのもそれに関係しているのかもしれないよね。つまり同一性に囚われているからそういう態度になる。そして同一性に囚われていると、「自分たち」を絶対的な基準にするから差別主義的、全体主義的な言辞を弄するようになる。
またジル・ドゥルーズの『差異と反復』を引用しつつ、次のように述べられる。≪「存在」は、存在すると言われる当の主語となるすべてのものについて「唯一同一の意味」で言われるのである。つまり、あらゆる存在者について「存在」の意味は、一義的であり、同じなのである。それゆえ、ここからさらに二つの事柄が帰結する。¶(1)存在がすべての存在者について一義的であるがゆえに、すべての存在者における差異が際立ち、多様な差異を肯定的に認識せざるをえなくなる。(2)それゆえ一義的存在の平面は、差異の肯定からなる多様体そのものとなる(ここで言う平面は、位階序列に対する対等性のイメージである)。〈存在〉は、個体の同一性に対して言われるのではなく、差異の個体化について言われるのである。差異を肯定することは、このように多様性の概念を積極的に定立することにある(168頁)≫。多様性という概念の定立は、個体の同一性ではなく差異を個体化して肯定することにあるらしい。
「存在の一義性」に関する議論は、ドンス・スコトゥス、スピノザ、ニーチェ、カント、ガタリ&ドゥルーズとその系譜を辿りつつその後も続くけど、かなり抽象的な話が続くのでここでは私めが注目しているスピノザに関する次の記述を除いて省略する。≪スピノザにおける一義的存在は、中立的でも無差異でもなく、反対に差異から構成されるものである。一義的存在としての実体(あるいは神)は〈属性−形相〉によってその本性が構成されることによって形相的区別からなり、また実体(あるいは神)は必然的に様態を産出する限りで様態的区別からなる。つまり、こうした実体としての神は、最高の自己同一性などではなく、実在的区別と様態的区別からなる大自然としての差異そのものである。神が一義的存在である限り、神は自然における差異の表現であり、差異の肯定としての自然そのものとなるのである(180頁)≫。ここからも、一神教的な神さまとは著しく異なるスピノザの「神」の概念が、なかなか理解しにくい理由がわかるよね。ちなみに≪差異の表現≫というくだりからもわかるとおり、著者は同一性に依拠する受動的な「表象」に対するものとしての、差異の肯定である能動的な「表現」を重視している。これについては、あとのほうの章で次のように述べられている。≪ドゥルーズは、スピノザの哲学を「哲学における表現主義」と評していた。この意味で言えば、ほとんどの哲学が実は「表象主義」であったと言いたくなる。哲学的言説が成立する水準を「表象」から「表現」へと徹底的に移行させること、これが差異の哲学の課題でもある。では、表現とは何であろうか。表現はたしかに表象ではないが、しかし表現とはあれこれのことであるという仕方で一般的に規定したり積極的に定式化したりすることを通して、表現そのものを限定することはできない。一度そのように規定してしまったなら、表現は直ちに形骸化された表象形式を意味するものになってしまうだろう(267頁)≫。また次のようにある。≪表象とは、ここでは物の形状の再現にかかわり、言葉による一般的イメージに依拠したものの再現である。表象の機能は、過去の記憶のなかの痕跡をよみがえらせて、現在のその知覚に重ね合わせることにあると言える。表象は、対象を〈回答−形態〉として知覚する仕方、〈オリジナル−コピー〉の相対的な関係をつねに再生産する仕方である。¶これに対して表現は、対象を〈問題−力〉として知覚する力、対象性を多様な仕方で生み出すことにある。これは、まさに反プラトン主義の一つである(271〜2頁)≫。まあ表象とは、オリジナルがまずあって、それを別の媒体によって代理的に描写するわけだからね。それに対して、表現とは能動的な能力、つまりダイナミックな力能を指す。
次に、差異の肯定と構造主義について述べられた次の記述を引用しておきましょう。まあよく言われていることも多分に含まれてはいるけどね。≪構造主義的な哲学の最大の功績は、周知のように、近代の人間中心主義とこれを支持し続ける主体性の形而上学とが依拠している特権的な〈人間−主体性〉の価値そのものを切り下げたことにある。¶つまり、構造主義は、人間の意識や意志からなる主体性やその行為がどれほど無意識に依存しているのかを明らかにしたのである。そして、この無意識的なものは、無秩序でも未規定でもなく、むしろ一定の体系や構成を有したものであり、これがまさに「構造」と呼ばれたのである。¶構造主義は、たしかに近代以降の人間の意識中心主義に対する批判であった。それ以上に、同一性中心主義の形而上学的な思想からの解放の意義を有していたのだ。それは、同一性に先立つ差異の思考であり、差異の肯定についての方法論的な思想である。¶きわめて大雑把な言い方ではあるが、西洋哲学は、古代ギリシアから中世に至るまでは「神」中心の存在の形而上学のもとに成立してきたが、近代以降は「人間」中心の主体性の形而上学として主に成立してきたと言える。構造主義は、何を特権化するのであれ、その根拠に同一性概念を置くことに対する批判哲学を展開したのである。それは、同一性概念の特権性によって必然的に形成される位階序列が有する差別構造に対してまさに差異の先行性や肯定性を提示し、それについての思考様式の形成を促したのだ(222〜3頁)≫。構造主義と言えば、ポストモダン思想の範疇に属するが、私めの認識が間違っていなければ、そのポストモダン思想は「ポモ」とかいう別称で右からも左からも叩かれるように現在ではなっている。『フーコーの言説』を取り上げたときに、「実のところ彼[フーコー]の考えは、むしろ保守側に立つ人々にとって強力な武器になるような気がする」という個人的な見解を開帳した。それは西洋のエピステーメー(学知)を脱構築しようとする彼の言説が、≪同一性中心主義の形而上学的な思想からの解放の意義を有していた≫からだと言える。もちろんこれは、フーコーのみならず西洋のエピステーメーを脱構築しようとしたジャック・デリダを筆頭とする他のポストモダン思想家にも当てはまる。だから私めは、今でもポストモダン思想を重視しているのですね。「多様性を叫びながら多様性を認めているとは思えない人々には、同時に国境のない世界、つまり国家の多様性を認めない均質的な世界を称揚する人が多いように思われる」と少し前の箇所で書いたけど、その手の輩は、≪同一性概念の特権性によって必然的に形成される位階序列が有する差別構造≫に囚われているからそのような態度を取るのであり、さらには「自分たち」を絶対的な基準にするから差別主義的、全体主義的な言辞を弄するようになる。そのような見方や態度に対して、≪何を特権化するのであれ、その根拠に同一性概念を置くことに対する批判哲学を展開≫し、≪まさに差異の先行性や肯定性を提示し、それについての思考様式の形成≫を促す構造主義で武装して、同一性中心主義批判を展開することには大きな意義がある。
さて、ここまでで本書の五分の三ほどをカバーしたわけだけど(本書の本文は三五〇頁ほどある)、個人的に言いたかったこと、つまり現代人の多様性の捉え方がなぜおかしく思えるのかについては言い尽くしたので、この新書本に関してはここでピリオドにする。三五〇頁もある本を取り上げたにもかかわらず、Word文書一〇頁程度と、最近の基準で言えば比較的短くなってしまった理由は、まあ正直なところ、ヘタレ翻訳者の私めにとっては内容が難しすぎて、残りはようまとめきらんかったということもある。なので、哲学に興味がある人は、ぜひ同書を自分で買って読んでおくんなまし。
※2025年11月14日