◎佐藤俊樹著『社会学の新地平』(岩波新書)
副題に「ウェーバーからルーマンへ」とあるけど、ハーバート・サイモンへの言及が多少あるだけで、ほとんどがこの二人に関する記述で占められているので「ウェーバーとルーマン」と言ったほうが正確かも(ウェーバーが全体の三分の二でルーマンが三分の一って感じ)。まあルーマンの考えのルーツはウェーバーにあるという時間的な前後関係を示したかったから「〜から〜へ」という表現を使ったのだとは思うけど。個人的な話をまずしておくと、この新書本でも大きく扱われているウェーバーの有名な『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』は岩波文庫で読んだ記憶はあっても、内容はよく覚えていない。だからそれに関する知識は、数あるウェーバーの入門書から得たものと言うほうが正しい。とりわけ2020年はウェーバー没後100年ということで、新書ですら三冊のウェーバー関連本が出ていた(三冊とも買って読んだ)。一方のルーマンは、英訳のごつい本を一冊読んだだけで(しかもほとんど理解できなかった)、あとはどこかの大学の紀要論文で二、三本ルーマン関連の論文を読んだことがあるにすぎない。難解と言われるルーマン自身の本を今から読む気にはとてもならないので、新書本や選書本でルーマンをわかりやすく解説した本が刊行されれば是非読んでみたいと思っていた。でも、社会学関連の新書本や選書本で数ページだけ取り上げられている本はあっても、多少なりとも詳しく書かれた本は見掛けたことがなかったので、この新書本はなかなかありがたかった。
ということで内容に移りましょう。「序章 現代社会学の生成と展開」は、おもに既存のウェーバー理解の問題点と、本書の構成が書かれているので、ここでは特に取り上げない。「第1章 「資本主義の精神」再訪」では、ウェーバーの『プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神』(著者はこれを「倫理論文」と呼んでいるのでここでもそう呼ぶ)が取り上げられている。まず先に倫理論文の論理構造を記しておくと、「プロテスタンティズムの倫理→「資本主義の精神」→「自由な労働の合理的組織」(95頁)」になるとのこと。第1章ではまず後半の「資本主義の精神」→「自由な労働の合理的組織」の部分が検討されており、よってプロテスタンティズムに関する言及はほとんどない。実はウェーバーは、この部分の論理を彼の父親のマックス(同名でややこしい)の兄カール・Dがビーレフェルト近郊の町エルリングハウゼンに創立した「ウェーバー&商会」という麻織物企業の経営に参照することで組み立てているらしい。当時のビーレフェルト地域は織物業が繁栄していたようで、そこでは二つの戦略が取られていたらしい。次のようにある。「ビーレフェルトの上層市民、「麻織物貴族」たちは一つではなく、二つの戦略で産業化の大きな波を乗り越えようとした。一つは[A]H・デリウスらの新会社と新工場の途で、もう一つが[B]カール・Dのウェーバー&商会の途である。「商人たちは二つの可能性をもっていた。……機械化または問屋制生産である」(…)。そのうちの一方、[B]だけにウェーバーは「資本主義の精神」を見出した(70〜1頁)」。ということは、ウェーバーは機械化ではなく問屋制生産に「資本主義の精神」を見出したことになるよね。普通に考えれば機械化のほうが「資本主義の精神」に近そうにも思える。ではなぜ問屋制生産に「資本主義の精神」を見出したかというと、それはカール・Dが取った経営戦略に関係しているらしい。次のようにある。「他方で、生産管理の面では二つは大きくちがう。[A]では一つの工場の内部に全ての工程をおさめた「閉鎖的経営」の形をとることで、集中的に一元管理できる(図1−1a)。[B]では製品の作り手は分散している。それゆえ、個々の製品の品質管理も最終的には一人一人の作り手に任せるしかない。新たな織機の導入や習熟など、他の[B]型や[A]型の品質向上に対抗して工程を改善していく上でも、最終的には一人一人の作り手が頼りだ。(…)現代的な言い方をすれば、自律分散的なネットワーク型生産方式。カール・Dが創り出したのはそんなしくみだったと考えられる(図1−1b)。生産拠点を一か所に集中させない、工程を常時監視していないという意味で、「閉鎖型経営」とは対照的なやり方だ(77〜8頁)」。なお本書を持っている人はぜひ括弧内に示されている図を参照されたい(以下の引用文に関しても同じ)。「自律分散的なネットワーク型生産方式」ですか、うむむ! 先走ると、たぶんそのあたりがルーマンにつながってきそうな気がするよね。
新書本の著者はさらに次のように述べる。「だから、この商会[ウェーバー&商会]の製品は「手作り」だが、商会の経営は「手作り」ではない。¶販売面でも[B]は顧客の要求に細かく応える分、より多くの管理が必要になる。製品を画一化しないというのは、どの顧客の要求にどの程度応えるのかを決めた上で、その製品をどんな織り手に作らせるのかも決めていく――そうした膨大な判断の作業を企業の側でこなしていくことでもある。求められる意思決定の量も連絡の量もはるかに大きい。それに対応できなければ、事業を継続できない。¶織り手の数が従来の一〇倍であれば、販売量はそれ以上の規模になる。買い手を細かく回って希望や必要を聞き出すだけでも、カール・D一人ではこなせない。ウェーバー&商会は小売業にも力をいれていた。こちらも地区別に担当者を置いて分業していたはずだ。¶ウェーバーが倫理論文で「資本主義の精神」の事例としてあげたのは、そういう企業なのである(79〜80頁)」。そして次のように結論づける。「要するに、技術革新による安価な大量生産のしくみに対抗して競争できるしくみを、新しい技術の代わりに、生産と販売に関わる一人一人の自律性と創造性によって、すなわち働く人間たちの心情によって、実現する。それが[B]の途である。まさに「資本主義の精神」だ(80頁)」。私めのようなと〜しろ〜からすると、「資本主義の精神」の成れの果てが「技術革新による安価な大量生産」であるように思えてしまうんだけど、そうではないらしい。
著者は、このウェーバー&商会の「自律分散的なネットワーク型生産方式」を、当時起こったもう一つの重要なできごと、すなわち鉄道の開設にたとえたうえで次のように述べている。「一つの{課題/タスク}を、空間的に離れた部署の間で、同時多発的に業務していく。近代的な組織の最大の特徴はそこにある。現代風にいえば、複数の自律的な単位による分散処理のネットワークこそが、近代的な組織の強みなのである(…)。上意下達の{階統制/ヒエラルキー}は、それを実現するための手段の一つであって、それ自体が近代的な組織なのではない。むしろ上意下達を強く推し進めれば、各単位の自律性は失われる。上からの命令をいちいち待って動くようになり、同時処理できなくなるからだ。それでは遅すぎるのだ(83〜4頁)」。やはりここでも分散処理ネットワークが強調されている。要するに[A]のような機械化による大量生産方式ではない[B]のやり方でウェーバー&商会が生き残れた理由は、「近代資本主義が確立する前でも、後でも、「資本主義の精神」によって「より安くより多く」を継続的に実現する仕組みは出現しうる(88頁)」からだという想定をウェーバーはしていたことになる。それに関して次のようにある。「ウェーバー&商会は二〇世紀初めには機会織りに転じる。従業員を一つの敷地内に集める「閉鎖型経営」に移行したわけだが、その数年後にこの工場を調査したウェーバーは、そこで働く敬虔派の労働者たちに「資本主義の精神」と同じものを見出している(90〜1頁)」。もちろんこれは閉鎖型、つまり[A]型経営に移行したから、そこに「資本主義の精神」が生まれたということではなく、ウェーバー&商会には、もともと[B]型経営を行なっていた頃から、あるいはそれ以前から「資本主義の精神」が根づいていたということだと思われる。
それに続いて著者は、フーコーをつけ足し的に持ち出して次のように述べている。「そう考えていくと、倫理論文と実質的に同じ論理を展開した有名な著作が一つ、思い浮かぶ。M・フーコーの『監獄の誕生』(…)だ。{一望監視施設/パノプティコン}の一元的で集中的な管理のしくみが、一人一人の心のなかに植えつけられている――フーコーは近代社会をそのような形に読み解いた。その一人一人の心のなかにある何かは、「資本主義の精神」と同じ性格のものだと考えられる。その意味では『監獄の誕生』は倫理論文、すなわち「プロテスタンティズムの倫理と資本主義の精神」の焼き直しになっている(91頁)」。う〜〜ん、どうなんでしょう。ちょっと違和感がないでもない。まあフーコーにはつけ足し的に言及しているだけだから、深く考えても仕方ないとしても、何しろ「みんな大好きフーコーさん」だから、もうちょっとだけ考えてみましょうね。そこでフーコーの専門家に登場してもらうことにした。むかし青土社さんからもらって最近読んだばかりの重田園江著『フーコーの風向き』から、『監獄の誕生』に言及している部分を長くなるけど一箇所引用しておく。次のようにある。「権力に関する考察が主題的に展開される最初の著作は『監獄の誕生』(一九七五)である。この著作でフーコーは、規律権力という概念を提示し、それを軸に近代権力の新しい像を描いている。統治性研究との関連でとくに注目すべきなのは、ここで規律権力の特徴が、それとは異質な権力である法や主権に関わる権力(以下、法的権力)との対比を通じて示されていることである。¶『監獄の誕生』から、法的権力と規律権力について、それぞれ以下の特徴を引き出すことができる。まず法的権力は、法や権利のことばで語られ考えられるという点で、旧体制期から革命後にいたるまで、ある連続性を有する。したがって、啓蒙主義の法学者が行った法に基づく刑罰の要求は、旧体制以来の法的思考の伝統を引き継ぎ、それを用いてなされたものとして捉えられる。具体的には、革命後の刑罰改革期の言説に見られる法的権力は、普遍的な刑罰体系を法典化し、その法に基づいて特定の犯罪行為にはつねに特定の刑罰を科そうとする。他方で規律権力は、これとは正反対の特徴を持つ。それは、一般的で形式的な処罰原則に従うのではなく、個々の犯罪者それぞれの個性に合わせた介入を基調とする。こうした個々の対象に合わせた権力行使を実現するために、パノプティコンをはじめとするさまざまな装置が用いられるのである。そして、規律権力の普及の社会的背景には、一七世紀以降顕在化する新たな都市の秩序問題に、既存の法的機構が満足に対処できなかったという事実があったと考えられる。¶さらにフーコーは、こうした権力行使のあり方の相違を、主体形成の問題と結びつけている。法的な権力においては「社会契約上の法的主体の再構成」(…)が問題となるのに対し、規律権力においては「何らかの権力の全般的かつ細密な形式に服する、服従する主体の形成」が問題とされる。¶『監獄の誕生』では、法的権力と規律権力は以上のように区別されている。そしてこの観点からすると、監獄の「誕生」とは、異質な主体形成に関わるこの二つの権力が交差する、歴史的・空間的な地点を意味するのである(同書200〜1頁、フランス語と参照元は削除した)」。いずれにせよフーコーが権力という観点を中心に歴史的ダイナミクスを捉えていることは言うまでもない。これに対して「資本主義の精神」という場合の「精神」とは、新書本80頁の引用によれば「生産と販売に関わる一人一人の自律性と創造性」を意味している。そのような「精神」は、フーコー的な権力の網の目に絡み取られた個人とは無縁に思えるので、違和感を覚えたのかもしれない。何しろ重田氏によれば監獄の誕生によって形成されたのは、「何らかの権力の全般的かつ細密な形式に服する、服従する主体」だということでもあるので。まあ。と〜しろ〜がいらんことを言うのはあまりよくないのでそのくらいにしておきましょう。
さて、ではウェーバーの言う「資本主義の精神」とは具体的にはいったい何なのか? しかしどうやらその点は倫理論文の鬼門らしい。第1章ののっけからすでに、次のような記述がある。「倫理論文は決して読みやすいものではない。N・ルーマンの著書や論文もわかりにくいといわれるが、それ以上かもしれない。「読んでみたが、さっぱりわからなかった」という人もかなりいるはずだ。¶その大きな理由は題名にも出てくる{鍵言葉/キーワード}、「資本主義の精神」にある。¶プロテスタンティズムの倫理を近代資本主義が生まれた原因の一つとした彼の仮説は、その二つを「資本主義の精神」という環でつなぐ。にもかかわらず、それが何なのか、明確に書かれていないのだ(48〜9頁)」。またそれとともに言えることとして、ここまでの話では、実は「プロテスタンティズム」自体はほとんど登場しなかった。というのも、ここまでは「資本主義の精神」→「自由な労働の合理的組織」という後半の部分の説明がなされていたから。では、「プロテスタンティズムの倫理」→「資本主義の精神」という前半の部分はどう説明されるのか? それについては次のようにある。「倫理論文では「プロテスタンティズムの倫理」からの影響として、二つのことが述べられている。[1]禁欲を通じて強い勤勉さをもたらしたことと、[2]「社会的な組織づくり」への関与である。倫理論文の紹介や解説には[1]だけをとりあげたものも少なくないが、ウェーバーの社会学にとっては[2]も重要になる(98頁)」。[1]の禁欲や勤勉さは著者も言うように、きわめてよく知られているのでここでは、のちの論理展開に重要になる点を一つだけ指摘しておく。それは[1]だけを取り上げた場合には、「(資本主義の精神)=(禁欲倫理)−(信仰)」という図式になるのに対して、[1][2]両方を考慮した場合には、この図式は「(資本主義の精神)=(禁欲倫理)−(信仰)+X」になるという点(120頁)。ではこのXとは何かが、第1章の残りで解説されている。ところがどうやら倫理論文だけではそれはわからないらしく、次のようにある。「ウェーバー自身が何度もくり返しているように、プロテスタンティズムの禁欲倫理は近代資本主義の原因の一つであるかもしれないが、ただ一つの原因では絶対にありえない。(…)言い換えれば、ウェーバー仮説の成否は、倫理論文だけでは判断できない。彼の研究全体をみないと、どのような因果関係を想定されていたかも、本当はわからないのだ(122頁)」。
では他の近代資本主義の原因には何があったのかというと、『商事会社』で論じられている、特定の形態の企業組織だったということらしい。著者はそれを「コンパニア」と呼び(ウェーバーさんがそう呼んだのか、新書本の著者の造語なのかはと〜しろ〜の私めにはようわからん)、次のように述べている。「「コンパニア」では、{構成員がそれぞれ異なる業務にあたりながら、同じ一つの事業にともに関与している/傍点}と考えられている。それゆえ、他の構成員の業務処理に関しても共同で責任を負う。(…)この形態では事業は誰のものでもなく、誰の人格にも帰属しない。各人の業務は、一つの「誰のものでもない」事業に関わる決定を、それぞれ分業(分担)して実行していることになる。その意味で、決定を委ねる「協働」になっている(130頁)」。これは前出の「自律分散的なネットワーク型生産方式」にほぼ等しいのでしょうね。ちなみに近代資本主義の原因の一つを特定の形態の企業組織とウェーバーが見なしていたことは、第2章の次の記述からもよくわかる。「近代資本主義を成立させた具体的な原因として、ウェーバーは一つではなく、{少なくとも二つ/傍点}考えていた。一つはいうまでもなく@プロテスタンティズムの禁欲倫理であり、もう一つはA会社の名の下で共同責任制をとり、会社固有の財産をもつ法人会社の制度である。少なくともその両方がなければ、西欧でも近代資本主義は成立しなかった(161頁)」。なおウェーバーは、新書本の著者の言う「コンパニア」、すなわち「誰のものでもない」組織の起源を一三〜一四世紀のイタリアの工業都市に求めているとのこと。ということは、ルターさんが九五箇条の意見書を書いたのは一六世紀前半なので、プロテスタントが創始されるよりはるか昔に、のちの近代資本主義のタネの一つが撒かれていたとウェーバーさんは考えていたことになる。ちなみにジョセフ・ヘンリックは、最新刊『The WEIRDest People in the World』で、資本主義も含めたWEIRD文化の起源をプロテスタントではなく、それ以前のカトリックに求めている。ただし、企業組織ではなくカトリック独自の家族施策に着目している点は違うけど。
ということで、次の「第2章 社会の比較分析」に参りましょう。この章では、おもにウェーバーの用いた方法論が取り上げられている。それは「適合的因果」と呼ばれるものだけど、一回読んだだけで判断すると、現在では社会学や心理学のみならず自然科学でも普通に実践されている交絡因子のコントロールに関する技法であるように思えた。まあ一世紀前から、その種の新たな技法を用いていたことは評価されるべきとしても。テクニカルな詳細は省略するけど、その技法を用いた近世ヨーロッパと近世中国の比較はなかなか興味深かったので、それについてだけ取り上げておく。ちなみにこれは「儒教と道教」という論文に書かれているとのこと。その結論に次のようにあるのだそう。「近世の中国にも近世の西ヨーロッパにも、@強烈な営利欲、A個人個人の勤勉さと労働能力、B商業組織の強力さと自律性、C貴金属所有のいちじるしい増加と貨幣経済の進展、D人口の爆発的な増加、E移住や物資輸送の自由、F職業選択の自由度と営利規制の不在、G生産方式の自由といった要素はあった。西欧古代やインド、イスラム圏と比べても、近世中国の経済社会は近世西ヨーロッパに近い状態にあった。¶にもかかわらず、近世中国では近代資本主義は生成しなかった。そこに欠けていたのは、(1)形式合理的な法とそれにもとづく計算可能な行政と司法の運用、(2)法や行政の業務が官吏の個人的な収入源にならないこと、そして(3)プロテスタンティズムのような禁欲倫理である(図2−1)(149頁)」。(3)に関しては、「儒教はどうなの?」と思えるけど、そもそも「儒教と道教」という論文に書かれているのだから、ウェーバーさんにしてみれば、儒教はプロテスタンティズムのような禁欲倫理としてはお呼びでなかったということなのでしょう。いずれにせよ、この記述が興味深いのは、共産党独裁どころか習近平の個人独裁と化したきた現在の中国の構造的問題がどこにあるのかを多少なりとも見て取れるから。現在の中国を外から見た場合、「計算可能な行政と司法の運用」がなされているとはとても思えない。「法や行政の業務が官吏の個人的な収入源にならないこと」に関しては、当初習近平はそのようなあり方を是正しようとしたのかもしれないとしても、彼自身が独裁者と化している現状では何をかいわんやでしょう。そもそも毛沢東の百家争鳴を見てもわかるように、中国の独裁的な指導者による「綱紀粛正」は、裏がある、というか権力の奪取や保持のアリバイに使われている場合が多そう。
第2章の最後では、ウェーバーの問題点を次のように指摘して、ニクラス・ルーマンが登場する第3章につなげている。「ウェーバーは自分自身が見出した「合理的組織」とは本当はどんなものなのかを、明確にとらえることには失敗した。だから、プロテスタンティズムの禁欲倫理と近代資本主義がどのように関連しているのかも、曖昧で混乱した議論を残した。¶「合理的組織」とは何かを解くことは、それゆえ彼以降の社会科学の展開に委ねられることになった。ニクラス・ルーマンの自己産出的な組織システム理論と、それを一般化したコミュニケーションシステム論の構築は、そこに関わってくる。「資本主義の精神」をめぐる探究の、一つの終着点もそこにある(189〜90頁)」。
ということで「第3章 組織と意味のシステム」に参りましょう。最初の節の「一 「合理的組織」の社会学」では、ウェーバーの官僚制論とその問題が論じられている。まずウェーバーの官僚制論の骨子が箇条書きにされているのでそれを取り上げておく。「(T)規則にもとづいて継続的に職務の業務を運営していく」「(U)権限の範囲内で行われる」「(V)職務の上下による階統制をもつ」「(W)専門的な訓練を受けた人間が担当する」「(X)職務とそれを担当する個人の人格が分離されている(職場と家庭、公的文書と私的文書の分離、業務にもとづく収入と担当する個人への報酬の分離など)」「(Y)文書にもとづく」、そしてこれらの条件を満たす組織が「[Z]業務の遂行においてすぐれた成果を見せる(195〜6頁)」。またこれらの条件は、「ウェーバーによる官僚組織の定義として紹介されることが多いが、官僚制組織の経験的な研究では、社会学でも経営学でも、早くから疑問が投げかけられてきた。少なくとも、そのまま受け入れられるものではない、と考えられてきた(196頁)」とある。著者によれば、ウェーバーの官僚制論では、「階統型の業務処理が想定されていた(200頁)」とのこと(本を持っている人は図3−1を参照)。そしてその結果、次のような問題が生じたとのこと。「その結果、(T)〜(Y)と[Z]は異質なものであるにもかかわらず、ともに「合理的」と呼ばれつづけた。(T)から(Y)による合理性、例えば規則や目的などの組織それ自体の理由や根拠にもとづいて業務が進められるという形式合理性と、[Z]の意味での合理性、すなわち費用対成果における効率性や能率の高さが区別されないまま、「合理的組織」や「合理的支配」が論じられるようになった。¶そのことがウェーバーの近代資本主義論や官僚制を一方では混乱したものとし、もう一方では神秘化してきた。彼自身も複数の合理性が並存していることに注意を促しながらも、「脱呪術化」のような表現を使うことで、あたかも単一の「合理化」の力がそこに働いているかのような描き方もした(201頁)」。
それに対してウェーバーの見方を継いだルーマン(とハーバート・サイモン)がどのように考えていたかが「二 組織システムへの転回」で述べられている。その冒頭に次のようにある。「ウェーバーは官僚制組織の業務を階統型でとらえていた(→図3−1)。階統型の業務処理では、下位者は上位者よりもつねにより小さく、より重要でない決定しかできない。現場に近づけば近づくほど、裁量の余地はなくなり、指示通りにふるまうしかなくなる。そういう形で職務の集まりができていると考えた。¶それに対しルーマンは、経営学や社会学の経験的な研究をふまえて、実際の官僚制組織ではむしろ水平的な形で決定の分業が行われていることを指摘した。ウェーバーが経験的な事例では気づきながらも、官僚制のモデルには取り込めなかった水平性に焦点をあてたわけだ(207頁)」。「ウェーバーが経験的な事例では気づきながらも」というくだりは、ウェーバー&商会の「自律分散的なネットワーク型生産方式」のことを指しているのでしょうね。ということはウェーバーの官僚制論には、その知見が適用されていなかったということになる。巻末にある著作年譜では、官僚制が論じられている「支配」や「支配の諸類型」という論文は、倫理論文よりかなりあとにあげられているにもかかわらず。
次に、「ルーマンが展開した新たな官僚制組織のモデル(208頁)」が論じられている。最初にその前提が次のように述べられる。「国家にせよ企業にせよ、産業社会における組織は互いに競争する関係にある(…)。ある組織、例えば特定の国家が新たな動きをみせれば、並列する同種の組織、すなわち他の国家もそれに対応せざるをえない。そうした組織間の競争は別種の組織にも影響する。国家の政策が変われば、企業もそれに対応せざるをえない。¶一つ一つの組織からみれば、こうした多重の相互作用は自分自身の環境がたえず変化していくことを意味する。つまり、産業社会における「合理的組織」はつねに変動する環境の下に置かれている。そのなかで新たな変化を具体的に見出し、対応していかなければならない。(…)言い換えると、組織における決定は時間とともに進んで行く。そのなかで適切な決定をして環境の変化に対応していかなければならない。効率という点でも、時間は重要な要素になる。同時多発的な業務処理をうまくできるかどうかは、「合理的組織」にとって死活問題である(208〜9頁)」。つまり産業社会においては、階統性のようなスタティックなモデルではあかんということで、時間の変化に流動的に対応できるダイナミックなモデルでないとならんということでしょう。
それに関して著者は「日本語圏でも二〇〇〇年代以降、トップダウンの必要性が執拗に語られたが、公共機関でも私企業でも、それによってかえって不効率になった事例は少なくないはずだ(215頁)」と書いているけど、私めにも思い当たるフシがある。まだIT業界に所属していた二〇〇〇年代の初頭、私めが勤めていた三流IT企業に某IBMから天下ってきた人物が社長になって、ガチガチのトップダウンの企業経営を始めた(まさに図3−1そのまんまって感じ)。何しろ、各社員はパソコンを複数台持っていてはならんなどといった恐ろしく細かな規定まで、この社長が決めていたくらいだし。私めは研究開発的部署にいたから、複数台のパソコンを使った方が効率的だったけど、社長さまの命令には逆らえんから、従うしかなかった。もちろん複数台のパソを机の上に並べておくことは仕事の邪魔にしかならん部署もあるだろうが、トップレベルでそんな細かなことまで決めて、それを上意下達すると効率がきわめて悪くなる部署も出てきて、組織のあちこちが硬直してくる。そういった風潮がひどくなったことが一つの理由で(理由は他にもいくつかある)、結局その会社を辞めて今や翻訳者という三流IT企業よりはるかに儲からない仕事をやって、「おじぇじぇがあああ!」を連呼するようになっているというわけ。著者も次のように述べている。「組織の規模が大きくなればなるほど、取り組む課題が複雑で困難になればなるほど、上位者が直接管理できなくなり、下位者に、より現場に近いところに、任せるしかなくなる。いや、任せるからこそ規模を大きくできるし、複雑で困難な課題に取り組める。変動する環境のなかで組織が生き残るには、そうせざるをえない(210頁)」。ちなみに私めが勤めていた三流IT企業は社員が千人以上いたのでそれなりに大きな企業だったと言える。
では、階統性は完全に捨て去るべきかというと、さすがにそれでは組織は回らない。ではどうすべきかというと、「決定のあり方を時間の流れとともに位置づける必要がある(211頁)」のですね。要は階統的な構造を時間軸に沿って展開するような形態になるわけだけど、本を持っている人は、211頁の図3−2をぜひ参照されたい。この図の説明として次のようにある。「いうまでもなく、より強い権限をもつ上位者の決定ほど、より広い範囲でその後の決定を方向づけられる。図3−2でいえば、最初の決定は後につづく二つの決定を拘束できる。¶けれども、一つの決定で全てを決められるわけではない。自分がやった決定を後で変更せざるをえなくなることもあるし、後任者によって変更されることもある。同僚と協力しつつ、業務を分担して進めて行くことも少なくない。いずれにしても、全ての決定は多くのことをその後の決定に任せざるをえないが、後の決定は前の決定を、何らかの形で必ず前提にしている(211頁)」。また次のようにある。「それゆえ、後の決定は直前の決定から大きく離れることはできない。(…)と同時に、全ての決定は時間性をおびる。したがって、後の決定、さらにその後の決定、さらにさらにその後の決定、……と積み重ねるうちに、最初の決定が決めた範囲からより自由になっていく。上位者と下位者のあいだでさえ、下位者の決定が積み重ねられるなかでちがう方向性が共有されていけば、上位者の決定から実質的に方向転換できる。連鎖というのはそういうことでもある。¶その意味で、前の決定を前提とし、その内容に拘束されて後の決定がなされていくが、打ち出された方向性(…)がどこまで実現されるかは、後の決定に依存する。そうした形で、組織は全体としてみれば環境の変化に対応できる(212頁)」。ちなみに「こうした意思決定の連鎖の形で組織をとらえる考え方は、H・A・サイモンによる(213頁)」のだそう。つまりウェーバーとルーマンのあいだに媒介者としてハーバート・サイモンがいたということになる。このような考えを踏まえて著者は、「合理的組織」を「水平的な協働を実現できる形で・組織の業務それ自体を遂行していく組織(216頁)」として定義する。
ではサイモンとルーマンの違いはどこにあるのかということになる。それに関しては次のようにある。「このしくみを意思決定の連鎖として、新たにモデル化したのはサイモンである。それをさらにルーマンは、コミュニケーションのシステムとしてとらえ直した。特に、この連鎖での決定がつねに時間的なものであることに注目して、その意味を深く考察した。基本的にはそれがそのまま「組織の自己産出系」と呼ばれるものになる(218頁)」。もちろん「自己産出系」という名称は、ウンベルト・マトゥラーナとフランシスコ・ヴァレラが提唱した「オートポイエーシス」理論に由来しているわけだけど、この新書本ではそれに関連するテクニカルな説明は、ルーマンに関してにせよ、マトゥラーナ&ヴァレラに関してにせよ少ない。まあ説明し始めたらそれだけで一冊の本になってしまうだろうしね。ただ次の指摘は非常に重要と思われるので、取り上げておく。「とはいえ、ルーマンはウェーバーとサイモンをただつなげたわけではない。¶サイモンは、たんに時間的に前の決定が後の決定の決定前提をあたえるという形で、決定の連鎖を考えていた。ルーマンはそれを受け継ぎながらも、組織の決定では、以前の組織の決定を決定前提として引き継ぐことで「組織の決定」になりうるだけでなく、そのなかで引き継がれた決定前提も再解釈されることに注目した。前の決定が後の決定を方向づけるだけでなく、後の決定がその解釈を通じて前の決定を意味づけ直す。「組織として決めていく」というのは、その両方の働きからなる。そうした形で決定を要素とする全体が成立し、一つの組織を構成する。¶こうしたあり方を自己産出系論では「(要素の)回帰的ネットワークrecursive network」と呼ぶ。組織における決定を、ルーマンは最初からそのようなものとして考えていた。その意味でもルーマンの自己産出系論は、組織という具体的な現実の考察から生み出された(245〜6頁)」。
第3章の残りと「終章 百年の環」はこれまでのまとめのような記述が続くので省略する。ということで、最後に個人的な感想を述べておくと、本書の議論は、企業のみならず国家、政府、司法組織などにも広く適用できるのではないかという印象を受けた。たとえば司法に関しては本書にも次のようにある。「水平的な協働というとらえ方をすれば、判例法の制度も取り込めるのだ。図3―2の「決定」を「判例」にすれば、これはそのままコモン・ローのモデルにもなる(228頁)」。周知のようにイギリスには日本やアメリカのような成文憲法は存在しない。日本における憲法改正のすったもんだを考えると、イギリスのようなコモン・ローのモデルのほうが合理的で効率的に機能するのではないかとふと思うことがよくある。なぜなら成文憲法という形態を取ってしまうと、それが成立した時代の要請に法システムが強く固着して硬直的になり時代の変化についていけなくなるから。とりわけ21世紀に入って時代が激しく変化しているときに、一国の法制度が憲法というトップから硬直化してしまっていては大問題だと言える。日本では9条がその典型だろうけど、アメリカでも銃規制に関して修正第2条がまったくの障害と化しているのがその好例だよね。憲法がいわばデッドウェイト化しているとも言える。国家や政府や一国の法制度も組織として考えれば、このようなおかしな事態も、ウェーバー→サイモン→ルーマン流の組織論で分析できるのではないかという気がする。また歴史的にはたとえばフランス革命にもこの見方は当てはめられると思う。確かに絶対王政を倒すという最初の革命的決定はなされる必要があったとしても、その後革命家が国政を担当する地位に居座ったため、恐怖政治に至ってフランスという国がひっちゃかめっちゃかになったことは、まさにその組織が特定の理念に凝り固まった革命家に支配されることで硬直化し、時代の変化に流動的に対応できなくなったからだと考えられる。そのような経緯も、ウェーバー→サイモン→ルーマン流の組織論で分析できるのではないだろうか。フランス革命は250年前の異国の話だけど、現代の日本の隣には、共産党が、というより習近平が独裁的な権威を振るい硬直化している中国という国が存在する。まさにそれはコンテンポラリーな問題でもある。本書は、彼ら、とりわけルーマンの理論がそのような現代の国際関係の分析にも役立つのではないかという期待をもたせてくれた。でも冒頭で述べたように、難解でぶ厚いルーマンの著書を今から読む気にはなれないし、そもそもおじぇじぇがかかる。何しろ昔は英訳を買えば、日本語訳より安く買えたのに、円安のせいでそうもいかなくなってしまった。誰かルーマンの解説書を新書か選書あたりで出してくれんかなあ。そうすれば、少なくとも一冊は売れることは保証する(2000円程度までなら、私めが絶対に買うしね)。
※2023年12月11日