◎郡司ペギオ幸夫著『創造性はどこからやってくるか』(ちくま新書)
「あとがき」を確認すると、この新書本も、青土社時代にわが訳書の編集を何冊か担当していただいた、若手編集者加藤氏の編集らしい。暑さでヘタっている私めと違って頑張ってられまんなあ! これから述べるようによくわからない部分が多かったので、本来はここに取り上げるべきではないんだろうけど(したがって連ツイもしなかった)、加藤氏の編集ということであえて取り上げてみた。本書の主題は、「創造性は外部から来る」であるように思える。でも正直なところ、アーティストとは無縁の俗物たる私めには、そもそもその「外部」が何を指しているのかがよくわからなかった。
そこでまず、「創造」に関して個人的にどう考えているかを簡単に述べておく。したがってこの段落に書かれていることは、新書本の内容とは異なるので悪しからず。創造とは、理想的なイメージ、つまり一種のイデアのようなものとしてあらかじめ存在している何かを、特定の素材をもとに、人が見たり、聞いたり、触ったりできる現実的な何ものかとして徐々に彫琢していくことであるかのように考える人も多いように思われる。これは形相と質料という古来以来の見方を反映していると考えられる。でも個人的には、創造においては特に先立つ何かがモデルのごときものとして存在しているわけではなく、主体性を超越したところで何かがごく自然とダイナミックに創られていくのだと思っている。ガダマーだったか(違ったかも)、偉い哲学者さまも同じようなことを論じていたしね。たとえば文章を書いていると、何を書きたいかに関するおおよそのアイデアはある程度最初からあったとしても、書いているうちに次から次へと新たなアイデアが湧いてきて、最終的には当初のアイデアとはまったく異なる文章になったなどといった経験は誰にでもあるのではないでしょうか。創造とはこのように時間のなかで生起する力動的な営為だと考えている。そのような先入観をもってこの新書本を読んだから、余計にわかりにくくなったのかもしれない。
著者はいきなり「天然表現」という言葉を提起する。はて、「天然表現」とは何ぞや? それについて次のようにある。「読者は、表現、表現活動というと、カタカナのアートの話であり、いわゆる美術(ファイン・アート)に限定しない、身体を含むさまざまな媒体を用いた「表現」をイメージするかもしれない。もちろんそれも含むのだが、アートや表現として多くの読者が想像する、自己表現であるとか、「わたし」の中にあるものの吐露であるとか、そういうことではない。むしろ芸術にたずさわる多くのアーティストは、自己表現という意味での表現を否定する。「わたし」の中なんて空っぽで何もない。わたしの中ではなく、むしろ外から来る何か、インスピレーション(霊感)を受け取るのだ。そういう言い方をする。ここでいう天然表現は、この感覚を拡張することで構想される。そして、自然現象や、人間の意識、心の形成まで、天然表現として展開していくものなのである(16〜7頁)」。ぬぬぬ! 多くのアーティストが自己表現という意味での表現を否定しているとは、ちょっと意外に思える。創造とはモデルとして先立つ何かを素材を用いて現実化することではなく、ダイナミックにごく自然に何かが創られることだと考えている私めにも、「自己表現」と言ってしまうと、表現の対象である何かが、表現する行為より先に存在しているようにも聞こえるので、妥当な言い方ではないように思えるのは確か。でも、創造においては何かが外からやって来るという考えは意外に思える。本書は「外部」がキーワードの一つになっているように見受けられるけど、そもそもここで言う「外部」とは何なのか? イデアのようなものなのか? 著者は新実在論のようなものを意識しているのか? あえて「外部」と言う必要があるのか?
上の文章からすると「外から来る」ものとは、インスピレーション(霊感)ということらしいので、創造される対象物がイデアのようなものとしてあらかじめどこかに存在していて、それがやって来るという意味ではなさそう。その見方は、冒頭で述べて私めの創造の定義とも合致する。でも「外部から来る」となると、それが何であれ、内部にはなかった既存の何ものかが外部からやって来るという意味にどうしても聞こえてしまう。すると冒頭にあげた私めの見方とは合致しなくなる。前述の引用の少し先に次のようにある。「天然表現は、表現の結果であったり、表現を説明したりするものではない。そのような、終わったことを後付けることはしない。天然表現は表現に向かうための態度であり、完全な不完全体である。芸術家は、「外から来る何か、インスピレーション(霊感)を受け取るものだ」と言ったが、その受け取るための態度である装置は、形式化できる。それは、何がもたらされるかはやってみないとわからないものの、「やってみよう」という賭けに出るだけの仕掛けなのである(17〜8頁)」。「「やってみよう」という賭けに出るだけの仕掛け」とは、一種の内発的な動機と見なせるだろうけど、創造がそれに依存するのなら、創造はやはり「わたし」の中にあるものの吐露になるのではないのかと直観的には思えるんだけど、そうではないのだろうか。著者はおそらく、内発的な動機が「インスピレーション」として「わたし」の外から降臨すると主張しているのだろうけど、それならば余計に「わたし」の外部にある「インスピレーション」とはいったい何かが気になる。「アートって、霊感商法なの?」とまでは言わないとしても、下手をすると交霊術のようなオカルト的現象とも取られかねない。オカルトでも言い過ぎなら、宗教的な響きが感じられると言えばよいのかも(宗教的な響きという点については『浄土思想』を参照されたい)。
ほんとうに外部から来ると言わなければならないのか? 外部ってどこなのか? もしかして、創造物とは、外部にあろうが内部にあろうが既存の何ものかなのではなく、「インスピレーション」に駆られてダイナミックにアドホックに創られるものだとしたら、それはあたかも外部から降臨してくるように感じられ(何しろこれまでの自分の経験にはなかったできごとなのだから)、よってその創造を駆り立てた「インスピレーション」も外部からやって来たように思えるというだけのことではないのか? うむむ、よくわからん。さらに読んでいくと「外部」について次のようにある。「創造が外部に触れることであるなら、それは決して有限の形式で捉えられない無際限さを含むことになる。わたしが決定する価値は、無際限さに開かれ、自分でさえ確定的に記述できないものの、わたしにおいては自明である。かくして、わたしが感じる創造とは原理的にはわたしだけのもの、当事者のものとなる(26頁)」。「創造が外部に触れる」とあるけど、著者によれば「外部」とは「インスピレーション」のことらしいので、この外部からやって来る「インスピレーション」は無際限であり、それと同時に個人に受肉されるとその個人独自のものになるということなのかな。確かに「インスピレーション」は、あくまでも個人的な経験ではあるよね。ではその個人の経験である「インスピレーション」が個人の外部に存在しているときには、それはいかなる形態を取っているのだろうか? というか、「原理的にはわたしだけのもの、当事者のもの」なんだから、そもそも外部に存在しているとしなければならない理由があるのだろうか?「創造とはダイナミックな営為である」という意味で、創造物にしろ創造を駆り立てるインスピレーションにしろ、「無、すなわち何もないところから生じる」と言うのであればそれなりに理解できるけど、「外部から来る」と言われてしまうと目を白黒させなければならなくなってしまう。
ところで先ほどちょっと私めの疑問として言及した「新実在論」については、「第6章 完全な不完全体」でカンタン・メイヤスーを取り上げたあとで次のように述べている。「人間と相関を持った世界、志向世界の外部にこそ、「もの自体」が存在するはずだ。外部に目を向けよ。それが思弁的実在論の主張の骨子である。しかし、外部は文字通り積極的に知覚不可能であり、そこにあるものを一つひとつ挙げていくことなどできない。外部は、相関主義的世界内部に現れる矛盾として垣間見られるだけだ。積極的に知ることのできない外部の上で、我々の志向世界は、いつ破綻するかも知れぬ危険に晒されながら浮いている(194〜5頁)」。思弁的実在論は、ポストモダン的相対主義を克服するために、イデア論などの旧実在論に対するものとして提唱された昨今の新実在論の一種と見てもいいのでしょう。さらに次のようにある。「人間中心主義を思弁的実在論に依拠して構想するなら、思弁的実在論が外部を否定的ニュアンスでしか語り得ないように、人間世界外部についても否定的にしか語り得ない。その意味で、動物や植物、鉱物までをも鑑賞者とすることは、成立しない。積極的に取り入れられる「動物」や「植物」、「鉱物」は、もはや人間中心主義の中で現れた自然に過ぎないからだ。外部は、何を取り込むか指定して取り込むことはできない。本書で繰り返すように、外部は、召喚するしかなく、その賭けに出るしかないのである(197頁)」。ということは、思弁的実在論もお呼びじゃないということなのかな? それとも思弁的実在論は正しいとしても、正しいからこそその方法では創造性の何たるかを理解することも、創造を実践することもできないと言いたいのかな?
またさらにそのあとに次のようにあって、わがボケナス頭は余計に混乱してきた。「結局、「もの自体」「山それ自体」へ至るため、その脱色、無化を経由した外部の召喚が必要となる。つまり、「完全な不完全体」が鍵となる(199頁)」。おや〜〜ん、「インスピレーション(霊感)」はいったいどこに行ったのだろうか? 「インスピレーション」とは「もの自体」のこと? その答えがノーであるなら、ここで言う「外部の召喚」とは「インスピレーション」の召喚なのか脱色された「もの自体」の召喚なのかどっちなんだろう? これがわからない限り、「創造性は外部から来る」と言われても、いったい何のことやらわからないのではないだろうか。その後も私めにはよく意味がわからない記述が続くんだけど、ここに引用することはしない。ただ215頁にある、著者の言う肯定的矛盾や否定的矛盾という概念を脳のトップダウン/ボトムアップ処理に当てはめるくだりは牽強付会でかなり無理があるように思えたとだけ言っておきましょう。ちなみに絵画の創造や鑑賞における脳のトップダウン/ボトムアップ処理の作用については、わが訳書、エリック・カンデル著『なぜ脳はアートがわかるのか』で詳しく論じられているのでぜひご参照のほどを(ちなみにこのカンデル本の編集者も青土社時代の加藤氏です)。
さてここまでは「著者の言う外部とは何かがようわからん」と言い続けてきたわけだけど、何となくそれがわかる記述が終盤にあった。それはシャルル・フーリエに関するもので次のようにある。「フーリエは、「ニュートンの万有引力の法則に対して、自分は情念引力の法則を発見した」と宣言する。常識的には、比較の対象にすらならないと思われるだろう。しかし、私は、フーリエの「情念」を、もっと広い概念として捉えるべきだと考えている。「情念」を、論理的なもの、因果関係で物事を考える、我々のわかりやすい認識世界の外部、そのすべてと捉え直すのである(235頁)」。さらに次のようにある。「私は人工知能に対して「天然知能」を提唱した。ここでの「人工知能」とは機械学習システムに限定される、いわゆる人工知能ではなく、「〜であるなら、……となる」式の論理の連鎖でだけ「思考」や「計算」を考える思考様式一般のことだ。この思考様式の世界は、等しく「〜であるなら、……となる」でつながっているので、等質空間と呼ばれる。(…)人間がやるべきことは、等質空間外部[の構成]である。ところが外部は、具体的に列挙できるもので構成できない。外部は、等質空間の周縁で接触する火花としてしか感じられない。私はそれを天然知能と呼んだのである。¶この外部との接触を「情念」、外部との接触を呼び込む仕掛けを、「情念引力の法則」に対比することが可能だ。天然知能によってフーリエは現代的意義を持つ(236頁)」。ということは「外部」とは、論理的な理性の外部に存在する、論理では捉え切れない「無意識」、あるいはフロイト的用語を避けたいのなら「下意識」のことであるようにも思えてくる。そこから創造的な何かが直観的にやって来るというわけ(著者も、たとえばウェーゲナーの大陸移動説の発見に関して「直観」という言葉を使っている)。直観は意識的な自己からすれば、あたかも自己の外部から生じるように思えるしね。ちなみに直観に関しては、ヒューゴ・メルシエ&ダン・スペルベル著『The Enigma of Reason』や、わが訳書、ヒューゴ・メルシエ著『人は簡単には騙されない』をぜひ参照してね。もしくは前述の通り「無から生じる」でもよさそうだけど、それだと禅問答になりそうなのは確か。だから「本書」にある「外部」をすべて「無(下)意識」に読み換えれば、もっとよくわかるのかも(もう一度読み返すことはしないので確言はできないし、そもそもそう捉えるのは誤りなのかもだけど)。たとえばインスピレーション(霊感)が無意識からやって来ると言われれば、それほど違和感はないよね。「無(下)意識」と書いてしまうとあまりにも当たり前に聞こえるから、「外部」というやや衒学的な言い方をしたのかとすら思えてくるけど、それはゲスの勘繰りというものかもね。
ところで最後の方に、「二項対立的なものを見出し、肯定的矛盾と否定的矛盾の共立、トラウマ構造を見出せる状況で、何かすごいことがやってくる、そういった事例(269頁)」を考えてみよと、学生に課題を出すことがあると書かれているけど、私めなら「オヤジギャグ」と答えるだろうね(肯定的矛盾、否定的矛盾、トラウマ構造についてはここでは説明しない)。ギャグは一般に面白いか面白くないかでその価値を判断されるけど、オヤジギャグではわざわざおもろないことを言ってこの対立を否定することで「何かすごいことがやってくる」のですね。だからオヤジギャグとは最高度のギャグなのですね。この回答が間違っているなら、私めはこの本をよく理解できていないということになるのでしょうね。
ということで、アーティストではない一般の新書読者がこの本を完全に理解できるかというとそれは無理そうに思えるけど、モデルとして存在する既存の何かの{再現/リプレゼンテーション}としてではなく、ダイナミックな営為として創造を捉え、インスピレーションや創造物が(「外部」というより)意図されざる「無(下)意識」からやって来るものと我流の解釈を加えれば、ある程度理解できるようにも思えた。著者にしてみれば邪道なのかもだけどね。
※2023年8月28日