◎岩田文昭著『浄土思想』(中公新書)

 

 

個人的には、日本の宗教のことはほとんど何も知らなかったので、入門書としてはちょうどよかった。「はじめに」にあるように、浄土教に分類される日本の宗派には、浄土宗、浄土真宗、時宗などがあるらしい。ちなみに、わが家はどうやら浄土真宗であるということを聞いたことがある。にもかかわらず、その開祖とも言える親鸞については悪人正機説の人としてしか知らなかったという体たらく。

 

ところで浄土教と言えば、真っ先に「南無阿弥陀仏、南無阿弥陀仏・・・」という読経がまず思い浮かぶけど、当初中国で生まれた頃の浄土教は、そのような「称名念仏」より「観仏」が重視されていたらしい。「観仏」とは「精神を統一し仏やその浄土の姿を心に思い描き、その徳を自らのものにしようとする行法(16頁)」とのこと。ところが善導という中国の坊さんが「称名念仏」を重視するようになって、それが日本に入ってきたということらしい。次のようにある。「浄土思想家としての善導のなによりの貢献は、「称名念仏」を称揚し、この意味での「念仏」を広く伝えたことにある。現在の日本では、口で南無阿弥陀仏を称えることが念仏だと考えられているが、それは中国の善導の影響によるところが大きい。もともと「念仏」の意味は、心を集中させて仏を{憶念/おくねん}することであった。観察あるいは観法という瞑想方法もこの意味での念仏の一つであり、観無量寿経[浄土三部経の一つ]の定善観で説かれているのは「観想の念仏」ともいわれる。聖道門仏教では、観想の念仏をすぐれたものとみなし、称名念仏を劣ったものとみなしていたのに対し、善導は称名念仏の意義を説いたのである(40頁)」。「観想の念仏」とはおそらく先にあげた「観仏」のことで、要するに心のイメージとして仏さまを観るということなんだろうけど、そのような方法は、視覚イメージを心のなかで思い描くことを大の苦手とする、私めのようなアファンタジア気味の人にはとってもクルピー。もしかして善導さんもアファンタジア気味だったのかもね。

 

まあそれはそれとして、日本の浄土宗の開祖とされているのは『選択本願念仏集』を撰述した法然ということで、中国における浄土教の流れの次に、法然の伝記と思想が詳細に説明されている。法然は称名念仏を重視するとともに、浄土教の思想にコペルニクス的転回とも言うべき変更を施したと述べられている。次のようにある。「たしかに、法然以前の浄土教においても、称名念仏は勧められてきた。しかし、それは機根の劣るものが難行に堪えることができないため、容易に実践できる念仏行を自ら選択するものであった。ところが、法然の説く念仏は、人間中心から仏中心へと転回を促す。これは天動説から地動説への変化に比されるような転回であり、浄土思想におけるコペルニクス的転回というべきものであった(82〜3頁)」。

 

またそれに関してキリスト教との類似が次のように述べられており、なかなか興味深い。「ここには、宗教における絶対者と相対の次元に位置する人間との関係についての一つの明確な態度表明がある。神であれ、仏であれ、その存在が絶対的であれば、その絶対者と人間との関係を媒介するもの、仲立ちをする存在が必要となる。キリスト教の場合には、それはイエス・キリストである。信者はイエス・キリストという存在を通して神との和解ができる。そして、イエスが誕生したことは、人間の智慧でははかり知れない神の側からの働きによる。阿弥陀仏が念仏を選び、それによって衆生済度をすることは、キリスト教におけるイエスの誕生に対応することである(83頁)」。ググると、{衆生済度/しゅじょうさいど}とは、「仏や菩薩が、現世で苦しみ悩んでいるすべての者を救済し、悟りへと導くこと」とあった。まあ最後の一文が意味するところが「他力本願」ということなのでしょう。したがってここで言う「他力」とは、「阿弥陀仏の本願」のことであって、だからそれを「他人まかせ」の意味で使うと、どこかの大企業(どこの企業だったか忘れた)のように浄土教の教団や信者から怒られちゃうわけね。

 

絶対者と有限な人間の関係をめぐるキリスト教と浄土教の類似点に関しては「第四章 法然門下の諸思想」でさらに詳しく説明されている。そこにはこれまで別の本を取り上げたときに何度か言及してきた自由意志の問題も絡んできて興味深いので、少し引用しておきましょう。次のようにある。「恩寵と自由意志の問題は、二〇〇〇年に及ぶキリスト教思想史全体を貫く根本問題の一つである。そのなかでカトリック教会は自由意志に一定の意義を認めてきた。これに対してルターは、「恩寵のみ」をそのスローガンの一つとして掲げ、宗教改革を起こした。ルターは恩寵の働きを強調し、人間の自由意志が救済において果たす役割を否定した。絶対的な神の働きに対して、人間は徹底的に無力であるとしたのである。このルターの思想の背後には人間が罪に染まっているという強い自覚と神の絶対的超越性への承認がある。人間の意志による行いがいささかでも神の恩寵にかかわると考えるのは、人間の思い上がりである。人間は信仰によって救われるのであるが、信仰そのものが恩寵による。それゆえ、人間の意志は自由であるどころか、全面的に神に依存する存在だというのがルターの主張である(104頁)」。この文章を素直に読むと、「人間の自由意志が救済において果たす役割を否定」することが、一挙に人間の自由意志そのものの否定につながるということになり、論理の飛躍になるように思えるけど、そう言える理由は神学に疎い私めにはよくわからん。救済なくして自由意志なしということかな?まあそれはいいとして、このようなルターの考えと浄土思想の共通点について著者は次のように述べている。「浄土教においても、絶対者の力、阿弥陀仏の本願力が最初に置かれる。浄土教ではそれを「他力」と呼ぶ(105〜6頁)」。つまりルターの「神の恩寵」と浄土教の「他力」はほぼ同じであると考えればよいのでしょうね。ここでふと、先日『創造性はどこからやってくるか』を取り上げたとき、著者の郡司氏の言う「外部」という概念に何やら宗教的な響きがあるように感じたことを思い出した。こうして見ると「神の恩寵」や「他力」という宗教的概念をそこに聞き取ったということなのかもしれない。

 

ところで、他力と自由意志の関係のとらえ方は法然と弟子の親鸞では違っていたらしい。法然の場合には、「他力による救済であっても、その働きと衆生の自由意志がともに働く。自らの意志で念仏をして信心が起きるのである(111頁)」。それに対して親鸞の場合は、「行も信も阿弥陀仏からたまわるということになる。親鸞は南無阿弥陀仏を「本願召命の勅命」と解釈する。南無阿弥陀仏とは阿弥陀仏が「救いますよ、わかりますか」と語りかけてくるものだということである。「そのまま救う」という呼び声を聞くことが肝要であり、そのため、教理的には、聞くことがより重要視される。仏の呼び声そのものが念仏であり、それを疑いなく聞くことが信心なのである(111頁)」。ということは、法然よりも親鸞のほうが「人間の自由意志が救済において果たす役割を否定」するルターに近いということになりそう。

 

親鸞の思想に関しては「第五章 親鸞の浄土観と物語論」でさらに詳しく説明されている。とりわけ物語論に関する次の指摘は興味深かった。「たしかに、他の浄土教の思想家に比べ、親鸞は感覚的で実体的な浄土は否定的に取り扱っている。親鸞の教説の大きな特徴は、仏や浄土を感覚的・現実的イメージではなく、抽象的・原理的に表現することにある。しかし、この親鸞の思想の根底には、法蔵説話[無量寿経で説かれている説話で、阿弥陀仏の由来を物語る]の力とその説話を生み出す根拠への信頼がある。物語の存在が、世界や自己をありのままに崇拝する自然崇拝との違いとなる。そのような神話的表象を生み出す根拠に目を向けるとともに、そこから救いを具体化する「阿弥陀仏」が立ち現れることを親鸞は指摘するのである(155頁)」。キリスト教の聖書も物語で構成されていることを考えれば、その意味でも親鸞と「聖書のみ」を主張したルターは似ているということになるのかも。

 

次の章の「第六章 二十世紀の新たな物語」は、親鸞の時代から、章題どおりいきなり二〇世紀までワープして日本流精神分析の阿闍世コンプレックス(阿闍世は観無量寿経の王舎城の悲劇に登場する主人公)やら、手塚治虫の漫画『ブッダ』の話やらになってしまうので、つけ足しという印象が避けられなかった。

 

ということで、冒頭で述べたように日本の宗教に関してはほとんど何も知らない私めにとっては有益な本だった。しかも宗教というテーマを扱った場合、日本宗教史みたいな大きな括りになると茫洋としてくるし、逆に本書の登場人物で言えば法然や親鸞だけを扱うと(新書本にもその手の本はあるよね)話が細かくなって、ややもすると私めのようなと〜しろ〜にはわかりにくくなったりもするけど、この新書本は、タイトル通り浄土教という一つの宗派を対象にしているので(それ以外の宗教には、前述したように対比としてキリスト教にいく分言及されるのみ)ちょうどいい粒度で書かれていると言える。ちなみに本書には、古文は最低限しか引用されていないから、私めのように高校の頃に中共の報道官(せっかく私めがその立ったキャラでぜひハリウッドに進出してほしいと思っていたのに、失脚したのかこのところ見かけなくなってもた趙立堅さんに、確か目つきが似ていたような)も裸足で逃げるような嫌味タラタラの先生に教えられたせいで古文が大大大嫌いになった読者でも安心して読めると言い添えておきましょう。ただ浄土思想に詳しい人が読んでもおもろいかどうかは、私めにはまったくわかりましぇん。

 

 

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※2023年9月2日