◎椿宜高著『自然に学ぶ「甘くない」共生論』(京都大学学術出版会)

 

 

まず「はじめに」にこの選書本の目的が書かれているので引用しておきましょう。次のようにある。「生態学者は、種が互いに譲り合うときに共生関係が成り立つとは考えていない。そうではなく、あらゆる種は、ある時は他種を搾取し、またある時は他種から搾取されながら存続していると考えているのだ。搾取関係とは、食う者と食われる者の関係、病原体と宿主の関係、食物や棲み場所をめぐる競争関係などのことである。そして、共生とは、多様な種の搾取関係が複雑に入り乱れてそれぞれの個体数が維持されている状態のことだ。もちろん、搾取関係は種間だけでなく種内の社会のあり方(縄ばりや階層性などの社会構造)にも重大な影響を与える。いずれも、搾取する者と搾取される者との力の均衡によって共生が成り立つと考えられる。もちろん、ヒトと生物の関係も必ずしも平和的ではない。この本では、ヒトと生物の共生のあり方を、冷徹な目(甘くない共生論)を通して考察したい(C頁)」。共生とは言え、その基盤には、英語流に言えばおイヌさまがおイヌさまを食べる冷酷な世界があるということなのでしょう。だからその部分を抜き取って都合よく「共生」を語ることは、「チェリーピッキングをしているにすぎない」と言いたいんだろうと思われる。

 

ここでこの本の難を一点あげておくと、「この本は、二〇二〇年四月から二〇二二年三月まで『時の法令』(雅粒社編集、朝陽会刊行)に連載された記事「環境をめぐる課題への提言――生態学者の視点から」を加筆して編集し直したものである。各回は読み切り記事として書いたので、多様なテーマを題材にしている(D頁)」とあり、どうやら書下ろしではないらしい。その点で全体的に内容がややトリビア的に拡散しており、タイトルにある「「甘くない」共生論」とどう関係するかがすぐには定かでない記述も多々見られることもあって、著者の言う「「甘くない」共生論」が系統的に説明されているという印象は薄かった。もっと言えば最初の勢いが次第に尻すぼみになっていくような印象すらあった。私めが書下ろしではない本を嫌う理由も、内容が一貫しておらず系統的ではないという点にある。

 

文句はそのくらいにして、さっそく本論に入ることにしましょう。「第T部 「甘くない」共生とは?」では、まず地球生態系が「原因と結果の因果関係を説明しにくいシステム(6頁)」、すなわち「複雑適応系」をなすという考えが提起されている。この考えはある意味でよく知られているにもかかわらず、世の中には知ってか知らずかその点を無視する見解を吹聴する人々が大勢いるように見受けられる。著者は複雑適応系の条件や特徴を6つほどあげているけど、ここで私めが特に着目したいのはEで、そこには「[@からDの条件の]結果として、要素の一部やネットワークの一部に生じた異変によって、系全体が大きく変わってしまうことがある(7頁)」とある。著者はその例としてカリフォルニア沿岸のラッコ(キーストン種)の事例をあげている。要はキーストン種(生物群集に決定的な影響を与える生物)であったラッコを乱獲したら、微妙に安定が維持されていた生態系(食物網)が破壊され漁業が壊滅的な打撃を受けたという話。ちなみにこの事例は、わが訳書、ショーン・B・キャロル著『セレンゲティ・ルール』の第6章「動物の階級社会」に詳しく書かれているのでぜひ読んでみてみて。

 

このような複雑適応系の微妙な安定については、「リベット説」という次のようなたとえ話があるのだそうな。「生態系はよくできた飛行機のように、ある程度の酷使に耐えて機能できるように冗長な補助システムを備えている。そのため、飛行機は一ダースのリベットが失われても別状ないかもしれないし、生態系は一ダースの種が失われてもその機能にたいした変化は起きないかもしれない。しかし一三個目のリベットが補助翼から落ちると墜落の危険がでてくる。一三番目の種が失われると、生態系の重大な変化に繋がりうるのだ(12頁)」。つまり、複雑適応系たる生態系は、特定のパラメーターやパラメーターの組み合わせがある閾値の範囲内にあるときには安定性が保たれるが、その閾値を超えるか超えないかの状態に陥ると、急激に不安定化し、その結果崩壊する可能性が高まるということ。

 

これは非常に重要なポイントなんだけど、いかにその点を等閑視して議論をする人が多いかを示す例を、気候変動問題からあげてみましょう。実は、本書にも「微生物呼吸量は人為起源の炭素放出量(年間六三億トン)の約九倍にあたるので、いかに地球生態系への影響力が大きいかがわかるだろう(31頁)」とあるように、人為起源の炭素放出量は、人為起源でない炭素放出量よりはるかに少ない。その事実をもって、人為起源の炭素放出は気候変動に何の影響も及ぼしていないと主張する人々がいる。でもその考えは決定的な誤りを孕んでいる。なぜなら、地球生態系が複雑適応系をなしていて、特定のパラメーターやパラメーターの組み合わせが特定の閾値を超えると生態系が急激に不安定化し崩壊するという事実を忘れているから。現在の地球の生態環境は、生物進化の長い歴史を通じて形成されたものであり、そこに微生物はほぼつねに存在していた。だから微生物が人為起源の九倍の炭素を放出していたとしても、さらには植物や野生動物(人間が増やした家畜は除く)や火山噴火などによる炭素の放出を加えても、現在の地球の生態系は、まさにその放出量によって安定が保たれるよう形成されてきたことになる。ところが人為起源の炭素放出が始まったのは、(農耕が始まった頃なのか産業革命以降なのかという議論は置くとして)地球の歴史からするとごく最近のことにすぎない。だから人為起源の炭素放出量がたとえ微生物起源のそれの九分の一だったとしても、そのわずか九分の一の放出量によって、特定のパラメーターやパラメーターの組み合わせが閾値を超えてしまう可能性が十分にある。なぜなら現在の地球の生態環境の形成に、その九分の一分の炭素放出量は含まれていなかったわけで、現在の生態系の形成をもたらした地球の歴史という観点からすれば余剰分になるのだから。要するに絶対量ではなく限界値(経済学的用語を使えば一種の限界効用)が問題だということ。

 

もちろんその九分の一の量で実際に地球の生態環境が崩壊するか否かはわからない。八分の一でないと崩壊しないのかもしれない。とはいえ、そんな賭けをして間違っていれば人類や他のほとんどの生物が絶滅する最悪の結果を招くことになる。したがって、以前にも取り上げたことがあるけど、池内了著『疑似科学入門』(岩波新書)に書かれていた次の見解が重要になる。「地球が複雑系であるために原因や結果が明確に予測できないとき不可知論に持ち込むのではなく、人間や環境にとっていずれの論拠がプラスになるかマイナスになるかを予想し、危険が予想される場合にはそれが顕在化しないよう予防的な手を打つべきなのである。それが複雑系の未来予測不定性に対する新しい原則で、「予防措置原則」と呼んでいる。たとえその予想が間違っていたとしても、人類にとってマイナス効果を及ぼさない」。

 

以上は人為的な炭素の排出による気候変動など存在しないと主張している否定派の見解に関するものだけど、実のところ肯定派にも地球生態系が複雑適応系であることを忘れている人々がいる。それは気候変動対策のためのエネルギー政策として太陽光発電を推進している人々のこと。現時点では太陽光発電にはさまざまな問題があるけど、それについては『知っておきたい地球科学』を取り上げたときに列挙したのでそちらを参照されたい。いずれにせよネットにもたくさんあがっているメガソーラーの惨状を撮影した画像や動画を見れば、現時点では日本がいかにソーラーパネルの設置に向かない国であることがわかる。たとえば、これは素人ユーチューバー(他の動画のタイトルで判断すると特に政治系ユーチューバーではないと思われる)による阿蘇のメガソーラーに関するレポートだけど、ひどい状況になっているね。日本ではもともと狭い平地のほとんどがすでに住宅地や農耕地として利用されているから、メガソーラーを設置するには、山や森林の木を広範に切り倒さなければならない。それに対してヨーロッパでどのような場所にソーラーパネル(や風力発電用のでかい風車)が設置されているかはヨーロッパの鉄道動画(ソーラーパネルはドイツ南部、でかい風車はオランダ北部など)を観ればある程度わかる。「ヨーロッパではこんなに開発が進んでいるのに!」という、各国の条件をまったく無視した出羽守議論は、浅はかとしか言いようがない。ちなみに砂漠や植生の少ない地域が広範に存在する国ではメガソーラーは現時点でも有効なのかもしれないけど、それでも広範囲にまっ黒なソーラーパネルを敷き詰めればアルベドが変化するはずであり、それによる生態系の影響が皆無なのかどうかは、専門家ではない私めにはよくわからない。いずれにしても現時点での日本におけるメガソーラーの設置は環境破壊、いや生態系破壊以外の何物でもなく、それがいかなる影響を及ぼすかがきちんと考慮されているのかに関しては大きな疑問がある(金儲け企業が考えているとはとても思えない)。だいたい樹木はいったん切り倒してしまえば元に戻すのに数十年はかかる。個人的には気候変動対策のための現時点でのエネルギー政策は、再エネ技術が日本でも問題なく利用できるほど大きく改善されるまでは、あるいは新たなテクノロジーが開発されるまでは暫定的に原発を再稼働させることだと思っているけど、選書本とは直接関係がないのでそれについてここで述べることはしない。

 

第T部に関しては、地球生態系が複雑適応系であることを指摘している点以外は、それほど目を引いた記述はなかった。ただ昨今はやりのSDGsにおけるSDGsウォッシュの問題を指摘しているところは、タイムリーだと思った。なおSDGsウォッシュとは、「SDGsへの取り組みを行っているように見えて、その実態が伴っていない商業行為を揶揄する言葉(42頁)」なのだそう(ちなみに著者はSDGsそれ自体を否定しているのではなく、そのやり方やそれが隠れ蓑にされていることに苦言を呈していると言うべきだろうね)。4つほど実例をあげているけど、二番目の「中国ウイグル自治区に工場を持つグローバル企業の多くはウイグル人を強制労働させている。ユニクロ(ファースロリテーリング)もこの問題で批判されている。ユニクロは公式サイトで人権・労働環境への配慮に言及しているのだが(42頁)」という事例はよく知られているよね。要するにSDGsを隠れ蓑にして裏で利権の甘い汁を吸っている悪辣な輩がいるということ。その意味では現状の太陽光発電関連業者(と悪徳政治家)も、SDGs(気候変動対策)を隠れ蓑にして利権の甘い汁を吸い、かつ結局森林破壊という反SDGs的行為を平然と犯しているようにも見える。

 

あと「第4章 互恵社会の光と影」で協調の問題点をあげているのが目を引いた。次のようにある。「仲間かそうでないかをレッテルで識別し、「仲間には協調、仲間でなければ排他」という主義をとってしまうと、集団間に分断が起きてしまう。集団それぞれが内部と外部を区別するレッテルを貼るからだ(56頁)」。いわゆる内集団/外集団の問題だけど、ここではこれ以上詳しくは述べない。

 

「第U部 オスとメスの共生」で興味深かったのは、「自然主義」の問題が指摘されている点。著者によれば、「最も単純な「自然主義」は、自然現象をそのまま受け入れてヒトの行動規範とする考え方(116頁)」なのだそう。ちなみにこの逆は、「ヒトの行動規範を自然や動物に適用する擬人化」になるのだろうと思うけど、私めは必ずしも擬人化は致命的な誤謬だとは思っていない。それはどのレベルで自然や動物をとらえるかにもよるわけで、動物行動学などの粒度が粗く、還元主義的方法を的確に適用できそうにない分野では、擬人化も有効な手段になりうると考えている。別にこれは素人考えというわけでもなく、わが訳書、マーク・ベコフ著『動物たちの心の科学』の主張の一つでもある。少し脱線したので、選書本の話に戻りましょう。著者が言う「自然主義」の典型例として、一夫一妻を保っているかのように見える鳥類の行動様式を人間の行動規範として理想化しようとすることがあげられる。「鴛夫婦」などという言い方をするしね。その考えが事実を反映していないことは、近年のDNA鑑定による親子判定ができるようになってから徐々に明らかになっていったらしい。結局、番い外交尾による子どもがかなりの割合を占めていることがわかってきたというわけ。擬人化して言えば、不倫でできた子どもがそれなりにいるというようなところなのでしょう。

 

著者によれば、かくして動物の行動をそのまま受け入れてヒトの行動規範とする考え方には問題がある。次のようにある。「男女の社会的政治的な平等を主張している自然科学者も社会科学者もフェミニストも、動物の行動を参照してヒトの行動を考えてしまう傾向がある。長い間、強い絆でペアが結ばれていると考えられてきた多くの鳥類で、ペア以外での交尾が普通に見られるという発見は、一般の人々だけでなく少なからぬ科学者にも大きなショックを与えた。我々は、一夫一妻であることについて改めて考えさせられただけでなく、心の奥底にある一夫一妻であることへの危うい気持ち、{心許/こころもと}なさに気がついた。我々はこういった動物の行動を人間のルールによって判断し、同時に「模範的な」動物たちを選んで人間の規範モデルとして見てきたのだ(117頁)」。「ショックを与えた」とはさすがに大げさに思えるけど、動物の行動を人間の規範モデルにするのは、まさに人間が人間中心主義的な観点から世界を見て、自分たちに都合のいいシーンだけをチェリーピッキングして「あの野蛮な動物ですら、こんなに模範的に振る舞っているんだぜ!」と妄想を膨らませているからなのだろうと思う。ところが、自然はそんな予定調和的で平和的、博愛的な世界ではなく、おイヌさまがおイヌさまを食べちゃう狡猾な世界なのですね。

 

あとはずっと飛んで「第W部 人新世――変化する共生」の「第18章 ヒトの進化とニッチ争奪戦」にある「家畜共生系」という言い方が興味深かった。ここでは「植物も動物も家畜化された」という節をまるまる抜き書きしましょう。「二〇〇万年も続いた狩猟採集の時代に起きた人類の進化に比べれば、農耕の始まりから現在までの一万年間に生じたヒトの進化はわずかなものだ。だが、この一万年は栽培植物、家畜動物、ヒトが密集して生活し、緊密な相互依存関係が進化した時代だ。栽培植物はヒトが世話しなければまともに生育できない作物に変わり、飼いならされた動物もヒトが与える飼料に依存する家畜に変わった。ヒトも形質が変わって作物や家畜なしでは生活できなくなった。この飼いならされた作物、家畜、ヒトが作る群集を「家畜共生系」と呼ぶことにしよう。さらに、この共生系には微生物も参加しており、発酵食品だけではなく、腸内細菌も重要な共生生物だ。¶この家畜共生系は、外部の生物にも大きな影響を与えることになった。(…)火を使った園耕が景観を変えた。灌漑は耕作可能地の分布を変えた。ヒトと家畜が出す残飯や廃棄物、糞尿は家畜以外の野生動物にとっては、宝の山といった魅力があり、多くの居候がやってきて、共生系を利用して繁栄した。イヌ、ネコ、ブタなどは共生系に入り込み、スズメ、ネズミ、カラスなどは片利共生生物として勝手に周辺に住みつく。これらの野生動物は、それぞれがノミ、ダニ、シラミ、蚊、病原菌、ウィルスなどの寄生生物を連れてくる。ヒト、作物、家畜、寄生生物のすべてが密集し、共進化しながら、共生系そのものが複雑化していったのだ(279〜80頁)」。まあ常識的と言えば常識的な記述ではあるけど、わかっちゃいながらこの事実を忘れている人も大勢いるだろうからここに取り上げた。『森林に何が起きているのか』などを取り上げたときに、ハリウッド映画『ジュラシック・パーク』に言及して述べたこともこれとまったく同じ。つまり、@われわれが普段言うところの「自然」とは、純然たる{生/なま}の自然を意味するのではなく、人の手が加わった自然であり、A生態系には人間も内在的なアクターとして包摂されているということね。

 

ということで、書下ろしでないだけにややまとまりを欠いた印象があり、「それがメインテーマとどう関係するのか?」を考えながら各章を読まなければならなかったけど、読んで損はないと言えるでしょう。

 

 

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※2023年8月16日