◎吉川賢『森林に何が起きているのか』(中公新書)

 

 

要するに、森林は複雑な生態系(つまり複雑系)をなしているから、それを乱すとやばいよということがさまざまな例を用いて説明されている。そのなかでも重要な点の一つは、ここでいう生態系には人間も含まれているということ。ともすると人間とそれ以外の地球環境を別個のもとしてとらえて前者が後者を利用しているかのように考えたくなるんだけど、そうではなく人間は現在の地球環境に包摂される一アクターとして作用するというのが実際のところ。つまり人間自身が地球環境という複雑系の現状態(アトラクター)を決定するパラメーターの一つをなしているってことね。

 

さっそく余談になるけど、『ジュラシック・パーク』シリーズの第一作のさまざまなシーンで、ジェフ・ゴールドブラム演じる数学者が、複雑系カオス理論を使って「ジュラシック・パーク」の危険性を説いていたよね。要するに複雑系に対する、人間を含めたさまざまなアクターの作用は、予測不可能な結果をもたらすってこと。ただあの映画から読み取るべきは、それよりも次の点だと思う。リチャード・アッテンボロー演ずる社長?を含めた「ジュラシック・パーク」のスタッフや科学者、というかジェフ・ゴールドブラム演ずる数学者以外の全員が、人間と「ジュラシック・パーク」という生態系を別個の存在としてとらえていて、前者が後者をコントロールしているはずだ、そして意図した、つまり特定の{界面/インターフェース}を通した操作のみが後者に影響を及ぼすのであり、それ以外は何をしても「ジュラシック・パーク」という生態系に影響を及ぼすことはないはずだと考えている。でも実際にはスタッフやビジターも「ジュラシック・パーク」という生態系に内在する一アクターであって、よって彼らがなすいかなる行為も「ジュラシック・パーク」という生態系に影響を及ぼしてその安定性を脅かす可能性がある。

 

いくら人間が活動する領域の周囲に電線を張り巡らせてそこに電気を流すことで、内(人間の領域)と外(恐竜の領域)を空間的に分離しようとしても、「ジュラシック・パーク」という生態系が一つであることに変わりはない。ゴールドブラム扮する数学者の言説で重要なのは、カオス理論の部分よりその点だと思う。概して言えば、近代科学の肝は、まさに人間の領域と生態系を分離して前者の領域から後者を支配できると考える点にある。しかし、そのような見方は根本的な誤りであると、この映画は言いたかったのでしょう。さすがに大げさになってきたのでこの映画に関してはこのあたりでやめるけど、『ジュラシック・パーク』のストーリーと本質的に似た例は、この中公新書本にもいくつかある(あとで引用する)。

 

余談はこれくらいにして元の話に戻りましょう。最近「人新世」って言葉がはやっているけど、この言葉はまさにこの「人間は現在の地球環境に包摂される一アクターとして作用する」ということを示唆している。ちなみに「人新世」が始まったのはいつか、二〇世紀なのか産業革命期なのかそれとも農耕や牧畜が始まったときなのかという議論があるけど、個人的にはこれからあげる例からもわかるように、程度の問題はあれ、本質的には農耕や牧畜が始まった時に「人新世」が始まったと見なすのが妥当であるように思える。

 

ところで地球環境に対する人間の影響は、プラスにもマイナスにも作用する。そもそも現在存在する生態系の多くは、熱帯雨林とかタイガとか一部の環境を除けばすべて人間が手を加えて成立しているのであって、その状態で安定している。ミシェル・セールだったか誰だったか忘れたけど、中国の風景を見てそこには人工性しか見られないと言った人がいた。あるいは日本の箱庭的な田園風景は自然そのものではなく、全体にわたって人の手が加わった人工的なものにすぎないことはあえて言うまでもない。しかし重要なのは、複雑系的な意味においてそれで安定しているってこと。その点を読み違えると、とんだ間違いを犯すことになる。

 

本書からいくつかその例をあげてみましょう。「モンゴルの首都ウランバートルの西八〇キロメートルにあるフスタイ国立公園の山頂付近に広がるカンバ林は、自然条件に加えて、住民の利用による火事で維持されていた森林である。しかし、国立公園になって牧民による利用が制限されて火事が起こらなくなったため、カンバが更新できなくなった。現在は老齢化で、ほとんど全山のカンバが枯死していっている(11頁)」。つまり人間の行動を含めて生態系の安定が保たれていたところに、その人間の行動を規制する措置を取ることで安定が崩れてしまう場合があるということ。

 

あるいは逆に開発途上国の発展を促そうとする善意によるものであれ、環境を変えようとすると悪影響が及ぶ場合もある。これも従来安定していたはずの生態系に手を加えることによって生じる問題だと言える。そのことを示す次のような例があげられている。「セネガルでは日本のボランティア団体がマンゴー園の造成を支援するにあたって、灌漑用に新しく深い井戸を準備した。農民は思いもよらない水源を得たことを喜んで、勤勉に働いて灌漑を続けたが、マンゴーの木が大きくなるころには地下水が枯渇し、マンゴー園は元の砂地に戻ってしまった。しかも、マンゴーが枯れそうになったとき、農民は生活用水までも灌漑に使ってしまった。支援が地域社会の持続性に与える影響は、地元民も支援者も予想がつかず、取り返しのつかない事態になってから、責任の押し付け合いがはじまる場合も少なくない(76〜7頁)」。

 

この例でも、もともと住民と自然環境の両方を含む生態系の安定がある程度保たれていたところへ、農業の生産性を高めるという善意に基づくものであったにせよ、日本のボランティア団体がやってきてその生態系の安定を破壊してしまった例だと言える。もう一つあげましょう。「シリア北部のユーフラテス川が流れるアレッポの周辺の乾燥地では、川の水や地下水を使ったワタの栽培が行われて、周りの草原では遊牧民がヒツジを飼っている。地中海性気候のために冬に雨が降り、夏は乾燥するので、秋の端境期には牧草が不足する。そんなとき、牧民は収穫が終わったワタ畑にヒツジを連れて行き、農民にお金を払ってワタの茎や葉を食べさせる。(…)ヒツジの糞は農地を肥沃にする。¶そんなワタ畑だが、積極的な灌漑が始まると状況は一変する。一応、過剰な灌漑を避けるために周囲の畝にヒマワリが植えられ、ヒマワリの花が下を向けば水が入れられてワタが元気になるように対策がなされている。しかし、そんな栽培も、続けていると次第に地面が真っ白な塩の層で覆われてしまう。除塩をして畑地を再生させるのは経済的に見合わないので、塩が集積してしまった農地は順次放棄されて、新しい農地が造られる。ヒマワリに縁飾りされた灌漑農地の後ろには、植物がほとんど育たなくなった塩類集積地が荒れ地として残されていく。牧草地としても使えなくなった荒れ地が増え、土地が不足すれば、農民と牧民のあいだで土地の奪い合いがはじまる(78〜9頁)」。

 

まさに農民と牧民と自然環境が一体となって安定した生態系が形成されていたところへ、灌漑という文明的な手法が持ち込まれてその安定が崩れ、農民と牧民と自然環境がバラバラになってしまったことを示している。ここで指摘すべきは、生態系の安定が崩れて困るのは人間であって、生態系自体は人間にとって壊れた状態を維持したまま泰然と続いていくということ。だからたとえば「人間による環境破壊から地球を守ろう」というスローガンは一種の偽善であって、「人間による環境破壊から人間を守ろう」というのがほんとうのところなんだよね。

 

さて当然ながら森林がテーマである以上、この新書本でも気候変動の問題が随所に取り上げられている。それに関してとりわけ重要なのが「第5章 これからの森林管理」で、第1節「気候変動対策への取り組み」、第2節「林業による温室効果ガス排出削減」において、森林保護という側面から気候変動対策をとらえている。ただここで注意しなければならないのは、森林の木を伐採しなければ森林は保護できるというわけではない点。むしろ話は逆で、森林を保護して二酸化炭素の固定を最大化するためには、樹齢に応じて木を伐採して新しい木を育てていく必要があり、それを可能にするためにも林業を健全な状態で運営していかなきゃならないということ。

 

細かいことは本書を読んでもらうとして、著者は次のように結論づけている。「したがって、樹木を伐採して利用する林業が森林を破壊していると短絡的に考えてはいけない。林業によって持続的に利用されている森林は、木材や木質繊維さらにエネルギーを収穫物として安定的に生み出しながら、気候変動への緩和機能を発揮するマルチなサービスを提供できる生態系である(195頁)」。

 

本書には書かれていないけど、かつて「割り箸があああああ!」と叫ぶ、表面的なエコ主義者がけっこういた(最近は事実が周知されてきたからかあまり見かけなくなったけどね)。でも、間伐材を使った割り箸製造は、森林の健全な生態系を保つための一つの手段として機能してきたんだよね。われわれが言う「自然」とは人間にとっての自然なのであり、『ジュラシック・パーク』を引用して述べたように、森林にせよ何にせよ、生態系には不可避的に人間の活動が内在していることを忘れてはならない。

 

林業に関して言えば、日本の林業の破綻は、この新書本によれば、「一九六〇年代に始まった燃料革命や化学肥料の普及(167頁)」や「一九六四年の木材輸入自由化(199頁)」も大きく関わっているらしい(里山はすでに江戸時代頃から崩壊していたとのことだけど)。TPPなどもそうだけど、輸入自由化って左右を問わず「世界は一つ」みたいな普遍主義的な思考を持つグローバリスト(か少なくとも広域的なブロック経済を推進しようとする人々)が擁護しているけど、それが気候変動というもう一つの普遍的(世界的)な問題を悪化させる結果に至っているというのはまさに皮肉としか言いようがない。どうしてそうなってしまうかというと、生態系とは地域的に成立し維持されるものであって(気候や植生が変化すれば生態系の構成も変わらざるを得ない)、地球全体で均質的なものではないから。そこへ世界レベルでの均一化を目指す自由化を無理やり当てはめれば、地域の生態系は無視され、結局崩壊してしまう。

 

個人的にはグローバリズムではなくインターナショナリズムを基本に考えるべきだと思っている。つまり地域の生活がまず優先されるべきであり(それによって地域の生態系も維持される)、気候変動などの世界的な問題は、そうやって固められた地盤の上で世界的に解決されるべきものだと思っている。さもなければ完全に逆効果になる。その典型的な例が、近年日本でも気候変動対策として導入されるようになった太陽光発電だと言える。結局メガソーラーの建設は、少なくとも現時点の技術では地元の生態系を破壊しているのであって、そうなるとここまで見てきたように気候変動対策としてすらかえってマイナスに作用している可能性がある。

 

最後にまとめると、この本を読んでわかる最大の教訓は、人間は生態系(この本の場合はもっぱら森林の生態系だけど)の外部にいてそれを自由に操作できるのではなく、まさにその内部にいて必然的にその安定性や変化に不可避的にかかわっているということ。

 

 

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※2023年4月28日