◎千々和泰明著『日米同盟の地政学』(新潮選書)
著者の本は以前『戦後日本の安全保障』(中公新書)を取り上げたことがあり、「ヘタレ翻訳者の読書記録」で同一著者の本を二回取り上げるのはお初になる。まあ21世紀に入ってから、とりわけウクライナ戦争が起こってからは、安全保障の問題が非常に重要になっているから、それに関係する新書本や選書本は見つけ次第買うことにしていることもある。『戦後日本の安全保障』を取り上げた頃は、まだ記事を短く書くよう心掛けていたからあまり内容を十分に紹介できていなかったので、今回はより詳しく取り上げることにする。
著者は「はじめに」で、本書のテーマの一つである「日本的視点」の問題を取り上げている。重要なので少し長く引用しましょう。「日米同盟は、同条約を中心として、様々な制度や法律などの仕組み、あるいは思考様式によって支えられている。¶一方こうした仕組みや思考様式は、日本側の「こうあってほしい」という願望や、国内政治上の都合によってかたちづくられている側面があるといえないだろうか。日本が欲しないアメリカの戦争に巻き込まれないようにしておきたい。日本によるアメリカへの軍事的な協力は最低限にとどめたい。日米同盟によって戦争を抑止することが第一なので、万が一抑止が破れたあとのことまでは考えない。¶このような日本側の願望や都合にもとづく視点を、本書では「日本的視点」と呼ぶ。¶日本的視点が生じるのには、主に二つの背景があると考えられる。¶第一に、「一国平和主義」である。一国平和主義とは、日本と日本以外のあいだで線引きができる、との前提に立ち、日本の責任と関与は前者のみに限定すべきだ、とする戦後日本独特の安全保障観である。たとえば、「日本が戦争に巻き込まれなければそれでいい」とする考え方がこれにあたる。¶第二に、「必要最小限論」という憲法解釈である。よく知られる通り、憲法第九条は「戦力」の不保持を規定している。その下で自衛隊のような実力を保持するためには、自衛隊が「戦力」でないといえなければならない。そこで、自衛隊は「自衛のための必要最小限の実力」であって「戦力」ではないため、憲法違反ではない、と公式に解釈されている。これが必要最小限論である。¶この解釈に従えば、自衛のための実力は保持できるとしても、必ずどこかで「ここより内側が必要最小限」という「一線」を引かなければならないことになる。典型的なのは、国際法上認められる自衛権のうち、自国への攻撃に対する自衛権である「個別的自衛権」と、自国と密接な関係にある他国への攻撃に対する自衛権である「集団的自衛権」のちがいを、「必要最小限」という概念とひもづけ、集団的自衛権の行使は必要最小限を超えるので憲法違反とみなす解釈である。¶だがこうした背景から生じる日本的視点は、必ずしも安全保障の現実に整合しているとは限らない(9〜10頁)」。最後に「必ずしも安全保障の現実に整合しているとは限らない」とあるけど、本書全体の主旨からすれば、実際には「安全保障の現実に整合していない」と言い切りたかったんだろうと思う。まあちょっと現在の日本の世論にスーザン・ソンタクしたところがあるのでしょうね。
また著者は「一国平和主義」としているけど、私めは、特に日本の左派に見られる考えは「一国平和主義」ですらなく、世界の第三者的視点から見ればもっとも嫌われる「フリーライダー主義」だと思っている。なおフリーライダー主義については『自衛隊海外派遣』(ちくま新書)や『在日米軍基地』(中公新書)を取り上げたときに述べたのでそちらを参照されたい。日本が第二次世界大戦の際にアジアを荒らし回ったのは事実としても、戦後その反省からアジアの防衛から身を引いて一国平和主義やフリーライダー主義を貫くようになったのは、どう考えてもおかしいと個人的には思っている。アジアを荒らし回ったのを反省したのなら、今度はアジアの防衛、つまり平和の維持に貢献するよう振る舞うのが本筋のはずだからね。ところが、日本が第二次世界大戦でやらかした侵略戦争と防衛戦争を一緒くたにして、少しでも軍備を強化しようとすれば、「また日本は他国を侵略する気だぜ」みたいな、まったく根拠のないおかしな論理を持ち出して、それに反対する人々が必ず出て来る。そもそもいったい日本がどこの国を何の目的で侵略すると言うのだろうか? 軍事大国のアメリカでさえ、小国アフガニスタンに20年間居座ったあと、ベトナム戦争時のサイゴン陥落にたとえられるほどのひどい慌て方で撤退しなければならなくなったというのに、いったい日本がどの国に何の目的で侵略しようとしているのかぜひ教えてほしいものじゃ。それに答えられなければ、日本はまた他国を侵略するつもりだなどという言説は戯言に過ぎないと言わざるを得ない。確かにアメリカとソ連の冷戦によって奇妙な平和が世界を支配していた20世紀においては一国平和主義でも通用したのかもしれないが、21世紀になって世界がきわめて流動的になった、ましてや中国が軍拡を続け、北朝鮮がミサイル実験をしまくり、ロシアがウクライナを侵略するようになったにもかかわらず、一国平和主義をいつまでも維持し続けるのは逆にアジア全体の迷惑にしかならない。そこで著者が提示するのは「第三者的視点」で、次のようにある。「そこで、日米同盟の抑止力を高め、平和を維持するために、「第三者的視点」を取り入れる必要がある。¶日本的視点が、日本側の願望や都合に依拠するものであるのに対し、第三者的視点とは、日本以外の国ぐにの見方も踏まえつつ、現状を歴史的背景あるいは地域全体のなかに置いて{俯瞰/ふかん}する見方である。(…)本書は、日本的視点でかたちづくられ、あるいは評価されてきた日米同盟をめぐる仕組みや思考様式を、第三者的視点から点検していくものである。八目先まで見通すことは容易ではないが、それでも日本的視点と安全保障の現実とのギャップをあぶり出し、そのようなギャップを埋めていく努力に寄与することを目的としない(11〜2頁)」。
ということで本論に参りましょう。まずは「第1章 基地使用」から。最初に日米安保条約について次のように説明している。「通常、同盟といえば、相互防衛を内容とするイメージがある。お互いにお互いを守り合う、いうなれば「人と人との協力」というかたちをとるのが普通だろう。ところが日米安保条約では、日本側の「物」が交換対象になっている。それだけ日米同盟における基地使用の比重が大きいということである。¶ところが、ここで見落としてはならないことがある。それは、アメリカ軍は日本から提供を受けた基地を、日本防衛のためのみならず、「極東」有事でも使用することができるという点だ。極東有事とは、日本に対する武力攻撃、つまり日本有事は発生していないが、極東、たとえば韓国において、北朝鮮による武力攻撃が発生した場合などを指す。このことを定めているのが日米安保条約の「極東条項」である(24〜5頁)」。さらに「事前協議」やその抜け穴である「密約」の話が出て来るけど、『在日米軍基地』を取り上げたときにもそれに関して引用したのでそちらを参照されたい。次に著者は「極東条項」や「事前協議」が盛り込まれた、さらには「密約」が交わされたことに対する第三者的視点から見た歴史的背景を次のように説明している。「実は日本を含む極東には、歴史的に形成された地域秩序が存在している。それは、東アジアにおける伝統的な覇権国である中国が弱体、あるいは自制的であることを前提に、日本と、日本にとって地政学上重要な朝鮮(少なくともその南部)、そして台湾が、パワーの裏づけによって同一陣営にグリップ(関係維持)されているという秩序だ。¶このような地域秩序を、本書では「極東一九〇五年体制」と呼ぶ。一九〇五年に、アメリカ、イギリス、そして日露戦争(一九〇四〜〇五年)の講和条約であるポーツマス条約締結によってロシアからも承認された、国際的な枠組みに由来する地域秩序の在り方だからである。¶実は「極東一九〇五年体制」は、第二次世界大戦後も維持された。ただし秩序維持のパワーの裏づけは、日本帝国の覇権から、アメリカによる極東防衛コミットメント(関与)へと変化した。(…)そしてアメリカによる極東防衛コミットメントの土台となるのが、アジア太平洋に張りめぐらされたアメリカの同盟網のうち、日本と韓国を相手方とする同盟のまとまりであり(…)日米同盟と米韓同盟は密接な関係を持つ(26頁)」。つまり、極東全体という広いパースペクティブから日米同盟はとらえられるべきだということ。
その後、その歴史的推移が詳しく述べられているけど、それについては皆さんで読んでくださいませませ。ただ二点だけ取り上げておく。一つは日米同盟と米韓同盟について述べた箇所で、次のようにある。「日米同盟結成の重要な契機は、朝鮮戦争を戦うアメリカが、韓国防衛のための日本の基地の決定的な意味を痛感したことにある。ではなぜアメリカはそもそも朝鮮戦争に介入したのか。韓国防衛が日本の安全に直結すると判断したからである。そしてアメリカの韓国防衛コミットメントは、米韓同盟につながっていく。¶日米同盟と米韓同盟は、お互いに支えあっている。そして本章が焦点としている日米安保条約の極東条項こそが、この関係性を制度的に担保したものなのである(50〜1頁)」。もう一つは次の指摘で、この点をよく理解していない人は多い。「日本に駐留するアメリカ軍は、日米安保条約にもとづく在日米軍であると同時に、朝鮮戦争に国連軍として介入した経緯から、日本と国連軍地位協定(一九五四年二月一九日署名)にもとづく在日国連軍という属性も持っている(52頁)」。ここでは朝鮮戦争時に限られているように読めるけど、実は現在でも日本の在日米軍基地は、国連軍基地でもあり、たとえば沖縄の嘉手納飛行場、ホワイトビーチ地区、普天間飛行場は国連軍基地でもある。そのあたりの経緯は先にあげた『在日米軍基地』に詳しいので是非読まれたい。ということで選書本の著者は、第三者的視点に立って見た基地問題のまとめとして次のように述べている。「しかしここで第三者的視点に立つと、景色が変わって見えてくる。日本の安全は「極東一九〇五年体制」という地域秩序のなかで守られている。ここ一〇〇年以上続く、実はもはや伝統的ともいえる秩序の在り方である。¶この秩序の土台となっているのが、「米日・米韓両同盟」という安全保障システムである。日米同盟もそのなかの一機能なのだ。なぜ日本が極東有事の際にアメリカ軍が自国の基地を使用することを許すのか、ではなく、日本が極東有事におけるアメリカ軍の基地使用を許すことで、「米日・米韓両同盟」という安全保障システムが有効に機能し、結果的に「極東一九〇五年体制」が維持されるのである。(…)いずれにせよ、基地使用の分野において重要なのは、日本的視点に立ち、日本が極東有事に巻き込まれないようにいかに在日米軍の行動を制約するか、ではない。「極東一九〇五年体制」の維持という戦略的・地政学的視点から、日本単独有事か極東有事かを問わず、アメリカ軍による日本の基地の使用を実効的なものとするために、平素から日米両国が調整・協力をおこなっていくことである(65〜6頁)」。先に述べたように、「アメリカ軍」とあるところは同時に「国連軍」でもあることを念頭に置く必要がある。第二次世界大戦時には、日本は自ら率先してアジアを荒らしまくったわけだけど、今や木を見て森を見ようとしないきわめて妄想的な、一部の日本人による一国平和主義は、自ら消極的に引き籠ることでアジア(当然それには日本自身も含まれる)の安全保障を脅かしているとも言える。要するにベクトルは逆でも、戦前戦中においても現代においても「日本的視点」に拘泥している人々が不作為によってアジアの安全保障を危うくし続けているのですね。しかもそれに気づいていないという。
次は「第2章 部隊運用」だけど、章題からもわかるように、この章では、自衛隊と米軍のあいだにおける指揮権の問題など、かなり細かな事象が扱われているので基本的にスキップすることにする。ただし、次の箇所は引用しておく。「同じアメリカ人司令官が、ある時は極東軍司令官の帽子をかぶり指揮権密約にもとづいて自衛隊と在日米軍たる極東軍を指揮し、ある時は国連軍司令官の帽子をかぶって国連軍と韓国軍を指揮することになる。だがとどのつまりは同一人物なのだから、自衛隊、極東軍、国連軍、さらには韓国軍までもが、このアメリカ人司令官の一元的な指揮の下で事実上一体化することになる(図2―5)。¶ここで前章の議論を思い出していただきたい。前章で論じたのは、日米同盟は単なる日米「二国間」同盟であることを超えて、「極東一九〇五年体制」という近代以降の地域秩序を支える、「米日・米韓両同盟」の一機能でもある、という第三者的視点についてであった。これは基地使用の観点からの議論だが、実は部隊運用の分野でも、日米同盟と米韓同盟(…)は事実上の「米日・米韓両連合司令官」の指揮権を通じて、連結しうる関係にあったのだ(94〜5頁)」。本を持っている人は、図2―5を見ながら読むことをお勧めする。
ということで次の「第3章 事態対処」に参りましょう。まず章の扉にある「国会前でおこなわれた安保法案反対デモ。2015年8月30日」と題する写真をご覧になられたい。そこには、国会前に集まって「戦争させない」、あるいは「9条壊すな!」などといったプラカードを掲げている活動家が写っている。こういう写真を見ていて、「この手の人々って自分たちが掲げているスローガン自身が論理的に矛盾をきたしていることになぜ気づかないんだろう?」といつも思ってしまう。まず「戦争させない」とは、ロシアや中国や北朝鮮に対してそう言っているのではなく(それらの国に対して言っているのならわかる)、日本に対して言っているのは火を見るより明らか。しかも平和安全法制に反対しているのだから、「戦争させない」とは侵略戦争のみならず防衛戦争もさせないと言っていると思われる。今回のウクライナ戦争を見ればわかるように、ロシアのような専制国家は、問答無用でいきなり他国を侵略してくるのですね。第二次世界大戦時の日本やドイツの侵略も、周辺国の民間人からすれば晴天の霹靂のように攻めて来られたように見えたはず。日本もかつては当事者だったんだから、そんなことはよくわかっているはずだよね。なのに防衛戦争すら認めないのなら、「戦争させない」というスローガンは、ロシアや中国(北朝鮮にはミサイルは撃っても日本を侵略するほどの軍事力、経済力はないと思う)が実際侵略してきたら日本は無条件降伏しろと言っているのに等しい。思想の左右に関係なく、ウクライナに対してその手の主張を繰り返していた自称知識人はかなりいた。ちなみに防衛戦争すら認めないのなら、かつて中国が軍国日本に対して行なった防衛戦争も認められないことになるが、ほんとうにそう考えているのだろうか。
ではロシアや中国のような専制国家や、かつての日本のような軍国主義国家に降伏したらどうなるか? まさか9条を含む現行憲法を維持させてくれるとは思っていないよね? それどころか、徴兵されて侵略の先兵にされるのがオチであることは歴史を見てもわかる。だからよく考えてみれば「戦争させない」と「9条壊すな!」というプラカードの文言は互いに矛盾することがわかるはずだが、なぜその程度のことにすら気づかないのか? その理由の一つは、本書の用語を用いれば彼らが「日本的視点」でしかものごとを見ていないから、つまりまさにブリンカーをした競走馬のように木を見て森を見ていないからなのですね。そもそもなぜ次の戦争も日本が起こすと前提しているのだろうか? なぜ軍拡を進める中国や、実際に侵略戦争を始めたロシアや、核ミサイル実験をしまくっている北朝鮮が起こすとは考えないのか? 要は日本的視点からしか見ていないから、現実の状況にまったくそぐわない考えが飛び出してくる。それどころか、そのせいで専制国家に有利な状況を作り、アジア全体の平和を危機に陥れる結果になることにさえ気づいていない。そして結果的に、かつての軍国日本と同じことをしている。ただかつては日本が積極的に他国を侵略したのに対し、今度は他の専制国家による他国の侵略を容易にするという消極的な態度を取ることによってという違いはあるとしても。犯罪的な無知蒙昧、あるいは想像力の欠如とさえ言えるかもしれない。この件は、イデオロギーに絡み取られると、いかに直観のみならず、論理的な思考さえ曇らされるかを裏づける証拠の一つと見なせると思う。『スピノザ』(講談社現代新書)によれば、スピノザは知のあり方を「想像知」「理性知」「直感知」に分け、後二者を前一者に対置していたらしい。イデオロギーはスピノザの言う「想像知」に該当すると思われ、それに踊らされると「理性知」や「直感知」が曇らされるのですね。確かに奇妙な平和が続いた冷戦中は、日本的視点から見ていても大過なく済ませられたのかもしれないとしても、戦争やテロが頻発する帝国主義時代に戻ったかのような21世紀にあってはそれでは通用しない。この手の人々の思考様式は私めにはまったく理解できん。こういう主旨のことを言うと「お前は戦争を肯定するのか!」とか言われそうだけど、一部の極左、極右勢力を除けば戦争をしたいと思っている人などまずいないのであり、ただ、いかに戦争を避けるかという点で決定的に考え方が違うのですね。平和安全法制が実際に潰されると、有事になれば、本書で言うところの「一九〇五年体制」による東アジアの安全保障がまともに機能せず、結局日本も大きな損害を受ける結果になるのは必定だからね。日本一国だけを考えるのではなく、同盟的関係にある国々、さらには日本と敵対する国々まで考慮に入れない限り、平和は保てないというのが私めの考え。特に安全保障を考える際には、理想主義的なイデオロギーに依拠するのはきわめて危険で、現実の推移を見極める必要がある。
ここまでは扉の写真を見ての個人的な感想だけど、ここからは選書本に沿って見ていきましょう。まず著者によれば、「有事」には、「日本にとっての深刻度が高まると考えられる順番で並べてみると、「国際平和共同対処事態」、「極東有事」(六条事態)、「重要影響事態」、「存立危機事態」・「武力攻撃事態」(「五条事態」)といった類型がある(110頁)」のだそうな。「国際平和共同対処事態」とは、「「国際社会の平和及び安全を脅かす事態」であって、国際社会がその脅威を除去するために国連憲章の目的に従って共同して対処する活動をおこない、かつ日本が国際社会の一員として主体的・積極的に寄与する必要があるものを指す(110〜1頁)」。たとえば対テロ特措法やイラク特措法のような時限立法による協力支援がそれに該当するということらしい。そして次のようにある。「国際平和共同対処事態という事態概念の創出は、国際平和支援をこうした時限立法によらず、恒常化するために、二〇一五年九月の平和安全法制整備の際になされた(111〜2頁)」。
「極東有事」は、ここまで述べたように朝鮮戦争当時から議論の対象になっていた。次のようにある。「第1章でも見たように、日米安保条約第六条は、アメリカ軍が日本の基地を、日本防衛のためだけでなく、「極東における国際の平和及び安全の維持に寄与」するために使用することを認めている(極東条項)。ここで言う極東とは、一九六〇年二月の日本政府統一見解によれば「大体において、フィリピン以北並びに日本及びその周辺の地域」であり、「韓国及び中華民国の支配下にある地域(台湾)もこれに含まれている」とされる(114頁)」。ところが「極東有事」に対しては、「日本が「自国と直接関係ない武力紛争の渦中に巻き込まれ」る危険がある(114頁)」という懸念が出され、「事前協議」が取り決められた。個人的には、ある時点で「自国と直接関係ない武力紛争」だと思われたものが、のちになって「自国と大いに関係ある」武力闘争に発展することもあるはずなのにそれをどう線引きするのだろうかと思わざるを得ない。極東の利害は経済面を含めて各国の思惑が複雑に絡んでいるのであり、ある時点で日本に直接関係のない武力闘争であっても、近い将来大きな影響が日本に及ぶことは十分にありうる。しかもそれに気づいた時点では遅すぎるかもしれない。たとえば中国が台湾に武力侵攻したとする。もし仮にそれによって台湾が中共の手に落ちれば、日本のシーレーンは分断される。要するにタンカーなどの船舶は大回りを強いられ、輸送費が高くつくようになるから燃料価格が大幅に上がり、日本国内の物流にも影響が出て今以上に物価が高騰する結果を招く。のみならず中国は、戦闘状態にはない今でも尖閣に毎日のようにちょっかいを出しているのだから、中国が実際に台湾侵攻に着手すれば、沖縄周辺の日本の水域も戦場になることは十分に考えられる。ちなみに私めは、武力侵攻のようなあからさまな手段を取るほど習近平はアホではなかろうとは思っているとはいえ、この選書本にも「中国の習近平国家主席は二〇二二年一〇月一六日に開かれた中国共産党大会で、台湾統一のために「決して武力行使を放棄せずあらゆる必要な措置をとるという選択肢を残す」との強硬姿勢を示した(68頁)」とあるので、中国による台湾の武力侵攻など絶対にあり得ないとは言い切れない。
そのような線引きのむずかしさに関しては著者も当然指摘していて、次のようにある。「たしかに、日本と日本以外のあいだで線引きをし、日本以外での紛争に巻き込まれないようにすることを重視する一国平和主義的な視点に立てば、極東有事における在日米軍の直接戦闘作戦行動に対して事前協議で制約を課す手続きには意味があるだろう。また、事前協議の結果、在日米軍が当該極東有事で直接戦闘作戦行動をとることを日本が仮に認めることになったとしても、ここで日本はそのようなアメリカ軍の行動を黙認しているだけであって、日本自身が直接参戦するわけではない。おかげで日本は当該戦争に巻き込まれずにすむ。これで一安心だ。(…)しかし、極東有事で在日米軍が直接戦闘作戦行動をとる場合、日本はそのようなアメリカ軍の行動を黙認するだけであって、日本自身が直接参戦するわけではないのだから、戦争に巻き込まれずにすむ、と本当にいえるだろうか(115頁)」。「巻き込まれずにすむ」と考えるのなら、それは「日本的視点」でしかものごとを考えていないからだと言える。重要なのは、国際情勢においては日本がどう考えているかではなく、「第三者」、というかこの場合は中国やロシアや北朝鮮のような専制国家から見て、日本の行動がどう見えるのか、つまり他国の認識が重要なのですね。たとえばいくら「基地使用を認めてアメリカ軍の行動を黙認しただけなんだから、習近平さんどうか許して許して!」と日本が言ったところで、習近平の目からすればアメリカともども日本が参戦したように見えるに決まっている。著者も次のように述べている。「日本はただアメリカ軍の行動を黙認しているだけだ、というのは、日本側の勝手な言い分にすぎない。当該極東有事において、日本は現実にアメリカ軍による直接戦闘作戦行動のために便宜供与をおこなっている。日本が何と言いつくろおうとも、アメリカ軍の攻撃を受ける相手側、たとえば前述の例では北朝鮮は、日本のことを、当該有事におけるれっきとしたアメリカ側参戦国とみなす可能性があると見るのが自然ではないだろうか(118頁)」。「可能性がある」どころか普通はそう見なすと思う。至って単純なことなのにそれがわからないのは、「日本的視点」でつねにものごとを見ているからだと言える。要するに事前協議など設けても、とりわけ他国が日本周辺の国に侵略してきたために米軍が出動する場合にはあまり意味はないということ。意味があるとすればアメリカが自国の利益のために勝手に日本周辺の国に侵略した場合だろうけど、その場合、事前協議があろうがなかろうが、日米安保条約は相互{防衛/傍点}条約なんだから、単に同盟国だからと言ってアメリカに協力する必要などそもそもないのではないか。同じことは、その他の相互、あるいは集団安全保障条約にも言える。だから「アメリカの戦争に巻き込まれる」という言い方は正確ではなく、本来「アメリカの(同盟国に対するものも含めた)防衛戦争に巻き込まれる」と言うべきなのですね。
次は「重要影響事態」。重要影響事態とは、「そのまま放置すれば我が国に対する直接の武力攻撃に至るおそれのある事態等我が国の平和及び安全に重要な影響を与える事態(120頁)」を指すとのこと。おそらく場所は極東に限られているわけではないのでしょう。ただし「重要影響事態法では、自衛隊が活動できる地域は、「(他国により)現に戦闘行為が行われている現場」ではない場所に限定されている(125頁)」のだそう。このような見方の問題は、次の点にあると著者は主張する。「重要影響事態における自衛隊によるアメリカ軍などへの後方支援は、「現に戦闘行為を行っている現場ではない場所」でしか実施していないので、そのような自衛隊の活動はアメリカ軍による武力行使とは「一体化」しておらず、したがって自衛隊は相手側からの攻撃対象ではない。このような理屈は、極東有事と事前協議の関係の場合と同じように、日本が、自分たちの国内法や自国の議会・国民向けに説明してきた憲法解釈や思考様式にすぎない。つまり日本的視点である(127頁)」。まあはっきり言えば、有事のときにそんな屁理屈が他国に通じると思っているほうが、非現実的でおかしいのですね。
最後は「存立危機事態」・「武力攻撃事態」だけど、これは次のような状況を指すらしい。「重要影響事態とは異なり、自衛隊が自衛のために武力を行使することを許されるのが、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」(存立危機状態)、および日本に対する武力攻撃が発生した事態(武力攻撃事態)である(128頁)」。そしてそれが国際法(国連憲章)に則ったものであることを示す次の常識的だけど重要な指摘に留意しましょう。「存立危機事態や武力攻撃事態という類型は、国際法上の自衛権概念と平仄を合わせて設定されている。国連憲章第五一条が明記しているように、国際法上、自衛権には二種類ある。一つは、自国への攻撃に対する自衛権を指す個別的自衛権である。もう一つが、自国と密接な関係にある他国への攻撃に対する自衛権で、これが集団自衛権である。¶存立危機事態が認定されると、国際法にのっとった集団的自衛権の発動として、自衛隊は自衛のための武力行使が許される。武力攻撃事態が認定された場合には、やはり国際法上の個別的自衛権の行使として、同じく武力の行使が認められる(129頁)」。集団的自衛権に反対する人って、ならばどうやって他国の侵略を防ぐつもりなのだろうかといつも思ってしまう。まさかNATOに参加していないスイスのごとく国民皆兵制を敷き各家庭にシェルターを設置するなどして武装中立国になるべきとか、あるいは単純に核武装すべきとか考えているわけではないんだよね? ならば、ただちに降伏するつもりなの? その場合は、前述したように9条どころの話ではなくなるけど、それでもいいの? あるいは「対話、対話、対話!」という得意の主張をするのかもだけど、専制国家が対話に応じるとでも思っているのだろうか? そう主張する人々は、彼らの支持する政治家たちがプーチンや習近平や金正恩を説得できると思っているのかな? 独裁者は独裁者のアジェンダに従って行動しているのだから(たとえばプーチンは大ロシア主義やソ連の再興)、彼らの主張を認めるのでない限り対話など成り立たないはず。
それどころか専制国家の独裁者でなくとも、悪辣度は下がるとはいえ、その点では思考様式が似たりよったりなのですね。最近読んだ『ケネディという名の神話』(中公選書)に次のようなくだりがあった。「冷戦交渉は和戦両面でというわけだが、現実には矢が先だった。オリーブの枝[平和の象徴]は、十分な力を構築し、その効果的な活用によって冷戦を有利に展開したうえで、差し出すべきものだった。ケネディの尊敬するウィンストン・チャーチル元英首相のいう「話し合うために武装する」姿勢である(同書105〜6頁)」。自由主義陣営にいたチャーチルやケネディでさえそう考えていたわけ。要するに話し合いを自分に有利に進めるために武装するというのが現実の国際政治の考え方であって、そもそも話し合いは最初から前提になっている。そんなやり方は許されないと言ったところで、そういう考えで現実の国際政治が動いていることにいっこうに変わりはない。私めは習近平でさえ、話し合いを有利に進めるために軍拡をしているのだろうと一応思っている(だから簡単には台湾に武力侵攻することはないだろうとも思っているわけ)。それに対処するために、「対話、対話、対話」と叫んでみたところで、現実性がまったくなく糠に釘と言わざるを得ない。それどころか、そう主張すればするほど、それだけ力、つまり武力のある国に篭絡され、対話をしたところでいいように扱われやすくなると言ったほうがよい。要するに第二次世界大戦直前の英国首相ネヴィル・チェンバレンのようになるだけだよってことね。だいたい国際条約を平気で破る国は、どんな約束を取りつけようがまったく信用できないしね。正確にはロシアではないけど、日ソ戦争当時のソ連を見てみればそのことはよくわかるはず。日ソ戦争の経緯や、日本がいかにソ連の意図を誤解して悲惨な結果を招いたかについては、歴史的事実の記述がほとんどだったので「ヘタレ翻訳者の読書記録」には取り上げなかったけど、最近読んだ『日ソ戦争』(中公新書)に詳しいので、ぜひ読んでみてみて。
次に選書本の著者は、集団的自衛権に反対する集団的自衛権行使違憲論が登場した歴史的経緯を説明している。その起源は、究極的には一九五四年六月三日の下田武三外務省条約局長答弁に見出せるとのことだが、それには時代背景があるらしい。次のようにある。「この答弁のわずか六日後、防衛庁設置法と自衛隊法が公布された。集団的自衛権行使違憲論の淵源となる論理は、自衛隊発足とともに生まれたということになる。そして自衛隊の合憲性は、これと同じ年に採用された憲法解釈である必要最小限論によって確保されることになった。このことは偶然ではないだろう。¶当時の政府側には、新たに誕生する自衛隊の合憲性を確保するという喫緊の課題があり、そのためには合憲性の根拠となる「必要最小限」という概念の判断基準を明確化する必要があった。そこで必要最小限という概念は、国際法上自衛権には二種類ある、という事実とひもづけられることになった。¶つまり、個別的自衛権のみを行使する自衛隊は、自衛のための必要最小限の実力組織だから合憲だ、と言いたかったわけである。集団的自衛権はそのための「捨て石」なのだ。集団的自衛権行使違憲論とは、このような論理を成り立たせるためのいわば「手品」である。(…)そうした一九五〇年代特有の事情に端を発しながら、次第に経緯が忘れ去られていき、集団的自衛権行使違憲論そのものに命が宿るようになったといえるだろう(131〜2頁)」。これに対する著者の見解は次のようなものになる。「このような主張は、集団的自衛権の行使が「憲法」違反かどうかをめぐる議論という以前に、主権国家に集団的自衛権を自衛権として認めている「国際法」に対する批判になってしまっている。こうしたとりちがえが、集団的自衛権をめぐる議論を混乱させている。必要最小限論の採用とそれにもとづく自衛隊の合憲性の確保の代償といえよう(134頁)」。てか、こんな70年も前に起源がある議論を繰り返しているうちに、独裁国はこれ幸いとこのモタモタを逆手に取ってくるだろうね。個人的には、21世紀の現代になっても、次に侵略戦争を始めるのはまたしても日本だというまったく根拠のない考えに基づく言説が左派メディアなどを通じてつねに拡散され、依然としてそれを鵜呑みにする人々が大勢いることが問題なのだと思っている。つまり、防衛戦争という視点がまったくどこかにすっ飛んでいる、いやそれどころか防衛戦争に侵略戦争の意味をこっそりと忍び込ませて防衛戦争すら認めないという風潮になっているのは、独裁国が暗躍する21世紀においては、非常にヤバいと思う。
それから「アメリカは自動参戦しない」という項に書かれていることは、知っている人は知っているとしても知らない人もそれなりにいるかもしれないので引用しておきましょう。次のようにある。「日米安保条約五条事態にあたる武力攻撃事態においてさえ、アメリカが自動参戦するわけではないことに注意が必要である。安保条約第五条は、日米両国が共通の危険に対処するように行動する場合に、「自国の憲法上の規定及び手続」に従うとしており、自動参戦義務を課すものとはなっていないからだ。¶たしかにアメリカが日本や極東防衛のために軍事介入をおこなううえで議会の承認が必須とまではいえず、憲法上はアメリカ軍の最高司令官である大統領が決断できる。だがアメリカはオバマ政権以来、「世界の警察官」の座から降りるとしており、対外関与を後退させている長期的趨勢がある(137頁)」。またそれに関して次のようにある。「これまで日本はアメリカの軍事的関与がなされることを前提として、在日米軍の行動に制約をかけたり、アメリカ軍などの武力行使との「一体化」を回避したり、あるいは自衛権発動の要件を極端に厳格化したりして「巻き込まれ」を防止することに腐心してきた。だがそうした前提自体が当たり前のものではないことを、日米安保条約第五条を再読して確かめる必要がある(139頁)」。と著者がおっしゃられているので、参考のために日米安保条約第五条の内容をコピペしておきましょうね。「第五条 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない」。次の大統領選挙は、国境をユルユルにして不法移民の流入を阻止しようとせず、不法移民のたまり場になったニューヨーク市の市長アダムズ氏など民主党内からすら批判が上がっているうえに、そもそもいつ倒れるかわからん認知症疑惑ありのバイデンよりは、トランプのほうがマシだと考えている口だけど、トランプだと一つ問題になるのが、「自分の国は自分で守れ! 何なら自分たちで核武装してもいいんだぜ!」とか言い出しそうなことなのよね。まあ「自分の国は自分で守れ!」は正論なんだけど、とどのつまり戦後の日本の政治や世論がそれを不可能にしてきたから、そう言われてしまうと日本はとってもとっても困ったちゃんになってしまう。確かにアメリカさんも第二次世界大戦が終わった直後は、日本が再び軍事大国化するとヤバいと思って、例のGHQによる日本国憲法草案を作ったんだろうが、まさかここまで日本が骨抜きのフニャフニャになって、逆に中国が軍事大国化するとは夢にも思っていなかったんだろうね。中国の軍事大国化を予測できなかった点に関しては無理のないところもある。何しろ、私めがガキンチョだった1960年代においてさえ、中国と言えば「いったいどこの田舎のことか?」って感じだったしね。
次の「第4章 出口戦略」は、章題通り予想される極東における紛争の出口戦略はいかなるものになりそうかが記されていて内容が少し特殊なので、「出口戦略は「将来の危険」と「現在の犠牲」という二つのパラメーターが、それぞれどの程度になるか、あるいはなると予想されるかによって変わってくる」という点だけ述べて、あとはスキップする。
「第5章 拡大抑止」は、集団的自衛権などよりもさらに議論が紛糾しがちになる核抑止の問題が取り上げられている。誤解している人はあまりいないと思うけど、「核抑止」とは何かについてまず説明しておきましょうね。次のようにある。「核を持っている相手に対し核を撃てば、相手から核を撃ち返されるので、そもそもはじめから核を撃てない。そう相手に信じさせることによって、核を撃たせないようにする。これが核抑止という考え方である。冷戦時代からの二大核大国であるアメリカとソ連(ロシア)の関係では、たとえ相手から核攻撃を受けたとしても、自国の核戦力を残存させて相手に確実に報復できる能力をお互いに持っているので、どちらか一方による最初の核攻撃は、結局お互いを確実に破壊し尽くす結果になる。これを「相互確証破壊」という。相互確証破壊がなされた時は自国にも壊滅的な被害が生じるが、そうなると分かっていて核攻撃をしかけてくる愚か者はいない(と普通は考えられる)ので、最終的に相互確証破壊を担保することによって、逆説的に核戦争ができない状態がつくられているのである。このように、合理的に考えて核戦争ができない状態のことを、「戦略的安定」という。戦略的安定を維持することが、核抑止の目的である(175頁)」。早い話が「核抑止論」とは「核配備論」を意味することになる。これは相手が自国をどう認識するかという「第三者的視点」を要求する考え方なので、「日本的視点」に立ってしかものごとを見られない人の目には、とんでもない考えにしか映らないのかもしれない。しかし現実の国際政治では、それがデフォなのですね。ちなみにそのような核抑止論者の一人にサッチャーさんがいた。だから彼女がお星さまになったときに、普段は核武装という言葉を聞いただけで全身がさぶいぼだらけになるような人々が、「彼女を尊敬していました」などとツイしているのを多数見かけて驚いたことを今でもよく覚えている(女性が多かったけどね)。もちろん死馬をタコ殴りする必要はないとはいえ、退役した空母を復活させて地球の裏側まで送ったり、新自由主義者であったり、国民に一律人頭税を課したりしただけでなく、きわめつけは核抑止論者でもあった、尊敬しちゃうツイをしていた人々とはまったく逆の政治信条を抱いていた彼女に対して、「ご愁傷様」程度ではなく「尊敬していた」などといった主旨のツイを堂々としているのを見て、「いったいこの人たち、どないな頭の構造をしてまんねん」と思ったというわけ。
それは余談として、ここでもう一つ拡大抑止の概念について説明しておきましょう。次のようにある。「核抑止にも色々なタイプがあるのだが、「誰を守るか」という点で見ると二つのタイプがある。一つは、核保有国が、自国を守るために核で相手を抑止することであり、これを「基本抑止」という。そしてもう一つ、核保有国が、自国を守るためだけではなく、同盟国を守るために核で抑止するのが拡大抑止である。(…)核保有国の同盟国は、自国が核を持たなくても、同盟国から拡大抑止を提供してもらえるのであれば、非核政策をとることができるだろう。¶拡大抑止のことを「核の傘」ともいう(175〜6頁)」。よく9条が日本の平和を守ってきたと主張する人がいるけど、百歩譲って日本が侵略戦争を仕掛けるという意味ではそう言えたとしても、防衛戦争に関してはその見立てはとても正しいとは思えない。だって日本国憲法に束縛されていない専制国家が仕掛けてくる侵略戦争を9条で防げるわけがないしね。それとも9条を高々と掲げれば、水戸黄門の印籠を見せられた悪代官のごとく、独裁者が「ハハァー、参りました。そんな崇高なものが存在する国を侵略しようとしたわれわれがバカだった」と思うとでも考えているのだろうか? これも、その手の人々が侵略戦争と防衛戦争を一緒くたにしていることを示す典型例の一つになる。ではなぜ戦後の日本は平和が保てたのか? 個人的には、1990年代初頭までは東西冷戦のおかげで奇妙な平和が保たれていたこと、そして孤島である日本は地政学的に外部から攻められにくいこと(逆に日本からの他国の侵略も、第二次世界大戦時のようにもともと大陸に部隊を展開しているのでなければ非常にむずかしい)とともに、まさにアメリカの「核の傘」に守られていたことがその要因だと思っている。その後は日本に対するアメリカの拡大抑止の提供の歴史的推移が説明されている。結論だけ言えば、「日本はアメリカの核を「持ち込ませず」とすることを含む非核三原則を掲げながら、同時にアメリカによる拡大抑止の提供を受けてきた(183頁)」のですね。まあある意味で虫のいいフリーライダー主義の一例と言えるかも。しかも「持ち込ませない」などという原則は、結局他国がどう認識するかの問題である点を捨象した「日本的視点」でしかない点を忘れるべきではない。その証拠に、「実際に一九八五年三月一四日に中曽根康弘総理と会談したソ連のゴルバチョフ書記長は、「米国の艦船が核を積んで日本に寄港している」と非難した(195頁)」らしい。
その後は、「いやいや、密約があって実際には核は日本に持ち込まれていた」という話が続く。それに対する著者の見方は「「密約」があったと見るかどうかは、多分にこの問題への観察者の評価次第というところがある(187頁)」というものらしい。密約があるかないかにかかわらず、そもそも原子力潜水艦のような米海軍の核搭載艦艇が、日本以外の国で核を下ろしてから日本に寄港していたとはとても思えないし、そんな話もまったく聞かない。ただ著者の次の指摘は念頭に置くべきだろうね。「アメリカは、核の所在を明らかにしない「肯定も否定もしない(NCND: neither confirm nor deny)政策をとっている。というのも、NCND政策によってアメリカはソ連に対し、アメリカ海軍が保有する約六〇〇隻もの艦船すべてに核が積まれているかもしれない、という前提で作戦計画を立てなければならなくなる負荷を課すことができるからである。¶ただ、アメリカがNCND政策をとることと、日本が核搭載米艦船による自国への自由な一時寄港を認めず、事前協議の対象とすることとは矛盾する。というのも、事前協議の有無によって、当該艦船の核搭載の有無も分かってしまうからである(186〜7頁)」。というか、そもそも日本に寄港する際に核を米本国かどこか他の国でわざわざ下ろしていれば、衛星やスパイの情報で「当該艦船の核搭載の有無」がバレちゃうだろうね。要するに、どう考えても核を積んだまま日本に寄港していたとしか考えられないということ。とはいえ、いずれにしても現在では、核を搭載した米軍艦艇の日本への寄港の問題は、とりあえずは終息しているらしい。というのも次のような事実があるから。「冷戦終結後の一九九一年九月二七日、ブッシュ(父)大統領は、アメリカ軍の地上配備の非戦略核を全廃し、非戦略核の艦船・航空機への搭載を中止すると発表した。したがってそれ以降、核を搭載した米艦船が日本に寄港することはなくなった。現在も[非戦略核ではなく戦略核を搭載している]オハイオ級戦略原潜(SSBN)は日本に寄港しないかたちで運用されている。一時寄港問題は過去のものとなったといえる(194頁)」。もちろんアメリカの戦略は、現在はそうであっても将来変わる可能性は十分にある。著者は一時寄港問題に関して次のように総括している。「「安保核密約」問題と呼ばれるものは、非核三原則と拡大抑止の矛盾の露呈といったような、仰々しいものではなかっただろう。むしろここで問われているのは、核保有国とのあいだで海洋を基盤とする同盟関係を持ち、拡大抑止の恩恵を享受しながら、港という世界に開かれている場所に同盟国の核搭載艦船が一時寄港することまでをも「持ち込み」に含め、これを拒絶しようとしてきた日本人の態度そのものの妥当性であったように思われるのである(196頁)」。私めなら、これは日本の一部の世論に巣くうフリーライダー主義の問題と言い換えたいところ。だいたい国際法上、船舶内は治外法権というか旗国主義が適用されるのではなかったっけ? 一時寄港は非核三原則の対象にはならないとするアメリカ側の主張は、この国際法の規定からももっともだと思う。
※非核三原則は、別の国際法に含まれる「無害通航権」の規定に違反すること(つまり陸揚げせずとも核の持ち込みは無害とは言えないということ)を根拠にしているらしい。ただし、国連海洋法で領海を一二海里に設定することが可能になってから話がさらにややこしくなっている。それについては「国際法」を参照されたい(2024/5/28追加)。
とはいえ一時寄港ではなく、核を日本国の領土内に陸揚げしたとなると話は変わってくる。それが当てはまるのが沖縄の件だと言える。ちなみに沖縄には、返還前には一二〇〇発程度の核が配備されていたらしい。アメリカの管轄下だからそうだったとしても、返還後の核の扱いは大きな問題になる。結果は「核抜き」返還されたわけだけど、アメリカがそれを認めた理由が説明されている「沖縄から核が撤去された理由」と題する節(210〜4頁)は、ぜひじっくりと読まれたい。というのも、「日本的視点」ではなく「第三者(この場合はアメリカ)的視点」から見るということがどのようなことかがよくわかるから。ここではその冒頭の部分のみを紹介しておきましょう。次のようにある。「アメリカが日本本土の代替地であった沖縄から非戦略核を撤去したのは、柔軟反応戦略下のエスカレーション・ラダーのなかで非戦略核同士の対決の段階[この考えでは基本的に紛争は、通常兵器による戦争→非戦略核による戦争→戦略核による戦争へとエスカレートしていく]を入れ込んでおく効果を、非戦略核の前方配備の脆弱性に対する懸念ほどに重視しなかったからである。その背景は少なくとも五つあると見ることができよう。¶第一に、そもそも論としての、通常戦力の優位性である。¶ヨーロッパでは、通常戦略のレベルでアメリカを中心とするNATOよりもワルシャワ条約機構の方が優位であった。したがってワルシャワ条約機構軍の西ヨーロッパ侵攻を抑止するうえで、西側の核の存在は不可欠であった。¶これに対してアジア太平洋では、沖縄や韓国のアメリカ軍や第七艦隊などの通常戦力で西側が優位であったため、そもそも東側の通常戦力による侵攻を抑止するうえでヨーロッパの場合ほど核が必要とされたわけではなかった。安全保障専門家の村野{将/まさし}が指摘するように、アジア太平洋におけるアメリカの核は、東側が、通常戦力の劣勢を核で相殺しようとするのを抑止するためのものであった。そのうえ戦争になれば陸上戦となるヨーロッパと違って、海に囲まれた日本に上陸しようとする敵に対し核を用いる蓋然性はそれほど高くはなかった(210〜1頁)」。その後、他の四つの背景が説明されていてそれらも実に興味深く引用したいのは山々なんだけど、あまり引用し過ぎるとクレームがくる可能性がゼロとは言えなくなるので是非本を買って確認してみてみて(最近連ツイをやめたのもクレームが来るのが心配になったからなのよね)。
もちろん著者は日本の核武装には反対の立場を取っているようだけど、それは感情的な判断ではなく、地政学的、戦略的、第三者的観点から見ての判断に基づく。だから次のように述べているのですね。「たしかに非核三原則は、広島・長崎が核で{蹂躙/じゅうりん}されたという耐えがたい国民的経験と記憶を背景として形成されており、軽々しいものではない。¶だが、非核三原則を思考の中心にすえるような日本的視点にこだわりすぎてしまうと、日本の平和に寄与している拡大抑止の全体像が見えづらくなってしまう。日本の国土のうえにアメリカの核がないのは、必ずしも非核三原則のみによるのではない。客観的には、日本の国土のうえに核があってほしくないという願望が、アメリカから提供された拡大抑止の在り方そのものによって許容されている、と見るべきだろう。「核の一国平和主義」に過度にこだわるのも、逆に怖いからとにかく核武装しようとしたり、日本とは事情の異なる背景を持つNATOの仕組みをそのまま移植して日本にアメリカの核を置こうとしたりするのでもない、戦略的・地政学的に合理性のある議論が深まることが求められる(219頁)」。「核の一国平和主義」は、私めなら「核のフリーライダー主義」と呼ぶけど、全体的な主旨には同意できる。著者はさらに次のように述べる。「核だらけの東アジアのなかで、アメリカによる日本への拡大抑止の保証を維持・強化していくためにも、日米同盟における核の役割をタブー視せず、アメリカの核戦略のなかでの日本の位置づけや、極東地域全体に及ぶ拡大抑止の在り方を見渡すような第三者的視点から、その実像を理解することがますます重要になってくるだろう(221頁)」。そう言うと「まだアメポチを続ける気か?」と言われそうだけど、それ以外の方法を提案しない限り、それは質問ではなく単なる文句にすぎないと言わざるを得ない。独自に核武装するのかね? それとも専制国家の侵略を受けたら即自降伏するのかね? 個人的には、それらはいずれも解決策にはならないと思う。
ならば、個人的にはどう考えているかを明確にしないと不公平になるので、それについて述べておきましょう。もちろん日本国内への核配備は、専制国家の標的にされて非常に危険なので賛成しかねる。が、よく言われるような核を搭載した原潜を沈めておくという戦略は、考慮の対象にすべきだろうとは思っている。その場合、秘密が外部に漏れないのならば実際には核は搭載しないで、専制国家側の認識として核を積んでいるように思わせるだけにするのが理想ではある。というのも、そもそも原潜から戦略核を撃たなければならない状況というのは、世界滅亡が迫っているときであろうし、キューバ危機時に実際にあったように、潜水艦という外部の情報を欠きがちな閉鎖的な環境のなかで、乗組員だけの判断で核を発射するという最悪の事態も考えられるからね。キューバ危機時には、外部の情報を欠いていたソ連の原潜が、アメリカ艦隊に向けて核魚雷を放とうとした。でも一人が反対したので核戦争が起こるのを防ぐことができた。その時反対したのは、私めも映画館で観たことがあるハリソン・フォード主演の映画『K―19』(米・2002年)で描かれていたソ連の原潜事故が起こったときに、ハリソン・フォードではなくリーアム・ニーソンが演じていた副艦長を務めていた人という話も聞いたことがあるけど、真偽のほどはよくわからん。とはいえ「秘密が外部に漏れない」という条件は、日本では期待できないだろうね。というのもNCND政策と同様、野党やマスメディアの追及によって秘密が秘密でなくなる可能性が非常に高いから。では実際に原潜に戦略核を搭載すべきか? それは少数の権力者によって決めるべきものではないので、国民投票などで、国民に問うしかないだろうと思う。現時点では左派メディアの影響が強いので必ずやそのような提案は否定されると思うが、左派メディアは現在のように非現実的な主張をいつまでも続けるなら衰退必至なので、将来世論は変わりうる。そして賛否はそのときの世界情勢、というか極東情勢にかかっているだろうと思う。そもそも中国やロシアや北朝鮮のような専制国家が存在しなければ、そんなことを決める必要すらないんだから。
ということで、今やますます重要性を増してきた極東の安全保障に関心のある人は、先にあげた『在日米軍基地』とともに強く推薦する。そもそもネットでは、政治的立場に関係なく、歴史的経緯や現在の国際情勢をガン無視して世界情勢を語る人が多いように思われる。安全保障と聞いただけで全身がさぶいぼと化す人もいるんだろうけど(そういう人がこの本を読んだら、ねとうよが書いたとか言い出しそうだけどね)、いくらさぶいぼを立てようが、国際政治の現実は変わらない。だからまず事実をきちんと把握することから始めましょうね。その手始めとして本書や『在日米軍基地』は格好の材料になる。
※2024年5月7日