◎川名晋史著『在日米軍基地』(中公新書)

 

 

いきなり次のような文章で始まる、「日本にいる米軍は二つの顔をもっている。「表」の顔である在日米軍としての米軍と、「裏」の顔である国連軍としての米軍である。前者はよく知られているが、後者についてはほとんど知られていない。どちらも見た目には違いはないが、中身は大きく異なっている。日本にいる米軍は必要に応じて、この二つの顔を使い分けることができる(i頁)」。そうやった。在日米軍は国連軍でもあった。昔何かの本でそのように読んだことがあるけど、今の今までその事実を忘れていた。てか、著者が言うようにたいていの人が知らないのかも。さらに次のようにある。「本書の目的は、「日本の基地とは何か」、その歴史と全容を在日米軍と国連軍の二つの観点から論じることにある。基地を従来のように米軍だけでなく、米国の友軍を含めた国連軍が使用するものとして捉えなおすことで、いわゆる教科書的な米軍基地イメージを超えて、日本の戦後安全保障の一側面を描きなおす。¶とくに焦点をあてるのは、これまで注目されてこなかった国連軍地位協定である。これは日本が国連軍とのあいだで締結している協定であり、日米安保条約や日米地位協定と並んで日本の安全保障に重要な意味をもっている。にもかかわらず、その内容を理解している者は少ない。国連軍地位協定は、ある立場からみれば日本の主権を著しく――場合によっては日米地位協定よりもはるかに――侵害するものである。しかし、別の立場からみれば、日本の安全が米国との二国間同盟によってではなく、実際には多国間の安全保障枠組みによって保全されていると考える論拠になる(iv〜v頁)」。まあ「日本の主権を著しく侵害する」というのは、そもそも国連憲章第53条(いわゆる敵国条項)を読めば、国連の態度としては当たり前田のクラッカー的なところがあるわな。でも、「実際には多国間の安全保障枠組みによって保全されている」と考えられるのなら、安倍氏が多少改善したとはいえ、日本とは密接な関係のない国を多数含む、NATOのような集団的自衛権の枠組みに法的に参加できない現状では一筋の光が差してくるようにも思える。いずれにしても、それについては第7章を取り上げる際に簡単に触れる。

 

まあとにかく読み進めて参りましょう。ここでは、第二次大戦直後を扱う「第1章 占領と基地――忘れられた英連邦軍」は飛ばして、在日国連軍と日本の関係が最初に顕在化した朝鮮戦争を扱う「第2章 朝鮮戦争」から始めることにする。そのしょっぱなに次のようにある。「朝鮮戦争は、戦後の在日米軍の問題を理解するうえでおそらくもっとも重要な出来事だ。そこで結成された国連軍、そしてその存在を担保する吉田・アチソン交換公文と国連軍地位協定、そして日米安全保障条約は戦後日本の安全保障の重要な起点を成すものである(28頁)」。「安全保障」という言葉を耳にしただけでさぶいぼを立たる奇妙な輩が日本にはそれなりにいるんだけど、自国の安全保障が担保されていなければ国民の生活、つまり私めが言う中間粒度の安寧は保てない。個人的には自国の安全保障は、近現代の国家がなさねばならない最大の仕事だと思っている。それを軽視する政府は問題外とも言える。安全保障に関する仕事は地方自治体レベルでは不可能だし、国連レベルの集団安全保障もまず自国の安全保障の担保があってこそ初めて可能になると考えている。まさに戦後日本という国家における安全保障の嚆矢は朝鮮戦争にあったと言えるのだろうと思う。

 

新書本では、まず国連軍とは何かが説明される。それに関して次のようにある。「国連の集団安全保障体制の本質は、ひとえに国連が平和破壊国に対してとる強制措置にある。そのなかでも強力な軍事的強制措置をとるために組織されるのが正規の国連軍である。国連憲章第7章には、第42条から47条にかけて、陸・海・空軍兵力等の言葉が用いられており、これを用いる軍隊が憲章上、正規の国連軍である。とりわけ重要なのは、第41条から第43条までだ(32〜3頁)」。ここに具体的な条文は引用しないけど、「国連憲章」でググればいくらでも記事が検索されてくるはずなので確認しておいてね。でも、どうやらここに一つ問題があるらしく、次のようにある。「要点は第43条が、安保理が加盟国とのあいだに「特別協定」を結んで、それを根拠に安保理に対して軍隊を利用させると約束していることだ。ところが、この特別協定は朝鮮戦争の時点でも、2023年の現在でも存在しない。ソ連(ロシア)や中国を含む常任理事国がこの特別協定の内容について合意できないからである。(…)もしこのとき[朝鮮戦争勃発時]国連憲章第42条、第43条が発動され、本来の国連軍を派遣することが決議されていたならば、安保理の決定は加盟国に対して「勧告」ではなく、法的拘束力をもつ「要請」になっていたはずである。また、加盟国は国連軍に関する特別協定に基づき、兵力その他の軍事援助を与える義務を安保理に対して負うことになっていた(33〜4頁)」。要するに朝鮮戦争時から今日に至るまで、加盟国による兵力等の提供に関しては、強制力がなかったということになりそう。しかも朝鮮戦争時に、極東米軍司令官を務めていたマッカーサーを国連軍司令官に任命したのは当時の米大統領ハリー・トルーマンで、「国連軍司令官は国連の指揮下にではなく、米国大統領の指揮下におかれていた(35頁)」のだそうな。だから朝鮮戦争当時の「国連軍とは国連旗の使用が許された米国の有志連合軍(35頁)」のようなものだったらしい。ちなみにアメリカと国連の関係って、国際安全保障の分野に限らずその後も実に微妙で、そのあたりの経緯は最上敏樹著『国連とアメリカ』(岩波新書)などに詳しく書かれているから読んでみてみて。

 

吉田・アチソン交換公文と国連軍地位協定についてはここでは、その詳細は述べないけど、次の記述には留意しておきましょう。「この協定[国連軍地位協定]の前提となる親条約は、サンフランシスコ平和条約と吉田・アチソン交換公文である。この論理のリンクは重要だ。平和条約の条件として、国連の行動に対してあらゆる援助を与えなければならないという国連憲章第2条の義務を日本が受諾する。その帰結として、国連が始めた朝鮮における行動に対して協力するという吉田・アチソン交換公文が生まれる。その交換公文によって駐留を認められた国連軍の地位なり待遇なりを定めたのが国連軍地位協定である(62頁)」。こうして「サンフランシスコ平和条約、吉田・アチソン交換公文、国連軍地位協定、そして国連軍地位協定の実施に伴う国内法によって、在日国連軍のための戦後日本のもう一つの基地構造が誕生したのである(63頁)」。さらには次の一文に着目されたい。「これらのことを踏まえれば、日本は1954年の国連軍地位協定締結以降、事実上の多国間安全保障の枠組みの中にいる、といっても過言ではない。(…)現実に日本の戦後の安全保障は米国との二国間の安全保障関係によってのみならず、国連軍という多国間の枠組みによってカバーされてきたのだ(67頁)」。ということはつまり、基地問題は対米問題のみならず対国連問題も含んでいるということになる。確かに私めも含めて、この点を忘れている、もしくは知らないで基地問題をああだこうだと論じている御仁が日本には大勢いるような気がする。

 

さて次は「第3章 安保改定と国連軍」だけど、旧日米安保と新日米安保について書かれた本は多いので、ここでは国連軍との関連に限定して取り上げることにしましょう。新安保の同意の一つの前提になったのは、同意の二週間前に藤山愛一郎外相とマッカーサーのあいだで作成された朝鮮議事録なる代物なのだそうな。そこで藤山外相は次のように述べたらしい。「在韓国連軍に対する攻撃による緊急事態における例外的措置として、停戦協定の違反による攻撃に対して国連軍の反撃が可能となるように国連統一指令部の下にある在日米軍によって直ちに行う必要がある戦闘作戦行動のために日本の施設・区域を使用され得る(may be used)、というのが日本政府の立場であることを岸総理からの許可を得て発現する(85頁)」。翻訳者がこれを書いたら編集者に蹴っ飛ばされるようなクネクネしたわかりにくい言い回しだけど(著者の文章ではないけどね)、「ポイントは日本側が、米軍が国連軍として朝鮮に出ていく場合には事前協議の対象としない、すなわち日本から直接に戦闘作戦行動をとりうる、と述べている(85頁)」点にあるとのこと。なお「米軍がこの[国連の]統一指令部に入るということは、在日米軍が国連軍に編入されるということ(85頁)」を意味する。このように日本における国連軍の基地使用は、地位協定の「極東」が何を指すか、あるいは在日米軍が国連軍に編入された場合と米軍以外の国連軍の場合などで条件が異なっていて、非常に複雑なことになっているらしい。なのでそれについては、109頁にある「図3―2 有事における在日米軍の基地使用」と112頁にある「図3−3 有事における国連軍の基地使用」という二つのフローチャートがわかりやすいのでぜひそれを参照されたい。なお図3―2にある国連軍とは在日米軍が国連軍に編入された場合であり、図3−3にある国連軍とは米国以外の国連軍を意味している。

 

お次は「第4章 基地問題の展開と「日本防衛」」。最初に「本章の目的は、在日米軍基地は日本を防衛するためにあるのか、そうでないのかを問うことにある(119頁)」とある。一九六九年の時点のそれに関するアメリカの考えは次のようなものだったらしい。「米軍は最低限、米国の財産である在日米軍基地とそこにいる米国人(軍人、軍属、家族)を保護する。そのことは間接的に日本の安全保障に資する可能性がある。米軍基地を防衛するということは、すなわち日本の領域の一部を防衛することを意味するものだからである。他方、米軍は日本全土、わけても基地のない地域を防衛する戦略をもっていない。したがって、当然のことながら日本を直接的に防衛するための部隊(戦闘部隊と支援部隊)も、その受け皿となる基地も日本には存在しない(132頁)」。ということは、米軍が防衛の対象にしているのは米軍基地であって、それ以外の日本の領土はそこに含まれないことになる。しかもこれは米国防総省と軍部のみならず国務省の認識でもあったらしい。さらに1970年には、ジョンソン国務次官が次のように明言したとのこと。「我々は日本を直接に防衛するために日本にいるのではない。日本の周辺地域を防衛するために日本にいる(133頁)」。またジョンソンは、「日米安保条約は日米が共同して日本の防衛にあたることを約束したものであり、日本が自身の防衛に貢献しない限り、米国も日本の防衛を約束するものではないと述べた(134頁)」。まあ至って当然の見解でしょうね。アメリカからすれば自国の防衛をしようとしないフリーライダーのような国の防衛をして犠牲を払うのはまっぴら御免だろうしね。人間の世界では、身銭を切ろうとしないフリーライダーはもっとも嫌われる。

 

当時は基地反対運動が激化していたので、それを緩和するために基地削減計画が実行されていたわけだが、たとえば横田や三沢の戦闘機をどこに移すのかが問題になっていた。結局沖縄に移されたわけだけど、それはアメリカが在日米軍基地以外の日本の領土を防衛の対象にしていないのなら、基地が外国に移されれば日本が見捨てられるのではないかという怖れを喚起する可能性があったからでもあるらしい。次のようにある。「問題の核心は戦闘機を(日本に近接する)沖縄や韓国に移すのか、それともグアムや米本国に移すのか、だった。当然、本土に近い沖縄に移すほうが米国による「日本放棄」の印象を和らげることにつながると考えられた(140頁)」。要するに日本全国で基地反対運動が起きたけど、いざ移動するとなるとアメリカさんに見捨てられるのは日本にとっていやだから、日本の近くの沖縄(当時はまだ返還されていなかった)に移さざるを得なかったということになるのかな。なんとまあ! こうして沖縄に米軍専用施設が集中して、2023年現在でも約70%の米軍基地が沖縄に集中しているらしい。これだけを聞けば、確かに沖縄人は怒るだろうね。何せ本土の人間は基地に反対しておきながら、アメリカさんに見離されても困るから、近くの沖縄に基地を押しつけたわけだから。まあハトピー元首相が「最低でも県外」と言ったところで、いきさつを考えれば誰も見向きもしないのは当然だわな。

 

しかし問題はもっと複雑で、沖縄が日本に返還された際に、沖縄の軍事基地をアメリカに提供するだけでなく、国連軍合同会議で「嘉手納飛行場、ホワイトビーチ地区、普天間飛行場の3基地が新たに在日国連軍基地に指定された(145頁)」のだそうな(なお本土では、キャンプ座間、府中空軍施設、立川飛行場、横須賀海軍施設、佐世保海軍施設、キャンプ朝霞、横田基地、岩国基地が国連軍基地として機能していたらしい)。ということは次のことを意味する。「嘉手納、普天間、ホワイトビーチが国連軍基地に指定されたということは、この3基地に国連軍地位協定が適用されるようになったということである。言い換えれば、米国以外の国連軍参加国が、沖縄の施政権が日本に返されてなお、当該基地の使用を継続できるということである。(…)沖縄の施政権が返還されたことで、沖縄の米軍基地は、日米安保条約を根拠条約とする基地へと地位が変化した。むろん、国連軍参加国は日米安保条約とは無関係の存在なので、それを根拠に沖縄の基地を使用することはできない。米国にしてみれば、それは困った事態である。極東の安全保障、とりわけ朝鮮有事においては友軍の支援が欠かせないからである。¶そこで出てくるのが国連軍である。沖縄の基地が国連軍基地に指定されれば、新交換公文(1960年1月)と国連軍地位協定(1954年2月)が根拠となり、国連軍参加国の沖縄への駐留が可能になる。朝鮮有事(ないし極東有事)において、英軍や豪軍等が当該3基地から、国連軍として動く米軍に対して兵站支援を行うことができる(146〜7頁)」。つまり普天間を含む沖縄の3基地は米軍基地であるのみならず国連軍基地であることになる。実は私めも知らなんだが、知らない人は多いだろうね。まあそれも無理はないとも言える。何しろ、あとで述べるように「最低でも県外」のハトピー元首相も知らなかったらしいし。

 

「第5章 在日国連軍の解体危機」は、その国連軍が1970年代に米中和解をきっかけとして解体危機に陥ったことを詳細に述べている。その経緯はここでは取り上げないけど、国連軍が解体されると何が問題なのか? 冒頭に次のようにある。「国連軍としての在日米軍は、日米安全保障条約によって規定されるわけではないので、日本の基地から行われる戦闘作戦行動は事前協議の対象外である。さて、ここで国連軍が解体されれば、国連軍地位協定とそれに紐づけられた吉田・アチソン交換公文も自動的に消滅する。そうなると朝鮮議事録もまた「失効」し、米国は朝鮮有事の際の在日米軍基地の自由使用の権利を手放すことになる(158頁)」。つまり国連軍(ここでは在日米軍以外を指す)が日本に駐留していなければ、法的な手続きからして朝鮮有事や極東有事が起こっても、アメリカは国連軍として在日米軍を自由に動かせなくなる。だから在日米軍以外の国連軍が日本に駐留していないと、アメリカも困るし、当然ながら有事が極東で発生すれば対応がむずかしくなる。そのため1970年代には、タイ軍、イギリス軍、フィリピン軍の将官が、入れ替わり立ち替わり日本に駐留して、国連軍が解体しないようサーカス相撲を演じていたらしい。

 

では今日までをも含め、1980年代以後はどうなったか? 次のようにある。「本章[第5章]が扱った時期から間もない1985年6月の時点で、日本には連絡将校を含め34名の国連軍要員が派遣されていた。要員の派遣はその後も途切れることなく、2023年時点で後方司令部(横田飛行場)に豪軍将校他3名が常駐し、英連邦諸国を中心に計9ヵ国(豪州、英国、カナダ、ニュージーランド、フランス、イタリア、トルコ、フィリピン、タイ)の武官が連絡将校として在京大使館に駐在しているとされる。¶こうした国連軍の存在は次章以降で見ていくように、今も国連軍地位協定と吉田・アチソン交換公文の有効性を担保し、在日国連軍基地をハブとした近年の多国間安全保障協力の基礎となっている。たとえば2018年以降、国連軍は日本周辺海域において北朝鮮による「瀬取り」等に対する警戒監視活動を活発化させている。沖縄では2018年以降、英国、豪州、フランス、ニュージーランド、カナダが国連軍基地である普天間及び嘉手納飛行場を計23回使用した。2021年9月には、英海軍のクイーン・エリザベスを旗艦とする空母打撃群が国連軍基地である横須賀海軍施設、佐世保基地、沖縄ホワイトビーチ地区に寄港した。¶これらの事実に鑑みれば、本章でみた在日国連軍基地の存続をめぐる政治過程は、同基地が極東において事実上の多国間安全保障枠組みを起動させる装置としての安定性を獲得していく重要な局面だったといえよう(186〜7頁)」。ここで二点指摘しておきましょう。今でも何かと話題になる普天間基地は、現在でも単に在日米軍基地であるだけでなく、国連軍基地でもあるという点、そして在日国連軍基地は、極東における多国間安全保障の枠組みを担保しているという点。沖縄の基地に賛成するにせよ反対するにせよ、これら二点をおさえて議論することが肝要なのに、そこはすっ飛ばしているというか知らない人があまりにも多すぎるのだろうと思う。基地問題は、沖縄県という一地方自治体や日本という一国の問題を超えて(基地に賛成する人も反対する人も、これらのどちらか一方に肩入れしているだけのように見える)、極東という地域の安全保障の問題にも関わるわけだからね。だからT知事のようなチャラチャラした劇場政治家が、極東レベルであろうが国レベルであろうが県レベルであろうが安全保障など歯牙にもかけない地方の左派メディアとつるんで好き勝手できるような案件ではないと言いたいわけ。何しろ極東には、軍拡を続ける中国、ミサイルを撃ちまくる鉄砲玉のような北朝鮮、そして当面はウクライナの件があるから極東には手を出せないだろうとしても実際に侵略戦争を始めたロシアという三つの独裁国家が存在しているのに、極東の安全保障を無視しても構わないなどということには絶対にならない。

 

「第6章 普天間と辺野古――二つの仮説」では、現在でも紛糾している普天間基地の辺野古移設の経緯が紹介されている。ここでは細かな経緯は省略するとして、国連軍基地というステータスの関係で重要と思われる部分だけを紹介する。まず辺野古移設の問題が浮上した1990年代は、極東がキナ臭くなり始めた頃であったことを押さえておく必要がある。次のようにある。「当時の東アジアの戦略環境はこうだ。まず極東では、1993年から94年にかけて北朝鮮核危機が生じていた。1993年2月、国際原子力機関(IAEA)が、北朝鮮が査察対象として申告していなかった二つの施設に対し「特別査察」を求めた。しかし、北朝鮮はこれを拒否し、NPT(核兵器不拡散条約)からの脱退を宣言する。1993年5月には、中距離弾道ミサイル「ノドン1号」を日本海に向けて発射する。米国は北朝鮮に対する経済制裁を強めるも、北朝鮮の挑発はエスカレートし、1994年3月19日には、韓国との実務者会議の場で、「ソウルを火の海にする」と発言した。(…)北朝鮮だけではない。SACO中間報告の直前の1996年3月には、台湾海峡危機が生じていた。同年3月23日に予定されていた台湾総統選挙で{李登輝/りとうき}優勢の観測が流れたことで、中国人民解放軍は3月8日から15日にかけて台湾近海でミサイル演習を行った。これに対し、米海軍は空母機動部隊を派遣するなどして中国の動きを牽制、米中関係はにわかに緊迫する(217〜8頁)」。なおSACO(沖縄に関する特別行動委員会)とは、1995年11月に日米両政府によって設立された、「沖縄の米軍基地の整理・統合・縮小に向けた協議を行う委員会(196頁)」を指す。言うまでもなく北朝鮮や中国(とりわけ習近平が最高指導者になって以後)は極東の平和を乱す行動をさらにエスカレートさせており、そこに現在ではロシアも加わっている。ちなみに日本が第二次世界大戦へとまっしぐらに突き進んだ要因の一つには、ロシアの南下政策への対処があり、最近読んだ新書本では『山県有朋』(中公新書)にそれに関する記述が見られた。ロシアは現時点ではウクライナ侵攻で手一杯で南下する余裕などないだろうが、その現在でも中国とつるんで日本列島を一周するなどといった挑発的な行動を取っていることをご存じの通り。

 

新書本に戻ると、辺野古移設で大きく問題になるのは、沖縄返還以来現在に至るまで普天間基地が、在日米軍基地であるだけでなく国連軍基地でもあることなのよね。だから「普天間海兵隊飛行場の移転」という米側の文書の冒頭には、普天間基地の移転の条件として次のように書かれているらしい。「普天間海兵隊飛行場がもつ軍事的機能と能力を移転するのであれば、朝鮮有事において反撃の拠点となる{航空施設として利用可能なもう一つの国連軍基地(United Nations base)が、米海兵隊及び他の国連軍参加国に提供されなければならない}。[傍線筆者](220頁)」。ということは次のことが言える。「つまり、何よりも満たさなければならない条件とは、普天間がもつ国連軍基地としての能力を維持することである(繰り返せば、普天間基地は沖縄が日本に復帰したその日から、今日まで一貫して国連軍基地である)(220頁)」、あるいは「米側の考える、普天間の代替基地とは要するに、有事に必要となる米軍及び国連軍の部隊を受け入れることができる滑走路つきの航空施設である。これがSACOの起点なのだ(222頁)」。ところが「最低でも県外」と言った張本人のハトピー元首相でさえ、普天間基地が国連軍基地でもあることを知らなかったらしい(著者は本人が知らないフリをしていた可能性もあると書いているけどね)。ハトピー元首相は国外移設も考慮に入れていたということだが、普天間基地が国連軍基地であることを知っていれば、それは無理であることがわかっていたはずだしね。次のようにある。「鳩山政権が企図した普天間の国外移設はそもそも不可能だったということになる。なぜなら、国連軍基地のステータスは国外には持っていけないからだ。国連軍基地の根拠は、あくまでも日本と国連軍参加国のあいだにある国連軍地位協定によって見出される。国連軍基地のステータスを残すことを前提とすれば、県外移設は可能でも国外移設はできない(224頁)」。さらには県外への国内移設にも問題があったとのこと。次のようにある。「さらに、普天間がもつ現有能力を維持しなければならないという条件が加われば、その解はもはや「県内移設」以外に見出すのが難しくなる。なぜなら、普天間の現有能力の中には、沖縄における他の海兵隊基地との連携とチームワークによって得られる能力、すなわち必要な時期と場所に、必要な装備と部隊を展開させる能力が含まれるからだ。兵站施設(キャンプ・キンザー)、演習場(北部訓練場、キャンプ・シュワブ等)、飛行場(普天間飛行場)、海軍施設(ホワイトビーチ地区)が、互いに近距離にあり一体的に運用することが、彼らの即応性、効率性を担保している(224頁)」。

 

ここからしばらく寄り道になるけど、こうしてみると辺野古移転に反対するとしても、県民投票をしたり、国の代理執行を邪魔したり、挙句の果ては左派のデモに顔を出したりなどいった、T知事のやっているような劇場政治がいかに的をはずしたものであるかがわかる。ちなみに個人的には辺野古移転は得策ではないと考えているが、それは安全保障をまったく無視した左派の考えとは逆で、辺野古移転が日本、ひいては極東の安全保障を逆に脅かす可能性があるのに、わざわざ莫大なおじぇじぇをかけてまで移転する必要があるのかと考えているから。賛成派にせよ反対派にせよあれかこれかの二分法でしかものごとを考えられない人には信じられないだろうが、安全保障を重視する保守派のなかにも辺野古移転に反対する人はいる。ではここまでの話から考えて、T知事は本来何をすべきなのか。第一に、普天間基地は国連軍基地でもあるのだから、政府は在日国連軍に要員を派遣している米国以外の国の合意もきちんと取っているのかを問いただすこと。なおこの点に関しては本書には記載がなかったので情報が公開されていないのかもしれない。

 

第二に、辺野古に移転した場合、普天間が現状で維持している安全保障上の条件をほんとうに維持できるのかをはっきりさせること。維持できないのであれば、安全保障上の能力が保たれなくなるのだから政府は日本と極東を危険にさらしていることになる(ちなみにこれが私めや安全保障を重視する一部の保守派が辺野古移設に賛成しかねる理由なのじゃ)。具体的に説明すると、現在の普天間飛行場は高台に存在するのに対して、埋め立て地の辺野古に移転すれば、海沿い、あるいは海上とも言える位置に移動することになる。そうなれば、津波などの激甚自然災害や海からの特殊部隊の攻撃に脆弱になる。さらに大きな問題は、海沿いの辺野古のV字型滑走路二本は、本書によれば1800メートルになる予定らしいが、普天間飛行場の滑走路の長さはググると2700メートルあるらしい。ということは辺野古に移転すると滑走路の長さが大幅に短くなる。これは安全保障上の大きな問題になりうる。なぜなら、短い滑走路から発進するためにはそれだけ燃料や装備を軽くしなければならないから。つまり戦闘力も航続距離も減退してしまうのですね。それから地盤の問題もあるけど、それについては本書にも書かれているのでそちらを参照してくださいませませ。

 

ここでちょっと寄り道の寄り道をする。それは滑走路が短くなった場合に起こる問題に関連して。『パールハーバー』というハリウッド映画が話題を集めたことがある。ただ話題の割に「『トラ・トラ・トラ!』のほうがおもろい!」などといった意見もあって評価は芳しくなかったように覚えている。だから当時は私めも見なかったけど、去年の暮アマプラで、ロハで見られるようになっていたので、ちと長いけど観てみた。実はこの映画、真珠湾攻撃だけでなくドーリットル隊による東京初空襲までを扱っている。この映画のロマンス的なお話は作り話なんだろうけど、それ以外はかなり史実に近いのだろうと思う。さてドーリットル隊による東京爆撃は、B25という本来は艦載機ではない爆撃機を改造して空母ホーネットから発艦させて実施された。でも空母の甲板だから1800メートルはおろか、その一〇分の一程度しか長さがない(ただしB25は第二次世界大戦時のプロペラ機であってジェット機ではないので、そこまで長さが必要はないという可能性もあるのかも)。だからこの映画でも、機体が改造され、装備を減らし、片道切符で中国大陸に不時着するというこの作戦の経緯がみごとに描かれていた。そのような対策を講じ、発艦の練習を重ねても、実際に飛び立つときには機体が下がって海面に衝突しそうになったのですね。かように軍用機、とりわけ重装備の機体にとっては、滑走路の長さが作戦の質を決定する重要な要因になるのですね。

 

寄り道の寄り道から寄り道に戻ると、いずれにせよ21世紀にもなって、T知事のように革命思想に基づく抵抗権の概念に絡み取られて、自分たちが支持しない政府の方針にとにかく反対するなどという古臭いやり方は、通用するわけがない。反対するなら、沖縄や日本のみならず極東の安全保障すら危うくする可能性が実際にあるのだからそこを徹底的に突くなど、もっと有効な手段を使うべきではないのか。ついでに言っておきたいのだが、そもそもかつて辺野古移転を決定した民主党の政治家たちは、現在では移転に反対している理由を説明したことがあるのだろうか? もちろん考えを変えることはあっても構わないが、ツイで吠えまくる単なる素人評論家ではなく政治家なんだから、下野したからといって考えを変えた理由を説明する説明責任を果たす義務が免除されるわけではない。説明したことがあるのなら構わないとしても、そうでないならよくそんな政治家を支持できるものだと思わざるを得ない。サッカーのサポーターはミスした味方選手には相手の選手以上に厳しいが、説明責任を果たそうとしない政治家を支持する人はそれ未満ということになるよ。ハトピー元首相なんか、去年の年末に政府の代理執行を非難するツイをして、「「最低でも県外」と言いながら、最終的に辺野古に決定したのはあなたでは?」とみごとにコミュられて、世間の笑いを誘っていたよね。説明責任をきちんと果たしていれば、コミュられてはいなかっただろうに。どういう神経をしているんだろうね。私めがハトピー元首相なら、「大ブーメランになるから、それだけは言わんでおこっと」と考えて自重するけどね。さすが、左派のワシントンポスト紙に「ハトピー」ではなく「ルーピー」と言われただけのことはあるとしか言いようがない。いずれにせよ、彼やT知事のような劇場政治家は「日本の安全保障」と聞いた途端さぶいぼを立てるようなタイプなんだろうから、それがたたって効果的な反対すらできないというのは、私めには「何と愚かな!」としか思えない。

 

第三に、たとえ安全保障について意地でも持ち出したくなかったとしても、他にも反対の方法はある。本書には直接は関係ないかもだけど、辺野古移設の一般的な理由の一つに、世界一危険な飛行場とも言われる普天間飛行場周辺の住民の安全を確保するというものがある。明らかに左派に属するT知事は、菅氏が結果を斟酌することなどないとすでに宣言していた県民投票をやるのではなく、少数者の人権の保護を考えて、ほんとうに普天間基地が世界一危険な飛行場であるか否かをきちんと調査すべきではないのだろうか。その調査によって普天間飛行場は世界一危険、もしくはそれに準ずる飛行場などではないことがわかれば、政府が元来あげていた理由の一つを突き崩すことができるはず。それをしないで劇場政治ばかりやっているのは、彼が無能だからか、あるいはそのような調査をしてほんとうに危険だとわかったら、場所は別としても少なくとも移転は認めなければならなくなるからだと心の奥底で思っているからなのかのいずれかであるとしか思えない。基地反対運動をしている人々って普段は少数者の人権を高らかに謳っている左派とおおむね重なるはずだが(先に述べたように安全保障を重視する保守派にも反対する人はいる)、なんでこの件になると宜野湾市の住民の安全に関して急に黙っちゃうんだろうね(ツイでもその点を取り上げている移転反対者を見たことがない)。結局、普段の主張それ自体が、自己が頑なに信じ込んでいるイデオロギーに基づいているから、少しでも自分に都合が悪くなる展開になりそうだと急に黙り込んでしまうとしか思えない。

 

では基地移転に賛成しかねるあなたは、普天間基地の安全についてどう思っているのかと訊かれそうなので、それについて述べておく。私めが住んでいる未来都市入間には、平時には米軍はいないとしても航空自衛隊入間基地が存在する(アフガニスタン撤退のときだったかに、入間基地から輸送機が飛び立ったことを覚えている人もいるよね?)。ミサゴちゃんのような機体は配備されていないはずだが、練習機でさえ落ちるときは落ちる。一度入間基地の練習機が墜落して、電線を破損ししばらく停電になったことがあった。民間への被害はなかったけど、確か自衛隊員2名が住宅地に墜落することを避けるために脱出せず殉職したように覚えている。さらにはコロナ前には、入間基地で航空祭が毎年11月3日(文化の日)に行なわれていて、ブルーインパルスがわがマンションのすぐ上を、ジャンプすれば尾翼にぶら下がれそうな(そんなばなな!)高度で飛んでいた。文化の日になるといつも、わが八階建て超高層ウルトラモダンマンションにだけは突っ込まないでくれよとニシンの神さまに祈っていたものじゃ。実際、たとえばウクライナのリヴィウなどで、航空ショーによる悲惨な事故が相次いだこともあって、航空ショーは世界的に減少する方向にあった。にもかかわらず入間市では基地反対運動など、知る限り行なわれていない。これは実際、文化の日は別としても、入間基地では平常時の航空機のトラフィックがそれほど多いわけではないからだろうし、また国土の防衛のためにはある程度のリスクは、誰もが覚悟しておかなければならないとたいていの住民が思っているからなのだと思う。普天間基地は確かに沖縄に位置するので、スクランブル発進などがより頻繁に発生しているだろうから、トラフィックは入間基地よりはるかに多いのだろうと予想される。しかしネット上には、世界一危険な飛行場と言われるほどにトラフィックが多いわけではないという見解も散見される(ネット民の情報なので確かとは言えないが)。だからこそしっかりした調査が必要なわけ。その調査で世界一危険な、あるいはそれに匹敵する飛行場であることが判明した場合には、私めも、普天間基地の能力を維持するという安全保障の問題より少数者の人権を優先して、辺野古か否かは別として基地移転に賛成するようになると思う(だから「辺野古移転には賛成しかねる」というややトーンダウンしたあいまいな言い方をしているわけ)。

 

それからついでなので、沖縄の独立に関して個人的な見解を述べておきましょう。原則的に私めは沖縄人が自らの独自のアイデンティティーを求めて独立したいと考えるのであれば、それに反対するつもりはない。その点では保守とは袂を分かつ。これは私めが中間粒度を重視していることの必然的な帰結であるとも言える。ただし二つ条件がある。一つは、日本のすぐそばに中共率いる中国のような独裁国、とりわけ習近平のような軍拡に励む輩が最高指導者を務めている国が存在するあいだは、独立すべきではないという点。なぜなら、現在は日本国の一部なので、中国も簡単には沖縄に手を出せないはずだが(それでも毎日のように尖閣に来ているけど)、ひとたび独立してしまえば、必ずしも軍事侵攻とは言わないとしてもあらゆる手を尽くして沖縄を取り込もうとするはずだから(「一帯一路」のやり口を見てみればよい)。そうなれば、日本のみならず台湾を含めた極東全域が危険にさらされるのはもちろんのこと、沖縄県民(というか琉球国民)も、独裁体制のもとで暮らさなければならなくなる(それでもいいというなら別だが)。もう一つは余計なお世話かもだけど、トップに現在のT知事のような左翼イデオロギーにかぶれているとしか思えないようなパフォーマンスだけの劇場政治家を据えてはならないということ。結局、琉球国民の生活の安寧を担保できるのは、あんな活動家もどきの劇場政治家ではなく、確固たる国家観を持った政治家なのだから(その意味ではキッシーもたいがいだが)。さもなければ数年で琉球国は難民・移民をゾロゾロ出す崩壊国家になるか、近隣の独裁国に取り込まれ、現在の香港のようになるかのいずれかになるよ。沖縄は中国が自国防衛の最低ラインとして設定している第一列島線上に位置していることをゆめゆめ忘れてはならない(そう言えば前出の『山県有朋』の最後のほうに、「いまや山県の主権線・利益線論は主客顚倒し、中国のいわゆる第一列島線・第二列島線論として蘇ったように見える(同書282頁)」というちょっと興味深い記述があったのを思い出した)。

 

ここで長い寄り道から新書本に復帰する。次の「第7章 準他国間同盟の胎動」では2000年代から現在までの時期が扱われている。国連軍との関係に関しては、最初に次のようにまとめられている。「法制面でも大きな変化がみられた。2015年に成立した「平和安全法制」はその一つの象徴だろう。日本国内では集団的自衛権と憲法、あるいは武力行使の一体化の問題に関心が集中した。しかしその陰では、在日国連軍ないし外国軍との関係にも大きな変化が生じた。このときを境に、自衛隊は米軍以外の外国軍に対しても、平時か有事かを問わず様々な支援を行うことが可能になった。ここでいう米軍以外の外国軍とは事実上、在日国連軍参加国の軍隊のことである。かねて国連軍地位協定によって想定されていた参加国の日本駐留の法的根拠は、平和安全法制とそれに続くACSA(物品役務相互提供協定、アクサ)、そして円滑化協定によって「上書き」される。参加国はこれ以降、米国と同様に「二つの顔」、すなわち国連軍のステータスと、外国軍のステータスを使い分けられるようになるのである(233〜4頁)」。まず平和安全法制の一つの肝である限定的な集団的自衛権に関しては、なぜそれを集団的自衛権と呼ぶ必要があるのかという疑問符がつけられる。国際政治学者のなかには、そもそも個別的自衛権と集団的自衛権を厳密に区別することになど意味はないと言う人もいるし、そんな区別をしているのは日本のメディアや知識人だけだなどという話もある。個人的にも世界が複雑化しさまざまな国がいろいろな側面において絡み合うようになった現代において、どの国が日本と密接に関係しているか、したがって限定的な集団的自衛権行使の対象になる国なのかなどと判断すること自体ナンセンスに思える。結局外国を防衛する場合でも、日本の安全や利益を守る、個別的自衛権の範疇に含められる場合が多いだろうしね。

 

だから平和安全法制において限定的な集団的自衛権の容認より重要なのは、それに基づくACSAと円滑化協定によってアメリカ以外の国の軍隊を、米軍と同様、国連軍としても外国軍としても扱うことができるようになったことがあげられる。ここでは円滑化協定を取り上げましょう。次のようにある。「日本が武力攻撃を受けた場合、あるいは台湾有事など日本の安全保障に重要な影響を与える事態が生じた場合、豪軍や英軍は日本に来援する可能性がある。その来援を「円滑化」することも協定の主旨である。この場合、英国も豪州も「日本と密接な関係にある他国」にあたる可能性がきわめて高い。したがって、すでに日本に入っているか、あるいは新たに来援する両軍のいずれかが攻撃を受ければ、自衛隊は武力行使を含めた各種の支援を行うことになる。この部分は平和安全法制によってすでに整備されている。今回の円滑化協定で整備されたのは、そうした来援部隊が自衛隊の基地や日本の公共施設をスムーズに使用するための法的根拠である。¶これらのことを踏まえれば、円滑化協定の締結は戦後の日本の安全保障政策の大きな転換だといえる。同協定は日本が外部から攻撃を受けたか、あるいはそうした事態が想定される場合に、米国以外の国に必要な支援を要請し、自衛隊との協力活動を実施することを法的に担保するものだからである。米国との二国間同盟を基礎とする戦後の日本の安全保障政策のあり方が大きく変わりうる(269〜70頁)」。

 

実際大きく変えんとあかんでしょうね。アメリカは、現在はどうか知らんが、前述のとおり1960年代末には在日米軍基地は防衛しても、それ以外の日本の領土は防衛しないと表明していたわけだし、トランプのように自分の国は核武装してでも自分で守れと言い出す大統領が登場する可能性もある(まあ、国境をユルユルにしてアメリカ人の生活をボロボロにしているもうろくバイデンに比べれば、多少粗野で乱暴でもトランプのほうがまだマシだろうとは思っているが)。しかも日米安保条約の第5条には「自国の憲法上の規定及び手続に従って」という規定があるため、日米安保はNATO条約の場合のように加盟国が攻撃されたら自動的に発効するのではなく、米議会などの承認が必要だという見解もある(1970年代のジョンソン国務次官の発言に見たように、日本側が自国を防衛する意志を見せずフリーライダーに徹しようとすれば、米国側が参戦を断念する可能性は高い)。つまりほんとうにアメリカだけに依存していたら、とんでもない結果になりうるということ。わざわざ言うまでもないことだけど、一部のおかしな日本の左翼の発言に見られるように、9条が日本を守ってくれるなどということは絶対にあり得ない。なぜなら、9条は日本から戦争を仕掛けることは否定しても、他国が日本に攻撃を仕掛けることを防いだりはしないからね。それどころか、専制国家なら、むしろこれ幸いと攻めてくると考えるべきではないだろうか。ウクライナ憲法に9条に相当する条項があったとしても、プーチンは侵略を止めたりはしなかったはず。なぜなら、プーチンにはプーチンの思惑があってウクライナ戦争を始めたのだから、ウクライナ憲法に9条に相当する項目があるか否かなどまったくプーチンの関与するところではないのだから。現代において侵略戦争と防衛戦争を故意にまぜこぜにして、前者の問題を密かに後者にすべり込ませるような印象操作は有害でしかない。さらに言えば、ウクライナ戦争でわかったように、国連の集団安全保障はまともに機能しているとは思えない。ましてや国連の下部組織の建物の地下でテロ組織ハマスのトンネルが見つかったなどという報道を最近見掛けたけど、そうなってくると「国連ってほんとうに大丈夫なの? そんなところに喜んで多額の税金をつっ込んでいる日本政府っていったい何なの?」ってことになりかねない。誤解されると困るから慌ててつけ加えておくと、世界政府のようなものではなく国連のような連邦型の組織が絶対に必要であることには私めもまったく同意する。だがそれだけに、ちゃんと機能してもらわなければ困る。そもそも戦後70年も経っているのに敵国条項を放置しているってどういうこと? 国連改革は必須だと思う。そうなってくると中国や北朝鮮やロシアなどの近隣の独裁国家が暗躍する現代においては、国連軍としてか否かは別として、米軍以外の多国間との安全保障面での協力が日本の安全保障にとってきわめて重要になることがわかる。そして、その道を開いたのが平和安全法制だったということになる。英米の左派メディアでさえ称賛するインド太平洋構想とともに、この点ではお星さまになった安倍氏は先見の明があったとして称賛されてしかるべきだろうね(日本の左派メディアは意地でもそうしないだろうが)。

 

「終章 二つの顔」はまとめなので省略する。ということで、基地問題をうんぬんするなら、少なくともこの本は読んでおくべきだと思う。

 

 

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※2024年2月12日