◎安成哲三著『モンスーンの世界』(中公新書)

 

 

まず「モンスーン」とは何かということだけど、それについて本書冒頭に次のようにある。「モンスーンは日本語では「季節風」と訳されているが、気候学的には季節風だけでなく、それに伴う雨季・乾季の変化や日本の梅雨や日本海側の雪も含める(@頁)」。「モンスーン」という言葉はよく耳にするけど、それが実際に何を意味するのかはあいまいに思えるから、冒頭で定義しておくことは重要でしょうね。

 

さてさっそく本論に入ると、著者も「はじめに」で述べているように前半は理系的、後半は文系的な内容が多い。ただし「第1章 変化に富む日本の気候」は、理系の著者がよくやりたがる、俳句などを引用したエッセイ風の記述から成っている。個人的には俳句にはまったく興味がないけど、あとで述べるように著者にとっては、モンスーンアジアの特徴が反映されたアートとして、俳句は重要な意味を持っているらしい。私めはヘタレブケダンなので、前半よりも文系的な後半を取り上げることにし、分類は「自然科学」ではなく「文化・社会・宗教」として扱うことにした。

 

ただし前半に関して興味深かった点を二つほどあげておきましょう。一つは、裏日本のドカ雪が世界的にも稀な現象であると述べられていること。これは106頁にある図4−4を見るとはっきりとわかるんだけど、その説明として次のようにある。「世界の多くの都市の降水量が50mmからせいぜい100mmまでなのに対し、日本の雪国にある各都市の降水量は多く、特に北陸地域は200〜400mmと非常に多いことである。しかも、気温が+2〜3℃と、世界の他の地域より数度以上高く、雪として降るか、雨として降るかの限界気温とされている3℃に非常に近い気温で多量の雪として降っていることを示している。このような冬の日本の積雪は「暖地積雪」ともよばれ、世界でも珍しい現象である(106〜7頁)」。確かに暖かくて湿っているほうが、ドカ雪が降りそうな気がする。ちなみに日本の雪国に近い気候条件を呈しているのは、北米五大湖の南岸だそう。そう言えば今年の初めだったかに、五大湖の南岸の地域が氷河期に入ったような様相を呈しているという報道があったよね。というより、実際に現在は氷河期の範囲に入るらしいけど、気候変動のせいでそうとは思えない。だから、つまり地球温暖化が氷河期の寒さを緩和しているからという理由で、気候変動に対して中立的な立場を取る気候学者もいる。

 

もう一点は、「アジアのグリーンベルト」に関する記述。「アジアのグリーンベルト」とは何かと言うと、「赤道のインドネシア付近から東南アジア・中国、朝鮮半島、それから日本、さらに北極圏も含む東シベリアまで、森林が南北につながって分布しており、アジアのグリーンベルト(Asian Green Belt)ともよばれている(113頁)」のだそう。驚いたことに、この地域に世界全人口80億人のうち、約55%が住んでいるとのこと。先の説明にはインドが含まれていないから「インド抜きでそれかい?」と思ったけど、114頁にある図5−2ではアジアグリーンベルトと記された楕円にインドの三分の二くらいが収まっているように見える。

 

で、この地域は「生物多様性において類をみない地域(130頁)」だそうだけど、生物多様性というと真っ先にアマゾンを思い浮かべて、それ以上は思い浮かばない単細胞の私めにはちょっと意外に思えた。次のようにある。「グリーンベルトの中でも特に中国・チベット高原周辺と東南アジアおよびインドネシアの海洋大陸域は、アマゾン川流域と並んで植物の多様性が高いことがわかる。この狭い日本でも、北海道を除いてどの地方も維管束植物が1500種以上、西日本は2000種以上で、全土で5600種の固有種があるとされている。グリーンベルトで最も種数が豊富なチベット高原南東端に位置する{雲南/うんなん}省では1万4000種もある。これに対してユーラシア大陸の西の端に位置するイギリスでは1250種程度である。世界的にみると、種数が2000以上の地域は、他の大陸では熱帯域に限られているが、グリーンベルト地域は日本や中国の中・南部を含む中緯度にも広く分布している(131〜2頁)」。ちなみに生物多様性と言っても、この記述(や本書にある他のすべての記述)は植物に限られているわけだけど、植生が多様であればそこに住む動物も多様であろうことは容易に想像がつく。

 

以上のようなアジアグリーンベルトにおける生物多様性の高さの指摘は、第6章の「モンスーンアジアの風土」という、文系的な風土論へとつながっていく。風土論と言えば和辻哲郎がまず思い浮かぶけど、本書でもまず和辻哲郎の風土論が取り上げられている。ちなみに、あまりに図式的すぎるというような批判が強いから、個人的には和辻の本はまったく読んだことがない。実際、本書に書かれている和辻の風土論の概要を読んでも、あまりにも型に嵌め過ぎているきらいがあるように思えた。

 

ただ冒頭にある和辻の指摘は、非常に重要と思われるので、引用の引用になるけど取り上げておく。「この書[和辻哲郎著『風土――人間学的考察』のこと]のめざすところは人間存在の構造契機としての風土性を明らかにすることである。だからここでは自然環境がいかに人間生活を規定するかということが問題なのではない。通例自然環境と考えられているものは、人間の風土性を具体的地盤として、そこから対象的に解放され来たったものである。かかるものと人間生活との関係を考えるという時には、人間生活そのものもすでに対象化されている。従ってそれは対象と対象との間の関係を考察する立場であって、主体的な人間存在にかかわる立場ではない。我々の問題は後者に存する。たといここで風土的形象が絶えず問題とせられているとしても、それは主体的な人間存在の表現としてであって、いわゆる自然環境としてではない。この点の混同はあらかじめ拒んでおきたいと思う(139頁)」。

 

これがなぜ重要かというと、通常私たちが口にしている「自然」とは、行為主体としての人間の営為によって加工された自然であって、人間も自然の中に含まれているということが明確化されているから(「通例自然環境と考えられているものは、人間の風土性を具体的地盤として、そこから対象的に解放され来たったものである」)。人間にとっての自然と地球にとっての自然はまったく異なる。「火の玉アース」や「スノーボールアース」は、人間にとっての自然には決してなり得ないのに対し、地球にとっての自然であることに違いはない。だから「地球の自然を守ろう」というのは一種の偽善的なもの言いであって、本来は「人間にとっての自然を守ろう」というべきであることになる。

 

次に著者は、オギュスタン・ベルクの「風土」学を取り上げている(ベルクなら読んだことがある)。それによれば、ベルクは和辻を批判しつつ、風土を「ある社会の、空間と自然とに対する関係性」として定義し、「風土とは、人とその周りの(自然)環境をそれぞれ独立に捉えて、その関係を考えるというものではない(143頁)」と主張したとのこと。『森林に何が起きているのか』(中公新書)を取り上げた際に、ハリウッド映画『ジュラシック・パーク』に言及して私めが述べたこともこれと変わらない。そのような風土論に関して著者は、「人と自然は二項対立で分けられる存在ではなく密接につながった存在である、という視点こそが、「風土」ということばの本質には含まれているべきなのである(138頁)」と述べている。

 

そのようなアジアのモンスーン地帯の風土から多様性や多元性が生まれたというのが著者の主張で、次のようにある。「モンスーンアジアは、大きく東アジア、東南アジアおよび南アジアに分けられる。いずれの地域もモンスーン気候に根づいた水田稲作農業をその生業のベースとしながらも、それぞれの地域ごとの気候や生態系の特性と人種・民族のちがいから、伝統的社会の形成とその歴史的発展は大きく異なる。この過程で醸成されてきた社会と文化は、要約すれば、多様性と多元性である。少なくとも近代以前のモンスーンアジアの中では、それぞれの地域の社会と文化は、地域ごとの多様性と歴史的発展過程の多元性を前提としつつも、相互のつながりと共存があったともいえる(155〜6頁)」。あるいは「モンスーンアジアとよばれる広大な地域では、アジアモンスーン気候と自然生態系、そして地形・地理的条件の下で、人々は水田稲作農業を、完新世の1万年近い歴史過程の中で多様に展開させてきた。その結果の一端が、人口の集中(図6−1)と水田の分布(図6−3)としてみえているが、地域ごとの多様な自然との関わり合いの中で、極めて多様・多元的な風土と社会、そしてこれらを統治する「アジア的」国家群が築かれてきたのである(167頁)」。

 

このように歴史的に言っても、モンスーンアジアの社会と文化は、地域ごとに多様性がありながら、相互のつながりと共存が存在していたのであり、その一つの例が『海の東南アジア史』(ちくま新書)に書かれていた、海を媒介としたアジアの広域貿易圏なのだろうと思う。キリスト教の影響を多大に受けて、いきおい一元的にならざるを得なかった欧米諸国とは、モンスーンアジアは相当に異なっていると言えるのかも。

 

少し飛躍すると、ならば最近のトピックで言えば、LGBTQなど、キリスト教の影響を受けて一元化している欧米でこそ意味があったとしても、もともと多様で多元的だったモンスーンアジアの日本にはそもそも暗黙的に存在していたような考えを、強引に持ち込んで明文化することが正しいかどうかはよく考えてみる必要がある。明文化することで、かつてはなかったものが顕在化してかえって差別を生む結果にもなりかねない。考えてみれば私めが子どもの頃にも、カルーセル麻紀とかピーターとか現在で言うところのトランスの芸人がテレビで活躍していて、おそらくはほとんどの人がそれを特に不思議だとは思っていなかった。あるいは「おねえ」という言葉は、一種の愛称であってそこに侮蔑的な響きはないはず。このような傾向がどれくらい昔からあったのかはよくわからんし、モンスーンアジアだからと言うつもりもないけど、日本が欧米とは違った価値観を維持してきたことに間違いはない。

 

むしろ欧米こそ外れ値であることは、その欧米人自身のジョセフ・ヘンリックが『The WEIRDest People in the World』(GFS, 2020)で書いている。またわが訳書、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』に次のような記述がある。「さまざまな医学論文が、少数民族においてはメンタルヘルスの問題があまり認識されていない点に言及しつつ、人々をなんとか分類システムに当てはめようとする西洋医学の傾向について論じている。DSMは、特定の文化に依存する文書にもかかわらず、医療機関は自分たちのルールを他民族にも適用しようとする。なぜなら、実証的で科学的な欧米流アプローチのほうがすぐれていると見なしているからだ。問題は、世界の大半の人々に関するデータが実証の基盤に含まれていないことにある。メンタルヘルス研究の多くは、産業化された裕福な国で暮らす高度な教育を受けた白人を対象にしている。私たちが欧米の医療システムを押しつけようとしている人々は、そこには含まれていない(同書406〜7頁)」。

 

この文章はLGBTQではなく医療に関するものではあれ、まさにその種の欧米の分類思考やそれをもとにしたイデオロギーこそが、右対左、あるいは先の例で言えばLGBTQ対非LGBTQなどといった二項対立を生み出しているのであり、もともと多様性をおおむね認めていたモンスーンアジアの日本に、そのような考えをわざわざ持ち込むことが有益なのか否かはよく考えてみる必要があるはず。たった今読んでいる最中の『Our Tribal Future』(St. Martin’s Press, 2023)には、このような近代特有のイデオロギーは、内集団と外集団を区別し後者より前者を優先しようとする部族主義の範疇に入るという主旨のことが書かれている(ただしこの本は部族主義の問題のみらず、その利点も論じており、むしろ後者が強調されているように思える)。ちなみに、かつての部族社会では内集団と外集団は地理的にも分離しているのが普通だったんだろうけど、現代社会では同じ地域内でも生じうる。たとえばLGBTQ対非LGBTQという線引きは、地理的な分布にはほとんど関係がない。要するにイデオロギーは、本来ありもしない境界線を、地理的な分布にすらまったく関係なく恣意的に引いて、そこに内集団対外集団の対立を持ち込む。さらに言えば、欧米=普遍ではないのはもちろんのこと(それどころかヘンリックなどの欧米の学者自身が述べているように外れ値でしかない)、普遍性と多様性は両者を同一レベルでとらえれば矛盾する。普遍性とは包括的な説明レベルに属する事象であるのに対し、多様性とは人々の生活がかかった了解レベルに属する事象なのであり、互いに粒度が異なる。そこを勘違いすると、既存の社会を破壊しかねない。

 

脱線がひどくなってきたので、新書本の話に戻りましょう。冒頭で述べたように、著者は俳句をモンスーンアジアの特徴が反映されたアートとしてとらえているわけだけど、それについて「第7章 日本の風土と日本人の自然観の変遷」で論じられていて、なかなか興味深い。次のようにある。「私たちが『おくのほそ道』の句や芭蕉のその後の多くの句に感動する(できる)のは、これらの句が、中世の古典の世界を超え、近世の人情の世界も超えて、現代に生きる私たちが共有している自然観、宇宙観の琴線にも触れるからであろう(195〜6頁)」。私めなら、これは「モンスーン気候に特徴づけられた、日本における文化的進化によって生み出された日本人の直観に適合するから」と言うでしょうね(ということは、その俳句に関心が湧かない私めは、欧米文化に毒された欠陥日本人なのかも)。

 

あるいは次のようにある。「俳句とは、アジアモンスーン気候に規定された日本列島という風土の中で、「季語」と「切れ」でコード化された世界最短の詩型文学ということができる(199頁)」。「切れ」というのは私めには初耳なんだけど、著者によれば「「切れ」は、詠み人のこころに「間」を作り出すが、「間」は(「季語」という)強力な「場」の上でしか成り立たない。「間」をおくことにより、季語で決められた「風景」の中で、何を感じ何を想ったのかを、ひとりひとりのこころとして表現できる(199頁)」のだそうな。言語が人間の思考様式を決定するという見方はある意味陳腐ですらあり、さすがに有名なサピア・ウォーフ仮説は行き過ぎて現代ではそのままでは通用しないんだろうけど、そういう側面があることは否めないと個人的には思っている。そういえば最近読んだ『The Power of Language』(Dutton, 2023)もそれが主題だった。あるいは、おそらく来年にわが訳で刊行されるはずのバーチャ・メスキータ著『Between Us(人と人のあいだ)』(Norton, 2022)に次のように書かれている。「情動語[情動を表わす言葉]の使用は特定の{事例/インスタンス}を、同じ言葉を話す人々による集合的な経験に結びつけることを意味する。それは、情動が本人を自文化の一部として組み込む方法の一つなのである」。新書本の著者とメスキータ氏の考えを合わせて考えると、俳句とは、句であって単語ではないとはいえ、独自のモンスーン気候に影響された日本文化で発達した情動語の一種であり、それを介して各人が日本独自の集合的な経験に結びつけられ、「現代に生きる私たちが共有している自然観、宇宙観の琴線にも触れる」のだろうと思う。

 

最後の「第9章 「人新世」を創り出したモンスーンアジア」と「終章 モンスーアジアの未来可能性」は、人新世におけるアジアのエネルギー問題がおもに論じられているけど、「認識が甘くね?」という印象を受けた。化石燃料の消費による地球温暖化問題に関しては、気候変動と呼ぶべきという点以外は同意するけど、ではどうすべきかに関しては大きな疑問が残る。というのも著者は、原発には反対する一方で、太陽光発電などの現状の再エネ技術を楽観視しすぎているように見受けられるから。太陽光パネルがいかにひどい環境破壊をもたらしているかは、ネット上にたくさんあがっている山の木を伐採して建設したメガソーラーのとってもアグリーな画像を見れば一目瞭然でわかる。つまりモンスーンアジアに属する日本の、著者がこよなく愛でる?俳句というアートを可能にしている日本の多様な自然を破壊しまくっている。しかも著者は「モンスーンアジアは、人口が集中している沿岸域や低地・平野部を中心に、すでに世界における水災害のホットスポットとなっていることがこれらの図[図9−6、7]からよくわかるが、地球温暖化でこの状況はさらに悪化する可能性が高くなる(265頁)」と述べているわけで、メガソーラー建設による森林伐採は、そのような水害の規模をさらに拡大する可能性がきわめて高い。のみならず森林は、いったん伐採してしまえば元に戻すには数十年はかかるはず。

 

確かに著者が主張するように、理想状態ではモンスーンアジアは、自然エネルギーの利用に最適な気候条件を有しているのかもしれない。ところがモンスーンアジア、とりわけ日本の地形は、自然エネルギー、特に太陽光の利用を極端にむずかしくしている。その点は、日本の鉄道動画と、ドイツの鉄道動画を見比べればよくわかることはこれまで何度も指摘してきた。もちろん再エネ技術は今後も改善されていくだろうが、それを待っていれば手遅れになるかもしれない(なので暫定的にでも、自然災害を受ける危険の少ない原発を再稼働すべきというのが私めの見解)。

 

ましてや「モンスーンアジア共同体」という概念に至っては、著者自身「とんでもない夢物語と思われる人も多いかもしれない」と書いているように、100年後ならどうかしらんが、ここ数十年のうちにそんなものが成立するとはとても思えない。そもそも100年もそんなものの成立を待っていたら、もはや手遅れになることは必定でしょう。さらに言えば、「モンスーンアジア共同体」なるものは、現状の力関係から言って、あるいはあちこちで問題を引き起こしている中共の一帯一路政策に鑑みれば、「大東亜共栄圏」の中共バージョン「大中華共栄圏」に堕する可能性のほうが高く、まともな共同体になるか否かはどれだけ日本が中共の力に抗することができるかにかかっていると思う。中共がその強大な軍事力をもって暗黙的にせよ圧力をかけてきたら、とりわけ現憲法に縛られた日本が抗せるようには思えない。要するに、著者の議論には昨今まったく無視できなくなった(経済)安全保障の問題が完全に抜け落ちているということ。

 

ちなみに最近読んだ、左向きの岩波から刊行されている『持続可能な発展の話』(岩波新書)ですら、再エネ発電に関して、次のように問題点も合わせて指摘している。「例えば太陽光発電分野では、発電規模が1メガワット以上の発電所、いわゆるメガソーラーが各地で誕生しています。しかしこれらの中には、山林を無造作に切り開いて大量の太陽光パネルを敷き詰めるなど、生態系破壊リスクや土砂災害リスクを高めているといわざるを得ない事例が散見されます(同書122〜3頁)」。そして次に風力発電の問題をあげたあと、「これらを見て見ぬふりをしながら再エネの普及拡大を図るならば、持続可能な発展の名折れであり、分散的双方向型電力ネットワークの社会的正当性は大きく損なわれることでしょう(同書123頁)」と正しく指摘している。

 

両者の認識の違いは、岩波新書の著者が1976年生まれでかなり若いのに対し、中公新書の著者が1947年生まれとかなり高齢であることによるのかもしれない。若い著者は、メガソーラー建設が日本の自然に対して引き起こしている惨状を、ネットを通じてよく知っているだろうしね(あるいは著者の専攻は環境ガバナンス論とあるので、メガソーラーの実地調査をしているのかもしれない)。それに対して、朝日などの左向きのメディアは自分たちのイデオロギーに都合の悪いことは報道しないだろうから、その手のメディアに頼っている高齢の著者は、メガソーラーの実地調査をしていない限りその事実を知らないのかもしれない。ということで最後の二章が非現実的にすぎるように思えたのを除けば、読んで損はないという印象を受けた。

 

 

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※2023年6月13日