◎慎改康之著『ミシェル・フーコー』(岩波新書)
タイトルを見ればわかる通り、みんな大好きフーコーさんに関する本で、6年ほど前の新書本(おじぇじぇ病にかかっている私めは、最近はおじぇじぇ節約のために古い本をけっこう読み直していることが多い)。したがって6年ほど前にすでに一度読んでいるのを再読した。著者の別のフーコー本『フーコーの言説』も比較的最近取り上げたけど、両者の違いについては、著者自身が「あとがき」で次のように書いている。≪『フーコーの言説』の方は、フーコーをあらためて読み直すという企図のもとに書かれたものである。何らかのかたちでフーコーの著作ないしフーコー的な考え方に触れたことのある読者を念頭に置きながら、彼の死から三十余年を経た今日において可能な一つの読み方を提示するために、テクストを引用して出典を明記し、オーソドックスなやり方で論述を試みた。¶これに対し、本書『ミシェル・フーコー』はもっぱら、これからフーコーを読み始めようとしている人々に向けられたものである。フーコーが書いたこと、語ったことを、彼の主著を中心にして簡潔に紹介するとともに、時代背景や評伝的情報といった、読解のために役立つと思われるいくつかの事実にも触れてある。加えて、略年譜と参考文献表を巻末に置くなど、フーコーの手前で立ち止まっている人々が歩を前に進めるための手助けとなることができるよう心を配った(189〜90頁)≫。ということは、こちらは「フーコー入門」といったところらしい。ただ二読した印象では、入門と言えるほど簡単ではないようにも思えるけど、まあそれはフーコーさんだけに仕方がないのかも。いずれにしても、同じフーコーの著作を同じ著者が扱っているだけに重なる部分もあろうが、その点は許しておくんなまし。それからフーコー以外にもメルポンさんやハイデッガーさんらに関する興味深い記述もあったので、それも取り上げるつもり。
ということで「序章」は飛ばして、さっそく「第一章 人間学的円環」から参りましょう。実は、著者によると、一九五〇年代のフーコーは六〇年代以後の主張とはまったく逆の人間学的な主張をしていたらしい(それについては『フーコーの言説』でもかなり詳しく述べられていた)。そのことが、こちらの新書本でも次のように簡単に述べられている。≪人間の実存の根源的運動を読み解くために、意識から逃れ去る夢の真の意味への到達を企てること。精神の病に打ち克つために、現実の社会のなかで失われてしまった人間性を取り戻そうとすること。人間が自らに関して喪失したものを回収するという目標をこのようにそれぞれのやり方で掲げることによって、二つの「前フーコー的」テクストは、それらがともに、当時のフランスにおいて支配的であった思潮に全面的に帰属しているということをはっきりと示している(17〜8頁)≫。引用文中にある≪二つの「前フーコー的」テクスト≫とは、フーコーが一九五〇年代に書いた、≪ルートヴィヒ・ビンスワンガー著『夢と実存』のフランス語訳に序論として寄せられた文章と、学生向けの叢書のために執筆された小著『精神疾患とパーソナリティ』(12頁)≫を指す。また引用文中にある≪当時のフランスにおいて支配的であった思潮≫とはおもに、次のようなサルトルの実存主義を指す(他にも≪五〇年代のフランスにおいて一般に受け入れられていた人間主義的なマルクス読解(18頁)≫もあげられているが、それについては省略する)。≪人間主体を絶対的な出発点としつつ人間の実存に関する問いかけを自らの任務として引き受けること、これは、(…)サルトルが提唱したようなものとしての実存主義へと送り返される。いかなるやり方によっても前もって決定されてはいないという人間存在の在り方を「実存」として定義しつつ、そうした人間全体の全面的な自由を「あらゆる価値の基礎として肯定しなければならない」と説くサルトルは(「実存主義はヒューマニズムである」、『実存主義とは何か』所収)、第二次世界大戦前後のフランスにおいて圧倒的な支持を得て君臨していたのだった(18頁)≫。しかし、実存主義や人間主義的なマルクス読解に影響を受けていたのは五〇年代のフーコーであり、それを著者は≪「前フーコー的」≫と呼んでいるわけ。ところが六〇年代に入ると、フーコーは立場を一八〇度転換して、≪それまで自分が専心していたものとは根本的に異なる新たな探究に身を投じることになる。歴史に問いかけて自明性を問題化するという「フーコー的」な研究が開始されるということであり、そうした研究の最初の成果として世に出る書物、それが、一九六一年の『狂気の歴史』なのである(19頁)≫。
ということで次にその『狂気の歴史』が取り上げられる。まず次のようにある。≪『狂気の歴史』で問題とされているのは、『精神疾患とパーソナリティ』と同様、精神の病と歴史および社会との関係である。しかしそこでは、一九五四年の書物[『精神疾患とパーソナリティ』]とは全く別の観点から、全く異なる分析が展開されている。精神の病が引き起こされる原因を社会のなかに探ろうとする代わりに、一九六一年の書物が新たに提出するのは、西洋において狂気と理性との分割はどのようにしてなされたのか、そしてその後、狂気はどのようにして病という唯一の形象に還元されてしまったのか、という二つの問いである。そしてそれらの問いに対し、フーコーはとりわけ、「古典主義時代」と呼ばれる十七世紀から十八世紀にかけての監禁制度の創設およびその変遷に注目しつつ答えようとするのである(20〜1頁)≫。ではフーコーは具体的に何を言ったのか? まあよく知られていることではあるけど重要なので、それについてやや長めに引用しておきましょう。次のようにある。≪精神医学の歴史を科学の進歩や人間性の勝利という観点から辿り直そうとする人々は、好んで、十八世紀末における狂者の解放を語る。つまり、それまで雑多な人々から成る空間のなかに他と区別されることなく閉じ込められていた狂者たちが、そのような混乱した知覚からついに解き放されて、病者として人間的な扱いを受けるようになったのだ、と。¶しかしフーコーによれば、実際に起こったのは逆に、狂者以外のすべての人々の解放であり、狂者による監禁空間の占有である。そして彼は、監禁制度の設立から崩壊へと至るこうした歴史的変容のうちに、かつては多様なやり方で経験されていた狂気がついに精神の病という唯一の形象に還元されてしまったその要因を見定めようとする。¶まず、監禁空間が狂者専用のものになるとともに、そこへの収容が、狂気の秘密を明かすと同時に狂気を治癒へと導くという医学的な価値を帯びていくということ。次に、そもそもは監禁の結果として狂者にもたらされた自由の喪失という状況が狂気の本質のようなものとみなされることになり、そこから、狂気が主体の自発性を喪失したものとして、つまりは単なる一つの客体と化してしまったものとして定義されるようになるということ。そして最後に、かつては身体の不調と切り離しえないものとしてとらえられていた狂気が、監禁制度において悪徳の一つとされたことによって、以後、もっぱら道徳的な欠陥として、つまり人間の内面における混乱として考えられるようになるということ。¶要するに、監禁空間の再編成のなかで、狂気が医学化され、客体化され、内面化されるということだ。そうした変容によってこそ、狂気は以後、{客観的/傍点}に把握可能な{精神の病/傍点}として自らを差し出すようになるのだということを、フーコーは示そうとするのである(24〜5頁)≫。さらに次の指摘も取り上げておきましょう。≪『狂気の歴史』は、十九世紀以降に狂気が人間の認識のために果たすようになる役割が、一つの人間学的公準を準拠とするものであることを指摘している。十八世紀末頃に歴史的に構成されたとされるその公準とはすなわち、「{人間存在は、一つの真理を、与えられると同時に隠されたかたちで、自らに固有に帰属するものとして保持する/傍点}」というものである。人間は自らに固有の真理を確かに所持しているが、その真理は人間自身に対して常に自らを隠蔽しつつ示すという、この公準こそが、人間に関する探究において喪失したものの回収という任務を本質的なものとするとともに、狂気を、そうした任務のためにこの上なく有用なものとして呼び寄せるのだ。要するに、フーコーはここで、かつて自分自身が自らに引き受けていた人間学的任務を、歴史的な文脈のなかに位置づけながら問題化すべきものとして、とり上げ直しているのである(27頁)≫。
『狂気の歴史』を取り上げた第一章はこの程度にして、次は『臨床医学の誕生』が取り上げられる「第二章 不可視なる可能性」に参りましょう。冒頭に、第一章で扱った『狂気の歴史』に関して≪『狂気の歴史』は、一九六一年の出版当初からすでに大きな評判を得たわけではない。この著作が「反精神医学」の波とともに社会運動によって大々的なやり方でとり上げ直されるのは、まだしばらく後のことである(36頁)≫とあって、ちょっと意外に感じた。というのも個人的には、反精神医学とフーコーは、方法論的に水と油の関係にあると思っていたからですね。そもそも反精神医学の代表者の一人R・D・レインの「精神病の発症要因はもっぱら社会に求められる」とする考えは、先の引用文中に≪精神の病が引き起こされる原因を社会のなかに探ろうとする代わりに、一九六一年の書物が新たに提出するのは≫とあるような『狂気の歴史』の方法論とはまったく異なるように思える。また代表者の一人レインが精神分析医でもあったことからもわかるように、個人的には反精神医学には精神分析とのつながりがあるように思っている。これは個人的な思い込みにすぎない可能性もあるとしても、ググると「反精神医学は精神分析と関連し、特に精神分析的な心因論を社会的な要因へと発展させる側面も見られます」と、またJSAPPのホームページには「極端で過激な運動と捉えられがちな「反精神医学」であるが、存外、系譜を辿ると、精神分析とも重なるところがある」と書かれているので、まったくの勘違いではないように思われる。その精神分析は、『狂気の歴史』がまさに否定しようとしていた≪人間存在は、一つの真理を、与えられると同時に隠されたかたちで、自らに固有に帰属するものとして保持する≫という≪十八世紀末頃に歴史的に構成された≫人間学的公準に従っているように思える。つまり、無意識のなかに隠されている真の自己を暴き出すことが精神分析の目的であったということ。著者の見立てに従えば、これは明らかに一九五〇年代のフーコーには当てはまっても、一九六〇年代以後のフーコーには当てはまらないはずであり、その点で「おや〜〜〜ん?」と思ったのですね。
とはいえ著者によれば、『狂気の歴史』のとりわけ初版の序文(この序文は一九七二年版では削除されているとのこと)においてはまだ一九五〇年代的フーコーの残滓が残っていたらしい。それに関して次のようにある。≪客観的な把握を逃れるものを想定しつつそれを何らかのやり方で回収しようという、『狂気の歴史』初版の序文に掲げられている企ては、実際、五〇年代のフーコーにおける人間学的探究の特徴として見いだされたものへと送り返される。人間の真理を、狂気においてそれが失われるというネガティヴな経験を介してとらえようとするやり方について、一九六一年の書物は確かに、それが歴史的に成立した一つの公準に依拠するものであることを示してみせた。しかしそのように人間主体を特権的対象とする探究が問題化される一方で、喪失したものの回収という弁証法的な図式そのものはそこにいわば無傷のまま残っている。そしてそれを明かしているのが、ポジティヴな認識を逃れる本質のようなものとしての「狂気それ自体」をめぐる記述なのだ(41頁)≫。この『狂気の歴史』の問題に対して、『臨床医学の誕生』はどう答えたのか? それについて次のようにある。≪フーコーにおいてネガティヴなものによる魅惑が払拭され、喪失したものの回収という任務が決定的に放棄されるのは、どのようにしてなのだろうか。¶この問いに対して答えるための手がかりを与えてくれるのが、一九六三年に出版される『臨床医学の誕生』である。というのも、近代医学の誕生に関する歴史的分析のなかで、この著作はまさしく、ポジティヴなものとネガティヴなものとの関係を、歴史的に成立したものとみなしつつ問い直しているからだ。すなわちそこでは、逃れ去るものを取り戻すことが企てられる代わりに、そうした企てを歴史的に可能にしたのはいったい何かということが問われているのである(44頁)≫。
ならば、『臨床医学の誕生』では、具体的にどのようなことが論じられているのか? それに関する記述を、やや長めに引用しておきましょう。次のようにある。≪病の真理が、身体内部の「病変」のうちに宿るとみなされるようになるとともに、医学的視線は、表面に見えているものの観察から、深層に隠されているものの探索へと赴かねばならなくなる。このことを、一つの科学的発見の純然たる帰結とみなしてはならないとフーコーは言う。医学に新たな任務が課されるようになったのは、それまで病において不可視のままにとどまっていたものが、医学の理論的ないし技術的な発達によって目に見えるようになったからではない。というのも、病が身体の表面において展開されるものとしてとらえられていた限りにおいて、医師は、自分の目に直接現れるものを観察し、それを語ることで満足していたからだ。つまり、臨床医学的視線にとって、病のすべては身体の表層にあったということ、直接的に目に見えるものこそが病であったということであり、病のうちには視線に対して隠されたものなど何もなかったのである。¶したがって、医学的視線に対し、表層から深層へという垂直の道が課されるようになったのは、それまで見えないものなどなかったところに、見えないものが、見えるものの内的骨組のようなものとして、歴史的に構成されたからである。見えるものと見えないものとのあいだに新たな関係が結ばれたということ、新たな可能性の構造が成立したということだ。フーコーが「{不可視なる可能性/傍点}(…)の構造」と呼ぶその構造においては、真理が、宿命的に視線を逃れると同時にその視線を絶えず呼び求めるようなものとして想定される。逃れつつ呼び求めること、自らを隠しつつ示すことこそが、真理の本性のようなものであるとみなされるのだ。可視性の形態と真理の在り方との関係をめぐるそうした歴史的変化があったからこそ、表層から深層へ、見えるものから見えないものへ向かうという任務が、医学的真理の探究のために可能かつ必要となったのだということを、フーコーは示そうとするのである(49〜50頁)≫。≪真理が、宿命的に視線を逃れると同時にその視線を絶えず呼び求めるようなものとして想定される。逃れつつ呼び求めること、自らを隠しつつ示すことこそが、真理の本性のようなものであるとみなされるのだ≫という臨床医学のあり方は、個人的な印象では精神分析がまさにその典型であるように思える。もちろんフーコーは、西洋のエピステーメーの「脱構築」を意図して『臨床医学の誕生』を書いているはずなので、そこからも、先に述べたようなフーコーと精神分析の水と油の関係がわかるような気がする。
見えるものと見えないものについての著者の説明をもう少し聞いてみましょう。≪『狂気の歴史』初版の序文において、「狂気それ自体」の歴史を書くという企てのなかで想定されていたのは、狂気に関してポジティヴなやり方で得られる知の背後に、そうした知を逃れつつそれを支える何かが執拗に存続しているということであった。これに対し、一九六三年のフーコーによって見えないものの産出が語られるとき、根本的に問いに付されるのは、ポジティヴなものがネガティヴなものによって必然的に裏打ちされているというまさにその想定である。見えないものが、見えるものに絶えずつきまといながらそれを支えるものとしてではなく、見えるものしかなかったところに後からもたらされた一つの効果にすぎぬものとしてとらえられるということ。要するに、かつてのフーコーを魅惑していたネガティヴなものの根源的な力が、一九六三年の二つのテクスト[『臨床医学の誕生』と『レーモン・ルーセル』のことだが、後者についてはここでは取り上げなかった]では失効してしまっているのである(52〜3頁)≫。≪見えないものが、見えるものに絶えずつきまといながらそれを支える≫とは、まさに精神分析の思考様式であるように思えるが、一九六三年のフーコーは、そのような残存していた本質主義的側面を完全に「脱構築」したということなのでしょう。
ではフーコーは『臨床医学の誕生』で具体的に何を語ったのか、もう少し詳しく見てみましょう。その序文を取り上げて次のようにある。≪フーコーによれば、十七世紀から十八世紀にかけての西洋では、光においてこそ事物がその本質に適合するとされ、見るという行為は、その光のなかで自らを消し去ることをその到達点とするものとみなされていたという。しかし十八世紀末になると、事物と視線と光とのこのような関係が根本的に変容する。以後、事物は自分自身の暗がりのうちに閉じこもり、光は完全に視線の側に移ってしまう。自分自身の明るさを頼りに事物を経めぐり少しずつ事物のなかへと侵入していくものとしての視線こそが、「事物の夜」を照らし出す役割を担うことになるのである。真理が、深みにあって目に見えないものの側へ、「事物の暗い核」へと後退すると同時に、経験的視線が至上の力を得るということ。そしてその視線を逃れ去りつつそれを呼び求める「客体の執拗かつ越えがたい厚み」を前にして、視線は、それを踏破し統御するという「終わりのない任務」に身を委ねるようになるということ。要するに、『臨床医学の誕生』本論のなかで医学に関して語られることになる問題が、序文において、西洋の知一般にかかわる問題として先取りされているのだ(56頁)≫。最後の一文から前の記述は、要するに既存の西洋のエピステーメーに関する説明であり、フーコーはそれを『臨床医学の誕生』で「脱構築」しようとしたということが述べられている。
ところでやや牽強付会、我田引水気味になるけど、この議論と似たような議論を最近どこかで読んだようなという印象を持った。それは『主権の二千年史』のことで、そこで私めは、同書の議論を参照しながら「現代のグローバリゼーションは、まさに近世・近代を隔てた、中世後期のカトリック社会への先祖返りと捉えられるかもしれない」と述べた。中世後期のカトリック社会とは、そこでも述べたように「普遍化」を目指す社会であった。そのような社会では「普遍化」され「同一化」された均質な空間のもとで、理想的にはあらゆる事物が光に照らし出されることを前提とする。つまり見えないものが見えるものを支えていて、≪光においてこそ事物がその本質に適合する≫と考えられていたと見られる。ところが近世・近代に入って国民国家が成立すると、私めの言う「縦糸」という深さが重要視されるようになる。要するに、≪自分自身の明るさを頼りに事物を経めぐり少しずつ事物のなかへと侵入していくものとしての視線こそが、「事物の夜」を照らし出す役割を担うことになる≫。ところが現代のグローバリゼーションは、この近代的なあり方を再度逆転して、「普遍化」され「同一化」された均質な空間を確立しようとしているのですね。もちろん引用文中で≪十七世紀から十八世紀にかけて≫から≪十八世紀末≫にこの逆転が起こったとフーコーは考えていたらしいので、「中世」から「近世・近代」に比べれば時代はやや先にずれるし、また、フーコーが、そのような十八世紀末以降の西洋のエピステーメーを脱構築したとはいえ、彼の生前にはまだ本格化していなかった「グローバリゼーション」についてどう見ていたのかはよくわからない。でも、ここには何やら似たような「先祖返り」の構図があるように思えて仕方がなかった(さすがに穿ちすぎの感がないでもないけどね)。
次は『言葉と物』が取り上げられる「第三章 人間の死」。まず有限性の概念に関して次のような指摘がある。≪十七世紀から十八世紀にかけての思考にとって、有限性は無限の否定以上の意味を持ちえなかったとフーコーは言う。つまり、人間が有限である、という言明は、神の全能に対する人間の無能力を指し示すものにすぎなかった、と。しかし十八世紀末以来、その人間の有限性に対してポジティヴな意味が付与されることになる。すなわち、死をその最も明白な形態とするものとしての人間の有限性が、人間存在に固有のもの、人間存在の基礎をなすものとして見いだされるのである(62頁)≫。
次に著者は、≪十八世紀末に無限と有限との関係が逆転するということ、これは、哲学史的には、いわばある種の定説に属するものである。そしてそうした逆転を哲学に根本的な打開をもたらしてきたものとして承認しつつ、そこから出発して自らの哲学的探究を展開するのが、(…)二人の現象学者、メルロ=ポンティとハイデガーに他ならない(62〜3頁)≫と述べて、メルポンやハイデッガーの無限と有限に関する主張に言及している。メルポンもハイデッガーも個人的に気になる哲学者なので、ここではやや長く引用しておきましょう。次のようにある。≪一九四五年の著作『知覚の現象学』において、メルロ=ポンティは、デカルトが有限性について十全に思考しえなかったことを強調していた。十七世紀の哲学者デカルトは、人間の有限性に何らのポジティヴな意味も認めなかった。そのため彼は、人間の思考をその有限な思考そのものから出発してとらえることができず、「絶対的に自己を所有している思考」、つまり無限なる神の思考によってそれを支えることになってしまった。デカルト哲学は、無限についての独断論に立脚していたのであり、それゆえに、有限性を根源的なものとしてとらえるには至らなかったのだ、と。こうしてメルロ=ポンティは、デカルト的反省について、それは「完成した意識化ではない」と断ずることになるのである。¶それでは、そうした「意識化」の完成はどのようにしてなされるのか。この問いに対して一つの回答を示したのがハイデガーである。(…)『カントと形而上学の問題』においてハイデガーは、カントの三つの「批判」において提出された三つの問いのすべてを、自分自身の有限性に対する人間理性の関心にもとづくものとして示していた。ところで、その有限性は、その問いによって問われている対象であると同時に、人間がそうした問いを発することを可能にするものでもある。つまり、人間が、自らの能力、義務、希望について問うことができるのは、人間が全能でもなく、完全でもなく、無欠でもない存在である限りにおいてであるということだ。自らに固有のやり方で有限であることが、カントとともに、人間の経験の基礎にあるものとして承認されるということ。「人間とは何か」という問いとともに、有限性が「今や初めて問題となりうる」、というわけだ。¶メルロ=ポンティは、十七世紀の主知主義的思考を無限の形而上学に依拠するものとみなしつつ、そうした形而上学を乗り越えることによって、人間の有限な知覚を根源的な認識としてとらえ直そうと試みる。他方、ハイデガーは、十八世紀末以来、人間における有限性が、構成的なもの、基礎をなすものとして登場すると同時に、知の特権的な対象となったことを確認しつつ、「現存在の形而上学」へと導かれることになる。要するに、彼らは、有限性をめぐる逆転という出来事を「意識化」の完成として語りつつ、それが彼ら自身の現象学的探究を大きく方向づけたものであるということを、ともにはっきりとしたやり方で認めているのである(63〜4頁)≫。
この無限性と有限性に関するメルポンとハイデガーの見解はなかなか興味深い。というのも、≪彼らは、有限性をめぐる逆転という出来事を「意識化」の完成として語りつつ、それが彼ら自身の現象学的探究を大きく方向づけたものである≫とあるように、ここには有限性から人間性を読み解くという現象学の方法論が明らかにわかるから。そしてその端緒となった考えの一つが、カントのコペルニクス的転回であったこともよくわかる。また、≪無限についての独断論に立脚していた≫デカルト哲学からカントのコペルニクス的転回への変化は、時代はややずれるにしても、前述した中世後期的な均質的な普遍主義から、国民国家が成立して以後の近世・近代における≪自分自身の明るさを頼りに事物を経めぐり少しずつ事物のなかへと侵入していくものとしての視線こそが、「事物の夜」を照らし出す役割を担うことになる≫と見なす思考様式への変化にも並行しているようにも思える。やや大げさに言えば、ある意味で、このような変化が起こった時点で「主観性」「主体性」「能動性」が見出され、その集大成をなすのがメルポンやハイデガーの現象学だったとも言えそうに思える。個人的に現象学が非常に興味深く思えるのも、このような歴史的な展開について知るための間接的なきっかけを提供してくれるからなのかもしれんとふと思ってもた。
では、肝心のみんな大好きフーコーさんはメルポンやハイデガーの見立てをどう見なしていたのか? それについて次のようにある。一九六六年に刊行された『言葉と物』では、≪有限性をめぐる逆転がどのようにして起こったのか、そしてその出来事がどのような帰結をもたらしたのかということが、西洋の認識論的布置の変容に関する探究において明示的なやり方で問われるのである。¶そしてその際にフーコーによって示されるのが、メルロ=ポンティとハイデガーに見いだされるものと真っ向から対立する見解である。一方において、メルロ=ポンティがその欠陥を指摘した古典主義時代の思考には、それに固有の整合性が見いだされる。そして他方、ハイデガーを「現存在」の分析へと導いた人間学的問いかけは、一つの錯覚ないし発明を含意するものとして暴き出される。要するに、『言葉と物』においてフーコーは、無限の形而上学のもとで見誤られていた根源的有限性がカントとともについに「意識化」されたのだ、ととらえる代わりに、そうした有限性が実は歴史的な構成物であるということ、そしてそれが思考をある種の眠りに導くものでもあるということを明らかにしようとするのである(65〜6頁)≫。それを言うなら、無限性についても≪実は歴史的な構成物である≫ということにならないのかなと、何となく思ってまう。ただそのあとのくだり≪思考をある種の眠りに導く≫というのは、「直観知に支えられた理性知が、想像知によって曇らされるようになった」と解釈すると、非常に興味深い。なお、直観知、理性知、想像知に関しては『スピノザ』を参照されたい。現代人の問題はこのような知の本来のあり方を完全に取り違えている点にあると個人的に考えているが、それについては何度も主張してきたことなので(たとえば直近では『哲学は何ではないのか』を参照されたい)、ここではそれについてこれ以上は述べない。
では、『言葉と物』では具体的に何が論じられているのか? まず次のようにある。≪フーコーは、ある特定の時代のさまざまな科学的言説のあいだに見いだされる諸関係の総体のことを、知識、理解などという意味を持つギリシア語を用いて「エピステーメー」と呼ぶ。『言葉と物』においてフーコーが問うのは、そのエピステーメーが、ルネサンス期以降の西洋においてどのように変容してきたのか、そしてそうした変容のなかでどのようにして人間が自らに固有の有限性を携えて出現したのかということである(66頁)≫。≪どのようにして人間が自らに固有の有限性を携えて出現したのか≫という最後のくだりに着目しましょう。それから有名なフーコーによる、古典主義時代の巨匠ベラスケスの絵の表象様式の分析が取り上げられているけど、具体的な分析内容についてはここでは触れない(よく知られているしね)。ただし、古典主義時代の表象様式に関する次の記述は引用しておきましょう。≪古典主義時代のエピステーメーを検討することによって確認できたのは、当時の思考が、常に表象空間の内部にとどまるものであったということである。ここから、人間を、自らに固有の有限性を自らの経験の基礎とする者として思考することが、当時においてはなぜ不可能であったのかも理解される。¶事物の存在を表象の外部に想定することがなかった古典主義時代の思考にとって、事物と表象とがどこでどのようにして結びつくのかという問いは無用のものであった。つまり、その思考にとっては、表象を自らのために構成する者としての人間は不在であったということだ。そしてそのように表象を基礎づける者の存在が問題にならない以上、そうした存在に固有の有限性も問題とはなりえなかった。有限なる存在者であるという事実は、無限ではないということ以上の意味を持ちえなかったのである。構成的なもの、根源的なものとしての有限性は、表象空間の内部において全面的に展開される古典主義時代の思考のなかに、自らの場を持つことができなかったのだ(70〜1頁)≫。ベラスケスが生きていた時代は中世後期より一世紀ほどあとであるのは確かだけど、≪構成的なもの、根源的なものとしての有限性は、表象空間の内部において全面的に展開される古典主義時代の思考のなかに、自らの場を持つことができなかった≫という古典主義時代の思考は、前述した中世後期の普遍主義とも符合しているようにも思える。ベラスケスは一五九九年に誕生して一六六〇年にお星さまになっているので、彼が生きているあいだに国民国家誕生のきっかけとなった、三十年戦争を締めくくるウェストファリア条約が結ばれている。つまり、まだ近世・近代に入り切っていなかったいわば過渡期にベラスケスは活躍していたことになる。だから中世後期の普遍主義的な観点をまだ持っていた可能性が十分に考えられる。
さて、個人的な見解はそこまでとして続きを引用しましょう。次のようにある。≪メルロ=ポンティは、デカルト的反省が人間の有限性にポジティヴな意味を認めていなかったことを、無限についての独断論にもとづくものとして糾弾していた。これに対し、フーコーは、古典主義時代の知に特有の整合性を見いだしつつ、有限性を構成的なものとみなす可能性が、そうした整合性によってそもそもの最初から排除されていたことを示す。彼は、十八世紀末以前に根源的な有限性が思考されなかったことを、「意識化」の未完成ではなく、当時の認識論的布置における必然的な帰結とみなすのである。¶人間における有限性がポジティヴな意味を獲得し、人間にとっての最も近しい関心の対象となりうるためには、したがって、古典主義時代のエピステーメーに根本的な変換が生じる必要があった(71〜2頁)≫。こうして見ると、≪古典主義時代には有限性が思考されなかった≫という結論に関しては、メルポンとフーコーは一致していたことがわかる。二人にあいだで違っていたのは、その結論を導き出す推論だったことになる。
では、フーコーはこのエピステーメーの変換がいかにもたらされたと考えていたのか? 著者によれば、それは二つの段階を経て起こったとフーコーは考えていたのだそう。第一段階については次のようにある。≪表象の分析を可能にする条件が、今や表象の外部に見いだされるようになるということだ。こうして表象空間はその自律性を失い、事物は自らに固有の厚みを獲得する。表象にとっては外的であるような事物のこの内的空間、還元不可能な力の貯蔵庫としての「深層」こそ、十八世紀末における最も重要な概念上の発明品の一つに他ならないとフーコーは言う。事物は自らの不可視なる厚みのうちに引きこもり、それとともに、知覚可能な秩序の方は「一つの深層の上の表面的なきらめき」にすぎないものとなる。可視と不可視との新たな関係を基礎づけるものとしての「晦冥な垂直性」が、ここに創設されるのである(72〜3頁)≫。ここまでは『臨床医学の誕生』における、見えるものと見えないものに関する議論とほぼ同じだと言える。次の変換の第二段階に関しては、≪表象の分析がついに完全に放棄されるとともに、三つの領域[言語、自然、富]のそれぞれにおいて以前とは根本的に異なる探究が開始される(74頁)≫と述べられている。具体的には次のようなことらしい。≪言語に関しては、名指すことこそが言葉の本質的役割であるという公準が放棄されて、各々の言語体系に属する各々の語が互いに結びつけられるやり方についての探究、純粋に文法的なものの次元に関する探究が創始される。また、自然の諸存在は、表面において目に見えるものから出発してではなく、知覚に与えられることのない機能上の統一性から出発して研究すべきものとなる。そして、あらゆる価値の源泉としての労働が発見され、それが富の交換可能性の基礎とみなされるようになることで、貨幣と富との表象関係についての理論は、生産の理論によって取って代わられることになる。¶したがって以後、問題は、表象に記号を与えつつそれを秩序づけることではなく、表象の外から表象を条件づけるものに問いかけることとなる。一般文法、博物学、富の分析に代わって、文法を扱う比較文法、生命の機能を扱う生物学、労働と生産を扱う経済学が形成されるのである(74頁)≫。
以後も有限性と人間学に関する議論が続いているけど、細かくなるので(とりわけフーコーの「有限性の分析論」批判はわかりにくい)その部分はカットして第三章の最後の段落、結論の部分だけを引用しておきましょう。≪以上のとおり、一九六六年のフーコーは、西洋における「人間の出現」を、ルネサンス以来のエピステーメーの歴史的変容を分析することによって描き出す。至上の主体であると同時に特権的な客体でもあるものとしての人間の登場は、古典主義時代に想定されていた表象の自律性が崩壊し、新たな認識論的布置が成立することによって可能になった、比較的最近の出来事であるということ。そしてそうである以上、その人間は、新たな変容が生じるならば、砂浜の上に描かれた絵が波にさらわれてしまうように、跡形もなく消え去ってしまうであろうということ。こうしたことを示しつつ、『言葉と物』は、人間についての反省が依拠するそうしたかりそめの地盤を決定的に打ち震えさせようとするものとして、そしてそれとともに思考を新たな目覚めへと誘うものとして、自らを差し出すのである(81〜2頁)≫。と
いうことで次は『知の考古学』を取り上げた「第四章 幸福なポジティヴィスム」。『フーコーの言説』を取り上げたときにも述べたように、『知の考古学』の邦訳を読んだとき頭が完全にピーマンになったことを覚えている(しかもそれは初めて読んだフーコーの本だったはず)。でもその後英訳で読んだときには頭が完全にピーマンと言うほどには難解に感じなかった(そんなことがあったために、それ以後、フーコーの本はおもに英訳で読んでいる)。巷のうわさによると、どうやら河出から出ていた『知の考古学』は悪訳で有名らしく、訳者は著名な哲学者の中村雄二郎となってはいたけど、翻訳は大学院生に丸投げしたのではないかと言われているらしい。最初のフーコーだっただけに、「やっぱり、ボ、ボ、ボクにはフーコーなんかわからないんだあああああ!」と思い込まされてしまったことを今でも思い出す。ということで個人的な思い出話はそこまでとして、新書本に戻りませふ。
まず『知の考古学』の目標が次のように述べられている。≪この理論的書物が目指すのは、それまでの具体的歴史研究に「整合性を与える」ことであるという、人間学的思考の歴史を探りつつその思考を問題化した後で、そうした歴史研究のために用いられた方法についてあらためて検討し、これを「一切の人間学主義を廃した」ものとして打ち立てること。これが、一九六九年の書物の目標として掲げられているのだ(89頁)≫。次に「知の考古学」と言われるときの「考古学」とは、いったい何を指しているのかが明確化されている。≪この著作[『知の考古学』]の企図を簡潔に述べた「緒言」のなかで、フーコーは「考古学」にとっての問題が「諸々の{言説/傍点}を記述すること」であると語る。つまり、伝統的な思想史が、言説の背後に隠されている思考の動きを暴き出そうとするのに対し、自分は、「語られたこと」のレヴェルにとどまる研究を行いたいのだ、と。そしてその「語られたこと」の領域を、「古文書」を意味する《archives》という単語をあえて単数形で用いて「アルシーヴ(archive)」と名づけつつ、フーコーは「考古学(archéology)」を、そのアルシーヴに関する研究として定義するのである。¶そして『知の考古学』本編では、「語られたことを、それがまさしく語られた限りにおいて記述すること」としての「考古学」が、「我々の診断」のために役立つものであることが述べられる。すなわち、歴史を遡り、もはや我々と同時代的ではないものを探査することによって、我々の現在を新たなやり方で照らし出す可能性が開かれるということだ。ただし、そのような探究が目指すのは、歴史の断絶を追い払いつつ我々の主体性や人間性を打ち立て直すことではなく、「我々を、我々自身の連続性から断ち切る」ことである。「考古学」によってもたらされる「我々の診断」は、我々のうちに歴史を超えた同一性を確認する代わりに我々を差異として明るみに出すのである(90〜1頁)≫。≪言説の背後に隠されている思考の動きを暴き出そうとする≫こと、いわば一種の本質主義を否定することが一九六〇年代に入ってからのフーコーの意図であったことは、そのような思考の動きを具体的な歴史的事例を用いて暴き出した『狂気の歴史』『臨床医学の誕生』『言葉と物』を取り上げた章で明確化されてきた。『知の考古学』が明らかにしているのは、このようなフーコーの試みが、現代という時代の裏にある何か本質的なものをあぶり出すことではなく、過去との差異に基づいて現代を描き出すことであったということなのでしょう。
とりわけ≪「我々の診断」は、我々のうちに歴史を超えた同一性を確認する代わりに我々を差異として明るみに出すのである≫という最後の一文に着目されたい。差異に関しては前回取り上げた『哲学は何ではないのか』で詳しく論じられていた。そこに≪差異は、対立的でもなければ、相互に反対のものを示しているのではない。差異が対立や反対のものとしてしか理解され認識されないのは、「同一性」概念を前提とし、目的化するような固着した思想のもとでしかない(同書52頁)≫とある。まさにフーコーの差異を重視するあり方(それはデリダなど、ポストモダン思想全般に当てはまることだが)が、相対主義などとして批判されるのは、批判者が≪「同一性」概念を前提とし、目的化するような固着した思想≫に囚われているからだと言える。一九五〇年代には、フーコー自身がそのような思考様式に陥っていたが、一九六〇年代以後のフーコーがそのような自身のあり方を批判するようになったことは、本書にも『フーコーの言説』にも書かれている。ちなみに多様性を声高に主張しながら、どう考えても全体主義的としか言いようのない言説をまき散らしている日本のアホな自称知識人が、このような差異の側面をまったく理解していないという私めの見立ては、『哲学は何ではないのか』で述べた。フーコーは、過去と現代の差異を論じているわけだが、同じことは文化間の差異についても当てはまる。つまり、他文化と自文化の差異を理解することで自文化についてよりよく知ることができるのですね。日本の一部のアホな自称知識人が、「他文化と自文化の差異」を明らかにすることを「差別」と呼んでいるのは、まったくの的はずれだということ。そういう輩は、他文化についても自文化についても何一つ理解していないと言わざるを得ない。『フーコーの言説』で、私めが保守主義者もフーコーを毛嫌いせずに読むべきと述べた理由の一つも、このようなフーコーの方法論が、他国のみならず自国を理解するためにもきわめて有用であるからなのですね。
まあ個人的な見解はこのくらいにして新書本に戻りましょう。『知の考古学』についてさらに次のようにある。≪『知の考古学』において、思考の歴史をそれが囚われとなっている連続性のテーマから解放するためにフーコーがまず着手するのは、まさしく、いくつかの科学について通常見いだされる統一性をあらためて問いに付することである。つまり彼は、一般に歴史を貫く科学の統一性の支えとみなされているものを一つひとつ検討し、それらが実は通常考えられているようなものではないということを、自身の一連の歴史研究の成果を拠り所としつつ示すのである。科学的言説のうちに見いだされる統一性は、「一度で決定的に設立された形式が、至上の権威のもとで時間を貫いて発達したもの」ではない。したがってその統一性は、「普遍的歴史性」に到達するための出発点としては決して役に立ちえないのである。¶一つの科学の統一性から出発して歴史を構成する原理に到達し、そこから歴史性一般と人間の主体性との根本的関係を打ち立てようとするのではなく、逆に、時間のなかで生起する出来事の数々を創設的主体に送り返すことなく記述し、それによって通常は統一性が想定されているところに不連続や差異を暴き出すこと。これこそが、六〇年代の著作における具体的研究が示しているとおり、フーコーの「考古学的」探究の任務に他ならない(96〜7頁)≫。実はこの箇所は、≪幾何学の歴史貫通的な同一性から出発し、それを歴史性の主体としての人間へと送り返しながら、(…)そのように連続的進歩のかたちをとる歴史を、単に一つの科学にかかわるものとしてのみならず、あらゆる科学に妥当するもの、さらには、歴史一般に妥当するものとしてとらえようとする(95頁)≫フッサールに対するフーコーの批判について述べられている。先の引用文中にある≪普遍的歴史性≫とはその文脈で理解することができる。
次にその文脈に関して、フッサールが言う「歴史的アプリオリ」とフーコーのそれの違いについて次のように述べられている。≪一つの科学の連続性を歴史の主体としての人間へと送り返しつつ、そこから「理性の普遍的目的論」に到達しようと企てるフッサールにとって、問題は、事実の歴史から出発して歴史の本質的で普遍的な構造に達すること、すなわち、理解可能性の源泉としての「歴史的アプリオリ」に達することであった。フッサールによって使用されていたこの「歴史的アプリオリ」という用語を、フーコーは、自らの研究において、全く別のやり方でとり上げ直すことになる。¶フーコーの言う「歴史的アプリオリ」が指し示すのは、歴史のあらゆる事実が従うべき普遍的ないし必然的な構造ではなく、徹底して経験的な形象である。つまりそれは、言説実践を特徴づける諸規則の総体であり、ある特定の時代の知の形成にとって一種のアプリオリとして機能するとはいえ、それ自身歴史的に構成されたもの、時間のなかで変形可能なものであるということだ。したがって「考古学」にとっての問題は、この「歴史的アプリオリ」についての批判的検討を行うことになるだろう。事実の歴史から「内的な歴史」へと向かおうとするのではなく、あくまでも具体的な言説的事実のレヴェルにとどまりながら、そうした事実がいかなる歴史的条件のもとで、いかなる可変的な諸規則に従って可能になったのかを記述しようとするもの、それが、フーコー的な歴史研究なのだ(97〜8頁)≫。普遍的、理念的、必然的なものではなく、≪徹底して経験的な形象≫、あるいは≪それ自身歴史的に構成されたもの、時間のなかで変形可能なもの≫として「歴史的アプリオリ」を捉えるフーコーの見方は、彼の思想を保守主義者も参照すべきと、そして武器として使用すべきと私めが考えている理由の一つにもなる。
ということで、『監獄の誕生』が取り上げられている「第五章 「魂」の系譜学」に参りましょう。まず次のようにある。≪『知の考古学』によって人間学的思考からの脱出のプロセスに一つの区切りをつけた後、フーコーの研究は、一九七〇年代に入ると新たな変貌を遂げる。すなわち、さまざまな知の歴史的形成に関する考察から、権力関係の歴史的変化をめぐる分析を前面に押し出した探究への移行が行われることになるのである(108頁)≫。よく知られているように一九六〇年代以後のフーコーは、研究の主軸を「知」→「権力」→「自己」と移していくわけだが、この引用文にあるように、このうちの「知」から「権力」への転換が、この『監獄の誕生』でなされることになる。さらに次のようにある。≪研究を進めていくなかで、フーコーは次第に、抑圧や排除といった作用から、権力によってもたらされるポジティヴな効果へと、その視線を転じることになる。つまり、処罰形式をめぐる歴史的探究の進展が、彼を、権力をめぐる伝統的な考え方から引き離し、権力の生産的な側面の分析へと導くのである。そして、そのようにして権力のポジティヴなメカニズムに焦点を定め直した研究が進められた後、その結果として一九七五年に著された書物、それが、『監獄の誕生』なのだ(114〜5頁)≫。本書には「ポジティヴ」という用語が多用されておりその正確な意味は定義されていなかったように思うが(しかも言及箇所によって微妙な意味の揺れがあるという印象を受けた)、ここで言われている≪ポジティヴ≫とは、もちろん「善い」という道徳的な意味ではなく、抑圧や排除のように「否定的に作用する」のではなく「肯定的、自発的に作用」するという意味のように思われる(確信はないけど)。
次に古い「君主権的権力」と新しい「規律権力」に関する説明があり、後者の説明には有名なベンサムのパノプティコンが取り上げられている。パノプティコンについては誰もが知るところであるし、「君主権的権力」と「規律権力」については、『フーコーの言説』にも説明されていたのでここでは繰り返さない[ページ内検索キーワード:監獄の誕生]。ただし、そこで「君主権的権力」に関して著者ではなく私めが指摘した点は非常に重要だと思っているのでここにコピペしておく。「現在になっても「権力闘争」という言葉を喜んで使う人がいるけど、結局そういう輩が言う「権力」とは、むしろ君主権的権力(たとえ君主そのものには言及していなかったとしても)に近いものがあるように思える。しかしフーコーによれば、近代に新たに成立した「規律的権力」は、それほどわかりやすいものではなく、非常に隠微なもので、巧みに世の中に権力の網の目を張り巡らせているのですね。しかもそれは、外向きには非統治者によかれという口実によってオブラートに包まれていたりする。つまり、そんな権力を相手に、あたかも君主的権力に抵抗するかのように「権力闘争」をブチ上げても空振りするだけだよね。それだけ権力は巧妙だということ」。左派はこの点で大きな勘違いをしているのですね。たとえばメディアも、規律的権力として十分に作用しうるし、実際に作用しているにもかかわらず、左派はときの政権(しかも自分が気に入らない安倍政権や高市政権のときだけ)のみをターゲットに権力批判をしているのだから。これは、非常に古めかしい「君主権的権力」しか彼らの目に映っていないことの証拠になる。
ということで、『監獄の誕生』に関しては、詳細はカットして次の結論部を引用するに留めておく。≪権力のメカニズムのなかで、人間はどのようにして、自らの魂、自らの個人性、つまりは自らに固有の真理に縛りつけられた主体として構成されるのか。そしてそうした主体と真理との結びつきが、どのようなやり方で権力の増強のために役立つことになるのか。六〇年代の一連の著作を通じて問われていた主体と真理との関係をめぐる問いが、このように、新たなやり方で問い直されているのだ。フーコー自身もはっきりと述べているとおり、「魂」の系譜学は、人間に関する諸科学の歴史と刑罰制度の歴史とのあいだに「両者共通の母胎がないかどうか」を探ることを、その任務のうちの一つとしているのである。そして、実際に処罰権力の歴史的変化を辿り、「非行性」の産出とその効用について詳細な分析を終えた後、フーコーはこの書物の末尾において次のように断言する。すなわち、人間に関する諸々の探究が可能になったのは、それが、「権力の種別的で新しい一つの様態によってもたらされたから」である、と。¶「人間の出現」という出来事が、新たな権力関係の成立によってもたらされた帰結としてとらえ直されるということ。「魂」の系譜学は、このように、人間の認識可能性の成立という、「考古学」にとっての中心的問題として扱われていた問題に対して、新たな視点から新たな回答を提示するものとして自らを差し出すのである(129頁)≫。
次は『性の歴史』第一巻『知への意志』が取り上げられる「第六章 セクシュアリティの歴史」。実を言えば、ここまで取り上げられてきた一九六〇年代のフーコーの著書は、個人的に『レーモン・ルーセル』以外はすべて少なくとも一度は読んでいるはずだが、『性の歴史』はまったく読んだことがない。何を隠そう、私めはまだ読んでいないフーコーのこの本をフランス語で読むことを目指してフランス語を独学で学習し始めたことがある(え、え、偉い!)。『星の王子さま』から始めて、次にジュール・ヴェルヌのいくつかのSF、さらにその次にデュマの『三銃士』や、ユゴーの『レ・ミゼラブル』をフランス語で読破した(最後の二冊はどちらもえらくごつい!)。ノンフィクションではルネ・ジラールのいずれかの本(どれか忘れた)をフランス語で読んだことがある。でも翻訳者に転向してからは、仕事があるのでもっぱら英語の本しか読まなくなって元の木阿弥となり、結局フーコーをフランス語で読むことは一度もなかった。残念。
またしてもどうでもいい個人的な話になってもたので新書本に戻ると、『知への意志』で取り上げられているセクシュアリティの問題に関してまず次のようにある。≪『知への意志』で提示されるのは(…)、権力のポジティヴなメカニズムを標的として定める研究である。処罰形式に関する分析を通じてもたらされた「逆転」を経て、セクシュアリティの問題は、抑圧や禁止や隠蔽といった観点からではなく、権力による知や言説の産出という観点から扱うべきものとなるのである(134頁)≫。こうしてみると、『監獄の誕生』で規定された概念である「規律権力」が、『監獄の誕生』で扱われているパノプティコンのような始原的かついまだに公共的な領域からより私的な領域に持ち込まれて、だんだん「権力」から「自己」へと焦点が移動していくような印象を受ける。それは次のような記述からも類推できる。≪セクシュアリティに個人を繋ぎ止める権力の作用について、フーコーはそれを次のように語っている。すなわち、無数のセクシュアリティを産出して現実のなかにまき散らしながら、権力はそれを、「身体の内部に侵入させ、行動の下にしのびこませ、分類と理解可能性の原理とし、無秩序の存在理由であり自然的秩序であるものとして構成する」のだ、と。一つの本性ないし一つの魂を産出しつつそれを個人の身体のうちに組み込みとともに、それによって個人に対する支配力を強化するという、権力のそうした二重の作用を指し示すために、フーコーはここで「従属化(assujettissement)」という語を用いる。権力のメカニズムのなかで、一人の個人が、「語の二重の意味での《sujet》」として構成されるということ。すなわち、一つの真理ないし本性を自らに固有のものとして保有する主体(sujet)であると同時に、権威に服従する臣下(sujet)でもあるような者が作り出されるということだ(140頁)≫。≪身体の内部に侵入させ、行動の下にしのびこませ≫、あるいは≪一つの本性ないし一つの魂を産出しつつそれを個人の身体のうちに組み込みとともに、それによって個人に対する支配力を強化する≫などといった表現には、明らかに「自己」に対する傾斜を見て取れる。一九六〇年代以後のフーコーの思想的変遷において、「知」から「権力」への転換ははっきりと見通すことがややむずかしいようにも思えるけど、「権力」から「自己」への転換は以上のように容易に見通すことができるように思える。したがって権力というのは、「君主権的権力」のような形態ではなく「規律権力」としてそれ自体を人々の≪身体の内部に侵入させ、行動の下にしのびこませ≫るのであって、そのため人々は、≪一つの真理ないし本性を自らに固有のものとして保有する主体(sujet)であると同時に、権威に服従する臣下(sujet)でもあるような者≫と化してしまうのですね。そのような権力は何も現政権が行使するだけではなく(前述したように、そのように思えてしまうのは、権力を「君主権的権力」のイメージでしか見ていないからだと言える)、すでに述べたメディアや、そもそもそのメディアや自称知識人がばら撒いているイデオロギーそれ自体が権力として作用しうる。見たところ左派はこのことがまったく理解できていないようなのですね。奇妙なことに、左派はきっとフーコーを読んでいないのでしょう。また保守主義者であっても毛嫌いせずにフーコー(あるいは面倒であればその解説書)をぜひ読むべきだと私めが主張する理由も、現代のさまざまな問題の根源の一つに、まさにこの西洋のエピステーメーが生んだ「規律権力」の問題があり(ひょっとするとフーコーは、「知(エピステーメー)」について研究しているうちにそれが権力を生み出すことに気づいて「知」から「権力」への転換を果たしたのかもね)、それをみごとに解明してみせているのがフーコーだからなのですね。ちなみに権力とそれに対する抵抗の問題については次のように述べられている。≪フーコーによれば、権力の関係は、支配と被支配、抑圧と被抑圧との対立としてではなく、そうした二項対立を可能にする「無数の力関係」として理解されねばならない。権力は、奪ったり奪われたりするモノとしてではなく、錯綜した戦略的状況のようなものとしてとらえられねばならないということだ。その限りにおいて、「権力はいたるところにある」と言うことができる。そしてそうである以上、抵抗は、権力に対し、「決してその外側に位置するものではない」ということになるだろう(143頁)≫。まあ特定の型(イデオロギー)にはまった自称知識人に、≪錯綜した戦略的状況のようなものとして≫権力を捉えるのに必要な能力が備わっているとはとても思えん。だから昨今の高市批判のような無様で滑稽な有様になってしまうわけ(たとえば哲学者の東浩紀など、本来リベラル陣営に属する人々の一部も、この自称リベラルのバカげた態度に苛立っているよね)。
それからやや脇道に逸れるけど、最近の中国共産党政府の暴言や暴挙に対する日本のネット民の反応を思い起させる、ちょびっと興味深い記述があったので引用しておく。次のようにある。≪抵抗が現実のなかで具体的にどのような形態をとりうるかに関して、フーコーがまず示すのは、権力の効果であると同時に道具であるような言説を戦術的に逆転させることによって、その言説を抵抗の拠点として利用する可能性である。すなわち、権力の維持および強化に貢献すべく機能している言説を、正反対の戦略に役立つもの、権力を弱体化したり妨害したりするものとして使用することができるということだ(144頁)≫。日本のネット民が中国政府外交部のツイに対して、大喜利と称してその暴言を逆手に取って中共の権力・権威を貶めているのは、まさにフーコーのこの逆転戦略に近いと言える。ネット民、というか一般ピープルは、一部の自称知識人が考えているようなバカではない。ネット民や一般ピープルの多くは、フーコーの言説こそ知らないだろうが、フーコーが論じているような戦略を直観的に実践しているのですね。むしろそのような直観を歪めるイデオロギーに絡み取られて、軍国主義の道を突っ走る中共を利するような発言を繰り返している自称知識人のほうこそバカだとさえ言える(まさしく中共にとって「使えるバカ」なのですね)。
第六章の残りでは、有名な「生権力」が取り上げられている。とはいえ「生権力」に関しては、近くは『フーコーの言説』や『国家はなぜ存在するのか』で取り上げたのでここでは省略する。次は『性の歴史』第二〜四巻と晩年の探究が取り上げられる「第七章 自己をめぐる実践」だけど、あまり個人的には関心を引く箇所がなかったので次の点を指摘するだけに留めておく。次の点とは、第六章はまだ、「権力」と「自己」という二つの主題に均等に足を突っ込んでいたのが、第七章では焦点が完全に「自己」へと移動していること。ということで最後に全体的な印象を述べておくと、フーコーの著作を一度も読んだことがない人は、まずこの新書本を読んで彼のおおよその主張をつかんでおくとよいと思う。何度も指摘してきたように、保守主義者にはフーコーを毛嫌いしている人が多いような印象を持っているが(というかフーコーに肯定的に言及している保守主義者をほとんど知らない)、むしろ保守主義者こそが、フーコーを読んで西洋のエピステーメーの脱構築について理解を深め、それを武器にするべきではないかと個人的には考えている。
※2025年12月7日