◎大河内泰樹著『国家はなぜ存在するのか』(NHKブックス)
「ヘーゲル「法哲学」入門」と副題にあるように、ヘーゲルさんに関する本。ヘーゲルさんと言えば、正反合の弁証法による歴史的ダイナミズムというイメージがあるんだけど、この本におけるヘーゲルさんに関しては、そうではなく社会や国家の静態的、構造的な側面に的が絞られているような印象を受けた。しかも、しかも、個別と普遍のギャップを埋めるために、私めが言うところの中間粒度(ヘーゲルさんはそういう言い方をしていないけどね)を思い出させる「コルポラツィオン」という概念を持ち出しているところが非常に興味深かった。なので、この本に関しては、この「コルポラツィオン」という概念に焦点を絞って紹介したいと思いますら。
とはいえ、最初に著者が注目するヘーゲルの概念は「ポリツァイ」なのですね。ポリツァイはドイツ語で「警察」の意味があるけど、ここで言われている「ポリツァイ」は、フーコーの言う「生権力」に近いのだそうな。この「生権力」については、フーコーの文章を引用したあとで次のように説明されている。「生政治、生権力においては、法ではなく物についての認識が必要になると述べられています。主権者が統治するのはその国家の国民であっっ(sic)て、それはもちろん人なのですが、しかし国家は個々の人間を直接統治の対象とするだけではありません。その住民が生活するにあたって必要な物資が、その住民たちにきちんと行き届くかどうか、さらには感染症が流行したときに、その住民に薬や医療がきちんと行き渡るようになっているかといったことを、統計を用いて管理するのが国家の課題となったわけです。¶フーコーが述べるように、こうして医療・医学というものを用いて、人口として把握される住民を統治しようという権力形態が当時生じていたのであり、その典型的な道具が統計でした。つまり、統計というのは、国家による住民の統治のための技術でした(30〜1頁)」。
そして現代にも関連するポリツァイとして医療ポリツァイをあげ、次のように述べている。「ここ[一八二四・二五年の講義録]での直接の主題は、医療ではなく子どもの教育なのですが、その中でヘーゲルは予防接種の強制の是非について語っています。二一世紀のコロナ禍においても、ワクチン接種を強制すべきか、そもそも国家にそのような権限があるのかについて、世界中で議論されましたが、種痘をめぐってすでにこの時代に、同じような議論がなされていました。(…)ヘーゲルは、子どもたちは「家族」のためではなく、「市民社会」のために育てられる権利を持っているのだといいます。これは別に、社会の役に立つ人にならなければならないということではなく、むしろ自立して職業を持って自分で生きていけるように育てられる権利があるということです。¶そして「子どもたちにそうした権利を得させることを親が行わない場合には」、要するに、市民として自立していくための教育を親が怠けてしまうときには、「市民社会は介入しなければならないというわけです(44頁)」。ちなみに「市民社会」とは、「ここではさしあたり私たちが普通に理解する国家に置き換えて(45頁)」もオッケーということらしい。これだけだと、ヘーゲルはポリツァイを肯定的に捉えていたとも取れそうだけど、のちの記述を読むと、コルポラツィオンをむしろ重視し、ポリツァイは諸刃の剣のようなものとして捉えていたことがわかる。その点についてはあとで触れる。
次にヘーゲルは法をどのように捉えていたかが説明される。次のようにある。「ヘーゲルにとって最も自由な価値は自由です。そこで「法」は「自由の実現」である、といわれます。つまり、精神的なものであれ制度的なものであれ、自由が人々によって共有されるために何らかの形で存在しているもの、そうした存在が「法」と呼ばれます。¶したがって、通常の法律も私たちの自由を制限するものとは見なされません。むしろ、人々は「法」を通じて自由になる、ということになります。あるいは人々が内面化している道徳的意識や国家といった外的社会制度も、その中で人々が自由になれるようなものである、あるいはそうでなければならないというのが、ヘーゲルが「法」という用語に込めている主張です(49〜50頁)」。このヘーゲルによる「法」の解釈は、しかと念頭に置いておきましょうね。著者は、さらにヘーゲル独自の「法」概念の理解に必要な要素に「意志」をあげ次のように述べている。「ヘーゲルは、「法」は「自由な{意志/傍点}の実現」であるともいいます。(…)ヘーゲルが「自由な意志」と呼んでいるのは、(…)個人の意志ではなく、「集合的な」意志、つまり複数の個人によって形づくられている意志です。ヘーゲルは自由を「自己のもとにあることBei-sich-sein」だといいます。¶つまり、多くの他者がそこにいるとしても、そこで自分が他者に巻き込まれる、他者に左右されるというのではなく、他者と一緒にいながらにして、自分であることが失われない、そうした状態の意志が「自由な意志」だということなのです(50〜1頁)」。このような「自由な意志」の捉え方は、のちに出て来る、私めが言う中間粒度に当たるコルポラツィオンの概念を理解する際にも重要になるので覚えておきましょう。
著者は次の「「一般意志」と「啓蒙の弁証法」」という節で、このヘーゲルの「自由な意志」と、ルソーの「一般意志」の概念を比較している。ここに記述されていることは個人的には非常に重要であるように思われるので、やや長くなるけど全文を引用しておきましょう。次のようにある。「そうした意志の概念は、じつはヘーゲルのオリジナルではありません。すでにヘーゲル以前に、ルソーは「一般意志」という概念を提起していました。これは、単に複数の個人の意志の総和を意味する「全体意志」とは異なり、すべての個人が集合的に一個の意志を形成することを意味しており、それがあるべき国家の基礎となるとルソーは考えました。¶この一般意志の概念と彼の『社会契約論』が、フランス革命に大きな影響を与えたことはよく知られています。ところが、ヘーゲルは一方でこの集合的で一体であるような意志という考え方を継承しながらも、他方でそこに大きな問題点も見出していました。¶それは、一般意志においてはそこに属する意志が一色に塗り固められてしまい、部分や個人の自立性が認められなくなってしまうという問題です。ヘーゲルは、フランス革命の混乱とロベスピエールによる恐怖政治は、そうした一般意志が実現されてしまった結果だと見ていました。一般意志の一体性は、いかなる異論をも認めない専制と恐怖政治に転落しうるのです。¶『啓蒙の弁証法』は、二〇世紀ドイツのユダヤ人哲学者、ホルクハイマーとアドルノが第二次世界大戦中に執筆した著作のタイトルですが、ナチズムの被害者としてアメリカに亡命していた彼らはこの著作で、西洋文化の重要な価値だと考えられてきた理性・合理性自身の中にナチズムの原因を見出しました。彼らの有名なテーゼによれば、「啓蒙が野蛮を生み出した」、つまり人類の幸福を約束するはずだった啓蒙が、野蛮なナチズムを生み出したというのです。¶ヘーゲルによるフランス革命の理解は、こうした『啓蒙の弁証法』の先取りだということができます。ヘーゲルは『精神現象学』の「精神」章で、フランス革命を啓蒙主義の帰結として位置づけながら、それが恐怖政治に反転していく過程を描いています。まさに、理性が暴力・野蛮へと反転するという「啓蒙の弁証法」をヘーゲルはフランス革命に見ていたといえます(51〜2頁)」。
この文章に登場するアドルノ&ホルクハイマーの『啓蒙の弁証法』は、読んでいないのなら是非読むことをお勧めしますら。ここでちょっと脱線すると、アドルノ&ホルクハイマーは左派のフランクフルト学派に属するわけだけど、保守派のあいだに、たぶん誰かの受け売りでよく知りもせずに、おそらくは左派だというだけの理由でフランクフルト学派を目の敵にしている人々がネットではかなり見受けられる。でも、少なくとも『啓蒙の弁証法』は、この文章にあるように右派のナチスのみならず左派の根源をなすフランス革命の問題に深く切り込む鋭利な武器にもなる。左派というだけの理由で、保守派がフランクフルト学派、とりわけアドルノ&ホリクハイマーを目の敵にするのであれば、それは実に浅薄だと言わざるを得ない。みずみす自分たちに有利に使える強力な武器を放り捨てていることになるんだからね。「西洋文化の重要な価値だと考えられてきた理性・合理性」とあるが、実はこの「理性・合理性」は、本来の理性や合理性ではないと、私めは考えている。近現代における理性や合理性の誤解については、前回取り上げた『本居宣長』を始め、何度も説明してきたので、ここではその詳細を述べることはしない。ただし、左右を問わずフランス革命後の世界を狂わせてきたイデオロギーは、理性的、合理的な思考などではまったくないとだけ述べておく。フランス革命と言えば、私めは、『本居信長』を取り上げたときにパリ五輪開会式を取り上げて次のように述べた。「現代の病巣の一つは、その種の啓蒙主義にかぶれたがゆえの無知蒙昧、言い換えれば「啓蒙の弁証法」にあり、五輪開会式ではこの病理が一挙に噴出したように思える。まあしかし、おふらんすはフランス革命のときにネジが何本かぶっ飛んだまま、現代になっても正気に戻れていないよね」と。この例を見てもわかるように、フランスでは、現代になってもこの啓蒙の弁証法の病理が当然のことのように噴出している。フランス革命が依拠していたルソーの考えの一つである一般意志には、著者の言葉を借りれば「そこに属する意志が一色に塗り固められてしまい、部分や個人の自立性が認められなくなってしまうという問題」があったのであり、端的に言えば全体主義に陥る可能性が色濃くあったことを意味する。その危険が現代にも潜在していることが、バチカンまでをも怒らせたパリ五輪開会式の騒動を見ているとよくわかる。まあ、あんなものを称賛する日本人がいるのは、私めには驚きにしか思えない。それからフランス革命の本質的な暴力性については、歴史家サイモン・シャーマ著『Citizens: A Chronicle of the French Revolution』(Vintage, 1989)などを参照されたい(中央公論社から刊行されている『フランス革命の主役たち――臣民から市民へ』がその邦訳と思われるが絶版らしい)。
ということで次は市民社会について。まずヘーゲルが市民社会をうんぬんする理由が次のように述べられている。「全員の幸福という普遍性と、個々人が自分の欲求を満たしたいという個別性とが、欲求の体系において偶然的に一致することはあるかもしれないけれども、必ず一致するわけではないということです。「普遍性と個別性の一致の必然性」、これが「市民社会」章が、ひいてはヘーゲルの『法の哲学』が解決しなければならない課題を抽象的に表現したものです(87頁)」。普遍性と個別性の一致は、たとえば神学では「決議論(Casuistry)」として、あるいは法学では「衡平(Equity)」として論じられているし、普遍的な「道徳」をいかに個別的なケースに当てはめるかが「倫理」であると考える人もいる。このようにさまざまな分野で普遍性と個別性をいかに一致させるかが大きな問題として議論されてきたにもかかわらず、現代には理想や理念という一元的な普遍性を無理やり現実という個別性に当てはめようとする輩が後を絶たない。個人的には「啓蒙の弁証法」の病理は、まさにこのような思想から出来しているように思える。ヘーゲルは、まさにこの「啓蒙の弁証法」の病理を治療する手段を見つけようとしたのだと言えるでしょうね。だからヘーゲルの言う「市民」とは、決して「世界市民」のような普遍的な概念ではない。
ところが市民社会を維持するためには、第一章で説明されているポリツァイでは不十分であることが次のように述べられる。「市民社会は基本的に経済活動の領域ですが、それを市場に任せるのみでは、必ずしも私たち全員の普遍的な幸福は実現しません。¶それゆえ国家(この場合は悟性国家)は、まず司法という形で市民を所有権と契約の主体として認め、さらにそれでは解決しない貧困問題などのためにポリツァイを通じて市民社会に介入していきます。しかし、それによっても国家による個人への配慮というものは完成しない、いやむしろポリツァイが私たちの自由を奪い、のちの全体主義の国家のように私たちを監視の対象にとしてしまう危険性をヘーゲルは指摘していました。¶普遍的なものと、個人の幸福という個別的なものを媒介することが、そもそもポリツァイの役目であり機能だったはずですが、そうした目的はポリツァイによっては結局達成できないというわけです。¶こうして、市民社会を補完するためにヘーゲルが持ち出す、第三の概念が登場することになります。それが「コルポラツィオン」という概念です。(…)このコルポラツィオンに、ヘーゲルは普遍と個別の媒介、そしていわゆる「理性国家」を実現する重要な機能を見て取ることになります(125〜6頁)」。ここでようやく、普遍と個別を媒介する「コルポラツィオン」が登場するわけですね。ここにはトップダウン的なポリツァイによっては、すでに見た市民の自由な意志を開花させることができなくなるという前提がある。なおポリツァイに関してはワープエンジンを全開にして通り過ぎたけど、本書でもっとも重要と思われるコルポラツィオンに関しては、ナメクジエンジンを全開にして見ていくことにする。さらに次のようにある。「ヘーゲルは、コルポラツィオンを市民社会と国家を媒介する大変重要な場所に位置づけています。それは、ポリツァイが果たすことのできなかった、普遍と個別との媒介を可能にするものです。しかもその媒介は、ポリツァイのように上からの統治としてではなく、むしろ下から可能になると考えられています(137〜8頁)」。どうやらポリツァイはトップダウンに、またコルポラツィオンはボトムアップに機能するということらしい。
ではコルポラツィオンとは具体的にはどのような組織なのか? それについて次のようにある。「ヘーゲルは、コルポラツィオンを基本的には商工業者による職業別の自発的な結社として理解しています。それは市民社会において分業が進んだ中で、共通の特殊な労働を行う労働者たちの「労働組織Arbeitswesen」であり、彼らは「同輩組合Genossenschaften」を形成して、「利己的目的を普遍的な目的として」理解することになるといいます(第二五一節)。¶つまり、市民社会の分業体制の中で人々が有する利害は、同じ境遇に置かれた他の人々と共通している、それゆえに同じ職業の人の利害が個人の利害と一致し、職業別に利害を代表する団体を形成することになるというわけです。¶ただし、ヘーゲルにおけるコルポラツィオンは(プロイセン一般ラント法に{倣/なら}いながら)、国家による監督を受けるとされます。この国家による監督と引きかえに、構成員を選び、その利害を実現するために活動する権利を認められるのです。つまり、ヘーゲルにおいてもコルポラツィオンは国家からある種の特権を認められています(138頁)」。さらに次のようにある。「ヘーゲルは、コルポラツィオンを「第二の家族」(第二五二節)と呼びます。(…)市民社会は、家族という紐帯から切り離されたばらばらの個人を出発点としていましたが、コルポラツィオンという、近代的分業にもとづいた職業団体を通じて、再び個人は共同体的な結びつきを取り戻すことになるというわけです。¶このコルポラツィオンがポリツァイに代わって「特殊な偶然性に対する配慮」すなわち、生活上のリスクに対する予防措置を担います(139頁)」。「共同体的な結びつき」とは、まさに私めが言う個人の生活がかかった「中間粒度」に相当する。だから「特殊な偶然性に対する配慮」が必要になる。この点に関してさらに次のようにある。「コルポラツィオンが果たすことができるのは、個別を束ねることで特殊性を形成し、その特殊性を普遍性に反映させようとすることです。なぜならそうした特殊性に配慮することができるのはポリツァイのような普遍的な制度ではなく、その特殊性の立場にある人々自身だからです。そして、それはコルポラツィオンによって初めて可能になります(140〜1頁)」。ということはヘーゲルが考える社会構造には、個別、特殊、普遍という三つの粒度が存在し、市民社会、コルポラツィオン、ポリツァイがそれらのおのおのに対応するということになるように思われる。
「市民社会に共同性を取り戻す」という節には次のようにある。「このように市民社会の問題、つまり普遍的な利害と特殊・個別的な利害の媒介が偶然的なものにとどまり、人々が経済的/心理的リスクにさらされるという問題に対して、上からは国家(悟性国家)によってポリツァイと呼ばれる統治政策がとられ、下からは、分業化された職業労働にもとづいて形成されたコルポラツィオンという団体が、貧困と自己尊重の喪失という社会的なリスクを回避ないしは軽減させる、というのがヘーゲルのビジョンです。¶コルポラツィオンは「第二の家族」として、構成員(とおそらくはその家族)に生活の安定と承認感情(誇り)を与えます。このようにして、ばらばらの個人から出発した市民社会において、コルポラツィオンは家族の解体とともに失われた共同性を取り戻し、ヘーゲルのいう「国家」への橋渡しをなすことになります(143〜4頁)」。ヘーゲルの言う「コルポラツィオン」は私めの言う「中間粒度」に相当すると言ったわけだけど、私めの場合は「中間粒度」の最大の単位が「国家」だと考えているのに対し、ヘーゲルは「国家」と「コルポラツィオン」を明確に分け、前者をむしろ普遍として捉えているように思える。このあたりは現代との時代的な相違もあるのかもしれないが、それについてはあとで述べる。
ところで「コルポラツィオン」という概念をヘーゲルが作り出した理由は、彼のフランス革命批判とも関係しているらしい。それに関して次のようにある。「じつは、このコルポラツィオンという概念もまた、ヘーゲルのフランス革命批判と関わっています。まさにフランス革命は、アンシャンレジーム(旧体制)において特権を有していた「コルポラシオン[フランス語のコルポラツィオン]」(…)を解体したのでした。(…)ルソーは『社会契約論』で「部分的社会が存在しないこと」を「一般意志」の条件としていました。つまり、一般意志とは、その中にコルポラツィオンのような団体を許さない意志なのです。ヘーゲルは『精神現象学』の有名な箇所で、こうした部分を許さない一般意志の概念がフランス革命で実現されたことで、ロベスピエールの恐怖政治が実現してしまったと論じています。(…)ヘーゲルはフランス革命を、ペーベル[一種の失業者]のような、既存の社会の中で自尊心を失った人々が熱狂に駆り立てられて引き起こしたものだと考えています。コルポラツィオンを通じた社会的包摂は、フランス革命のような暴力的な事態を回避するのにむしろ役立つというわけです(144〜5頁)」。ルソーが、一般意志という、コルポラツィオンのような部分的社会の存在を排除するような考えを持っていたというくだりは、私めには、ルソーが粒度の概念をまったく無視していた証左であるように思われる。これは実に危険な兆候だと言える。なぜなら、粒度を無視した水平的な考えはあっという間に暴力的な全体主義のレシピになるから。
実のところフランス革命って、当初は有名どころではミラボーやラファイエットらのような立憲君主制の擁護者が力を持っていたのに、革命が進むにつれ、純粋な革命家と言えるような輩が政治を牛耳るようになり、最終的にジャコバン派ロベスピエールの恐怖政治に至るんだよね。つまり次第に革命思考が煮詰まっていって、とんでもない事態に陥ったということ。のみならずその後の世界にもフランス革命の影響が及んで、二〇世紀にはロシアや中国でも、大量の死人を出すとんでもない事態が起こる。今ではどうか知らんが、私めが学生の頃は、自由・平等・博愛のフランス革命とかなんとかいう触れ込みで、やたらにフランス革命が称揚されていた。もちろんフランス革命にはすぐれた部分はあったとしても、それ以上にその後の世界をカオスに追い込む恐ろしく有害な側面があった。五輪開会式でフランスが見せた態度を見ればわかるように、その弊害は現在ですら見出せる。バチカンを怒らせたフランスの振る舞いは、キリスト教世界という巨大な共同体(コルポラツィオン)を無視する行為と言えるのだから、「おふらんすはフランス革命の時代からな〜〜んも変わっていないじゃん!」と言われても文句は言えないでしょうね。そして著者は第三章を、次のように締め括っている。「ポリツァイ的統治が近代国家にある意味で必要なものだとしたら、コルポラツィオンはそもそもポリツァイという言葉の語源である古代ギリシアのポリスが持っていた政治的な公共性の領域をもう一度復活させようとするものと理解することもできます。近代的な行政国家を民主的に補完するのがコルポラツィオンなのです(150頁)」。なお「古代ギリシアのポリスが持っていた政治的な公共性」については、これまで取り上げてきた本のなかでは、『古代ギリシアの民主政』、あるいはそれをめぐるハンナ・アーレントの見方については『権力について』が参考になる。また今後も何かの本で取り上げる機会が必ずやあることでしょう。
「第四章 国家は何のために存在するのか」は、章題がほぼ本のタイトルの「国家はなぜ存在するのか」とほぼ一致し、いよいよ国家がメインに取り上げられているんだけど、私めは天邪鬼なので、私めが注目している「コルポラツィオン」に関する箇所だけを取り上げることにする。まず次のようにある。「ヘーゲルがコルポラツィオンが必要だと考えたのは、ポリツァイでは個人が国家に従属することになり、個別的な利害が抑圧されかねないと考えたからでした。ヘーゲルの国家が有機的であるのは、まさに国家の一元的な権力から個人を守る審級としてのコルポラツィオンをその中に含んでいるからです。それぞれのコルポラツィオンは、発展した近代社会における分業体制において独自の機能を果たすと同時に、国家から個人を守り、所属するメンバーの利害を実現しようとします(159〜60頁)」。この記述からすると、ヘーゲルは国家を普遍として捉え必要悪と見なしているように思える。すでに述べたように、このあたりは国家を最大の中間粒度、つまり「普遍」ではなく「最大の特殊」として捉えている私めとは、明かに考えが異なる。ヘーゲルが国家を普遍と見なしていたのは、(君主政であっても立憲君主制である)現代の国家とは異なる絶対君主制(王政)国家を基本的な前提として考えていたからだと思われる。それは次のような記述からもわかる。「ヘーゲルは、国家を構成する市民が何を望んでいるのかは、「即自的」、つまり潜在的であると考えていました。市民は自分たちが何を求めているのか、何が自分たちにとって幸福であるのかを必ずしも明確には理解しておらず、そこで議会において市民は、自分たちの代表者を通じて、自分たちが何を求めているのかを知るようになるというわけです。¶ヘーゲルはこれによって、「君主権が{極/傍点}として孤立し、それによって単なる支配権力や恣意として現れるということもなく、また自治体、コルポラツィオンおよび諸個人の特殊な利害が孤立することもなく、それどころかまた個々人が、{ひとかたまりの集合や寄せ集め/傍点}として現れることにもならず、それゆえに非有機的であるような思い込みや意志となり、有機的国家に対抗する単なる大衆的な暴力となることもな」(第三〇二節)くなるといいます。¶つまり、議会を通じて国民は支配者と媒介されるのであり、それは同時に国民が、フランス革命の際のペーベルのように熱狂的暴力へと駆り立てられるのを、抑制することになるというのです(183〜4頁)」。「非有機的であるような思い込みや意志」というくだりは、私めなら「イデオロギー」と言い換えるだろうね。
あるいは「専制国家には君主と奴隷しかいない。もしそこで今国民が行動することがあるとすれば、それは〔国家の有機〕組織を破壊する大衆としてでしかない(185頁)」というヘーゲルの言葉を取り上げて次のように述べられている。「ヘーゲルがここで専制国家として念頭に置いているのは、絶対王政です。それに対して国民が行動したとき、「形式を欠いた大衆の運動と行為は、原始的で、理性を欠いた、野蛮で恐ろしいものとなるだろう」(第三〇三節註解)とされ、だからこそ専制国家は避けなければなりません(185頁)」。絶対君主制国家であると、君主が普遍的権力を握ってしまうから、このような問題が生じてくるのでしょう。私めが、国家は中間粒度の最大の単位をなすという場合、その国家には立憲君主制国家は入っていても絶対君主制国家は入っていないのですね(少なくとも現代の先進国には、そのような国家は存在しない)。いずれにしても、ヘーゲルはどうやらフランス革命を、フランスという国家が絶対王政であるがゆえに生じたペーベルの暴力的な反動と見なしているように思えるのはおもしろい。言い換えるとヘーゲルは、フランス流の革命権や、ジョン・ロックを始めとするイギリス流の抵抗権のような抽象的でラディカルな概念に訴えるのではなく、コルポラツィオンというより具体的な制度的枠組みという視点から政治的な事象を捉えていたことになる。革命権や抵抗権のような抽象的な理念が、その後の世界にいかなる災厄をもたらしたかを考えれば、コルポラツィオンの実装の難度はともかくとして、ヘーゲルは、暴力が生じる可能性を極力減らしつつ、きわめて現実的な観点から政治制度を構想していたと言えるかもね。ならば絶対王政などではない現代の国家において、革命権や抵抗権に相当する概念を持ち出して国家や政府の批判をしている人々(たとえば修正第二条を盾に銃規制に反対するアメリカの共和党支持者や、憲法は政府を縛るものだと考えている一部の日本の左派)が、いかにガラパゴスであるかが、あるいはそれどころか中間粒度を破壊する危険な思想を振り回しているということがよくわかる。
そのあとは、コルポラツィオンと議会、さらに第五章では行政との関係に関するヘーゲルの見方が取り上げられているけど、細かくなるし、ここまでの引用で私めが注目したコルポラツィオンの概念のおおよそは理解できるはずなのでスキップする。ということで、復習を兼ねて「おわりに」にある、本書のまとめ的な文章を引用して締めくくることにしましょう。やや長めに引用しておく。「ヘーゲルが直面していた国家は、物理的な暴力を行使する権力であっただけではありません。まさに、権力が市民の生活の隅々に入っていこうとする時代にヘーゲルは思考していました。¶そうした権力観を準備していたのは、「君主の鏡」というジャンルに端を発する、「ポリツァイ学」という学問でした。ヘーゲルは、自分の「法哲学」の中にこの「ポリツァイ」を位置づけ、一方では積極的に取り上げながら、他方ではこれを批判し、相対化しました。¶ポリツァイは、フーコーが「生権力」と呼んだ権力を体現するものでした。権力といってもそれは私たちを危険から守り、私たち一人ひとりの生命と幸福に配慮してくれようとするタイプの権力です。¶しかし、同時にヘーゲルは、そうしたポリツァイの性格に危惧を抱いていました。そこに原理的な歯止めはなく、どこまでも――私たちの安全のためという名目のもと――私たちの生活を統制しようとします。それはヘーゲルの望む国家ではありませんでした。¶こうした「悟性的」とされる国家への対抗原理を、ヘーゲルは私たちが経済活動を通じて結びつく「市民社会」の中に見出します。彼は、私たちは近代社会において職業生活を営む中で、共通の利害を形成し、そうした利害を代表する共同体=「コルポラツィオン」を設立すると考えました。¶コルポラツィオンにおいて、人々は二重の危険性、つまり国家権力と経済権力に対して、自分を守ってくれるのを見出すのです。こうしてヘーゲルは、フランス革命が、ルソーの「社会契約論」の構想にしたがって破壊したコルポラツィオン(=コルポラシオン)に新たな意味を与え、こうした中間団体が役割を果たす国家が望ましいと考えます。¶それは、フランス革命によって提示された近代国家概念とは異なった、オルタナティヴな国家の構想でした(226〜7頁)」。
絶対王政の時代に生きていたヘーゲルが、国家を「中間団体」とは見なしていなかったという点では、国家をも含めた私めの言う「中間粒度」の概念とは異なるとしても、基本的には粒度の観点から国家や社会を捉えるヘーゲルの見方には全面的に賛同できる。そしてその粒度をなし崩しにしたのがフランス革命だったのですね。私めがフランス革命を徹底的に批判する理由もそこにある。前述のとおり、今回のパリ五輪の開会式では、欧米では中間粒度の維持に大きな貢献をしているはずのキリスト教を揶揄してバチカンに批判されるという体たらくをフランスは演じてくれた。そう、おふらんすは250年前からな〜んも変わっていないことをそこで自白したようなものなのですね。ちなみに『民主主義を疑ってみる』などで書いたようにジョン・ロックでさえ、神さまが背後で見ているというキリスト教的な前提のもとで抵抗権を擁護したのですね。彼はフランス革命が起こるよりはるか以前にお星さまになっているので、フランス革命について何か書き残しているはずはないんだけど、もし彼がフランス革命を目撃していたら、同じイギリス人のエドマンド・バークやドイツ人のヘーゲルや日本人の私めのようにそれを批判したのだろうか、それとも抵抗権の行使として賛美したのだろうかと思わざるを得ない。パリ五輪開会式でのフランスの態度は、まさにロックが抵抗権の前提としていた神さまのお目々を揶揄しているのですね。「今でもフランス革命をバラ色のできごととして絶賛する人は、よ〜〜く考えてみたほうがいいと思うぞなもし」と、偉そうなことを言いつつ終わりにする。
※2024年8月15日