◎山田仁史著『人類精神史』(筑摩選書)

 

 

本を開くと、いきなり著者が二〇二一年一月にお星さまになったという断り書きがあった。巻末の著者紹介欄を確認したところ、一九七二年生まれとあった。「何と! 私めより一回りも若いじゃん、カワイソすぎる!」と思ってまった。そのカワイソな人の書いた本に難癖をつけるのはちと気が引けるけど、最初の3章を読んだところまでは凡庸な本という印象を持ってしまった。それ以後の章は違っていて安心したけど、まず最初の二章に関してなぜそう思ったのかを述べておきましょう。

 

短い「第1章 三現実史観」に関して言えば、著者の提案する三つのリアリティ、すなわち「R1:生身のヒトが自らをとりまく自然環境に依存し、自他が直接に対峙してきた無文字の時代」「R2:人間が造りだした人工環境の占める度合いが非常に大きくなり、文字を介してのコミュニケーションが増加した時代」「R3:ヒトの脳の究極の外部化としての仮想環境が増大し、情報の伝達における速度と量が加速度的に増しつつある時代」という分類と、その直後にある「R1とR2を分けるもの」「R2とR3を分けるもの」という説明を読んで、なんかありふれたメディア論をこれから読まされるのかなという印象を持ってしまったわけ(ただしその箇所の先頭に「[編集部より]」とあるので、その部分は、著者自身が書いたわけではなく編集者が出版企画書を見ながら書いたらしい)。

 

次に「第2章 二種類の宗教」「第3章 四つのイズム」に関して言えば、宗教に関してコンテンツとしてのむこう側(超越者)と実存としてのこちら側を区分し、その間をさまざまなメディアが媒介するという構図は、カント以後の一般的な実在のとらえ方とあまり変わらないように思え、あまり新鮮味がないなと思ってしまった。

 

とりわけ「図3−4 四つのイズムとしての宗教」と「図3−5 感覚により結ばれる「むこう側」と「こちら側」」は、実在に関するポリモルフィズム的な理解の説明にすぎないように思え、これならわが訳書、ドナルド・ホフマン著『世界はありのままに見ることができない』(青土社,2020年)で提起されているインターフェース理論のほうがより独創的であるように思えた。

 

また「むこう側」対「あちら側」の区別は、「神の存在を中心に据えた教会神学的なとらえ方」対「個人の信仰を中心に据えた実存的なとらえ方」の区別、あるいはもっと言えば「カトリック的見方」対「プロテスタント的見方」の区別と相同であるようにも思える。この場合、メディアに関して言えば、前者は「むこう側」から「こちら側」へとトップダウンに作用するのに対し、後者は「こちら側」から「むこう側」へとボトムアップに作用すると見ることができる。

 

しかしその手の悪印象を受けたのは第3章までで、残りのおよそ四分の三はなかなか興味深い記述が多数見られた(ただし最後の2章には、突如として話が拡散し始める印象がある)。基本的に他者の説をもとに議論が展開されているので完全に独創的とは言えないのだろうが、これから述べるようにさまざまな事象の連関を見出すには創造性が必要とされるわけで、他者の業績を多数引用していること自体は必ずしもマイナスにはならない。

 

もっとも興味深かった箇所をいくつかあげていくと、「第4章 動物から人へ」にある民族学者レオ・フロベニウスが提起した「エアグリッフェンハイト」の概念の解説はとってもおもしろかった。ちなみに「エアグリッフェンハイト」とは、何かに「心とらわれた状態」を意味する。フロベニウスの説について解説した部分を引用してみましょう(なおキーワードには元のドイツ語とその読みが付加されているけど、それらは省略する)。「彼[フロベニウス]によれば、人間の創造的行為というものは何かに「心とらわれた状態」において、生命感情のほとばしるような「表出」として現れる。この段階では、パイデウマ(人間を教え育む霊的な力)が満ちていて、文化のあらゆる領域に絶大な作用をおよぼす。ところが当初の感動がしだいに薄れると、人間の文化は「順応」の段階に移る。こうして調和のとれた共有財となってしまった文化は、さまざまな分野で「応用」される。これが第三段階である。そして最終的に、飽きられ、忘れられ、あるいは不要となる「消耗」段階がおとずれる(80頁)」。

 

要は人間の創造性の源泉がどこにあり、それがいかに発展し、そして衰退していくかが述べられているわけだけど、この推移はまさにその通りだろうと思う。ただし「心とられれた状態」という言い方は、受動的な響きがあるので、私めなら「好奇心の発露」と置き換えたいところではあるけど。私めはまさにこの「心とらわれた状態」に置かれて好奇心を発露することこそ人間の創造性の何たるかだと考えている。今日、知識人を自称する人々の多くは、この点がまるでわかっていないのではないかと思うことがある。左右を問わず、イデオロギーに駆り立てられて、最初から答えを決めてかかる粗雑な言論をまき散らす自称知識人が多いという印象は、私めだけが抱いているわけではないはず。

 

またフロベニウスの弟子イェンゼンに言及しつつ、著者は次のように述べている。「こうした創造プロセスはさまざまな文化現象の中に、本来存在したはずだ。この段階では、文化現象は「心とらわれた状態」の完全なる表出だったに違いないのである。ところが、それまで知られていなかった現実の一側面がこうして人間に露呈されると、その結果生じた文化現象は、独り歩きを始める。というのも、その発生をもたらした刺激はもはや消え去り、今度はその保持と「応用」の段階に移ってゆくからだ。もともと創造行為によって生み出されたいかなる文化現象も、この段階になると教育によって継承されていく。この際、教える側も受け手の側も、本来的な創造行為の余韻をいくぶんなりと保持しているならば、生き生きとした活力はまだ残されるはずだが、そうした輝きが消えてしまえば、もはや硬直し無意味な要素でしかなくなってしまう。そして、いかなる文化現象も例外なく、表出から応用へというこの変化をまぬがれることはできないのである(82〜3頁)」。

 

まさにその通りでしょう。本来、知識人の仕事は、そのような「表出」の瞬間に立ち返ることにあるのであって、今日の自称知識人のように「硬直し無意味な要素」と化したドグマやイデオロギーを繰り返すことではないはず。ではどうすればよいのか? その答えの一つは、イェンゼンに関する次の記述に見出すことができる。「(…)イェンゼンは、タイラーが「残存」(Survival[サバイバル])という概念で説明しようとした、文化の中に一見意味なく残っているかに映る要素を、それが本来もっていた有意味な連関に位置づけようと努めた(83〜4頁)」。もちろんたとえばフーコーのような思想家も、そういった文化の中に埋もれた隠れた連関を権力という形態で抽出しようとしたわけで決して斬新なアイデアとは言えないとしても、しかしここには自明のようでいて多くの人々には見えていない側面がある。なぜなら、人は、まさに自分が分析しようとしている自文化の内部に埋め込まれているから。

 

いずれにせよ重要なのは、個々のものごとそれ自体ではなく、さまざまなものごとのあいだに内在している「連関」を見出すことにある。早い話がトリビア的知識をいくら並べたところで、創造的な何かを生み出すことなどできないということ(誤解のないようにつけ加えておくと、基本的な知識が無用だと言っているわけではなく、そこから新たな連関を見出す能力こそが、真の知識人には求められると言いたいわけ)。著者の用語を用いればR3のリアリティの時代に突入して、ものごとが指数関数的に複雑しつつある現代社会においてはなおさら、知識人にはそのような多様な事象のあいだの連関を見抜く能力が強く必要とされていると言えるでしょう。

 

オールドメディアやSNSでご託宣を並べている、政治家、弁護士、俳優、お笑い芸人、歌手、芸能人、小説家、漫画家、記者、ジャーナリスト、評論家、アナウンサーなどの、文化人の仮面をかぶったコメンテーターたちのなかに、ドグマやイデオロギーを並べ立てる詭弁術ではなく、そのような能力を備えている人はいったいどれくらいいるのか疑問を感じざるを得ない。

 

余談になるけど、私めは翻訳者も、翻訳を単に外国語から日本語へ翻訳すること(あるいはその逆)ととらえるのでない限り、訳書の選定などに関してある程度はこの能力を備えているべきだと思っている。つまり本来訳書の選定には、特定の本が多様な事象の網の目のなかでいかなる位置を占めているのかを見抜く能力が必要になるってこと。

 

さてもう一点とりわけ興味深かったのは「第6章 定住化と自己家畜化」で、個人的に読んだことのある著者では、ジェームズ・スコットやジョセフ・ヘンリックが取り上げられている。スコットの本は内容をまったく忘れていたけど、ここに書かれていることからすると、この選書本でも取り上げられている、狩猟採集民を理想化してとらえたマーシャル・サーリンズと逆方向の極端に走っているという印象を持った。サーリンズの本は昔読んで目からうどん粉と思ったことがあったけど、今ではエデンの園的な理想論だと思っている。

 

生物と社会の共進化のヘンリックは私めが今注目している人類学者の一人で、定住化や自己家畜化とは直接の関係はないけど、彼の最近の大著『The WEIRDest People in the World』(FSG, 2020)はすばらしく(三度も読んでいるほど)、おそらく今年中には訳書が刊行されると版元から聞いている。

 

とはいえこの第6章でもっともわが目を惹いたのは、西田正規氏の説なのですね。引用の引用になるけど、次のようにある。「だが、定住者がいつも見る変わらぬ風景は、感覚を刺激し、探索能力を発揮させる力を次第に失わせることになる。定住者は、行き場をなくした彼の探索能力を集中させ、大脳に適度な負荷をもたらす別の場面を求めなくてはならない。そのような欲求が、どんな場面に向けられるのか予見することはできないにしても、定住以後の人類史において、高度な工芸技術や複雑な政治経済システム、込み入った儀礼や複雑な宗教体系、芸能など、過剰な人の心理能力を吸収するさまざまな装置や場面が、それまでの人類史とは異質な速度で拡大してきたことがある。¶定住民は、それらの場面を用意することによって、彼らの住む心理的空間を拡大し、複雑化し、そのなかを移動することによって感覚や大脳を活性化させ、持てる情報処理能力を適度に働かせているのだと言えよう(122頁)」。

 

これはまさに『さまよえる自己』に関してツイしたときに述べた、「行動」を介しての「生物(脳)」と「心」と「社会(環境)」の相互依存という概念を、人類学的にとらえたものと言えるでしょう。わが訳書、ロイ・リチャード・グリンカー著誰も正常ではない』(みすず書房,2022年)も、スザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち』(紀伊國屋書店,2023年)も、実のところこのような相互作用が社会的にいかに顕現するのかを扱った本だとも言える。またこの相互作用を無視した最近の精神医学の傾向については、精神医学史の大家アンドルー・スカルの最新刊『Desperate Remedies』(Belknap, 2022)で詳細に解説されている(この新刊にはまだ邦訳がないけど、前著は『狂気――文明の中の系譜』として訳書が出ておりそちらも是非参考されたい)。そのことが、精神医学ではなく人類学の観点から述べられているのが、先の西田正規氏の説の引用箇所だと言える。

 

次に「第7章 農母性と牧夫性」だけど、母権論に関する議論はおもしろかった。著者によれば、母権論には「そもそも前提として、ケダモノのように乱交していた初期人類においては、父親の確定は困難だったろう、という思い込みがあった。だが実際そんな社会はなく、狩猟採集民でも一夫一妻が基本で、しかも父系制のほうがふつうだと判明したからだ。それでもなお、この{謬見/びゅうけん}の信奉者は後を絶たず、(…)今なお俗説としては散見する(158頁)」「また女性の地位が高かったのは、人類の最古段階ではない。狩猟採集時代、おもに採集活動に従事していた女性たちが、しだいに植物の習性に慣れ親しんだ結果として農耕を開始したため、その地位が向上したのは、むしろ初期農業社会だったのだ(158頁)」。

 

私めの考えをあえてつけ加えておくと、母権論がかつてはやった理由は、思いつく限り他にも二つあるように思う。一つはフェミニズムなどによるイデオロギー的な影響を受けて、結論ありきの議論になっていたように思われること(フェミニズム自体を否定するつもりはないので念のため)。もう一つはユング派心理学の影響が大きかったのだろうと思う。その代表格はエーリッヒ・ノイマンあたりで、私めも『意識の起源史』とか『グレート・マザー』とか彼の主著を読んで、目からうどん粉的な気分になって「俗説」に引きずられたこともあったけど、サーリンズの本と同様、今ではトンデモ本とまでは言わないとしても、真剣に扱うべき本だとは思っていない。日本で言えば筆頭は河合隼雄氏だろうけど、彼に対する現在の印象はノイマンに対するものとまったく同じ。

 

「第8章 ユーラシア大陸と〈軸の時代〉」は、ヤスパースが提唱した「軸の時代」の概念を中心に古代の文明の発展が概説されている。そう言えば、何年か前に読んだロバート・ベラーの最後の著書『Religion in Human Evolution: From the Paleolithic to the Axial Age』(Belknap, 2017)が「軸の時代」までの人類の文明の発展を論じた大著(800頁近くある)だった。詳細は覚えていないので、そのうち読み直すつもり。

 

第9章以後は、きちんと執筆する前に著者自身がどうやらお星さまになってしまったらしく、話が拡散しすぎていてコメントのしようがないから省略するけど、一点だけ取り上げておく。それはコロナの流行がもたらした現状との関連でコスモポリタニズムについて述べた次の箇所。「しかし一方で、われわれ人間が結局はフィジカルな地政学的単位にしばられた存在だ、という事実もまた、突きつけられてしまった。コスモポリタンなどというユートピアは、言語共同体という基礎なくしては成り立たない。それはわれわれの精神が言語行為とふかく結びついていることからの、当然の帰結でもある(256頁)」。そしてそれに続く「言い換えれば、これは(…)カント的な人類学か、ヘルダー的な民族学か、という対置でもある。人類の普遍的理性を信じ、全世界が共通でめざすべき理想をかかげたのがカントだったとすれば、ヘルダーは個々の言語や民族に特有のものの考え方を重く見た。(…)後者を経なければ前者にはたどり着けない(257頁)」。

 

前者の引用箇所は、まさに著者がリアリストであることを示すもので、私めも激しく同意する。後者に関しては、おおむね同意するけどカント的な見方とヘルダー的な見方をあれかこれかの選択の対象として考える必要はなく、両者は互いに粒度の違うレベルの話をしているととらえればよいと思う。だから「後者(ヘルダー)を経なければ前者(カント)にはたどりつけない」わけではなく、同時に両立しうると個人的には考えている。ただ前者の原理を後者の領域に、あるいはその逆の方向に押しつければ、それは私めがこれまで何度も述べてきた粒度越境の誤りを犯すことになる。

 

ということで、全体的にはなかなかおもしろい本だと思うけど、書き終える前に著者がお星さまになってしまったこともあってか、やや散漫な印象を受ける部分もかなりあった。

 

 

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※2023年4月28日