◎内海健著『さまよえる自己』(筑摩選書)

 

 

10年くらい前に刊行された本。「第一章 〇・五秒の闇」は、章題からもわかるように例のベンジャミン・リベットの実験が取り上げられている。私めには、このリベットの実験に対する世の一般的な反応は不思議に思える。というのも、そもそも脳の働きによって行動が引き起こされるのなら、〇・五秒が長いか短いかは別として、行動よりも脳の作用のほうが先に生じるのは当然だから(同じことは、わが訳書、ロバート・クルツバン著だれもが偽善者になる本当の理由』(柏書房,2014年)で指摘されていた)。

 

世の人々がリベットの実験を奇妙に思う理由は、心という自由意志を持つ実体が脳とは独立に存在していて、それが脳に影響を及ぼしうると考えているからとしか、つまり完全なる心身二元論を信じているからとしか思えない。もちろんその点に関しては、本書の著者も次のように指摘している。「かりにリベットの実験で、意志の発動のあとに脳の活動が起動したという結果が出ていたならば、人々は安心するのだろうか。むしろその時こそやっかいな問題に立ち会うことにはならないだろうか。つまり、いかにして心的なものが物理的なものを引き起こすのかという問題である(21頁)」。

 

リベットの実験という文脈に限定して言えば、著者のこの指摘はまったく正しい。ただこの本から10年が経過し、脳科学が大きく進展した今日から見ると、この指摘は誤解を招く恐れがある。なぜなら、実のところ心は脳に影響を及ぼしうるから。ただしそれは、リベットの実験によって否定されたような、瞬間的な判断において心が脳に影響を及ぼすという意味においてではなく、心によって引き起こされる行動が特定のパターンを取ることで、脳が特定のあり方で配線されるという中長期的な意味においてだけどね。

 

たとえば私めのようなネガティブ思考のヘタレ引き籠り翻訳者の脳は、ポジティブ思考の社交家の脳とは異なったあり方で刻々と配線し直されていく。要は「生物(脳)」と「心」と「社会」が「行動」を介して相互依存していることが、最近10年間の脳科学の発展を通してより明確化されてきたにもかかわらず、リベットの実験は、瞬間的な判断という意味では正しくとも、中長期的な意味ではむしろ事実を覆い隠してしまうきらいがあるように思える。だから今になってリベットの実験に関する記述を読むとどうしても違和感を覚えてしまう。

 

もちろんそれは、10年前にこの本を書いた著書の責任ではないけど、メディアや三流科学ジャーナリストは、当然の結果が出たリベットの実験を今でも得意になって喧伝しているように思える。ちなみに「生物(脳)」と「心」と「社会」が相互依存することは、わが訳書ではロイ・リチャード・グリンカー著誰も正常ではない――スティグマは作られ, 作り変えられる』(みすず書房,2022年)とスザンヌ・オサリバン著『眠りつづける少女たち――脳神経科医は〈謎の病〉を調査する旅に出た』(紀伊國屋書店,2023年)で取り上げられている。

 

次に「第二章 世界が割れ、自己が生まれる」では、章題通りいかにして自己が生まれるかが論じられている。その転換点には「見える」から「見る」への転換があるというのが著者の主張だけど、「ポストモダンの精神病理」という本書の副題から予想されるように、ここではラカンの「鏡像段階」説がまず取り上げられている。

 

著者は「鏡に映った像が自分だとわかるということには、一つの前提がある。それは像をみているのが自分だとすでに知っていることである。見ているのが他ならぬこの私であることを知らねば、像が自分だとはわからない。いずれにしても、すでに「見る」自己が前提されてしまっている(65〜6頁)」として「鏡像段階の穴」を指摘している。

 

私めにはラカンはようわからんので、この指摘が正当なのかどうかもようわからんけど、ならば「見える」から「見る」への転換に関して著者はどう考えているかというと次のようにある。「では、「見える」から「見る」への転換をもたらすのは何なのだろうか。実は、われわれの目に入ってくるもののなかに、一つだけ特権的なものがある。それは圧倒的なものとして飛び込んでくるのであり、ただ眺めているわけにはいかない。つまり、「見える」世界の中には像を結んで収まらないのである。網膜像には映らない。それとはすなわち、他者のまなざしである。¶ここで問題となっているのは、他者の「目」ではない。「まなざし」である。目であれば、それはドットのようなものとして網膜に映り、「見える」世界のどこかにはまり込むだろう。あるいはシミのペアが動くのを、おもしろがって眺めているかもしれない(66〜7頁)」。

 

でも、なぜ「まなざし」が特権的なものとして飛び込んでくるのかは少なくとも第二章を読んだだけでは判然としない。「他者の目」ではなく「他者のまなざし」が飛び込んでくるためには、自分の側に何らかの能力がなければ不可能だと思える。なぜなら外界の事象は、物理的にはすべからく「ドットのようなものとして網膜に映る」しかないから。

 

その答えはどうやら「第三章 言語のみる夢」に見出せ、「言語能力」ということらしい。次のようにある。「このように表象、とりわけ言語というものは、経験の成り立ちに深くかかわっている。さらには自己の立ち上げに決定的な役割を果たすのである。¶前章では、触れられること、見つめられることといった、他者から到来する感覚刺激が、自己の核となる可能性をみた。この感覚的なものから私が立ち上がるまさにその地点に、言語は深く関与している(82〜3頁)」。

 

となると、魚や、カエルや、モスラ(うげげ!)は、お目々があっても、「見える」から「見る」への転換を果たしておらず、「見える」世界、つまりユクスキュル的環界に受動的にはめこまれているだけであろうことはわかるけど、言語を持たないにしろ大型類人猿がその転換を果たしていないとほんとうに言えるのかという疑問が湧いてくる(ちなみに著者は、類人猿も言語がわかるという説を80頁の注で否定している)。

 

この問いに対する答えは、奇しくもたった今翻訳中のマイケル・トマセロの新刊『The Evolution of Agency』(MIT, 2022)の第6章にあった。それによると、どうやら大型類人猿は「見える」から「見る」の移行を果たせていないらしい。次のようにある。「[現生人類において]この客観的かつ規範的な世界を生んだ主たる認知的要因として、主観的な観点すなわち信念と、客観的な状況すなわち{現実/リアリティー}を区別する能力の発達があげられる。大型類人猿はそれらを区別しない。現前するがままに世界をとらえ、それに従って行動するのだ。仲間が何を知覚しているかを識別することはできるが、当面の状況に対する仲間の知覚を自己の知覚、ましてや客観的な状況と比較したりはしない(なぜなら大型類人猿は、複数の観点が同一の事象に対する比較可能な異なる見方でありうることを理解していないからだ)。現生人類の子どもは、四歳から五歳にかけて主観と客観を区別し始め、客観的な状況に合致したりしなかったりする心的状態として信念(誤った信念を含む)を正しく理解するようになる。このプロセスは、類人猿がすでにしているような単に他者の「心を読む」ことなのではなく、他者と心的に協調し合うことであり、それには同一のリアリティーに関するさまざまな観点や信念の比較が必要とされる」。

 

トマセロ氏の議論に従えば、「見える」様式から「見る」様式への移行に必要とされる能力は、主観と客観の区別であることになる。さらに氏は、仮説としてだけど「初期の現生人類は、二階層から成る実行機能の働きを反映する慣習的な言語を介してさまざまな視点を表現し交換し合うようになると、個人の主観的な信念と客観的なリアリティーを自ら区別するようになった」と述べており、主観と客観の区別を可能にしたのは言語だとしている。

 

選書本の著者である内海氏が、フロイトを扱う「第四章 ピュシスとノモス」で、それをピュシス(自然)からノモス(法)への移行という別の観点からとらえているのも興味深い。いくつか引用してみましょう。「動物の世界はピュシスでだけ自足している。自然の次元で過不足なく営みが行われている。もちろん、自然界にも生物界にも法則はある。しかしそれは外から書き込まれたものではない。ピュシスの発露がそのまま法則になったまでである。それはノモス(掟)のように、侵犯されたり、書き換えられたりすることはない。つまり<生=法>の等式がなりたっている(111頁)」。

 

内海氏の言う<生=法>とトマセロ氏の言う<主観=客観>は正確に対応するわけではないんだろうけど、それでも未分化な二項を分離する必要があると主張する点で、大型類人猿に関するトマセロ氏の見方と類似する。ではそれら二項を分離して区別するにはどうすればよいのか。

 

それに関して内海氏は、「法あるいは掟の起源を説明しようと試み(123頁)」ているフロイトの著書『トーテムとタブー』の父殺しを持ち出して、「暴虐な父は、まだ法以前にある。それゆえ犯罪者ではない。そもそも法(ノモス)自体がまだ設定されていないのである。まさに無法者であり、ピュシスとしての父なのである。それがノモスに移行するためには、殺害という事件が差し挟まれなければならない(124頁)」、あるいは「「トーテムとタブー」が示したのは、暴虐な父が殺害されることによって、象徴的父が産出され、ノモスの世界が開かれるということであった。すなわち、ノモスの起源には、暴力的なものがあるのである(126頁)」と述べている。

 

21世紀にもなってフロイトを持ち出すと変な目で見られることになりがちだけど、ただ象徴性が強調されている点には着目すべきでしょうね。というのも言語は象徴性の最たるものだろうから。かくして言語がピュシス(「見える」世界)に切れ目を入れて主観と客観が分離し、そこにノモス(「見る」世界)が暴力的に誕生したと見れば、内海氏とフロイトとトマセロ氏を結びつけることができる。

 

次に「第五章 モダンとは何か」だけど、この章を読んでハタと気づいたことがある。それは「ポストモダンの精神病理」という副題がついていたので、私めはこの本が「ポストモダン思想家の解釈する精神病理」に関する本だと勝手に想定して買ったんだけど、実はそうではなく「ポストモダンの時代における精神病理」という意味であることに。確かにラカンやフーコーやリオタール(リオタールに関してはあとで述べる)への言及はあるけど、たいてい短く、本質的とはいえない部分に関するものだと言える。

 

次に「第六章 メランコリア」と「第七章 スキゾフレニア」だけど、これら二章に対しては、精神分析学的な観点からそれらの障害が論じられていることもあって、この本のなかでももっとも違和感を覚えた。

 

たとえばメラニー・クラインに言及する節に次のようにある。「何かのはずみで、この秘匿されたものが露わなものとなるとき、メランコリーが発動する。すでにみたように、クラインは息子の死を悼む自分の中に、良い母を見出すことによって、体内化された死せる母をはじめて扱えるようになった。それは抑うつポジションの概念に昇華されるとともに、償いによる修復というさらなる回復の道を見出した。死せる母を生の回路に組み込む可能性を見出したのである(189頁)」。

 

あるいは、「彼女の場合、死せる母が露わとなり、目覚めたとき、それは羨望によって生を喰いつくし、対象関係そのものを破壊する怪物に変貌する。これもメランコリーの原像の一つである。おそらく多くのメランコリー者にとっては、死せる母は永遠に目を閉じたまま、生き返ることのない骸をあらわにし、それに直面した自己を絶望の淵に追いやるものとして現れるだろう(189頁)」。

 

どうですか、これ? 口の悪い人なら「ブルシット」と言うだろうけど、紳士たる私めは、さすがにそうは言わない。でもこれは、なぜなぜ物語、それでも辛辣すぎるならメタファーだとしか思えない。メタファーであることは、土星の星のもとに生まれた憂うつな人は男にもいくらでもいることを考えればすぐにわかる。しかも二番目の文章では、クライン個人のメランコリー経験をメランコリーに関する一般論に転化しているけど、なぜそれが可能なのかはまったくわからない。

 

同じことはスキゾフレニアを扱った第七章にも当てはまる。そこではおもに、カフカの不条理小説が取り上げられているけど、その事実自体、そこに書かれていることがメタファーであることを示している。メタファーが優先されがちになるのは、精神分析学的なアプローチの本質がそこに存在するからであるように思われる。ここでは詳細は述べないが、それよりも精神障害者自身が世界をいかに開示しているのかに主眼を置く現象学的精神病理学のほうが個人的にはしっくりくる。

 

ただ「言語が「見える」様式から「見る」様式への移行をもたらした」という主張にも関連する次の記述はなるほどと思った。「構造としての言語は、全体対象と同じく、一挙に獲得される。この言語的審級の到来によって、自己は目覚め、事物の世界に張り付いた状態から引き剝がされる。その時対象は、すでに言語化されたものとして発見されるのである。この言語化のしるしは、全体対象に刻み込まれた欠如の痕跡に対応するものである(187頁)」。この見解はほぼ(「全体対象」や「欠如の痕跡」という言葉を除けば)、私めが現在鋭意翻訳中のトマセロ氏の本の見解と合致する。

 

最終章の、本のタイトルと同じ章題がついている「第八章 さまよえる自己」だけど、全体的な議論にはおおむね同意するけど、「大きな物語の終焉」としてリオタールを持ち出したのには同意できない部分がある。というのも私めは、そもそも「大きな物語の終焉」という言い方は誤解を招くと思っているから。

 

「大きな物語」とは何かと言うと、内海氏に言わせれば「「大きな物語」とは、「自由」、「革命」、「精神の生」のような理念を核にした主導的な原理のことである。それはたとえば「プロレタリアートの解放」であるとか「人類の栄光ある未来」のような物語を紡ぎ出すものであり、そのために人が殉じることさえできるものであった(247頁)」ということになる。

 

でもよく考えてみればわかるように、その種の「大きな物語」を抱いている人は現代にもいるし(「テロリスト」でさえそう言える)、また、「大きな物語」とされるものが失われる以前の時代であっても、フランス革命などの一部の時期を除けば、インテリではない一般人がそんな理念を抱いていたとは到底思えない。とはいえ、現代において何かが失われていることは間違いないと思う。

 

何度かツイしたことがあるけど、作家の日野啓三氏が「中景の欠如」という言葉でみごとにそれを言い当てていた。現代において失われたものとは「大きな物語」などではなく、人間の生活にもっとも関わる、ミクロでもマクロでもない「中間的な粒度に属する物語」なんだと思う。そのような物語は、国家や独自の文化や慣習や法によって維持されるべきものであり、グローバリゼーションを通じて破壊されつつあるのはまさにそれらの制度であって、理念ではないと思う。

 

よく国家解体を主張する人がいるけど(さっきお隣の紀伊國屋書店でその手のタイトルの本を見かけた)、それんなことをすれば、理念に基づく「大きな物語」で「中間的な粒度に属する物語」を破壊することにつながると思う。

 

でも実は、内海氏自身、失われたのは「中間的な粒度に属する物語」であると考えていて、リオタールはよく知られているからついつい引用してしまったのではないかと思われるフシがある。そのことは次の文章からわかる。「アレンカ・ジュパンチッチは、権威というもののあり方について、カトリックとプロテスタントを対比しながら興味深い議論を展開している。第五章でみたように、カトリックでは、神と人の間に教会という象徴化機能が差し挟まれていたのに対し、プロテスタントでは、そうした中間項は抜け落ちる。(…)一七世紀以降、世界をリードした国であるオランダ、イギリス、アメリカが、ことごとくプロテスタント国であることをみてもわかるように、今後はともかくも、なべて世界は前者から後者へと押し流されている。これはノモスの衰弱と軌を一にした動きである(265〜6頁)」。

 

これを読むと著者の言う「ノモス」が、実は「中間的な粒度に属する物語」を支えるもので、近現代にあって、ましてやグローバル化の21世紀にあって失われつつあるのは、この「ノモス」とそれに支えられていた「中間的な粒度に属する物語」なのだろうと思う。

 

 

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※2023年4月28日