News >「仕事日記」不安の時代始末記


〈1〉予兆 2005年4月
18から20歳にかけてが最高潮だったろう勉強力・集中力はこの先益々先細りになって行くだろうから、48〜50歳を最後のチャンスだと思ってあと一つだけその後の自分自身の財産になるようなものを身につけようと思ったのが48の誕生日。選んだのがゴールドベルク変奏曲。どうせなら目標を立ててしまえ、と2003年の誕生日にリサイタルをすることにして準備を重ね、晴れて文化会館を終えた。

当初の予定ではその二年間の努力は僕の人生の最後のまとまった努力・練習・研究であり、今までのジャズ経験を活かしてその後はスケジュールもゆるやかに、知っていること・弾けることだけで世間の端に居場所をもらおう、具体的には、タバコでも吸いながら演奏できるジャズクラブで弾いたりしながら、ということだったのだが、、、。 

東京交響楽団とM'sの共演でガーシュインのラプソディ・イン・ブルーのコンサート。その最終リハーサルが終わった時に秋山和慶先生が指揮台のそばで、今度バーンスタインの不安の時代をやろうよ、と仰った。知らないので聞き返すと“ふ・あ・ん・の時代、バーンスタインの第二交響曲でほぼピアノコンチェルト仕立て”。こりゃえらい事だとは思ったがチャンスでもあるので“資料など集めて見ます。弾ける目途がついたらお知らせしますから”とお答えしてその日は別れたのだった。
〈2〉依頼 2005年6月
6月のとある日、突然東京交響楽団事務局からメールで来年の定期演奏会のゲストのオファー。不安の時代をやるという。秋山和慶先生のご指名だそうだ。そんな馬鹿な。秋山さんは僕が弾いたこともなければ、ついこの間まで曲の存在すら知らなかったのをご存知のはずなのに。ということは、一年間でさらって弾け、ということなのだ。とともに、君なら出来るだろう、ということでもあるのだ。

迷った。

受けておいて本番がダメならその後オーケストラもののオファーは来なくなるだろう。といって断ればその時点でオーケストラの仕事は断るやつだということになって結果は同じ。クラッシックピアニストと言うのは常にこういう瀬戸際に立たされているのか、大変だなぁ、などと多少他人事の感想も交えながら、さてどうするか。小原孝君に相談したら、一も二もなく受けるべきだという。
その上でキチンと練習のスケジュールを立てること、オーケストラパートのピアノを誰かに頼んで必ず合わせ練習を綿密にすること、などのアドバイスをもらった。甲斐さんに報告すると、定期というのは一番力を入れる演し物だから相当認められたことになるとのこと。そんなことも知らなかったのは少々恥ずかしいが、秋山先生の信頼と期待を裏切るまいと腹に力が入った。
〈3〉葛藤 2005年7月
瀬木貴将のツアー中、軽く譜読みをしながら年間のおさらい予定を立てているうちエージェントから報告があり、契約内容がかみ合わなくて難航しているという。周辺を固めてもらって安心して音楽のことだけを考える体制が整わないと、今後予定している練習量、かけようとしている膨大な時間に耐える自信がない。

ところが、よくしたもので、あれこれ迷っている間に別件報告があった。秋山さんは佐山雅弘単体ではなくM'sの3人でやりたいのだとの確認がオーケストラ事務局に入り、事務局も慌ててその対応に追われているとのこと。その形態なら前例もあり、トランポーテーション、リハーサルスケジュールなど諸々一から仕切りなおしだが、普段ゲストやメインでホールに出ている契約内容で丸く収まってしまった。M'sより個人の方が扱いにくいというのは不思議な気もするが。

秋山さんにお会いしたところ、前回のガーシュインの気持ちよさが忘れられない、今回のバーンスタインも、あなたなら十分弾けるし向いてもいる、トリオで参加することによって世界にも類を見ない作品に仕上げよう、と言ってもらえた。考えてみれば定演というのは秋山さんも音楽界の厳しい評価に身を晒すわけで、彼なりにかなりな冒険なはず。

トリオ参加のアレンジは今のところ想像もつかない。曲の聞き込み、イメージ作りから。
〈4〉写譜と記憶 2005年8月
ガーシュインものとは違い、一からのチャレンジだから、バンドアレンジを考える前に正調をまず僕がしっかり身に付けなくてはならない。伝兵衛ツアーをいいことに、楽屋で写譜、移動中は暗記、現場では覚えたところを弾いたり、譜面を置いてのゆっくりとした通し弾き。無調や十二音技法の曲を、ゆっくり訥々それも間違えながら弾くのを聞かされるのはさぞ辛かろう。下手なバイオリンをのこぎり音よろしくギィコギィコ聞かされるのにも似た拷問状態かと思われる。

伝兵衛曰く“辛かったはずだけど、バッハの時はまだよかった。今から考えると天国に思える”
〈5〉譜読み 2005年9月
写譜したものにワンフレーズごと、一和音ごとにコードネームを付けながらアナリーゼ(楽曲分析)していく。田植えのように根気の要る仕事だが、アレンジや作曲の一番の勉強にもなる。というより楽しい。作曲家と“ああ、そうですか。しかしここんところは?”などと会話している気になる。
ジャズの場合はレコードを聞きながらその演奏者との会話の幻想を持ったり、少なくとも演奏者同士の会話を耳そばだてて聞いてるような楽しさ、そしてそれが直接自分のプレイの為の勉強にもなるのだが、クラッシックものは演奏を聴いてそういうことは起こらない。不思議といえば不思議。わかるといえばわかるが、今は追求しないでおく。
とにかくモーツァルトにしろガーシュインにしろ、僕がクラッシックを手がける時にはこの作業が必須。これを通して作品に対するジャズからの視線とその土台が構築されるのだ。しかし手ごわい。

ベートーベンでもチャイコフスキーでも、ドビュッシーくらいに時代が下っても、この50年で急速に発達したジャズ理論とその例外を使えば、たいていのものは自分なりに解析できる。しかし今度の相手はバーンスタインのコンテンポラリー作品なんだから、ついていける理論背景には自ずから限界がある。少しだけかじった12音技法の考え方や、ひどい時には鍵盤の白黒の順列組み合わせから弾くべきことを把握してみたりする。
カノンの部分はわかりやすそうに見えても、ヘミオラ(拍子が一時的に変わること)との組み合わせや楽器法でのギミック(仕掛け)などが複雑に交錯していて3小節に丸一日かかることもある。ここは我慢。ピアニスト的対応なら指に覚えこませるんだろうけど、全ての音楽をジャズから見通す、という立脚点を持ちたい僕としては、そういうピアニスティックな体感としてではなく、意味を把握して演奏したい。だから、この手間は必要だし、回りくどくても音楽の身につき方が(僕と言う個体にとっては)格段に違うのは経験的に確かなこと。
〈6〉プロローグ・七つの時代 2005年10月
プロローグが始まる。クラリネット二本がゆったり交錯してたどり着いたところから、ハープがバーンスタイン言うところの無意識層への階段をおりてゆく。ティンパニィのピアニッシモが切れるか否かのタイミングでピアノソロのD#。これが、いよいよ、、、

七つの時代の幕開け。第一段階幼年期。後続する嬰ハ長調の主和音の9度にあたるとともに、この一音でドミナント・アウフタクトの意味もついている。高校の同級生で音大のピアノ科に進んだ女子が、ベートーベンのソナタの出だしの和音だけを、音色が整うまで何十回も練習する、と言っていたのを思い出す。大変だなぁ、とその時はひとごとだったものだ。5度マイナーを使ってのカデンツであっというまにG#メジャー。そして魔法のようにAメジャーにたどり着くと再びハープが階段を下りてきてオーケストラとの合奏に入っていき、

第二段階青春期になる。増八度の不協和音を駆使しながら何故か安らぎも感じるという、現代曲ならではの進行は心地よいが、指がつる。コンサートホールでの生音で響かせるには届くだけではダメなので気が重い。BメジャーとGミクソリディアンが絡まったスケールが何故かAmに落ち着いて、それでも4度のメロディラインを使って、普通には落ち着かせてくれない。バークリー的コードネームでは間に合わないながらも、なんとか自分なりのプログレッション解釈で構成を掴む。しかし、ガーシュインにまで遡れるような伝統か、同じ音型の時には内声や対旋律に必ず何かしら変化がついていてややこしい。比較的弾きやすく、覚えやすい箇所だがスキップできない。

第三段階に入っていく。ここはピアノおやすみ。オーケストラながらそれぞれ一本ずつの弦楽四重奏の場面もあって、これは本番の時、位置関係によるステレオ効果も相俟ってすこぶる感動的だった。

第四段階の五拍子はややこしいものの意外とやりやすい。左手と右手で違うコードを弾けばよい。その組み合わせも、ある種ロジカルに出来ているので記憶にも残りやすい。運動性の高いパッセージはフィジカルな快感にもつながって、ついそこばかり弾きこんでしまう。

第五段階がクラリネットの不穏な音型でなるのを受けて八分の二拍子の軽快なパッセージ。ただし和声はかなり不安系。ゆっくりと、ゆっくりと。メトロノームを80からひと目盛ずつ200に上げるまで何日もかける。一回の練習でひとつの速さにつき五回弾くと、運動も含む脳の記憶はべき乗のはずなので2の5乗すなわち32回刷り込んだことになる。

第六段階はピアノソロ。4小節目。先ず最初の区切りのピアニシッシモ(ppp 僕はピッピッピアノ、と読んでいる)は口中に残ったスイカの種を内緒で“Ptt”と吐き出すように発音する、と言う話を本番直前に秋山さんから聞いて妙に納得した。先生はその話やいろんなエピソードをバーンスタイン本人から色々聴いたそうだ。羨ましくも頼もしい。やはり同じ音型でまるで違うニュアンスを要求されるので覚えにくい。最後のスイカの種を吐き出したのを受けて、、、

第七段階はオーボエとコーラングレーの対話。それがやがてクラリネット二本に入れ替わってピアノが潜在への階段を降りる。ほぼ全音域をつかっての音階降下はデクレッシェンドの到着点も見据えて緊張するが、客をじらせる見せ場でもあり、ほくそえみながら練習する。
〈7〉七つの段階 2005年11月
弦の4度進行を増4度下の低音で受けて始まるのが、、、

第一段階 荒ぶれた背景に、はかなげで無垢な、希望と不安が入り混じった二声の交錯が美しい。弦が歌ったのをピアノがそのまま繰り返しす。右手で二声分を弾き分けるのはさほど難しくないのだが、曲の冒頭のクラの二重奏のように声部が隣接しているので歌い分けに細心の注意が必要。

第二段階からいよいよバーチュオーソ的な見せ場になって行く。この派手なシーンは終りの方の仮面劇とともにジャズピアニスト向きなところ。無調のように見えても、ジャズマンにとってはアッパーストラクチャートライアドで解釈できるので、複雑な音型の割には間違えないで済む。音を辿ると隣の鍵盤に当たったりするのが、成り立ちを把握してアドリブのように弾けると音を外さない。ピアノの技術があるんだかないんだかわからなくなるのはこういう時である。
とはいっても、才能の有る無しと同じ設問で、結論が出たからといって現状や行いが変わるわけではないので、どちらでもよいことなのだ。油断せずに他の場所と同じようにメトロノームをゆっくりと上げて行く。これにはおまけもついていて、ジャズにおけるキープ力の向上に頗る有意義なんである。一石二鳥、、、というにはあまりに負荷の多い修行ではあるが。派手にアッチェルランドを決めて、、、

第三段階はカノンというのかフーガというのか、右手を左手が追いかけて、そのフレーズをオーケストラが踏襲するのに、ピアノは新しい音型をまぶしていく。ピアノとオーケストラが渾然となってフォルテで一旦しまると、

第四段階は、7度を主体にした左手のモチーフがどんどん転調するのに右手が絡むのを、またオーケストラが踏襲する。鍵盤パーカッションとの絡みなどもおもしろいところ。

第五段階は左手と右手がまるで違うコード進行をして、傍目にはかっこよく一瞬に通り過ぎる割には物凄く練習しなくちゃ行けなくて、こういうのをコストパフォーマンスが悪い、なんていう表現をしちゃぁバチがあたるよなぁ、とグチともつかぬことをぶつぶつつぶやきながら練習を重ねた。

第六段階は、そのパッセージの後のオーケストラパートが壮大なカノンになっているのが聞き所の一つ。フレーズの重なりが最高潮を迎えたところで、切り裂くようにピアノの4オクターブパッセージで、

第七段階。第三段階からここまで息もつかせず、滝がなだれ落ちるように前半が終わる。
〈8〉哀歌 2005年12月
十二音技法。十二音全てが出揃うまで、一度出た音は出て来ない。
この方式で何種類かの音列が提示される。それぞれ独自の音列はセリーと呼ばれる。まずイントロはピアノソロ。ここのセリーは、低いEから始まって、コード的にはE>Eb>(超低音のDbを挟んで)Bbaug>D7(例外的にAが二回出てきて)Fm、と積み重なる。低速の6拍子。たっぷりレストをとってから、弦楽の重厚なモチーフが拍をずらしながらずしずしと進行する。ブラームス的哀愁、とバーンスタイン本人の言う所。対旋律をピッコロとユニゾンする。高音でのユニゾンは独特の快感を伴うが、拍子の中でとりづらいフレージングなので覚えにくい。が、自分なりの拍子を設定するのではなく、指定された拍子との関連性で把握しきっておかないと、指揮棒がわけわからなくなるので、こういうところは作曲者の言いなりにならざるを得ないのだ。これは新日本フィルと共演した時の教訓。

5種類のセリーを次々に弾く。音列としては論理的に捉えにくいため覚えにくいのだが、一音列にそれぞれの音は一度ずつしか出てこず、音列のひとつなどはまるっきり4度進行だったりするので覚えやすくもある。不思議な感じ。地軸が定まっていないような。

そしてA#とHを4回も揺らがせて不安で不穏、しかし不思議な美しさを伴ったピアノソロが始まる。見せ場、というか聞かせどころ。やがてストリングスが謎めいた対旋律で絡んでくる。拍子がとりにくい。なんと本番2日目のサントリーホールでピアノソロの出口付近で拍を見失ってしまい、拍どおりに出たオーケストラより二拍後に決めアクセントが来てしまった。
〈9〉仮面劇 2006年1月
いよいよジャズシーンに入る。
オーケストラスコアをたどっても、パーカッションの振り分けはドラムセットのプレイを想定したものと察することが出来る。ベースラインも然りで、この部分をジャズのピアノトリオに、という秋山和慶さんの着眼は当然といえば当然なのだがいままでに実践したひとはいなさそう。やりがいのある所以ではある。
やがてベースが入るのだから左手の難解な跳躍は最初から省こうか、とも考えたがやはり書いてあることは弾けるようになった上でのアレンジやアドリブにしないと説得力に欠けるだろう。下地をしっかり、というところ。不思議なもので来る日も来る日もゆっくりと弾いていると、ある日早弾き出来る日がくるもの。拍子は立て込んではいるものの、リズム的にもハーモニー的にもジャズからの解釈が出来る部分なのでアナリーゼは容易だった。
増九度の連続を使うジャンクション部分が、何度か現れるたびに回数や落ち着き先が違うので混乱しやすい。バンドでやるようになってからはトリオ部分は一度も外さなかったのに、やはりサントリーホールで一箇所跳ばした。正確には跳ばしたのではなくワンフレーズ余計に弾いたのだった。おかげで、超高速で駆け上がるオーケストラとの決め所が聞かなくなってしまい、悔やまれる。
〈10〉エピローグ 通し弾き 2006年2月
忙しく働いてはいるのだがアタマの中は常にバーンスタイン、と言う状態が続く。どの現場に行っても一度は通し弾きするのではた迷惑もいいところ。まだ先は長いのだから、とにかくゆっくり確実に通す。どうしてもテンポが目標値にまで上がらない部分は特に焦らないことが肝心。とはわかっていても、焦りではなく、弾いていて楽しいのでつい速弾きしてしまい、ぽろぽろ落ちる(弾けずに通り過ぎる)箇所をさらいなおす根気や時間もなく日々が過ぎる。

京都の井上先生に見ていただく機会を得たところ、表意記号に留意すべき旨教わった。強弱・表情などの指定は仕上がってから、と思っていたのだが、ゆっくり弾きながら指に覚えさせる段階でそれらのことも一緒に刷り込まないと後からでは困難だとのこと。さっそくトライするが大きな壁が二つ。
一つ目は強弱。丹念に見て行くと実に細かい指定。うるさい親父だなぁまったくぅ、と愚痴りたくなるほど。しかも上行音型にデクレッシェンドが多くやりづらいことこの上ない。こういうところにも“不安”を醸し出す要素が散りばめられているのだった。二つ目は表意記号。なんと3分の2以上が意味不明なのだ。これはサボって、というか調べる時間はピアノのおさらいに当てたいので、プロ二人にお願いして教えてもらった。
感謝に耐えないが、こういうときにも電子メールというのは便利であることだ。
〈11〉中休み 2006年3月
8月1日から毎日一度以上はCDを聞き、どこかのフレーズは毎日さらっていたのを一旦休む。とは言いながらオーケストラスコアをやはり折に触れて眺めては、クラリネットやフルートなどオケメンバーになったつもりで音符をたどるのは楽しい。やはりバーンスタイン。各パートが過不足なく有機的に使われている上に、見せ所、やりがいのあるパッセージも用意されていて、作品性だけでなく現場で音楽がいきいきとするような工夫に感じ入る。
いつか自分でオーケストラが書ける日は来るのだろうか。それ以前に僕がオーケストラ作品にチャレンジする意味がでてくるのだろうか、などと楽しく夢想する。
〈12〉合わせ 2006年3〜4月
千葉ヤマハの教室を3月で終わらせてもらった。その生徒の中の一人にオーケストラパートのピアノを頼んだところ快く引き受けてくれた。ついては分量が多いのでもう一人誘って二人で手伝ってくれる。ところどころ3段譜になっていたり、2段譜でも音域が相当広い場所もあるので、そういう時は連弾。これはいい方法だった。二人とも自分の仕事もそこそこに熱心に練習してくれて有難い。
すると、ただ練習するのじゃ励みがないから発表会をやりたいとおっしゃる。予行演習は僕も望むところなので、お気に入りの高木クラビアのサロンの方を予約する。不思議なものでギヤが一段上がる心地がした。
〈13〉予行演習 2006年5月
千葉教室時代の生徒を中心に30人ほどの聴衆の前で、二台のピアノによるバーンスタイン“不安の時代”。リラックスして楽しめた。伴奏の二人が結構緊張するのが微笑ましい。オーケストラとの共演を控える身としては笑っている場合ではないのだが、この出来具合からするとまずは一安心というところ。
M'sとの合わせもスムース。やはりトリオになると安心感が出るのか、一人だと外しやすいところもスイスイと指が入っていく。その効果は伴奏ピアノが入っても同じで、オーケストラとの信頼関係と、あの多彩多様すぎる音色に反応できるかどうかにかかっているだろう。
〈14〉引篭り 2006年6月
飛鳥に乗り込む。去年の7月くらいの段階で今年の飛鳥の打診があり、バーンスタインが決まっていたので、その本番前に細かな仕事を避ける意味も兼ねてこのタイミングに乗船させてもらうことにしてあったのだ。正解だったと思う。乗船場所はN.Y.なので上船日の2日前に直行便で乗り込み、丸二日、いや、上船日もギリギリまで滞在したので3日間遊びまくった。この間勿論練習はなし。
それよりも風邪っぽいのを押して遊んだので、上船後1週間ほどもほぼ部屋にこもってしまったのだった。お年を召したお客様も多いので、なるべく人の集まるところに顔をださない。それでも一日に二時間枠を二回ピアノを練習する。予めスタッフにコンサートの準備の為、ピアノのある部屋を優先的に使わせてもらうように頼み、みんな快く承諾してくれた手前もあって、風邪で唸ってばかりもいられない。
夢うつつに一週間が過ぎてもその間の練習というのは功を奏するものと見えて、弾くたびに指がストン、ストンと思うところに落ちていく。健康になって過ごした残り一週間も有意義、有効に使えて、サンフランシスコで下船、成田行きのJALでは思い残すことはなかった。
〈15〉本番 2006年7月
7日 ミューザ川崎シンフォニーホール
初日の緊張感というのはやはりあるもので、妙に多弁になったり、急に無口になって、一人になりたくなったりする。とはいえ、オーケストラも小屋もスタッフも気心の知れた環境というのはにそれなりに安心感があるもので、スケジュールの組み立ての妙といえるだろう。きっちりと最後まで通って、まとまりのあるいい演奏だったと思う。無事に初日を済ませた安堵感とともに、音楽に入り込んで真っ白になる、あの陶酔感だけはなかったなぁ、クラッシックだしね、と思っていたのだが、なんと次に日にやってきた。

8日 サントリーホール
もう一人のピアニスト、ジョン・ナカマツさんがリハーサルでいい音を出している。もう一台のスタインウエィはどんなだろう、と恐る恐る出だしのフレーズを弾いた途端。大波が漣の静けさを持って広がっていくような響きがホールを一巡りして自分の耳に返ってきたのだ。ミューザもいい音だが、ここん家は音響プラス歴史がやはりあるのだろう。自分にクラッシックファン或いはクラッシック演奏家的な先入観(ありがたがる)がさほどないので、余計に感じ取ることが出来ると思う。高円寺の次郎吉でも、小屋に泌み入ったピアノの音そしてサウンド、というのがあるくらいだから、サントリー推して知るベし、といったところか。

昨日無事だった安心感も相俟って、リハーサルから鳴りもよく、楽しめたら、本番はもっともっと入り込めて、、、哀歌の部分の抜け出しを外してしまった。音楽としてはよいが、間違いも何箇所かある、というのはジャズその他に向かう場合でも本当はその上に勿論行きたいのだが、まぁ音楽がスクエアになるよりは、と自分を許しているところがある。しかしクラッシックでは、それは多分許されないことなんだろう。でも気分良かった。

9日 新潟芸術文化ホール
そして迎えた最終日。こんなに大勢(100人以上)のバンド(と言っていいのか?)でもビータ(旅)というのはテンションが上がるもので、楽屋相互の行き来もにぎやかに和気あいあいとした雰囲気。オーケストラメンバーとM'sメンバーとの間で、二日間演奏した上での確認やダメ出しもありがとうございました。行われている風景が楽しくも嬉しくもあった。そして演奏の方は、、、

これが最高にうまくいったのだ。ピアノは鳴るわオーケストラとは合うわ、正面向かい合っている指揮者と終始にこにことサインを取り交わしながら、実にスムースに最終和音までたどりつく。
アンコールのイントロで、ジョンさんがアンコールで弾いた幻想即興曲のサワリを出して受けをとる、なんてことまでしてしまったのは勇み足か。
終演後袖にいて、戻ってくる団員さん達ひとりひとりにお礼を言う。これは本心からのことで自然にそういう気持ちになったのだが、多くの人が、楽しかった、とか素晴らしかった、とか笑顔でコメントをくれたのが嬉しい。

硬いながらも無事な初日。高みに上ったがミスもあった二日目、それはステイタスの最高の場所。全てがうまくいった演奏は(決して地方を低く見るわけではないが)地方公演。と、終わってみれば実に僕らしい結果であることだ。
〈16〉後記
自主打ち上げは新潟ジャズフラッシュ。ゴールドベルクのきっかけの一つにもなったこの店で、うるさ型のマスターと酌み交わす酒もうまい。

翌日は現地でオフを取っておいて無計画。思いついて佐度へ渡り、海などぼうっと見て最終便で戻ってくるフェリーの出航時。山の稜線に夕日の下端がちょうどかかっているので、滅多にないことだから沈み込むまで見届けようとした。動きそうで動かない。それでもじっと見つめているうちに、なんだか山から離れているような気がする。まてよ、上がっているのではないか、いや、確かに上がってる。俺は藤原道長になったか!?と一瞬ぐらりとしたあとに気が付いた。月だったのだ。

凪いだ海面を月光はまっすぐ自分に向かってくる。船がどれほど動いても動いても月と僕は月光でつながっている。理科の初歩だろうけどなんだかとても不思議で、ちょっと敬虔な気持ちにもなった。

大仕事をやり遂げた達成感めいたものはその後もやってこなかったが、一週間ほど経った旅先。夢とうつつの間で、あの響きにからだ全体がつつまれて震えながら目覚めた。今、気がすんだのだろうな、と思った。

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2006年