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仕事日記
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11月2日(火)
スィングシティに入る前に立川アミューホールの加登さんと打ち合わせ。クラッシックピアニスト3人とジャズピアニスト3人、計六人でコンサートを開きたいという。川崎の6台ピアノに触発されたのかと思ったら、もっともっと遡って第一回のジャパンジャズエイドでの大口、益田、コルゲン各氏と僕のテレビ映像を学生時代に見てしびれていたそうだ。時が下って自分で企画立案できる立場にようやくなったので、夢の実現の一つなんだそうである。いい話である。しかし大変そうでもある。ジャズの代表者が僕で、クラッシックの代表者は斉藤雅広さんを考えているそうだ。やがて顔合わせしようということでこの日は別れた。
 
台湾滞在記
初日:11月5日 高雄
成田空港88番ゲートで松田昌と会う。札幌公演にでも行く途中のように普段通りの世間話。ぼくは初めてだが、昌さんは2年に一回の割で台湾公演をしているのですっかり落ち着いたものである。ぼくのほうも、先々月に南米旅行を体験しているので別段の不安もない。

司馬遼太郎“街道をゆく”の台湾編を機中で読む。読んでおいてよかった。共産中国とまるで成り立ちが違う。失言の嵐になるところだった。

中正国際空港に着くとお迎えに来ていたのが台湾人でヤマハ財団台湾部のケンちゃん。チャーリーシーンにちょっと似たいい男。昌さんの台湾公演にはいつも付くそうだ。ベンツのタクシーに乗って台北空港まで40分。サンドイッチでも食べよう。一口かじるともそもそ。小さい頃にあった、“でんぶ”のようなものが喉につかえた。豚肉をミンチにして砂糖をまぶして乾かしたもの。こちらの人はなにかとこれを食すそうだ。あるときケータリングで海苔巻きが出たので、一つ食べたらその中にも入っていた。

そうこうするうちに現地メインスタッフ登場。鶴田先生は財団からこちらに派遣されてはや8年になるというから、蒋経国から李登輝に変わってからの輝かしい台湾史の中でも、もっとも昇り調子の時期に居合わせたことになる。この2年ほどで、タクシーを始め自動車が随分綺麗になったと仰向った。日本にもそういう時期はあったはずで、なりふり構わずにかまけていた経済成長が余裕を求める方向に変化する様を、少しく外側から眺めつつもその一員でもあるというのは妙味のあることだったろう。

アシスタントの女性。チャーリーとつい呼んでしまうのだが嘉玲と書いてチャーリンが本当。一体にこちらの音はnの音と、伸ばす音がぼくの耳には聞き分け辛い。電子琴がエレクトーンを含む電子キーボードのことなのだが、本当はテンツーチンであるところをテンツーチィくらいにこちらも言うほうが正しく通じる。聴こえたように言え、というところか。掘った芋いじんな、ですね。

顔立ちが特にいいわけではないのにとめどもなくかわいいという人がたまにいるが、このチャーリンがそうである。明るさとひたむきさ、それも親や同僚や友人、それに初対面のぼくに対してさえ精一杯誠実であろうとするひたむきさがバイブレーションになって周囲を明るくする。こういう人のいる国というだけで台湾というところが好きになってしまう。

台北から高雄まで国内便。なんと面子が揃ってから切符を買いに行き、そのまま搭乗。バスみたい。

タァカオという原住民の発音に流民の漢族が打狗(イヌを打つ)とおだやかでない字を当てていたのを、日本が統治した際に京都の名邑の字に変えた。大戦後に返還されると今度はその字を中国読みして“カオリャン”と読(呼)んでいる。歴史の見せるユーモアかもしれない。ただしこの“返還”というのがややこしい。敗戦によって日本は台湾省を50年ぶりに中国に返還したのであるが、その時には中国は国民政府と共産政府に分かれている。実質的には共産軍に追われて国民党は台湾島に逃げ流れてきているのである。両者とも全中国の主導権は自らにあると言わざるを得ず、よって台湾は台湾という国ではなく中国国台湾省と呼ばざるを得ない。まことに政治はややこしい。

さて高雄は立派に近代的な街である。ホテルマンの対応なども日本のへたな一流ホテルよりよっぽど気分がいい。カーラジオなどから流れてくるのは歌謡曲調の現地ものが多いが、レストランなどでBGMのかからないのがいい。食事の時間は皇帝よりも大事、という諺まであるそうだ。

ホテルから歩いて晩餐に向かう途中で、その日に発表のある宝くじというのを皆で買う。二桁の数字が6つ並んでおり、20時半に発表される数字のうち3つ以上が含まれていると賞金が出る。ここ何日か6つ当たったのがなくて昨日出たあたりくじには4億円ついたという。月〜金の毎日発行していてみんな好きらしい。食事の終わりかけた時に携帯電話からインターネットを調べてきゃぁきゃぁやっていた。

ごくごく小さい巻貝の煮たもの、ジャコのようなそれでいて身厚の煮魚などをお通しで地元のビールを飲んでるうちに海老や蟹が出てきて食卓が一気に静かになる。やがて出てきた鮑と白菜の蒸し煮の豪華なこと。もともと鮑のクリーム煮はとても夢を感じる料理だとぼくは常々思っているのだが、ここん家のは、ひとスライスが面積広く身は薄く、この一事で台湾に来た甲斐があったような気になった。

李さん、林さん、郭さん、施さん、王さん。中国名前の見本のような人たちが次々にぼくや昌さんを指名しては飲む。最初昌さんが“乾杯”と何気なく言ったら周囲がどきりとした顔。その場合は文字通り飲み干さなくてはならぬ。干さない場合は“スイー”といって一口飲む。これは“随意”らしい。良く出来ているが、なにやら沖縄あたりの乾杯回しでとにかく倒れるまで飲む、というのを連想した。どこかつながってはいるんだろう。

ホテルの隣にミュージックパブというのがあったので帰りに1杯、、、のつもりがマイヤーズがあったので3杯飲んだ。二階ではライブをやるらしい。曜日で出演者が決まっていてロック系が多いという。ぼく達は9時半から11時くらいまでいたんだがそんな様子はなかった。どんな時間帯で演奏しているのか聴きそびれてしまったが、店のガラス越しの表通りで松田昌がずっとピアニカを吹いていたので飽きずに飲めた。
第二日:11月6日 高雄中山大学逸仙館
ホテルのビュッフェが豪華でびっくりした。卵を焼いてくれるコーナーがあるくらいはよく見るが、そのとなりに両手で抱えられないほどのハムの塊がデンとましましていて、注文に応じてスライスしてくれる。点心も温料理も10種類以上並んでいるし、白飯、おかゆの具も豊富。サラダ、フルーツもバラエティ豊かでつい食べすぎたくなるが、帰国後に控えている名倉ダンススクールの2台ピアノの宿題を考えて、勉強できる程度に抑える。

小原孝とのDUOに話が来たのは嬉しいが、CD(事前録音)通りのテンポと構成でやらなくてはいけないのが不安だった。さらに、こちらに来る直前のリハーサルで、フレージングもやっぱりCD通りに演奏するのが一番踊りがスムースだと判った。よってブルースとブギとボレロ(これは例のラベル、つまりクラッシックだが冒頭の72小節は小原とアドリブのやり取りをしていたのだった)をまるまる自分コピーしなくてはならないのだ。

お昼は鶴田先生ご贔屓の屋台風ラーメン屋で、先生ご推薦のザーサイルースーメン。天下一辣というのがあったのでまぶしてみると確かに辛い。ひぃひぃ言いながらもにこにこと食べていたらお土産にと、一瓶買ってくれた。日本でもひぃひぃの日が続く?

名古屋音大に留学の希望を持つこちらの音大生ミッキーも連れて、公園のわきなど散歩しながら見つけた喫茶店は“夏之樹茶房”。なにやら日本ぽいと思って入ったらBGMがすべて日本の、それも今のはやり歌だった。ミッキーは21歳のお嬢さんなのだが、昔から松田昌の大ファン。それが嵩じて名古屋に特別講習など受けにいくうちどうしても日本留学したくなって、友人のチャーリンに頼んで今回受験パンフレットなど昌さんに持参してもらいつつお話を、ということの由。昌さんは普段からそうであるように、全身を誠意のかたまりにして話を聞き、かついっぱい喋ってあげてはいたが、彼女の望みは日本留学というよりは松田昌留学だろうと僕は思う。

注文してから20分経ってやっとでてきたブレンドコーヒーはそれでもごく旨かった。丁寧に淹れるので有名な店らしい。アイスコーヒーなど同じように淹れてから急激に冷やすのを避けて自然にぬるまるのを待ってからやっと氷を入れる、というがこれは鶴田先生一流の冗談だろう。

高雄というところは北回帰線を越えて南に入るから地球上の分類では熱帯に入る。が、かつてのバンコクやプノンペンで感じた多湿感はなくとても過ごしやすい気がする。Tシャツとジーンズがちょうどいい気候というのはいいですね。ビジネスマンにはどうかわからないけれど。

タクシーにゆられて郊外へ。港のわきの坂を登ると大学校舎に行き当たる。潮風の香る広いキャンパスなんてちょっと憧れてしまう。敷地内のコンサートホールに入るとケンちゃんの指示のもと、きのう一緒に飲んだスタッフが一心不乱に働いてくれている。1300人のホールでスライドも映しながら、音響的にもエレクトーンは難しいし、てんわやんわである。決して怒らないが妥協もしないで次々に指示を飛ばす松田昌は傍から見ていても気持ちいい。

蔡さんという女性が登場。昌さんとは旧知の仲、というよりは昌さんの師匠の沖先生が働き盛りの頃からのこちらでの秘書役だったというから大ベテランである。柔和な人当たりと、無駄なく仕事を進めるクールさは両立するのだと教えられる思いのする人である。漢字そのままでいい言葉が多いんですよ、と教えてくださった。免:パイセ(すみません)。了解:リャオカイ。感謝:ガイシャ。これに、チンチェイvery much、ベンケーキ you’re welcomeが加わるとまぁ大丈夫。あとは漂亮(ピャオリャン〜きれい)。

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1. You Are My Sunshine
ピアニカ隊の子供達がうまいので驚いた。よく笑いよく聞く。ヴォーカルゲストのヤンさんが間奏を取り違えたのはご愛嬌。ヤンさんは台中ヤマハの歌の先生。オーストラリアに住んでいたことがあって、オリンピックも見たそうな。聞き取りやすい英語を話すので助かる。一体に英米人の英語がぼくにはもっともわかりづらい。自国語を他国人が喋るのではなくて、国際語として使っていただいているのだ、という自覚を持って欲しいものである。

2. アンダルシア(安塔露西亜)
チャーリンがMCの中でフラメンコぽく歌うのに合わせて、バラの花をくわえてターンする昌さんがかわいい。アクセントあわせで肘打ちをかましたら、思った以上に受けてしまって明日も明後日もやらねばならぬ羽目に陥ってしまった。予定調和は外すのが自分としては通例だがこの際はいいだろう。

3. 道行
普段はさほどステージに架けないこの曲をこの地で、というところが気に入った。どことなく和調で展開も少ないがそれでいてしんしんと染み入る佳曲。

4. 旅芸人
丁々発止のアドリブの応酬のはずがいつのまにか名曲対決になっているのだが、こちらの人にはアタックナンバーワンなんて通じないだろうし、でもそれだけに面白い展開。

5. たのしいバス旅行(快楽的旅行巴士)

6. 埴生の宿(?密的家庭)
エレクトーンソロ。きわめて正当なアレンジだがそれだけにしっとりと胸を打つ。チャーリンなどは小さいときからの馴染みの歌でもあり、歌詞がすごくいいので、インストであっても聴くたびに涙腺がゆるむそうである。

7. 即興演奏
会場とジャンケンして勝ち残った人の名前と好物のイントネーションをそれぞれ第一主題と第二主題にしてその場で作曲〜演奏してしまうという松田昌ならではのコーナー。中国的発音をよくもうまく音に変換してできるものである。大受けしていた。

8. 鋼琴独奏
CF-IIIが気持ちよいのでDream A While 。きもちよくは出来たが、次のバラードとかぶるので明日からは Sayamambo 。

9. 夢の如し
人生は夢の如し、などと文学的な気持ちが勝つとうまくいかない。あくまで音楽的に音色やダイナミクスをある意味ドライに化学的に調合していくほうが結果的に泣ける音楽になっていく。

10. かごめかごめ(蹲下、蹲下)
ほぼEmだけの展開なのでマッコイ的なモーダル奏法でやってたらファンク系のアレンジ意図だったというので修正。山岸となってカッティングいのち。同じ譜面でまるで違う音楽になるものである。

11. スペイン(西班牙)
バースをピアノソロで。ふと思いついて後半を房の介的スローブルースにしてみたら、なんとうまくはまるではないか。M‘sニューアルバムにこのテもあったかとちらりと思う。

12. 春待人
阪神大震災に関連したこの曲の紹介を、台湾大地震(4年前)のこととあわせて解説していた。

アンコール1 New York Passyon Street
本メロディが始まった途端にオォーッと受けたので不思議におもっていたら、こちらで習っている人に人気の高い曲らしい。当地におけるエレクトーンの普及率や推して知るべしである。

アンコール2 大きな古時計(古老的大鐘)
これもちゃんとこちらで流行ったらしい。会場皆が歌っていた。フォーク集会みたい。でも、いいもんだった。
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この夜は築地場外のような店に行った。鶏や豚の捌いたのが悠然と並ぶ横に40センチ70センチほどの発砲スチロール。ふたをあけると氷詰めのさかなたち。それも大振りでカラフルな顔を真上に向けて20匹ほど。首実検みたいでこわかった。

アヒルの喉笛のからあげ。やつめうなぎのコロコロ煮。岩のりのスープがじつにおいしくて、喉にもスイスイ入る。紋甲イカだろう、ぷりぷりの丸焼きが旨い。乾杯だ、いや随意にしてくれ、などとかしましい飲ませあいで夜は更ける。昌さんは居合わせた家族連れにピアニカを吹いて子供に喜ばれていた。この人は子供を見るとすぐにピアニカを吹く。ぼくはその母親に漂亮(ピャオリャン〜綺麗ですね)と声をかけて受けを取る。

最後に静かに飲もうと夕べのミュージックパブに行くが、一人で入ってもじもじするばかりで誰にも相手にされない。
第三日:11月7日 台中縣立文化中心
九時半出発。高速道路を一路北上。西螺、北斗など面白い地名を眺めてるのは北海道ドライブみたい。2時間半ほどたった員林という所で高速をおりたので到着かと思いきや、ボーカルのヤンスーハンちゃんの実家(=自宅)のあるところで、一旦帰宅して、夜再合流とのこと。ちょうどセブンイレブンのところで母上と待ち合わせなので、トイレをかりてフランクフルトを食べる。別売りのコッペパンを一緒に買って電子レンジでホットドッグ(美国的熱狗)にしてもらった。ラー油的ケチャップはあるが(無料)洋芥子はないというのでハウスねりからしを探した。わさびはあったが芥子はなかった。

会場のある台中県豊原市は台中市から随分遠い。城郭の跡が街区になったのだろうか同心円とそれを繋ぐ放射状の道路が迷路をなしていて、迷っているのだが同じ所に何度も出くわす。

スタッフが舞台設定に手間取っているのをいいことに昼食に出る。

龍髭菜という匂いの強い葉っぱにのった芝えびカシューナッツ。鴨を酒のなかで溺れさせたのを蒸した、というからかわいそう。だがとても旨い。キムチに漬けられて溺死させられる韓国の蟹とどちらが悲惨だろう。大根餅は中華では比較的一般的だが、ここんちのは厚揚げやチンゲン菜と一緒盛りになっていて一口大になっている。日本旅館でよく出てくる、下から固形燃料であぶるスタイルの焼き物皿には、渡り蟹、餃子、白菜など盛りだくさんで特に春雨が美味しかった。ポン酢がほしいかな、と一瞬思ったがなんのなんの、少しく酸っぱい、それでいて蟹の出汁がよくきいていて、京都〜淡路のようにほのかで濃密な味わい。グリーンピースを汁(スープ)にしたデザートもめずらしかった。山蘇、、、とぼくのメモに残っているのだがなんのことだか忘れた。なにか青菜だったような気もするが、、、。

昨日のCF-IIIもよかったが(ヤマハが昨日の大学に寄付したものだそうだ)今日と明日は台北のヤマハから持ち込んだ別の(機種は同じ)CF-III。より華やかに音が飛び出してくる感じ。花火のよう。日本だったらリハ後から客入れまでの時間を趣味のピアノタイムにするところだが、撮影班を始め20人ほどが、いくら時間があっても足りぬ様子で働いているのを目にしてはそうも言い出せずに、楽屋でひたすら小原孝とのDUOの予習。

車で一時間ほども走って台中市に入る少し手前のレストランへ。農家だったところを母屋と庭を食事場にしたという。広さも気持ちよいが、飾ってある写真が興味深い。土門拳の昭和写真集みたいなのだ。

“これは何ですか”“まぁまぁ、まずは食べてみて下さい”という時はおおむねゲテモノと相場は決まっている。へびかかえるかはたまたとりか。かえるだった。へびでもかえるでもまぁ大丈夫なんだが、こちらの人々は鶏や魚にしても牛や豚にしても口中に骨ごと入れて、しかるのちに骨部を出すような食べ方が上手。ぼくはそれが苦手なのでかみ合わせの悪い歯でなんとか食いちぎり、せせり出しては手を油まみれにして格闘。さぞ見栄えの悪い、ということはお行儀のよくない食べかたになっているだろうと気にかかる。気にかかりつつも何でも美味しい。そうめんをにんにくとオイルで炒めてペパロンチーノのよう。ビーフンはほこほこカボチャと絡めてあって独特の味わい。サンゲタンぽいしょうがの利いたスープには鶏のあたまが浮かんでいる。

旅芸人に挟み込むのに現地受けする曲を取材した。蘇州夜曲もいいし上を向いて歩こうなど、日本で流行った曲は大体知っているそうだ。大陸中国とのことも気遣わなくていいようだし。ただ俗謡で、これはメロディを聴いたら会場全部が歌いだす、というのを教えてもらった。

355−355−|35565――|56532――|231――――231――――|

呼乾了(ホッタラー)乾杯の台湾語が 231--- のところの歌詞だそうだ。

北京語とは別に台湾語というのがあってややこしい。ちなみヤマハスタッフの方のリンさんは、北京語の発音がイマイチだと皆にからかわれていた。この人は音響スタッフの林さんと別人。乾杯を強要するのは両人とも同じだが、ヤマハのリンさんのほうがよりしつこい。つまりそれだけ可愛げというジューシーな部分を多くその人間性のなかに含んでいるとも言えるかもしれず、事実彼の何気ない笑顔は誰の心からも警戒心というものを抜き去ってしまうような温かみがある。

無主時代に流れてきた漢民族。原住民とそれまでに居た漢民族を含んで日本統治時代に育った台湾民族。蒋介石とともに占領主としてどっとやってきた大陸人。李登輝以後民主化が進む中で育った台湾人民。複雑ではあるが面積や人口などの点で国家と呼んではいけないのだが、便宜上国家としては理想的なサイズと行政様式にぼくには思える。しかし、先の選挙でも(我々には意外だが)陳総統の当選が辛うじてのことだったことも思い合わせると、やはり他人の台所、傍から見るより複雑なんだろう、当たり前だけど。前置きが長くなったが、それこれ考えてリンさんの出自やそれにまつわる面白い話が聞けるかという気持ちを抑えたのだった。

ホテルに戻ってさぁ飲みなおしに行こうと集まったところで、スーハン(ゲスト歌手、台湾ヤマハ講師)の友人が我々の宿泊しているホテルの29階に応接室を持っていて、そこに招待してくれるという。

ラメのミニワンピースで出迎えてくれたアリエル嬢は、スーハンの小学校からの同級生でオーストラリアへの歌手留学も一緒だったという竹馬の友。その旦那さんのディビットは40歳の青年実業家。目の力の強い、いかにも世間を切り従えて行く感じだが、それだけに物腰も柔らかく英語もきれい。ユルブリンナーを彷彿させるのはきれいにそりあげた頭部だけの故ではない。バイオテクノロジーの会社を経営しているんだか日本企業の現地会社なんだか、ややこしい話なのでぼくにはよくわからない。ともかくもこの高層ビルの窓から見えるお向かいの構想マンションの35階に自宅があり、こちらのホテルの一番眺めのいいところを商談メインの応接室に借り上げて使っていて、今日は妻の友人のために解放してくれているのである。

ゴージャスな話である。

おいしい赤ワインと、オレンジウォッカ(初めて飲んだ。うまかった)と、マスカットから作るというグリーンワイン(初めて飲んだ。うまかった)をいただいた。煙草を吸ってもいいかと聞くと、いい葉巻があると言って、ハバナをくれた。

ゴージャスな話である。でも煙を吸い込みたい。

ご夫妻の友人もお付き合いで先刻から来てくれていて、J.Pengさんは台中でとても流行っているイタリア料理店の経営者。キースジャレットの話でウマがあう。阿芳(アーファン)はそのガールフレンドなのかどうか。日本語も英語も流暢な才媛だと思っていたらスチュワーデスだった。鶴田先生が相変わらずのマイペースで素浪人風に、それでも最高級のスコッチを飲んでいるかたわらで、チャーリンはその愛くるしい目と口をいっぱいいっぱいに開いて、通訳やぼく達の紹介にいそがしい。
第四日:11月8日 台北市中山堂
九時半出発は昨日と同じだが、今日は2時間ほどで首都台北に着いた。道路の広さやバイクの多さ、その割には整然としたそこはかとなく感じる人の良さはどこも同じながら、さすがに首都の気分を感じる。なんだろう。すこし人々の動きがきびきびしている。都会人のせっかちさは各国共通なのかも知れない。

ホテルの飲茶。大根餅と小龍包、ワンタンスープに韮餃子。粉ものばかりであるが、味付けがちゃんとそれぞれ違いがあっていっぱい入る。白飯を頼んだら、それが日本人をみてて不思議なのだと言われた。ビーフンや餃子は主食であって、例えば炊き込みご飯をおかずに白飯を食べているようで実に理解しがたいらしい。今度日本でお好み焼きアンド焼きそばプラス白飯を食べさせてしまおうと決意する。

そう鶴田先生とチャーリンは11月の末に日本でのエレクトーンのイベントに台湾のプレイヤーを何名か引率してくるそうだと聞いて、東京での再会を約したのだった。スケジュール上、自分の誕生日がその日になってしまうが何かまうものか。去年などは東京文化会館小ホールだったし、来年は新潟大四ホールだ。

会場は警察省のとなりだからというわけでもなかろうが、なかなかにものものしい。名前カードをつけていちいちガードマンにチェックされる。せっかくのいい天気なのに出入りが面倒でずっと屋内にいた。会場は素晴らしく広く、高く満員のお客様が有難い。スタッフも随分なれてきてカメラワークなどもよかった。昌さんも最終日の思い込みがあったのか子供達のかわいさ、けなげさにほだされたか力の入ったいい演奏だった。勇み足で出だしのペダルがずれてしまった春待ち人。しかしそういう時に名演が生まれるんですね。何十回も演奏しているのに、この日の中間部でちょっと泣いた。

六月に赴任してきたというヤマハ事業部台湾支部長(役職名はぼくの場合あやしいのでその辺は勘弁して下さい)の奥夫妻もともに梅子へ。中華料理屋なのだがウメコと読むのだ。アルファベットもふってある。台北は日本人向けの店が多いみたい。

アヒルの喉笛と蛙がこんどは天ぷらで出た。こちらのほうが食べやすいが、コクとしては煮込んであるほうに軍配かもしれない。担仔麺は本来、台南担仔麺と5文字でその名称になるくらい台南の名物らしいが、ここで食べても旨かった。昌さんは元祖本家はともかく台北の担仔麺が好きだからいいのだ、と言う。正しい。昌さんのもっと、もっと、もぉ〜〜っと大好物はがある。それはとこぶし。鮑の小形みたいなさざえの巻き損ねみたいなアレである。5日前の成田空港の時から言っていた。台湾に行ったらとこぶしが美味しいからね〜、と。ぼくは鮑が好きだし、どの道個人の好き嫌いの話だからと、あまり期待もしてなかったのだが、確かにこれは旨い。ある意味鮑に勝っている。

3ステージ頑張りきってくれた8人ほどのスタッフそれぞれと乾杯をして分かれた後、東京っぽいバーで締めくくりの一杯。鶴田、チャーリン、松田、スーハン、そしてぼく。身内の身内だけの最後のシンクーラ(辛苦了=おつかれさま)。岐阜での坂田さん、川村さんが言ってた“この一杯のために何ヶ月も頑張るんだよなぁ”という、その瞬間である。いいものである。松田昌。注文したものが届く間にぐっすり眠ってしまった。
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