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仕事日記
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ボリビア記
 
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風の街 ボリビア楽旅記
第三章 光と陰
ハイソサエティ

瀬木が人生の師と仰ぐ藤本氏の住まいはラパスの最高級住宅街の中でも飛び抜けて豪華なマンション。氏の階上に住むボリビアナショナルサッカーチームの名ディフェンダーにしてチームリーダーのマルコ・サンディ氏の私的サポーター(シューズの提供)を二人がしている。
この日はそのマンションの百坪はあろう中庭でのパリィアード。ガーデンランチパーティである。主催は瀬木プラス藤本。仕出しはサンディ氏。氏はサイドビジネスでステーキレストランを経営しており、シェフとウェイターも派遣。先日のコチャバンバ、エドウィン邸も豪華だったが、今日の肉を食すると瀬木がいつも日本の肉は物足りないと言うのがよく解る。肉の味だけで半ポンド位は美味しく頂けてしまう。残りの半ポンドはハラペーニョの辛味を生かしたドレッシングでまたまたペロリ。食欲不振だった筈の坂本がお代りを何度かしてしまう始末。
サンディ氏のレストランのある商店街のオーナーや藤本氏の実業関係者など次々と現れては映画のシーンのようにそちこちで会話が弾み、各人の都合の時間になって帰ってゆく。いかにもハイソなパーティ風景。しかしそこは瀬木のこと。ドナート等ミュージシャンは勿論、シグネイチャーモデルを制作させているインディオ系の人も平気で交えて(本人は最初だけ少々居辛そうにも見えたが)何の垣根もない平和な午後が過ぎた。
ドン・バレンチノ

いい感じでパーティがお開きになり、待合せに多少時間があったのでサンディ〜藤本氏のマンションの近くにある瀬木行きつけの床屋に行く。主はドン・バレンチノ、七十六歳。ここ数年来咽頭癌を患し乍もよく喋る陽気なおじさん。但し何を言っているかは限りなく近親者でないと解らないそうである。
いきなりアルコールランプを点けて、ハサミと櫛に火を通す。それもゴム球をしごいてボッ!と大きな炎を出しては炙るのである。怖い。シラミ退治だと聞くと余計怖い。
見本写真帳からデカプリオ風のスタイルを注文した。いきなりバリカンを持ってガリゴリ。嘘だろう、と思う間にバリカンと鋏の往復作業十五分程で仕上り。
二代前の大統領のお抱えだったという。その仕事ぶりの写真が誇らし気に飾ってある。
多少震え気味の両手でのカミソリ作業には不安もあったが、無事十五ボリビアーノ(二百五十円弱)払って爽快にタクシーに乗った。
闇市

バスターミナルを中心に放射状に何本も道があるので迷ってしまった。映画で見た終戦後の東京に迷い込んだみたいだ。鼻面を突き出したバスがクラクションを鳴らし乍ら何台も通り過ぎる中を、佃煮に出来そうな位に溢れた人々が行き交う。
やたらに人がぶつかってくるのは皆スリだそうだ。子供達も通りすがりにお尻のポケットを触ってゆく。勿論前ポケットに小銭を入れただけで出掛けては来たのだが、ダミーで尻ポケットに入れてあるティッシュペーパーや煙草が無事だったのは逆にちと残念でもある。
ラパス市高地部にあるエルアルト地区。ここでは低地が高級住宅街で、高地が低所得者地域。空気の密度が違うから。凄い話である。特にここ、エルアルトは打ち捨てられた市営住宅にいつしか人々が入り込み今では百万人位は居るだろうとのこと。それも殆どは先住民族系というから、世界中にあるストーリーとは言え脇が締まると同時に、胸のつかえる思いもする。
迷い道を戻るには方向の当てをつけるより、遠くとも来た道を辿ろうとしたのが効を奏してようやく劇場に帰り着く。劇場自体は少々古びているものの、いまや見慣れたスペイン風オペラハウス。そういうものがあったとしての話だが。楽屋もちゃんとあるが、ちゃんと荒れていて、それでもむき出しの電線の這う電熱ヒーターはありがたい。
寒いのである。赤道の近くだが標高は高く、南半球だから季節は逆で、などど色々の推量は全て外れで、日中は暑く日射しはきつく、夕方からガクリと冷え込む。京都の夏の昼と冬の夜だと思えばよい。もう遅いけど。
誰に聴かせるか

ある程度以上の年齢の女性は山高帽にフレアスカート、アワイヨを纏うという民族ルック。しかし男性は普通に西洋服。だいたいの人々はよれよれの服装だ。その中に揉みくちゃになりながら戻ってステージに立ってみると、意外にこざっぱりとした中高生らしき客が多い。
音を出す前からひたむきに楽しもうとする様子が伝わってえも言えぬ感動をした。ピュアな瞳で初めて聴くであろう種類の音楽にいちいち反応してくれる。
今日のコンサートは市の援助により入場無料。でもそのことは何ら考察や感興の要素にならぬ程のコミュニケーション、音楽を通じる喜びが確かにそこにはあった。

アメリカを訪ね、アフリカを回り、ヨーロッパで演奏して来た。日本に居ても世界中に発信しているのだ。客が十人でも何億もの人々にメッセージを送っているのだと信じて演奏を続けているが、いま目のあたりにしているこういう聴衆を一度でも認識したことがあっただろうか?大阪から東京へ、そして欧米への上昇志向の延長線ではなかったか?
靴磨きの少年は一生靴磨き。間口一間の店を持てた者は必死にしがみついて離さぬように働きづめに働いて、やっとそこから落ちぬだけ。パディアードの通り一つ挟んだ歩道で日なたぼっこをする位が休日の楽しみであるような人々の一刻の音楽の楽しみに、こんなに喰らいつくような聴き方をしてくれる聴衆に僕は出会ったことがない。
音楽は特効薬

全員いい演奏をした。
永原は時折吐きそうな顔を見せ、両手の震えが止まらなくなる時も何度かあり乍らいつもの強いビートを叩き出し続けた。
再び高地に上って息も苦しい越田も普段以上のアタックで十六音符を掻き鳴らす。
相変らず食欲が出て来ず、なるべくじっとしている坂本も、ステージではいつもの大きいうねりの深い低音で支える。
スタッフが帰国してしまって全ての段取りを済ませつつ何の音楽的余裕もない筈の瀬木が朗々と歌い上げる。
しかしよく考えてみると今日の現地スタッフは昨日の、何時になっても来なかった何人かのまさにそのチームなのである。昨日の作業と今日の状況で見違える程よく働いてくれた。こちらの誠実さが伝わったのだと思いたい。
ちょっとしたMCにも「Si〜」と明るく答えてくれる観客もそうだが、矢張り演奏するというのは我々ミュージシャンにとって何よりの薬なのだ。風邪を引いていても、本番中だけは咳が止まったりするのは何度も経験しているが、高山病にまで効くとは再発見である。
スノッブ

今日はなんと二回公演である。昼夜ではなく、夕方と夜中。先述のエルアルトの興奮も冷め遣らぬ儘、再びトシさんちの近くの、という事は高級住宅地域のジャズクラブ「テロニアス」。Theroniousである。モンクである。やはりジャズはマイナー乍らも世界中にあるのだわい、と店内に入るとマイルスやサッチモのポスターが所狭しと張ってあって仲々の雰囲気。
だが、何か違うんである。違うといってもどこの何と違うというのではない。店の感じが東京と違うのでもない。音の流れてる感じがニューヨークと違うのでもない。人々の感じがパリと違っているのでもない。それらは違って当然だろう。東京近郊のジャズクラブでもいちいち違うのであることだ。
ジャズ、と捉えてもいいし、音楽の受け入れ方、楽しみ方としてもよい。僕が音楽に求める自由、平等、博愛といったものとあまりにかけ離れているのだ。先述のエルアルトの直後なだけに、強い落差を感じるのだ。
一言でいえば、店員も客も高ピーなのだ。東京やニューヨークのジャズクラブの聴衆が、社会の中で下位に属してるということは決してないが、こちらでこのジャズクラブに出入りするということは無条件で当地のハイソだろう。二百五十円で床屋が済む所を飲物一杯にその倍払うのだ。
上に弱く、下に強い、ということがある。アフリカの主に仏領だった地域でも経験したことだが、白→黒→黄という抜き難い価値観を持たれていると理解するまで、自分の受ける不当な扱いがどうしても腑に落ちなかったものだ。今では大丈夫。反発もしないし卑屈にもならぬ。

三〜四曲終わる頃には客の態度が真剣になって来る。移動中に電話から頼んでおいた夕食代わりのサンドイッチも、到着した時には知らんぷりだったのが休憩時間にいそいそと出て来る。
演奏をした後で相手の態度が豹変するのは慣れてもいる。ある意味演奏家の本懐でもある。演奏に集中、最大の努力を払うのはそんなことの為でなく、神に近づく行為である事は勿論だが、下世話なヒエラルキー打開の為にもちょっとは頑張ってみたりもする。
が、達成感などはない。
それでも大受けしているというのは気分のいいもので、アンサンブル中から永原は大いに飛ばした。ピアノとのかけ合いの部分を瀬木の咄嗟の判断でドラム一人にし、残りのメンバーは一旦ステージから降りた。しばらくして困った顔になったら戻ろうという演出だったのだがなんのなんの。二十分程もあっただろうか。思う存分叩いて、割れんばかりの喝采を受けて、メンバーを呼び戻した。
高山病も食あたりも二回公演のつらさ、観客のギャップもこの男には関係ない。というよりそれらをエネルギーにして自ら肥大していくのだろう。

ドラゴンボールみたいなやつだ。
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