第1部:資本の生産過程

第2篇:貨幣の資本への転化

第4章
貨幣の資本への転化

第2節
一般的定式の諸矛盾



貨幣が蛹の状態を脱して資本に成長するさいの流通形態は、商品、価値、貨幣、および流通そのものの本性について以前に展開されたいっさいの法則に矛盾する[170]

資本は、流通から発生するわけにはいかないし、同じく、流通から発生しないわけにもいかない。資本は、流通のなかで発生しなければならないと同時に、流通のなかで発生してはならない[180]

資本が発生する循環運動、貨幣が資本たるべき循環運動が、単純な商品流通運動から区別されるものは、販売過程と購買過程の順序の転倒であった。これは、実際の資本の運動にそのような順序の転倒がみられるということなのだが、この節で考察されるのは、いかにして、単純な商品流通から、循環運動過程そのものの質の転換をともなう流通形態の転換が生じるのか、ということである。この節の考察のなかで、資本の循環運動の形式上の特徴のなかにふくまれている矛盾が明らかになり、それと同時に、矛盾の解決方向も提起される。

この転倒は、互いに取り引きし合う三人の取り引き仲間のうちの一人にとって実存するだけである。私は、単純な商品所有者としては商品をBに売り、次に商品をAから買うのであるが、資本家としては、商品をAから買い、こんどはそれをBに売る。取り引き仲間のAとBとにとってはこのような区別は実存しない。彼らはただ商品の買い手または売り手として登場するだけである。私自身も、そのつど単純な貨幣所有者または商品所有者として、買い手または売り手として、彼らに相対するのであり、しかも私は、どちらの順序においても、一方の人にはただ買い手として、他方の人にはただ売り手として、一方の人にはただ貨幣として、他方の人にはただ商品として、相対するだけである[170-1]

流通「商品―貨幣―商品」と流通「貨幣―商品―貨幣」との共通点は、いずれのケースにも、「四つの終点(二つの局面)と三人の契約当事者」が存在するということだった。「商品―貨幣」という“販売”と「貨幣―商品」という“購買”という二つの局面の順序の転倒は、三人の契約当事者のうちのただ一人にとっての「転倒」である。

「貨幣―商品」によって「私」は購買し、「商品―貨幣」によって販売する。しかし、このような、局面の順序の転倒は、いわゆる「単純な商品流通」である「商品―貨幣―商品」の循環運動の一環としての運動と、どこが異なるのだろうか。単純な商品流通における二つの局面を転倒させても、それだけでは、「商品―貨幣―商品―貨幣―商品」という循環運動の一環である「……―貨幣―商品―貨幣―……」と、ちがいがないことがわかる。ここには剰余価値が生じる余地はない。

したがってわれわれは、順序を転倒することによっては単純な商品流通の部面を越え出たことにはならないのであって、むしろわれわれは、単純な商品流通が、その本性上、この流通にはいり込む価値の増殖、したがって剰余価値の形成を許すかどうかを、見きわめなければならない[171]

マルクスは、単純な商品流通が、その過程そのもののなかに、はたして、剰余価値の形成、すなわち価値の自己増殖を生じさせる契機の可能性を含んでいるのだろうか、という観点から、あらためてこの流通過程を考察する。

まず、この過程においては

貨幣が流通手段として商品と商品とのあいだにはいり込み、購買と販売という行為が感性的に分裂しても、事態にはなんの変わりもない。商品の価値は、商品が流通にはいり込むまえに、その価格で表わされているのであり、したがって流通の前提であって、結果ではない[172]

この流通過程においては、異なる使用価値どうしの交換がことの本質であり、貨幣は商品の価値の媒介物である。この交換は、異なる使用価値の所有者、すなわち二人の商品所有者のどちらにとっても、交換価値の増加ではない。

単純な商品流通においては、ある使用価値が別の使用価値と取り替えられるということをのぞけば、商品の変態、商品の単なる形態変換のほかにはなにも起こらない。同じ価値、すなわち同じ分量の対象化された社会的労働が、同じ商品所有者の手のなかに、最初には彼の商品の姿態で、次にはこの商品が転化される貨幣の姿態で、最後にはこの貨幣が再転化される商品の姿態で、とどまっている。この形態変換は価値の大きさの変化を少しも含まない[172]

商品交換は、その純粋な姿態においては、等価物どうしの交換であり、したがって価値を増やす手段ではない[173]

商品流通のその単純な形態、純粋な形態で前提とされるのは等価交換である。この場合に剰余価値が形成されないのであれば、純粋ではない商品流通、すなわち非等価物どうしの交換の場合には、剰余価値が形成される可能性があるのだろうか。

売り手が商品をその価値以上に売ること、その価値が100なのに110で、したがって10%の名目的な価格引き上げをして売ることが許されると仮定しよう……全体としては、事実上、すべての商品所有者が自分たちの商品を互いにその価値よりも10%高く売り合うということであり、それは、あたかも彼らが商品をその価値どおりに売ったのとまったく同じ、ということになる……諸商品の貨幣名すなわち価格は膨張するであろうが、諸商品の価値関係は不変のままであろう。

逆にわれわれは、商品をその価値以下で買うことが買い手の特権だと想定してみよう……彼は、買い手になるまえに売り手であった。彼は、買い手として10%もうけるまえに、すでに売り手として10%の損をしていたのである。すべてはやはりもとのままである[175]

Aは40ポンド・スターリングの価値のあるワインをBに売って、それと引き換えに50ポンド・スターリングの価値のある穀物を手に入れるとしよう。Aは自分の40ポンド・スターリングを50ポンド・スターリングに転化させ、よりわずかの貨幣をより多くの貨幣にし、自分の商品を資本に転化させた……交換が行なわれるまえには、Aの手には40ポンド・スターリング分のワインがあり、Bの手には50ポンド・スターリングの穀物があって、総価値は90ポンド・スターリングであった。交換の行なわれたあとでも、総価値は同じ90ポンド・スターリングである。流通している価値は一原子も増加しはしなかったが、AとBとへのその配分が変わった……流通している価値の総額は、明らかに、その配分におけるどのような変化によっても増加されえない……一国の資本家階級の総体は自分で自分からだまし取ることはできない[177]

結局、これらの検証から明白なことは、

等価物どうしが交換されても剰余価値は生じないし、非等価物どうしが交換されてもやはり剰余価値は生じない。流通または商品交換はなんらの価値も創造しない[177-8]

ということである。

さて、では、資本主義社会以前の社会にすでに存在していた、「商業資本」や「高利貸資本」は、“不等価交換”とか“流通を経ずに生じる詐欺的取得”など以外に、どのように説明されるのだろう。マルクスは、ここでは、

商業資本の価値増殖を商品生産者にたいする単なる詐欺によって説明すべきでないとすれば、そのためには一連の長い中間項が必要なのであるが、商品流通とその簡単な諸契機とが唯一の前提となっているいまの場合には、それらの中間項はまだまったく欠けている。

商業資本にあてはまることは、高利貸資本にはいっそうよくあてはまる……高利貸資本においては、形態G―W―G'が、無媒介の両極G―G'に、より多くの貨幣と交換される貨幣に、貨幣の本性と矛盾しておりそれゆえまた商品交換の立場からは説明しえない形態に、短縮されている[179]

と指摘した上で、

われわれの研究が進むにつれて、商業資本と同じく利子生み資本もまた、派生的形態として見いだされるであろう。それと同時に、なぜそれらが歴史的に資本の近代的な基本形態よりも先に現われるかということも述べられるであろう[179]

として、考察対象としては保留している。

剰余価値が流通からは生じえないとすれば、流通の外部にその契機をもとめなければならないのであろうか。

流通は、商品所有者たちのいっさいの相互関連の総和である。この流通の外部では、商品所有者はもはや自分自身の商品と関連するだけである。この関係は、彼の商品の価値について言えば、一定の社会的諸法則によってはかられた彼自身の労働のある分量をその商品が含んでいるということに尽きる。この労働分量は、彼の商品の価値の大きさに表現される……しかし、彼の労働は、その商品の価値プラスその商品自身の価値を超える超過分に表わされはしない……商品所有者は、彼の労働によって価値を形成することはできるが、しかし、自己を増殖する価値を形成することはできない。彼は、新たな労働によって現存する価値に新たな価値をつけ加えることによって、たとえば革で長靴をつくることによって、商品の価値を高めることはできる。同じ素材がいまや、より大きい労働分量を含んでいるから、より多くの価値をもつ。それゆえ、長靴は革よりも多くの価値をもつが、しかし革の価値はもとのままである。革は自己を増殖しはしなかったし、長靴製造中に剰余価値を生み出しはしなかった。したがって、商品所有者が、流通部面の外で、他の商品所有者たちと接触することなしに、価値を増殖し、それゆえ貨幣または商品を資本に転化させるということは、不可能である[180]

これらの考察の結果、資本の流通における一般的定式の矛盾を解決するべき、問題提起がなされる。

貨幣の資本への転化は、商品交換に内在する諸法則にもとづいて展開されるべきであり、したがって等価物どうしの交換が出発点をなす……貨幣所有者は、商品をその価値どおりに買い、その価値どおりに売り、しかもなお過程の終わりには、彼が投げ入れたよりも多くの価値を引き出さなければならない。彼の蝶への成長は、流通部面のなかで行なわれなければならず、しかも流通部面のなかで行なわれてはならない。これが問題の条件である[180-1]



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