第1部:資本の生産過程
第5篇:絶対的および相対的剰余価値の生産
マルクスは第5章において、労働過程の一般的規定として、つぎのことを指摘していた。すなわち、労働過程全体を、生産物から考察するならば、労働そのものは生産的労働として現われる、という考察である。しかし、マルクスは第5章の該当部分に対応する注でつぎのように補足していた。([196])
注(7)生産的労働のこの規定は、単純な労働過程の立場から生じるのであって、資本主義的生産過程にとっては決して十分なものではない。[196]
労働過程は資本主義的生産様式のもとで、どのような特殊性を帯びるのか。
生産物は、一般に、個人的生産者の直接的生産物から一つの社会的生産物に、一つの総労働者、すなわち一つの結合された労働人員――その成員は労働対象の処理に直接または間接にかかわっている――の共同生産物に、転化する。そのため労働過程そのものの協業的性格とともに、生産的労働の概念や、その担い手である生産的労働者の概念も、必然的に拡大される。生産的に労働するためには、みずから手をくだすことはもはや必要でない。総労働者の器官となって、そのなんらかの部分機能を果たせば十分である。生産的労働にかんする前述の本源的な規定は、物質的生産そのものの性質から導き出されたものであり、全体として見た場合の総労働者にとっては依然として真実である。しかし、その規定は、個々に取り上げられたその各成員にとっては、もはやあてはまらない。[531-2]
ここで言われている「一般に」という意味は、たぶん、「資本主義的生産様式一般」という意味ではなく、「協業的労働一般」という意味だろう。協業的性格の発展にともない、社会的分業のあり様も複雑化し、とくに精神労働と肉体労働の分離・対立は先鋭化してゆく。
資本主義的生産は商品の生産であるだけでなく、本質的には剰余価値の生産である。労働者は自分のためにではなく、資本のために生産する。それゆえ、彼が一般に生産を行なうということだけでは、もはや十分でない。彼は剰余価値を生産しなければならない。資本家のために剰余価値を生産する、すなわち資本の自己増殖に役立つ労働者だけが、生産的である。……生産的労働者の概念は、決して単に活動と有用効果との、労働者と労働生産物との、関係を含むだけでなく、労働者を資本の直接増殖手段とする、特殊に社会的な、歴史的に成立した生産関係をも含んでいる。[532]
これまで第3篇から第4篇にわたって考察されてきた、資本主義的生産様式における剰余労働のあり様が概観され、その歴史的関連が示される。
絶対的剰余価値の生産……それは資本主義制度の一般的基礎をなし、また相対的剰余価値の生産の出発点をなしている。……資本主義的な生産様式……は、……最初は、資本のもとへの労働の形式的包摂を基礎として、自然発生的に成立し、発展させられる。形式的包摂に代わって、資本のもとへの労働の実質的包摂が現われる。[532-3]
以前、考察対象としては保留されていた「高利貸資本」「商業資本」についての言及がある。この段落部分で指摘されている「資本のもとへの労働の包摂」という観点から、まず次のように分析されている。
剰余労働が直接的強制によって生産者から汲み出されることもなく、また資本のもとへの生産者の形式的従属も生じていない中間諸形態……。ここでは資本はまだ労働過程を直接には征服していない。[533]
以下これら「中間形態」の特徴が列挙されている。[533]
絶対的剰余価値の生産のためには、資本のもとへの労働の単なる形式的包摂だけで……十分であるとしても、他面では、相対的剰余価値の生産のための方法は、同時に絶対的剰余価値の生産のための方法であることが明らかとなった。……一般に、特殊な資本主義的生産様式は、それが一つの生産部門全体を征服してしまえば、ましてすべての決定的な生産諸部門を征服してしまえば、相対的剰余価値の生産のための単なる手段ではなくなる。それは、いまや、生産過程の一般的な、社会的に支配的な、形態となる。[533]
特定の観点からすれば、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との区別は、一般に幻想的に見える。相対的剰余価値は絶対的である。というのは、労働者自身の生存に必要な労働時間を超える労働日の絶対的延長を、それは条件としているからである。絶対的剰余価値は相対的である。というのは、必要労働時間を労働日のうちの一部分に限定することを可能にするような労働生産性の発展を、それは条件としているからである。[533-4]
しかし剰余価値の運動に注目すると、この外観は消えうせてしまう。資本主義的生産様式がひとたび確立されて、一般的な生産様式になってしまえば、剰余価値率を一般に高めることが問題になる限り、絶対的剰余価値と相対的剰余価値との区別は感知されうるものとなる。……労働の生産力および労働の標準的な強度が与えられているならば、剰余価値率は労働日の絶対的延長によってのみ高められうる。他方、労働日の限界が与えられているならば、剰余価値率は、必要労働および剰余労働という労働日の構成部分の大きさの相対的変動によってのみ高められ、この変動はまた……労働の生産性または強度における変動を前提している。[534]
「剰余価値」は、資本主義的搾取形態における剰余労働のあり様から発生するのだが、このあり様が歴史的なものであることを、マルクスは概括している。
人間がその最初の動物的状態からようやく脱出し、したがって人間の労働そのものがすでに一定程度まで社会化されているときにのみ、ある人の剰余労働が他の人の生存条件となるような諸関係が生じる。[535]
諸欲求は、その充足手段とともに、またその手段によって発展する。[535]
文化の初期には、他人の労働によって生活する社会部分の割合は、大量の直接的生産者に比べるときわめて小さい。労働の社会的生産力の進展とともに、この社会部分の割合は、絶対的にも相対的にも増大する。[535]
資本関係は、長い発展過程の産物である経済的基盤の上に発生する。資本関係が生まれる基礎である労働の既存の生産性は、自然の賜物ではなくて、幾十万年にもわたる歴史の賜物である。[535]
一般的に、限られた生産諸力のなかでの「生産性」とは、「第三者のための無償の労働」のあり様に依存している。そして、マルクスはさらに、その生産性と自然諸条件との関連を分析している。
自然的諸条件は、すべて、人種などのような人間そのものの自然と、人間を取り巻く自然とに、還元されうる。外的な自然的諸条件は、経済学的には、生活手段の自然的豊かさ、すなわち土地の豊度、魚の豊富な海や河などと、労働手段の自然的豊かさ、すなわち勢いのよい落流、航行できる河川、材木、金属、石炭などとの、二大部類に分かれる。文化の初期には、自然的豊かさの第一の種類が決定的であり、より高度な発展段階では、第二の種類が決定的である。[535]
絶対的に充足されなければならない自然的欲求の数が少なければ少ないほど、また自然的な土地の豊度や気候の恩恵が大きければ大きいほど、生産者の維持と再生産のために必要な労働時間は、それだけ少なくなる。したがって、生産者が自分自身のためにする労働を超えて他人のために行なう労働の超過分が、それだけ大きくなりうる。[535]
資本主義的生産がすでに前提されていて、ほかの事情が不変であり、また労働日の長さも与えられていれば、剰余労働の大きさは、労働の自然的条件によって、ことに土地の肥沃度によって、変動するであろう。しかしその反対に、もっとも肥沃な土地が、資本主義的生産様式の成長にもっとも適している土地だということには決してならない。資本主義的生産様式は、自然にたいする人間の支配を前提としている。あまりに豊かな自然は、……自然必然的に人間自身の発展をもたらさない。……社会的分業の自然的基礎をなし、そして、人間が居住している自然的環境の変化によって、人間自身の諸欲求や諸能力、労働手段、および労働様式を多様化するように、人間を刺激するのは、土地の絶対的な肥沃度ではなく、その分化、その自然的産物の多様性である。自然力を社会的に管理し、それを節約し、それを人間の手になる工事によって大規模にまず自分のものにする、すなわち馴らす必要性が、産業史においてもっとも決定的な役割を演じている。[536-7]
自然的諸条件の恵みは、つねに、剰余労働の、したがって剰余価値または剰余生産物の、可能性を与えるにすぎないのであって、その現実性を与えるのでは決してない。労働の自然的諸条件が異なることによって、同じ量の労働が、異なる国々において、異なる欲求量を充足するのであり、したがって他の事情が類似していれば、必要労働時間が異なるということになる。自然的諸条件は、自然的制限としてのみ、すなわち、他人のための労働が開始できる時点を規定することによってのみ、剰余労働に作用するのである。産業が前進するのと同じ程度に、このような自然的制限は後退する。[537]
マルクスがこの章のさいごに展開しているジョン・ステュアト・ミル氏の見解をめぐる批判的考察だが、なぜここでおもむろに展開されているのだろうか。剰余価値をめぐる見解の「限界」あるいは「誤り」を、この章における考察と対照しているのだろうか。この部分の叙述の位置付けがいまいちよくわからない。