第1部:資本の生産過程

第6篇:労賃

第17章
労働力の価値または価格の労賃への転化



労働は価値をもっているか

商品の価値とはなにか? 商品の生産に支出される社会的労働の対象形態である。また、われわれは、この価値の大きさをなにによってはかるのか? 商品に含まれる労働の大きさによってである。それでは、たとえば12時間労働日の価値は、なにによって規定されるのであろうか? 12時間労働日に含まれる12労働時間によって――これはばかげた同義反復である。[557]

「労働は価値の源泉である」――古典派経済学は、この認識には到達していたものの、上記のような「同義反復」からは抜け出すことができなかった。そもそも資本主義社会では、労働者に支払われる賃銀が、労働者による一定分量の労働にたいして支払われる一定分量の貨幣として現われるので、他の商品の価値や価格と同様に、「労働の価値」「労働の市場価格」についてまず語られることになったのである。

労働は価値の実体であり、価値の内在的尺度であるが、労働そのものはなんらの価値ももたない。

「労働の価値」という表現においては、価値概念が完全に消し去られているだけでなく、その反対物に変えられている。この表現は、たとえば土地の価値と同じように、一つの想像上の表現である。とはいえ、これらの想像上の表現は、生産諸関係そのものから発生する。それらは、本質的諸関係の現象形態を表わすカテゴリーである。[559]

労働は商品か

はたして、そもそも労働は商品なのだろうか。

労働は、商品として市場で売られるためには、それが売られる以前に必ず実存していなければならないであろう。

注(22)「……労働は、市場にもっていかれる瞬間につくり出される。いやそれどころか、労働がつくり出されるより以前に、市場にもっていかれるのである」(『経済学におけるある種の用語論争の考察』、75、76ページ)。[558]

「労働は商品である」――これは解決不可能な、形式論理的矛盾だ。

12時間の労働日が、たとえば6シリングの貨幣価値で表わされるとしよう。いま、等価物どうしが交換されるものとしよう。そのときには、労働者は12時間の労働にたいして6シリングを受け取る。彼の労働の価格は、彼の生産物の価格と等しいであろう。この場合に彼は、労働の買い手のためになんらの剰余価値をも生産せず、6シリングは資本に転化せず、資本主義的生産の基礎は消滅することになるであろうが、しかし、この資本主義的生産の基礎上においてこそ、労働者は自分の労働を売り、彼の労働は賃労働なのである。[558]

対象化された労働、生きた労働

注(24)「行なわれた労働が、行なわれるべき労働と交換されるときには、いつでも、後者」(“資本家”)「が前者」(“労働者”)「よりもより高い価値を受け取るべきであると取り決められ」(「“社会契約”」の新版だ)「なければならなかった」(シモンド《すなわちシスモンディ》『商業的富について』、ジュネーヴ、1803年、第1巻、37ページ)。

一方は対象化された労働であり、他方は生きた労働であるという形態的区別から、より多くの労働とより少ない労働との交換を導き出すことは、なんの役にも立たない。一商品の価値は、現実にその商品のうちに対象化されている労働の分量によってではなく、その商品の生産に必要な生きた労働の分量によって規定されているのであるだけに、上の導き出しは、なおのことばかげている。ある商品が6労働時間を表わすとしよう。もしこの商品を3時間で生産しうる諸発明がなされるならば、すでに生産された商品の価値も半減する。この商品は、いまや、以前の6時間ではなく、3時間の社会的必要労働を表わす。したがって、商品の価値の大きさを規定するのは、その商品の生産に必要な労働の分量であって、労働の対象的形態ではない。[559]

「労働の市場価格」の変動

需要と供給による市場価格の変動は、よく「需要供給曲線」として、Xのかたちに交わるグラフでしめされたものだ。しかし、マルクスが指摘するところでは、古典派経済学の到達は、市場価格変動曲線を、そのようには認識していなかったとある。むしろ、「騰落が相殺されて、ある中位の平均的大きさ、ある不変の大きさ」の「上下への」「動揺」。すなわち、波動三角(サイン、コサイン)関数的変動曲線である。

この問題をめぐっては、第1章でも参考に紹介した川上則道教授が、くわしい研究を行なっている(『「資本論」の教室』、「補論II 需要曲線と供給曲線との交点で価格は本当に決まるのか」、新日本出版社、1997年、177-192。および、『「資本論」で読み解く現代経済のテーマ』、「第1章 市場万能主義と社会進歩――需要・供給曲線の問題点から考える――」、新日本出版社、2004年、7-18)。

労働の偶然的市場価格を支配し規制するこの価格、すなわち労働の「必要価格」(重農主義者)または「自然価格」(アダム・スミス)は、他の諸商品の場合と同じように、貨幣で表現された労働の価値でしかありえない。このようなやり方で、経済学は、労働の偶然的諸価格を通して労働の価値に迫っていくと考えた。次に、この労働の価値は、他の諸商品の場合と同じように、さらに生産費によって規定された。しかし、生産費――労働者の生産費、すなわち労働者そのものを生産あるいは再生産するための費用とはなにか? [560]

「労働」と「労働力」

経済学が労働の価値と名づけるものは、実際には労働力の価値であり、この労働力は、労働者の人身のうちに実存するのであって、それがその機能である労働とは別のものであることは、機械がその作動とは別のものであるのと同じである。[561]

古典派経済学の人びとは、分析過程において、実質的には上記の区別に達していたにもかかわらず、「労働の価値」あるいは「労働の自然価格」というカテゴリーから抜け出せないでいたために、自らの到達点に気づかないままだった。このことが、

古典派経済学を解決しえない混乱と矛盾におとしいれたのであり、他方ではそのことは、俗流経済学にたいして、原則として外観のみに忠誠を尽くすその浅薄さのための確実な作戦根拠地を提供したのである。[561]

「労賃」への転化

労働の価格が労働の生産物の価格より小さくなる

1労働日が12時間で、労働力の日価値が3シリング――「6労働時間を表わす一つの価値の貨幣表現である」――とする。労働者が3シリングの賃銀を受け取るなら、12時間のあいだ機能する彼の労働力の価値と等価を受け取ることになる。

この「労働力の日価値」3シリングが、「労働の日価値」として表現されるならば、

労働の価値は、つねに労働の価値生産物よりも小さくならなければならないという結果がおのずから生じる。というのは、資本家はつねに、労働力自身の価値の再生産に必要であるよりも長く、労働力を機能させるからである。上の例では、12時間のあいだ機能する労働力の価値は3シリングであり、労働力はこの価値の再生産に6時間を必要とする。これに反して、労働力の価値生産物は6シリングである、なぜなら、労働力は実際に12時間のあいだ機能し、そして労働力の価値生産物は、労働力自身の価値によってではなく、労働力が機能する継続時間に依存するからである。こうして、6シリングの価値をつくり出す労働が、3シリングの価値をもつという、一見ばかげた結論が得られる。[561-2]

不払労働の痕跡が消える

労働日の支払部分すなわち6時間の労働を表わしている3シリングの価値が、6不払時間を含む12時間の総労働日の価値または価格として現われる。したがって、労賃の形態は、必要労働と剰余労働とへの、支払労働と不払労働とへの労働日の分割のあらゆる痕跡を消してしまう。すべての労働が支払労働として現われる。夫役労働では、自分自身のための夫役者の労働と領主のための彼の強制労働とは、空間的にも、時間的にも、はっきり感性的に区別される。奴隷労働では、労働日のうち、奴隷が自分自身の生活手段の価値を補填するにすぎない部分、したがって、彼が実際に自分自身のために労働する部分さえも、彼の主人のための労働として現われる。彼のすべての労働が不払労働として現われる。その反対に、賃労働では、剰余労働または不払労働さえも支払労働として現われる。[562]

労賃という形態の必然性

労働力の価値および価格を労賃の形態に――または労働そのものの価値および価格に――転化することの決定的重要性が、いまや理解される。現実的関係を見えなくさせ、まさにその関係の逆を示すこの現象形態は、労働者および資本家のもつあらゆる法律観念、資本主義的生産様式のあらゆる神秘化、この生産様式のあらゆる自由の幻想、俗流経済学のあらゆる弁護論的たわごとの、基礎である。

世界史が労賃の秘密を見破るには多大の長い時間を要するとしても、それでもこの現象形態の必然性、“存在理由”を理解することほどたやすいことはない。[562]

マルクスは、ここで、なぜ「労賃」という形態への転化が生じるかを、いくつか分析し具体的に指摘している。([563-4])

現象形態は、直接に自然発生的に、普通の思考形態として再生産されるが、その隠れた背景は、科学によってはじめて発見されなければならない。古典派経済学は、真の事態にほぼふれてはいるが、しかしそれを意識的に定式化してはいない。[564]



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