第1部:資本の生産過程
第5篇:絶対的および相対的剰余価値の生産
剰余価値/可変資本(m/v)=剰余価値/労働力の価値=剰余労働/必要労働
この定式の相互関連については、第1部第3篇第7章第1節“労働力の搾取度”のなかで厳密に分析されている。
すでにイギリスなどの古典派経済学の人びとによって「利潤率」「利子率」という言い方で発見されていたのではあったが、古典派経済学の人びとは、この比率を導き出す分母となっている可変資本部分が、「労働の価格」ではなく「労働力の価格」へ前貸された部分であるという本質的発見には至らなかった。
剰余労働/労働日=剰余価値/生産物価値=剰余生産物/総生産物
この定式では、生産物価値のなかに、不変資本から価値移転される価値部分はふくまれていないし、その意味では1労働日に生産される価値部分は厳密に区別して理解されている。
しかし、この定式がしめすのは、現実の剰余価値率ではない。
実際には、労働日またはその価値生産物が、資本家と労働者とのあいだに分割される比率を表現している。[554]
第2の定式が、剰余価値率を正しく表わしていないことは、マルクスが引用しているL.ド・ラヴェルニュ氏(Louis-Gabriele-Léonce-Guilhaud de Lavergne[1809-1880])の査定によっても明らかにされている([555])。剰余価値率は100%になりうるし、100%以上にもなりうる。第2の定式は、現実の搾取度を反映できない弱点をもっているのである。
この定式が、資本の自己増殖度の直接的表現として妥当するならば、剰余労働または剰余価値は決して100%に達することができない、というまちがった法則が妥当することになる。剰余労働はつねに労働日の一可除部分でありうるにすぎず、また剰余価値はつねに価値生産物の一可除部分でありうるにすぎないのであるから、剰余労働は必然的につねに労働日よりは小さく、また剰余価値はつねに価値生産物よりも小さい。ところが、100/100という比率であるためには、この2つは等しくなければならないであろう。剰余労働が全労働日を吸収するためには……、必要労働はゼロにまで低下しなければならないであろう。しかし必要労働が消滅すれば、剰余労働もまた消滅する、なぜなら、剰余労働は必要労働の一つの機能にすぎないからである。[554]
第2の定式はまた、「労働日を不変の大きさとして取り扱う」という方法を固定化することになった。
なぜなら、ここでは、剰余労働はつねにある与えられた大きさの労働日と比較されるからである。価値生産物の分割がもっぱら注目される場合も、同様である。すでにある価値生産物に対象化された労働日は、つねに与えられた限界をもつ労働日である。[555]
この傾向は、シーニアが典型的に陥ったようなあやまりを呼び込む(第1部第3篇第7章第2節“生産物の比率的諸部分での生産物価値の表現”および第3節“シーニアの「最後の一時間」”)。
剰余価値と労働力の価値とを価値生産物の分割部分として表わすことは……資本関係の特殊な性格、すなわち、可変資本と生きた労働力との交換、およびそれに照応した生産物からの労働者の排除をおおい隠す。それに代わって、労働者と資本家とが生産物をそのさまざまな形成諸要因の割合にもとづいて配分するある協同関係、という偽りの外観が現れる。[555]
このあやまりに陥ったのはシーニアだけではなかった。さきに、マルクスが部分的に評価し、引用し、のちにエンゲルスによって批判されているロートベルトゥス(Johann Karl Rodbertus-Jagetzow[1805-1875])もそうであった。
(注17)……「資本は、単に労働にたいしてのみならず、それ自身にたいしても、救われなければならない。そしてこの救済が実際にもっともよく行なわれるのは、企業家=資本家の活動が、資本所有を通じて彼に委託されている国民経済的および国家経済的な諸機能として理解され、彼の利得が俸給形態として理解される場合である。なぜなら、われわれはまだ他の社会組織を知らないからである。ところで、諸俸給は、規制することができるし、また、それが賃銀からあまり多くを奪い取るときには、引き下げることもできる。……」……【『ロートベルトゥス・ヤゲツォー博士の書簡および社会政治論集』、ルドルフ・マイアー博士編、ベルリン、1881年、第1巻、111ページ。ロートベルトゥスの第48書簡】[555]
剰余労働/労働力の価値=剰余労働/必要労働=不払労働/支払労働
さきの章ですでに指摘されているように、資本家は市場で等価交換によって労働力の処分権を獲得し、労働力を一定期間利用する。
資本家によるこの労働力の利用は、二つの期間に分かれる。一つの期間では、労働者は、一つの価値=彼の労働力の価値、したがって等価を生産するだけである。こうして資本家は、前貸した労働力の価格にたいして、同じ価格の生産物を受け取る。それは、あたかも彼がこの生産物をでき合いのものとして市場で買ったようなものである。それにたいして剰余労働の期間では、労働力の利用は、資本家のために価値を形成するのであるが、それは資本家には価値の代償を要しない。資本家は労働力のこの流動化を無償で手に入れる。
資本の自己増殖についての秘密は、解いてみれば、資本が他人の一定分量の不払労働にたいし処分権をもつということである。[556]