第1部:資本の生産過程
第6篇:労賃
労賃そのものは、また、きわめて多様な形態をとるが、この事情は、経済学の概要書からは知ることのできないものである――これらの概要書は、素材にたいして強烈な関心をもつだけで、どのような形態的区別をも考慮しない。とはいえ、これらの形態のすべてを叙述することは、賃労働の特殊理論の範囲に属し、したがって本書の範囲外である。その代わりここで、二つの支配的な基本形態を簡単に展開しなければならない。[565]
マルクスが取り上げている「基本形態」とは、「時間賃銀」と「出来高賃銀」だ。それぞれ、この章と次の章で扱われる。しかし、より“率直な”転化形態は、「時間賃銀」、すなわち、労働力が販売されるもっとも一般的な基準となる時間に対応する形態である。
現代日本でも、最低賃金は時間給当たりの賃金を基準にして、日給、週給、月給と当たりの額が定められている〔厚生労働省サイト参照〕。ただし、地方自治体によって格差があるし、最低賃金自体、生活保護の受給基準額よりも低く設定されているという始末であるが。
さて、「労働の価格」ととらえられたこの労賃の実体は、「労働力の価格」であった。
それでは、この〔労働の〕価格、すなわちある与えられた分量の労働の貨幣価値は、どのようにして見いだされるか? 労働の平均的価格は、労働力の平均的日価値を平均的労働日の時間数で除することによって得られる。たとえば労働力の日価値が6労働時間の価値生産物である3シリングであり、労働日が12時間であるとすれば、1労働時間の価格は、3シリング/12=3ペンス である。こうして見いだされた1労働時間の価格が、労働の価格の尺度単位として用いられる。[566]
労働者が自分の日労働、週労働などと引き換えに受け取る貨幣額は、彼の名目的労賃、すなわち価値で計算された労賃の額を形成する。しかし、労働日の長さしだいで、したがって労働者により日々提供される労働の量しだいで、同じ日賃銀、週賃銀などが、労働のきわめて異なる価格、すなわち同じ分量の労働に支払われるきわめて異なる貨幣額を表わしうる[565-6]
たとえば、普通の1労働日が10時間で、労働力の日価値が3シリングであったとすると、1労働時間の価格は、3(と)3/5ペンスであった。1労働日が12時間に延長されると、1労働時間の価格は3ペンスに低落し、15時間に延長されると、2(と)2/5ペンスに低落する。それでも日賃銀、週賃銀は変わらない。[566]
たとえば、1労働日が10時間で、労働力の日価値が3シリングであれば、1労働時間の価格は3(と)3/5ペンスである。もし労働者が、仕事が増えたために、労働の価格が不変なままで12時間労働するならば、いまや、彼の日賃銀は、労働の価格の変動をともなわずに、3シリング7(と)1/5ペンスに騰貴する。労働の外延的大きさの代わりに、労働の内包的大きさが増加する場合にも、これと同じ結果が生じうるであろう。それゆえ、名目的な日賃銀または週賃銀が騰貴しても、労働の価格の不変あるいは低落をともなうことがありうる。[566]
日労働、週労働などの量が与えられているならば、日賃銀または週賃銀は、労働の価格によって決まるのであり、労働の価格そのものは、労働力の価値とともに変動するか、さもなければ労働力の価値からの価格の背離とともに変動する。これに反して、労働の価格が与えられているならば、日賃銀または週賃銀は、日労働または週労働の量によって決まる[567]
時間賃銀の度量単位すなわち1労働時間の価格は、労働力の日価値を、通例の労働日の時間数で除した商である。いま時間数が12時間であり、労働力の日価値が6労働時間の価値生産物、3シリングであるとしよう。この事情のもとでは、1労働時間の価格は3ペンスであり、その価値生産物は6ペンスである。いま、もし労働者が日々12時間よりも少なく(または1週に6日よりも少なく)、たとえば6時間または8時間しか就業させられないならば、彼は、この労働の価格では、2シリングまたは1シリング半の日賃銀しか受け取らない。前提によれば、労働者は、自分の労働力の価値に対応する日賃銀を生産するためだけで、平均して日々6時間労働しなければならないのであるから、また同じ前提によれば、労働者は、各1時間のうち半分だけは自分自身のために労働し、半分は資本家のために労働するのであるから、彼が12時間よりも少なく就業させられる場合には、6時間の価値生産物をかせぐことができないことは、明らかである。[567-8]
注(34)このような異常な過少就業の影響は、労働日の全般的な強制法的短縮の影響とは、まったく異なる。前者の影響は、労働日の絶対的長さとはなんら関係がなく、15時間労働日の場合にも6時間労働日の場合にも同じように現われうる。労働の標準価格は、第一の場合には労働者が1日に平均して15時間労働し、第二の場合には6時間労働するものとして計算されている。それゆえ、労働者が第一の場合に7時間半しか、第二の場合に3時間しか就業させられないならば、結果は、やはり同じ〔過少就業〕である。[568]
もし資本家が日賃銀または週賃銀を支払う義務がなく、自分の好きなだけ労働者を就業させてその労働時間にたいしてのみ支払う義務をおうという仕方で、時間賃銀が確定されるならば、資本家は、もともと時間賃銀または労働の価格の度量単位の基礎になっている時間よりも少なく、労働者を就業させることができる。……いまや、資本家は、労働者にたいして自分自身の維持に必要な労働時間を与えることなしに、労働者から一定分量の剰余労働をしぼり取ることができる。……資本家は、「労働の標準価格」を支払うという口実のもとに、労働日を以上に延長――労働者にそれに対応したなんらかの補償をも与えずに――することができる。[568]
この指摘をめぐっては、現代日本でも驚くべき事態が進行している。1987年の労働基準法改定によって認められ、1993年の同法改定にともないさらに拡大された「変形労働時間制」である。
この制度は、ある定められた期間内の1日の労働時間を弾力化できる制度である。大きく、
の4つの制度がある。いずれも、特定期間内においては、1労働日の長さ、その始業時刻、終業時刻などが、資本の需要の変動に応じて設定されうる。
さらに1987年の労働基準法改定は、「裁量労働時間制」という制度の導入を許した。この制度は、もはや労働時間というカテゴリーを名目上だけのものにしてしまい、実際の労働と切り離してしまった。「労働者が自由に働き方を裁量する」ことが前提とはなっているが、資本主義的生産過程においては、生産過程の指揮監督権は資本の側に握られている。そういう実態のもとで、「労働者の自由裁量」という名目のもとに、資本への制限をなくしてしまえば、いかなる事態を招くかは、火を見るよりも明らかである。この制度ははじめ適用部門が限定されていたが、1997年の同法改定で対象業務の拡大が認められた。なお、その後の労働組合側のたたかいもあって、対象業務や対象事業場、対象労働者への適用については、労使委員会の設置を前提とすることが義務づけられている。
日賃銀または週賃銀が増大しても、労働の価格は、名目的には不変でありながら、しかもなおその標準的水準以下に下落しうる。このようなことは、労働――または1労働時間――の価格が不変で、労働日が通例の長さ以上に延長されるときには、いつも起こる。労働力の日価値/労働日 という分数においては、分母が増大すれば、分子はさらに急速に増大する。労働力の価値は、労働力が消耗するので、それの機能時間とともに増大し、しかも機能時間の増加よりももっと急速な割合で増大する。それゆえ、労働時間の法律的制限がなくて、時間賃銀が支配的である多くの産業部門では、労働日は、ある一定の時点まで……でありさえすれば標準的なものとみなされる慣習が、自然発生的につくり上げられた……。労働時間は、この限界を超えると、超過時間を形成し、時間を度量単位にして、より多く支払われる(“割増給”)……。この場合には、標準労働日は、現実の労働日の分数の一部として実存するのであって、しかも現実の労働日は、しばしば1年中にわたって標準労働日よりも長く続く。……いわゆる標準時間内での労働の価格が低いために、労働者が一般に十分な労賃をかせごうと思うならば、より多く支払われる超過時間の労働を余儀なくされる……。労働日の法律的制限は、この楽しみを終わらせる。[568-570]
このマルクスの指摘が100年以上前のものであることを念押ししておかなければならない。現代日本では、「この楽しみ」はまだ終わりを告げてはいない。そればかりか、「割増給」さえ支払われない労働が「自主的に」労働者によって経営者に捧げられているのである。いわゆる「サービス残業」という名目で。「サービス」とはよく言ったものだ。
「サービス残業」の実質的強制という違法行為は論外として、残業代をあてにしなければならない基本給の低さこそが問題とされなければならない。
上に引用した事態にたいして、いまから100数十年前のイギリス労働者たちは、きわめて正確な要求をかかげてたたかっていた。
注(38)『工場監督官報告書。1863年4月30日』、10ページを見よ。建築業で働くロンドンの労働者たちは、この事態をまったく正しく批判し、1860年の大ストライキおよびロック・アウト中に、次の2つの条件のもとでのみ時間賃銀を受け入れるであろうと宣言した。すなわち、
- 1労働時間の価格とともに、9時間および10時間のそれぞれの標準労働日を確定し、10時間労働日の1時間の価格を、9時間労働日の1時間の価格よりも大きくすること、
- 標準労働日を超える各時間を超過時間として、比較的に高く支払うこと。[569]
まず、「労働の価格が与えられている場合には、日賃銀または週賃銀は、提供される労働の量によって決まる」という法則からは、労働の価格が低ければ低いほど、労働者がみじめな平均賃銀だけでも確保するためには、労働分量はそれだけ大きくなければならない、または労働日はそれだけ長くなければならない、という結論が出てくる。この場合には、労働の価格の低いことが、労働時間の延長への誘引として作用する。[570]
その逆に、労働時間の延長そのものがまた、労働価格の低落、したがって日賃銀、週賃銀の低落を生み出す。
労働力の日価値/与えられた時間数の労働日 による労働価格の規定は、もしなんの補償も行なわれなければ、労働日の単なる延長は、労働価格を低下させるという結果を生む。しかし、長いあいだには労働日を延長することを資本家に可能にする同じ事情が、資本家に、この増加した時間数の総価格したがって日賃銀または週賃銀が低下するまで、労働価格を名目的にも引き下げることを、はじめは可能にし、ついには余儀なくするのである。[571]
もし1人が1人半または2人分の仕事をするならば、たとえ市場にある労働力の供給が不変であっても、労働の供給は増大する。こうして労働者のあいだに引き起こされる競争が、資本家に、労働の価格を切り下げることを可能にするのであり、他方では、また逆に、この労働の価格の低落が、資本家に、労働時間をさらにいっそう引き延ばすことを、可能にする。
この「労働者間の競争」は、労働過程の指揮監督権をにぎっている資本によって、意識的につくりだされ、利潤追求のために利用される。「労働者間の競争」は、「資本家間の競争」のために活用されることになる。なぜなら、
商品価格の一部分は、労働の価格からなっている。労働の価格のうちの支払われない部分は、商品価格では計算する必要はない。この部分は、商品購買者にただで贈呈されてもよい。これは、競争がかり立てる第一歩である。競争が強制する第二歩は、労働日の延長によって生み出される異常な剰余価値の少なくとも一部分を、同じように商品の販売価格から除外することである。このようにして、商品の異常に低い販売価格が、まず散在的に形成され、しだいに固定されて、それ以後は、過度な労働時間のもとでのみじめな労賃の恒常的基礎となる[571]
上記引用部分をめぐっては、現在日本の主な産業部門に採用されている成果主義賃金制度を連想した。
「努力すれば報われる処遇制度」「賃金は自分の努力による目標の達成度の評価で決めることができる」とのうたい文句で、相当広い産業部門への適用がすすんでいるようだ。当初管理職への年俸制の導入とともに適用がはじまったこの制度、いまや一般労働者も対象とされはじめているようである。社会経済生産性本部の調べによれば、2002年の段階で、主な9つの業種(サービス業はもとより、電気機器、鉄鋼・金属製品、産業用機械、金融・保険業、精密機械、石油・化学、卸売・小売業など)で3割〜5割強の導入率である。
うたい文句とは裏腹に、もともと、賃金制度に成果主義をもちこもうとした経営側の目的は、人件費総額の「節約」・削減であったから、一部の限られた労働者にとっては一時的に賃金が上がることがありうるが、その職場・作業場の労働者全体では、人件費総額が必ず「節約」されなければならなかった。
また、査定による労働者間の競争促進によって、職場・作業場内での技能・技術の伝承の妨げ、保守・点検・修理部門の軽視による安全管理体制の弱まり、などの弊害が指摘されている。そもそも査定をどういう機関が行なうのかは、その職場の労使の力関係に左右されるにまかされており、はなはだ主観的恣意的なものとなっているのが実状のようである。「目標管理」「人事考査」など査定の名目による圧力は相当なものである。実際、職場・作業場の生産性そのものも、この制度のもとで、向上しうるのかどうか。はなはだ疑問だ。