第1部:資本の生産過程
第1篇:商品と貨幣
第1章:商品
第1節で、商品に含まれる労働に、二面的性質があることがしめされたが、これは、マルクスによってはじめて批判的に指摘されたことだった。この点が、私たちの社会の経済の分析においては決定的である。
すべての労働は、一面では、生理学的意味での人間的労働力の支出であり、同等な人間的労働または抽象的人間的労働というこの属性において、それは商品価値を形成する。すべての労働は、他面では、特殊な、目的を規定された形態での人間的労働力の支出であり、具体的有用的労働というこの属性において、それは使用価値を生産する。[61]
商品の使用価値には一定の有用的労働が潜んでいる。使用価値をもっているさまざまな生産物は、具体的な生産労働(=具体的有用労働)の質的な差異がなければ、商品として相対することはできない。
ここで言う、「有用労働」とは、価値として表われる「人間労働」と区別してよばれているものだが、具体的有用労働と抽象的人間労働という2つの種類の労働があるのではなく、同じ労働に2つの面があるということだ。有用物をつくる労働(=具体的有用労働)は、人間が生きてゆく上で必ず必要なものであって、商品生産社会(=資本主義社会)でなくても、ずっとむかしから存在してきた。
マルクス自身、「資本主義的生産様式」が支配的な社会を念頭において、この第1章の考察をすすめていることは確かだ。しかし、“売るために生産する”という行為自体は、資本主義社会よりかなり以前に発生している。「商品が生産される社会」という意味では、必ずしも、資本主義社会とは同義語ではない。
商品生産者たちの社会では、自立した生産者たちの私事として、互いに独立に営まれる有用的労働の質的区別が、社会的分業に発展する。
異なった使用価値をもつ生産物の間で、商品交換はおこなわれる。だから、さまざまな使用価値を生みだす、さまざまな有用労働がおこなわれるということ、つまり、分業がすすんでいるということは、商品交換の前提ではある。しかし、原始共同体のなかや工場のなかで分業がおこなわれていても、その内部では、商品交換はおこなわれない。分業が存在するからといって、商品交換が存在するとは、必ずしも言えないのだ。商品生産社会の特徴は、私事として独立に営まれる労働と、社会的分業がむすびついていることだ。
マルクスが例としてとりあげた上着とリンネル。ここでは、1着の上着は、10エレのリンネルの2倍の価値をもっているとされている。ということは、20エレのリンネルは1着の上着と同じ価値の大きさをもつということがいえるわけだ。
当然のように比較されるこの2つの商品を、もっとよく分析してみよう。上着は、裁縫労働によって生産され、リンネルは織布労働によって生産されている。それぞれ、裁縫労働と織布労働という、質の異なる労働によって生産されているわけだ。もちろん、質の異なる労働によって生産されているからこそ、上着とリンネルはそれぞれの使用価値を違えているわけで、それだからこそ、商品として比較対象となりうる。
商品として比較対照するとき、なにがおこなわれているか。なんらかの欲求を満たすために労働し生みだす生産物、その生産活動の有用的な性格をとりのぞいてみよう。そこには、いったいなにが残るか。
裁縫労働と織布労働とは、質的に異なる生産的活動であるにもかかわらず、ともに、人間の脳髄、筋肉、神経、手などの生産的支出であり、こうした意味で、ともに人間的労働である[58-59]
商品として比較対照されるとき、つまり、商品価値であるとき、上着とリンネルとは、使用価値の区別が取り除かれている。使用価値の区別が取り除かれるということは、それぞれを生産した裁縫労働、織布労働という労働の有用的な差異が取り除かれているということだ。これらの生産物が、商品として比較対照されるとき、それらに共通しているのは、それらの生産物が、人間の労働によって生産されたということだけだ。
確かに、人間的労働力そのものは、それがあれこれの形態で支出されるためには、多少とも発達していなければならない。しかし、商品の価値は、人間的労働自体を、人間的労働一般の支出を、表わしている。……それは、平均的に、普通の人間ならだれでも、特殊な発達なしに、その肉体のうちにもっている単純な労働力の支出である。[59]
より複雑な労働は、何乗かされた、あるいはむしろ何倍かされた単純労働としてのみ通用し、そのために、より小さい分量の複雑労働がより大きい分量の単純労働に等しいことになる。[59]
商品に含まれている労働は、使用価値との関連ではただ質的にのみ意義をもつとすれば、価値の大きさとの関連では、それがもはやそれ以上の質をもたない人間的労働に還元されているので、ただ量的にのみ意義をもつ。まえの場合には、労働のどのようにしてと、なにをするかが問題となり、あとの場合には、労働のどれだけ多くが、すなわちその継続時間が問題となる。一商品の価値の大きさは、その商品に含まれている労働の分量だけを表わすから、諸商品は、一定の比率においては、つねに等しい大きさの価値でなければならない。[60]
生産力というのは、つねに、具体的有用的労働の生産力であって、一定の時間内の合目的的生産活動の作用度が問題となる。生産力が上昇すれば、それだけ大きい分量の使用価値(商品体)を生み出すことになり、より大きい素材的な“富”を生み出す。生産力が下降すれば、素材的“富”がそれだけ失われる。
生産力というのは、つねに、具体的有用的労働の生産力であるから、生産力の上昇や下降は、それ自体では、価値に表わされる抽象的人間的労働には、影響をあたえることはできない。生産力がどんなに変化しても、同じ労働は、同じ時間内に、つねに同じ大きさの価値を生み出す。一方では、生産力の変動によって、同じ労働が、同じ時間内であっても、ちがった分量の使用価値を生み出す。
したがって、生産力が大きくなり、一定量の使用価値(商品体)の生産に必要な労働時間が短くなれば、生産された一定量の使用価値(商品体)の価値の大きさは、以前より小さくなる。また、生産力が小さくなり、一定量の使用価値(商品体)の生産に必要な労働時間が長くなれば、生産された一定量の使用価値(商品体)の価値の大きさは、以前より大きくなる。