第1部:資本の生産過程

第1篇:商品と貨幣

第3章:貨幣または商品流通

第3節
貨幣



ここで「貨幣」と訳されているのは、訳注によると、定冠詞なしの「貨幣」、貨幣としての金または銀そのものをさしている。このような形態で、金が機能するのは、まず、金が貨幣商品として現われる場合、したがって、価値尺度としてでもなければ流通手段としてでもなく現われる場合。また、金の貨幣としての機能が、金そのものを唯一の価値姿態として、ほかのすべての商品にたいして固定する場合。

a 蓄蔵貨幣の形成

商品変態の連続的循環、つまり販売と購買との絶え間ない転換は、貨幣の絶え間ない通流に現われるが、それが中断され、販売が購買に転換されなくなるやいなや、貨幣は固定され、鋳貨から、この節の表題で使用されるところの「貨幣」に転化される。

商品流通のそもそもの始まりにおいては、使用価値の過剰分だけが貨幣に転化される。こうして、金銀は、おのずから、あり余るものの、または富の、社会的表現となる[144]

商品流通そのものの最初の発展とともに、第一の変態の産物である、商品の転化された姿態または商品の金蛹を固持する必要と情熱とが発展する。商品を買うためにではなく、商品形態を貨幣形態に置き換えるために、商品が売られる。この形態変換は、素材変換の単なる媒介から目的そのものになる。商品の脱皮した姿態が、商品の絶対的に譲渡されうる姿態または単に一時的な貨幣姿態として機能することをさまたげられる。こうして、貨幣は蓄蔵貨幣に化石し、商品販売者は貨幣蓄蔵者になる[144]

そして、この傾向は、商品生産が発展するにつれていっそう激しくなる。

彼の欲求は絶えず更新され、他人の商品を絶えず買うことを命じるが、他面では彼自身の商品の生産と販売は時間を要し、また偶然に左右される。売ることなしに買うためには、彼は、あらかじめ、買うことなしに売っていなければならない[145]

「買うことなしに売る」という行為は、まず貨幣材料の産源地で、金銀の所有者と商品所有者とのあいだで行なわれる。これを起点にして、これ以降の「買うことなしに売る」行為が、商品所有者のあいだに貨幣材料を再配分してゆくのである。

こうして、交易のすべての地点に、きわめて種種さまざまな規模での金銀の財宝が生まれる。商品を交換価値として、または交換価値を商品として固持する可能性とともに、黄金欲が目覚める。商品流通の拡大とともに、貨幣――富の、いつでも出動できる、絶対的社会的な形態――の力が増大する[145]

第1部のさいしょに、マルクスは、「商品は富の要素をなす」といったが、いまや、より厳密に

使用価値としての商品は一つの特殊な欲求を満たし、素材的富の一つの特殊な要素をなす[147]

と叙述されている。「使用価値としての商品」が「素材的富」の要素をなすとすれば、一方、

商品の価値は、素材的富のあらゆる要素にたいしてその商品がもつ引力の程度をはかる尺度となり、それゆえ、その商品の所有者がもつ社会的富の尺度となる[147]

さらに、

蓄蔵貨幣形成の衝動は、その本性上、限度を知らない[147]

それはなにより、貨幣がどの商品にもすぐに転化されうるという性質をもっており、「素材的富の一般的代表者」というその形態からして、無制限であること、しかし、一方で、現実の貨幣というものは量的な制限をうけているので、それ自体としては「素材的富の一般的代表者」という効力を制限されている購買手段であること、による。この「貨幣の量的制限と質的無制限性とのあいだの矛盾」が、貨幣蓄蔵者に絶え間ない、貨幣の蓄積衝動を呼び起こす。

貨幣を蓄蔵するためには、まず貨幣を購買手段として使わないようにしなければならず、また、たくさん生産し販売して、商品流通の流れの中から貨幣を引き上げなければならない。

だから、勤勉、節約、および貪欲が彼の主徳をなし、たくさん売って少ししか買わないことが、彼の経済学の総括をなす[147]

蓄蔵貨幣の直接的形態とならんで、その審美的形態、すなわち金銀製品の所有が行なわれる。それは、ブルジョア社会の富とともに成長する……こうして、一面では、金銀の絶えず拡大される市場が、金銀の貨幣諸機能からは独立に形成され、他面では、ことに社会的な暴風雨の時期に流出する貨幣の潜在的な供給源が形成される[147-8]

金属貨幣が流通する経済において蓄蔵貨幣が果たす機能について、マルクスはつぎのように分析している。

蓄蔵貨幣の貯水池は、同時に、流通している貨幣の流出および流入の水路として役立ち、それゆえ、流通する貨幣は、その通流水路から決してあふれ出ないのである[148]

商品流通の規模、価格、速度が絶えず変動するのにつれて、貨幣通流総量も絶えず変動するから、貨幣は、あるときは流通の中に鋳貨として引き寄せられ、あるときは流通から、固定された「貨幣」としてはじき出される。蓄蔵貨幣形態は、その調整弁の役割を果たしているのである。

b 支払手段

これまでに考察された商品流通の直接的形態においては、同一の価値の大きさがつねに二重に存在した。一方の極における商品と対極における貨幣と。それゆえ、商品所有者は、双方の側に現存する等価物の代理人として接触しただけであった。しかし、商品流通の発展とともに、商品の譲渡がその商品の価格の実現から時間的に分離される諸関係が発展する[149]

一方の商品所有者は現存する商品を売るが、他方は貨幣の単なる代表者として、あるいは将来の貨幣の代表者として、買う。売り手は債権者となり、買い手は債務者となる。この場合には、商品の変態、または商品の価値形態の展開が変わるので、貨幣もまた一つの別の機能を受け取る。それは支払手段になる[149]

「商品の譲渡がその商品の価格の実現から時間的に分離される諸関係」について、ここではマルクスは、単純な商品流通のケースに、すでにその可能性が含まれていることを指摘している。それぞれの商品の生産にかかる時間的な差、それぞれの商品生産の時期的季節的なちがい、それぞれの商品が生産される場所の市場からの距離の差などなど。だから、

ある商品所有者は、別の商品所有者が買い手として登場するまえに、売り手として登場することがありうる[149]

債権者または債務者という役柄は、ここでは単純な商品流通から生じる。単純な商品流通の形態変化が、売り手と買い手に、この新しい刻印を押すのである。したがって、それらは、売り手と買い手という役割と同じように、さしあたり一時的な、同じ流通当事者たちによってかわるがわる演じられる、役割である。しかし、この対立は、いまや最初から、あまり気持ちのよくないもののように見え、またいっそう結晶しやすいものである[149]

支払手段としての貨幣の機能

商品と貨幣という二つの等価物が販売過程の両極に同時に現われることは、すでになくなった。いまや、貨幣は、第一に、売られる商品の価格規定における価値尺度として機能する。契約によって確定されたその商品の価格は、買い手の債務、すなわち彼が一定の期限に支払う責任のある貨幣額を示す。貨幣は第二に、観念的購買手段として機能する。それは、だた買い手の支払約束のうちにしか実存しないけれども、商品の持ち手変換を引き起こす[150]

商品流通の第一の局面――商品が貨幣姿態に転化した段階で、流通から引き上げられ、蓄蔵貨幣に転化した流通手段は、今度は支払手段として機能するが、この支払手段としての貨幣が流通にふたたび入ってくるのは、すでに商品が流通から出ていって、消費に入ってしまったあとである。だから、

貨幣は、もはや、この過程を媒介するのではない。貨幣は、交換価値の絶対的定在または一般的商品として、この過程を自立的に閉じる。売り手が商品を貨幣に転化したのは、貨幣によってある欲求を満たすためであり、貨幣蓄蔵者が商品を貨幣に転化したのは、商品を貨幣形態で保存するためであり、債務者である買い手が商品を貨幣に転化したのは、支払うことができるようになるためである……こうして、商品の価値姿態である貨幣は、いまや、流通過程そのものの諸関係から生じる社会的必然によって、販売の目的そのものになる[150]

買い手は取引商品を受け取ってから一定期間の後に代金を支払うという契約をする。このように、その商品の変態の展開の仕方が変わるのに対応して、「売り手は債権者となり、買い手は債務者となる」。商品流通の形態が新たな発展段階にいたり、商品生産者・商品所有者の経済関係が新たな発展形態を獲得するのに対応して、貨幣は支払手段という機能をもつことになる。

ところが、注(98)で指摘されているように、貨幣の「前払い」というケースでは、商品流通の新たな発展があるわけではない。それは、通常の商品流通の範囲内で、購買手段という貨幣の機能を果たしているにすぎない――つまり、これまで見てきたW―G―Wの、第二の変態――G―Wをしめしているにすぎないからだ。

支払手段の運動

流通過程のどの一定期間をとっても、そこで支払期限に達した諸債務は、諸商品――その販売によってこれらの債務が生み出されたのだが――の価格総額を表わしている。この価格総額の実現のために必要な貨幣総量は、さしあたりまず、支払手段の通流速度によって決まる。この通流速度は二つの事情によって制約される。すなわち、Aがその債務者Bから貨幣を受け取り、それをさらに自分の債権者Cに支払うというような債務者と債権者との諸関係の連鎖と、さまざまな支払期限のあいだの時間の長さとである[151]

流通手段の通流においては、売り手と買い手とのあいだの連関が表現されるだけではない。この連関そのものが、貨幣通流において、貨幣通流とともに、はじめて成立する。これにたいして、支払手段の運動は、すでにその運動以前にできあがって現存している社会的連関を表現するのである[151]

貨幣が支払手段としての機能を獲得するまでになると、貨幣の運動速度とその量とが販売と購買の広さを現わしていた状況を、変えてしまう。

諸販売の同時性と並行性は、通流速度が鋳貨総量の代わりをすることに制限を加える。それらは、むしろ逆に、支払手段の節約の一つの新しい梃子となる[151]

ここでマルクスが紹介している具体例は“振替”という決済方法だ。すでにこのシステムは中世、南フランスのリヨン(Lyon)で発生していたらしい。販売がより多く、より広く行なわれ、それらの支払いの決済を行なう固有の施設が発生してくると、決済の集中もその度合いを増す。さまざまな債権は、つき合せれば一定の額までは互いに相殺されるから、債務の差額だけが清算されればよい。

支払いの集中が大量になればなるほど、それだけその差額は、したがって流通する支払手段の総量もまた、相対的に小さくなる[151]

支払手段としての機能の矛盾

さまざまな商取引が円滑に、かつ、大量に行なわれていればいるほど、さまざまな支払いは相殺され、債務の差額はそれと対応して小さくなってゆくから、貨幣は帳簿上の数字として、まったく観念的な価値尺度として機能する。貨幣がその素材の形態で現われるのは、現実に支払いが行なわれなければならない場合だ。

商品流通が発展し、さまざまな商取引の決済システムが十分に発達してゆけばゆくほど、その連鎖の、どこか一箇所でも途切れてしまうと、決済システムの中での観念的価値尺度は、突然、実体をもつ貨幣としての機能をもとめられ、その強制力が次から次へと、システム全体に波及してゆく。一方で、通流する貨幣の総量を制限し、支払手段の節約をすすめてきた、おなじ過程が、今度は突然、大量の貨幣を要求するのである。

恐慌においては、商品とその価値姿態である貨幣との対立は絶対的矛盾にまで高められる。それゆえまた、この場合には貨幣の現象形態はなんであろうとかまわない。支払いに用いられるのが、金であろうと、銀行券などのような信用貨幣であろうと、貨幣飢饉は貨幣飢饉である[152]

ここで言われている銀行券とは、今日の私たちが目にしている日本銀行券のような不換紙幣ではなく、金と交換可能な兌換紙幣のことである。まだ、この段階では、不換紙幣は考察対象にはなっていない。

諸価格、貨幣通流の速度、および諸支払いの節約が与えられていても、ある期間、たとえば一日のあいだに通流する貨幣の総量と、流通する商品の総量とは、もはや一致しない。すでにずっとまえに流通から引きあげられた諸商品を代表する貨幣が流通する。その貨幣等価物がやっと将来になってから現われる商品が流通する。他面、日々に契約される諸支払いと、同じ日に支払期限に達する諸支払いとは、まったくつり合いのとれない大きさである[153]

信用貨幣

信用貨幣は、売られた商品にたいする債務証書そのものが債権の移転のためにふたたび流通することによって、支払手段としての貨幣の機能から直接的に生じてくる。他面、信用制度が拡大するにつれて、支払手段としての貨幣の機能も拡大する。このようなものとして、それは、大口取引の部面を住みかとする独自の実存形態を受け取り、これにたいして、金鋳貨または銀鋳貨は、主として小口取引の部面に押しもどされる[154]

商品生産が、信用貨幣などを生みだすまでの発展をとげると、貨幣の支払手段としての機能は、商品流通以外のさまざまな社会的契約の媒介物としても機能しはじめる。たとえば、地代や租税などが、現物による納付から貨幣による支払いに転化してゆく。この「現物納付から貨幣支払いへの転化」という現象が、生産過程の発展度合いに、いかに強く規定されるものであるかということを、マルクスはつぎに指摘している。

この転化が生産過程の総姿態によってどんなに強く制約されるかは、たとえば、あらゆる公課を貨幣で取り立てようとしたローマ帝国の試みが二度にわたって失敗したことで証明されている。……ルイ14世治下のフランス農民の途方もない窮乏は、重税のせいだけではなく、現物税から貨幣税への転化のせいでもあった。他面、地代の現物形態がアジア――そこではそれが同時に国税の主要な要素である――では自然諸関係と同じような不変性をもって再生産される生産諸関係にもとづいているとすれば、この支払形態は反作用的にこの旧来の生産形態を維持する。それは、トルコ帝国の自己維持の秘密の一つをなしている。もし、ヨーロッパによって押しつけられた対外貿易が、日本において現物地代の貨幣地代への転化をもたらすならば、日本の模範的な農業もおしまいである。その狭い経済的実存諸条件は解消されるであろう[154-5]

当時の日本をめぐる情勢

ここで突然日本国の名前がでてくるのだが、『資本論』第1部初版刊行の年1867年当時、日本はちょうど「大政奉還」がなされた年であった。ペリー来航、いわゆる黒船騒動が1853年。1858年にはかの「日米通商条約」が結ばれている。ここにいたって、植民地、あるいは半植民地、または従属国、またその他のさまざまな形態で、ほぼ地球全土が資本主義の渦中にのみこまれた時代だった。日本は当時、「日米通商条約」という、治外法権を認めさせられ、関税自主権を認められず、事実上の外国領土を国内に認めさせられるという、不平等条約をアメリカとむすんでいたが、これと同じ内容の条約を、オランダ、ロシア、イギリス、フランスなど、当時のヨーロッパ列強諸国とも結んでいた。日本が、半植民地市場として、欧米資本主義に従属させられようという、これまでの歴史上、まれにみる危機的状況を迎えていた。

当時、江戸市中においては“ええじゃないか”などの庶民の騒動が発生していたが、私がたいへん感動した事件が対馬をめぐる対馬島民の英雄的な自発的行動が、当時行なわれていたということだ。かなり長い引用になるけれども、ここにその事件の概要を紹介したい。

中国はアヘン戦争で香港をイギリスに奪われたが、日本でも貿易の開始と同じころ、半植民地化の危機に直面していた。それを克服したのも無名の庶民であった。

1861(文久元)年2月3日、艦長ビリレフ以下360人をのせたロシアの軍艦ポサドニック号が、鑑の修理を口実として、対馬の尾崎に来航し、ついで芋崎に上陸し、建物や井戸など永住の施設をつくりはじめた。かれらはロシアの海軍大臣コンスタンチン大公の指示のもとにこの島に海軍基地をつくるつもりで来たのである。対馬は朝鮮海峡にのぞみ、日本海と東シナ海を制圧する要衝の地である。ビリレフは、対馬藩にたいし、芋崎周辺の土地の租借、外国からの対馬防衛の約束、軍事指導の提案など、対馬を事実上ロシアの保護領にする12カ条の要求をだした。

かれらの言い分によれば、英・仏両国が対馬を共同の海軍基地とすることを決定したので、その先手をうって対馬を保護防衛するのだという。事実、イギリスの函館領事ホジソンは、対馬を「極東のペリム島」(紅海の入口にある英海軍基地)にすべきであるといい、イギリス駐日公使オールコックも「もし露鑑が同島の退去をこばむなら、英国自身がこれを占領すべきである」と本国に上申していた。

対馬藩主宋義知は、ビリレフらの動静を幕府に報告していたが、幕府は何の対策もたてられず、6月8日にはじめて長崎奉行所の役人が対馬にきて、その6日後に幕府外国奉行小栗忠順がビリレフに退去交渉にくるという対応の遅さである。

その間に現地のロシア兵は、島内各地を測量し、木材、食糧などを略奪した。この暴挙に島民はがまんできなかった。ロシア兵のボートが大船越というところを通過しようとしたので、村民は石や木材を投げて抵抗した。とくに安五郎という百姓は、勇敢に戦ったので、狙撃されて即死した。他に二人が捕らえられた。人民が殺されたという報せは、全島民に衝撃をあたえた。老人や女子を疎開させ、男子は猟銃などで武装して警備隊をつくった。肥前の田代にあった対馬藩の飛地からも、郷士や青年300人あまりが海を渡ってかけつけた。

この戦いのさなかに来島した小栗忠順は、ビリレフの要求する藩主との会見を許可して対馬を去った。やむなくビリレフと会見した藩主は、儀礼的な面会だけにとどめ、ロシアの要求は、島民の戦いにはげまされてあくまで拒否した。しかし、その藩主も幕府にたいして、対馬の代わりの土地に転封させてほしいと願い、対馬を見かぎっていた。

その間に、イギリスの駐日公使オールコックはイギリス東インドシナ艦隊の軍艦2隻を対馬に派遣して、ロシアの対馬占領に抗議した。ポサドニック号が対馬を退去したのは8月15日である。この英鑑の干渉による露鑑の退去まで、対馬が独立を守りぬくことができたのは、それまでのねばりづよい対馬島民の英雄的な戦いであった。

【加藤文三氏著『日本近現代史の発展 上』新日本出版社(24-25ページ)】

支払期限

たとえば、日本では“盆暮勘定”という言葉があるけれども、月末から月の初め、そしてとくに年の暮れや年度の終わりなどに、さまざまな決済が集中する。マルクスの指摘を読んで、なるほどと思ったのだが、こういう支払期限というものは、それぞれの国の季節の周期や、慣習などによって、多少のちがいがあるものなのだった。たとえば、アメリカの事業所を舞台にしたラブコメディなどで、クリスマス・イブ休み直前の様子が描かれているのを観たことがあったけれども、あちらでは日本でいう年の暮れが、12月23日にあたっているようだ。そして、決済が集中するこのような時期には、一時的に、貨幣が支払手段として大量に実体化する必要にせまられる。しかし、これがまったく表面的な攪乱であって、さきにマルクスが指摘した「貨幣恐慌」とは事情が異なるということを注(106)でマルクスが例証している。

1826年の議会の調査委員会でクレイグ氏は次のように述べている。「1824年の聖霊降臨節の月曜日に、エディンバラでは銀行券にたいする莫大な需要が生じたので、11時にはわれわれの手もとにはもはや1枚の銀行券もなかった。われわれは、ほうぼうの銀行につぎつぎに使いをとばして借りようとしたが、手に入れることはできなかった。多くの取り引きはやっと“書きつけ”によって清算されえただけだった。ところが、午後3時になると、もう全部の銀行券がそこから出ていった銀行にもどってきたのである。これらの銀行券は持ち手を変えたにすぎなかったのである」。スコットランドにおける銀行券の実際の平均流通高は、300万ポンド・スターリングを割っていたにもかかわらず、1年のうち何回かの支払期限日には、銀行の保有するすべての銀行券、つまり全部で約700万ポンド・スターリングの銀行券が残らず動員される。こうした場合、銀行券はただ一つの独特な機能を果たさなければならないが、いったんこの役割を果たしてしまえば、そこから出ていった各銀行に流れ帰るのである【ジョン・フラートン『通貨調節論』、第2版、ロンドン、1845年】[156]

支払手段の通流速度にかんする法則の帰結として、どんな起源をもつ支払いであろうと、すべての周期的支払いにとって必要な支払手段の総量は、諸支払期間の長さに正比例する[156]

支払手段としての貨幣の発展は、負債額の支払期限のための貨幣蓄積を必要とさせる。自立的な致富形態としての蓄蔵貨幣形成がブルジョア社会の進展とともに消失するのにたいして、支払手段の準備金の形態をとる蓄蔵貨幣形成はブルジョア社会の進展とともに逆に増大する[156]

これで、“成金趣味”という言い回しがジェントルマンにとって侮蔑的な言葉だということの意味がわかったような気がする。エジプトやチグリス(Tigris)・ユーフラテス(Euphrates)などの古代文明に特有の黄金の出土品、ラテン・アメリカ地域のインカ(Inca)、アステカ(Azteca)などの文明にも黄金文化が存在したけれども、当時の生産力が、今日の資本主義世界の生産力とは桁違いに低かったことと、黄金蓄積の程度の差との関係が、この一連のマルクスの指摘でわかったような……。なかには金丸何某などのように、金庫に金の延べ棒を後生大事にしまっておいた方もいらっしゃったようだが。

c 世界貨幣

貨幣は、国内の流通部面から外へ歩み出るとともに、国内の流通部面で成長する価格の度量基準、鋳貨、補助鋳貨、および価値章標という局地的諸形態をまた脱ぎ捨てて、貴金属のもともとの地金形態に逆もどりする……世界市場においてはじめて、貨幣は、その自然形態が同時に“抽象的”人間的労働の直接的に社会的な具現形態である商品として、全面的に機能する[156]

当時の世界経済事情を反映して、マルクスはこう続けている。

世界市場では、二重の価値尺度、金と銀とが、支配する[157]

エンゲルスは、注(108)の追記のなかで、実際に金本位の国と銀本位の国が併存する時代から、ゆくゆくは、世界市場においても金本位へとすすんでゆくだろうということを展望している。それは、マルクスがイギリスの貨幣制度の歴史を分析し、二重の価値尺度の存在の矛盾が克服される過程を展望したのと同じ理由であるが、エンゲルスの場合は、金と銀とのそれぞれの生産方法の技術革新、あるいは新たな銀鉱脈の発見や金の精錬方法の改革の、その後の実際の進展状況にもとづいている。

金を生産する労働はむしろ増大したのに、銀を生産する労働は決定的に減少したのであり、したがって、銀の価値低下はまったく当然のことである。この価値低下は、銀価格がいまもなお人為的な手段によってつり上げられていなかったとすれば、もっと大きな価格低下として表現されたであろう。だが、アメリカの銀埋蔵量はやっとその小部分が採掘できるようになっただけであるから、銀の価値がまだかなり長い間にわたって低下しつづけるという見込みが十分にある……むしろ、銀は、世界市場においても、その貨幣資格をますます失うであろう[157]

世界貨幣としての機能

世界貨幣は、一般的支払手段、一般的購買手段、および、富一般(“普遍的富”)の絶対的社会的物質化として機能する。国際収支の差額を決済するための、支払手段としての機能が、優先する[157]

どの国も、その国内流通のために準備金を必要とするように、世界市場流通のためにも準備金を必要とする。したがって、蓄蔵貨幣の諸機能は、一部は国内の流通手段および支払手段としての貨幣の機能から生じ、一部は世界貨幣としての貨幣の機能から生じる。このあとのほうの役割においては、つねに、現実の貨幣商品、生身の金銀が必要とされる[158-9]

貨幣材料の世界市場における運動

一面では、その流れは、その産源地から世界市場の全体に広がり、そこにおいてさまざまな国民的流通部面によってさまざまな規模で引き入れられ、それらの国の国内通流水路にはいり、摩滅した金銀鋳貨を補填し、奢侈品の材料を提供し、また蓄蔵貨幣に凝結する。この第一の運動は、諸商品に実現された国民的労働と貴金属に実現された金銀産出諸国の労働との直接的交換によって媒介されている。他面、金銀は、さまざまな国民的流通部面のあいだを絶えず往復する。これは、為替相場のやむことのない動揺のあとを追う運動である[159]

蓄蔵貨幣は最小限にまで制限される

ブルジョア的生産の発展している諸国は、銀行という貯水池に大量に集積される蓄蔵貨幣を、その独自な諸機能のために必要とされる最小限にまで制限する。一定の例外をのぞけば、蓄蔵貨幣の貯水池がその平均水準を超えて目立ってあふれるということは、商品流通の停滞か、または商品変態の流れの中断をさし示すものである[160]



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