ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第3章 『プラウダ批判』〜「音楽のかわりに荒唐無稽」

 
          Pravda

 

 1936年1月26日、スターリンがボリショイ劇場で上演されたショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を観に行った際、第3幕の途中で席を立ったことが知られています(このオペラは全4幕9場)。そのわずか2日後の28日、ソ連共産党中央委員会機関紙『プラウダ』が、「音楽のかわりに荒唐無稽」と題してショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を批判したのでした。このオペラは2年前の1934年1月22日にレニングラードのマールイ劇場で初演されていて、1936年1月までの2年間でレニングラードで83回、モスクワで97回もの上演を記録するほど好評を博した作品でした(後註2)。

 この1月26日の状況について、ショスタコーヴィチの助手だったレフ・アトヴミャーンによると、ショスタコーヴィチが演奏ツアーに出かけようとしていたその日の晩に劇場から電話がかかってきて『マクベス夫人』を上演しているボリショイ劇場に来るようにと要請されたということがわかっています。その時、ショスタコーヴィチは今晩演奏旅行に出発するので難しいと応え、アトヴミャーンに代わりに劇場に行って欲しいと頼んだとしています。劇場に出掛けたアトヴミャーンはその時の様子を次のように語っています。

 「劇場に着くと、その晩のオペラにはスターリンを含む政治局員が数人来ていたことが分かりました。公演は順調に進んでいたのですが、カテリーナの結婚シーンの直前のオーケストラによる間奏曲で、演奏者(特に木管楽器と金管楽器のグループ)は夢中になって大音量で演奏していました。そればかりかその日のバンド群は増員されていて、しかも金管楽器セクションは政府高官達のボックスのすぐ下にいたのです。監督席をちらっと見るとショスタコーヴィチが入ってくるのが見えました。第3幕が下りるとショスタコーヴィチはステージに上がって喝采を受けましたが(*)、顔面は蒼白で、お辞儀をするとそそくさと舞台袖に引っ込みました。ショスタコーヴィチはバックステージで私に『レフ、さぁ急ごう。電車に間に合わせないと。』と言いました。ショスタコーヴィチは駅に向かう途中、どうしても落ち着くことができず、イライラしながら『何故バンドを騒音のレベルにまで誇張する程に増員する必要があったのだ?(中略)政府高官席にいた人たちは金管楽器の音量に耳を塞がれたに違いないと思う。これには嫌な予感がする。今年は閏年だから、いつも通りの幸運が訪れるはずなのに。』としゃべり言い続けたのです( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.127-8 )。」
*第3幕の後というのはアトヴミャーンの記憶違いで、実際は最終幕(第4幕)の後だったとされています。ショスタコーヴィチのソレルチンスキーへの手紙(1月28日)には「全曲の幕が下りて私はステージに上がって観客にお辞儀をした。後悔しているのは、第3幕が下りた後にそうしなかったことだ。」と書いているからです。つまり、スターリンらが帰る前にそうしなかったことを悔いていたということになります。
*レフ・アトヴミャーンは交響曲第4番のスコア復元の際に再度登場します。

 また、その時ショスタコーヴィチと同じボックスに座っていたテノール歌手のセルゲイ・ラダムスキーは次のように語っています。

 「スターリン、ジダーノフ、ミコヤンがオーケストラ・ピットの右側にある政府高官のボックス席に座っていました。そこはちょうど金管と打楽器とセクションの真上でした。そのボックス席はピットからのいかなる暗殺行為からも守られるよう鋼鉄で装甲されていました。ショスタコーヴィチ、メイエルホリド、アフメテリと私は彼らとは反対側のボックスに座っていてそこからはスターリンの姿は見えませんでした。スターリンは観客の好奇の目を避けつつ舞台を観ることができるようにカーテンの後ろに座っていたのです。ジダーノフとミコヤンが金管と打楽器がフォルティッシモで演奏する度に肩を揺らし、笑いながらスターリンに振り向いていたのが我々の席からも見えました。ショスタコーヴィチはこの「三人組」が笑い転げる様子を見て、私たちのボックス席の奥に隠れ、両手で顔を覆っていました。彼はひどく動揺していました( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.128-9 )。」

劇場側は臨席したスターリンからお褒めの言葉を与かろうとショスタコーヴィチを劇場に呼び寄せたにもかかわらず、スターリンは最後まで観ることなく途中退出してしまったのです。これによって劇場は蜂の巣をつついたような騒ぎになったことは想像に難くありません。その後このオペラはレパートリーから外され、以後20年以上にわたり事実上の上演禁止となったのでした。

 この2日後の『プラウダ』に掲載された「音楽のかわりに荒唐無稽」と題された記事は、日本語に訳すと400字詰め原稿用紙5枚強、日本の一般紙1面の約1/6くらいのスペースを占めるくらいの比較的長文とも言えるものです。ロシア語の原文を読んだわけではないので正確ではないかもしれませんが、英訳文を見た限りでは、その文調は比較的穏やかで、激しく糾弾するようなものではありません。しかし、後の1948年に発せられたジダーノフ批判がソヴィエトの主要作家や作曲家を対象としたのとは異なり、『プラウダ批判』はショスタコーヴィチの歌劇『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のみを標的としたものでした(*)。ショスタコーヴィチの他の作品については全く言及していません。また、原作者ニコライ・レスコフは「原作に本来持っていない意味を付与された」と擁護し、出演者も「ドラマチックな演技で旋律の弱さを際立たせようとした」と褒めています。なお、ショスタコーヴィチの名前は「ショスタコーヴィチのオペラ」という言い方で3回登場します。
*あくまで文面上ということで、実質的にはショスタコーヴィチだけでなく多くの音楽家に対するメッセージとするのが一般的な解釈となっています。


『プラウダ批判』に書かれていること
 「人々は良質な歌曲だけでなく、良質な器楽作品、そして良質なオペラも期待している。」という書き方で始まるこの『プラウダ批判』の訳の一部を抜粋してご紹介します。

 「最初の1分から、聴き手は意図的な不協和音と、混乱した音の流れに衝撃を受ける。メロディーの断片、音楽フレーズの始まりがかき消され、再び現れ、軋みと甲高い轟音の中に消え去る。この “音楽” を追うのは至難の業であり、記憶に留めるのは不可能だ。オペラのほぼ全編を通して、この調子が繰り返される。舞台上の歌声は叫び声に取って代わられる。

 誰にでも理解しやすいシンプルでポピュラーな音楽言語と共通するものも一切排除し、意図的に裏返しにされたものだ。

 『マクベス夫人』の作曲家は、登場人物のキャラクターに“情熱”を与えるために、ジャズの神経質で痙攣的、突発的な音楽を借用せざるを得なかった。音楽評論家を含む批評家たちは社会主義リアリズムの名を掲げているが、ショスタコーヴィチの作品における舞台は、最も粗野な自然主義を私たちに提供している。

 これらすべては粗野で、原始的で、俗悪だ。音楽は、愛の場面を可能な限り自然に表現しようと、甲高い声、唸り声、うなり声、そして息苦しさを帯びている。

 彼は、ソヴィエト人の生活のあらゆる場所から粗野さと野蛮さを排除するというソヴィエト文化に求められるものを無視した。

 『マクベス夫人』は海外のブルジョワ層の間で大成功を収めている。彼らがこのオペラを賞賛するのは、政治的要素がなく、難解だからではないだろうか。それとも、落ち着きがなく神経質な音楽がブルジョワ層の倒錯した嗜好をくすぐるからではないだろうか。( ARNOLD SCHALKS INTERNET ARCHIEF )」


 この批判を見る限りでは、言わんとすることはわからないではなく、確かに『マクベス夫人』の音楽の一面をよく捉えていることは事実です。しかし、この記事にはソヴィエトが求める正しい音楽がどういうものかということについては行間に匂わす程度しかありません。

 『プラウダ批判』では、『マクベス夫人』に対して「粗野、原始的、俗悪、粗野な自然主義、ブルジョワ」という形容を使っています。「形式主義」という単語は2回、「ブルジョア」は3回出てきますが、ショスタコーヴィチの音楽が「形式主義」ないし「ブルジョア」とは決めつけてはいません。つまり、ソヴィエト共産党の『プラウダ』紙の記事にしてはひとつのオペラに対する単なる演奏会のレビューでしかなく、他の作曲家の作品にまで言及したり音楽界に重大なメッセージを発信したりするような文言は入っていないのです。正直なところ、作品の問題点の多くを並べることに終始しているため焦点の定まらない、よほど注意深く読まないと批判の根拠が見えてこないという印象を受けます。こういう書き方こそがこの時代(現在も?)の共産党独裁政権下におけるプロパガンダ的な文章の典型例なのかもしれません。

 しかし、ソロモン・ヴォルコフの『ショスタコーヴィチの証言』によると、この記事はスターリン自身が書いたものとショスタコーヴィチは信じていたとされています。スターリンがショスタコーヴィチの『マクベス夫人』を観に行って途中退出した2日後の記事という事実だけで、そこに根拠や理由があろうとなかろうと、スターリンの絶対的な指示であることは明確で、ショスタコーヴィチのみならずすべての音楽家を怯え縮み上がらせるのには十分な効果があったことは間違いありません。

 なお、この記事には署名がないため長い間執筆者探しの論争がありましたが、近年の研究によると、著者は野心的なジャーナリスト、ダヴィド・ザスラフスキーであったことがわかっています。ザスラフスキーはスターリンを含む党首脳部の意見を忠実に代弁していたとされています。文章の内容はある程度音楽に精通した表現が見られますので、ザスラフスキーに音楽の造詣がなかったとしても音楽関係者から情報を得て書いたものと想定されます。


『プラウダ批判』の背景と真の目的
 この『プラウダ』の紙面を飾った「荒唐無稽」という日本語訳にはやや違和感を覚えるのですが(後註3)、客席にいたスターリンが呟いた言葉をそのまま引用したのではないかと推測されます。しかしこの記事の全文はスターリンの気まぐれ発言から急遽仕立てられたものではなく、当時もてはやされるようになってきた若手作曲家の音楽の中に、スターリンがめざす共産国家の根本思想を揺るがしかねない何かを感じ取っていたからではないでしょうか。しかし、それを明示して論理的にショスタコーヴィチの音楽を糾弾する代わりに「粗野で、原始的で、俗悪」であるという文章に止めたのは、この時点ではまだ音楽における形式主義とはどんなものかという定義づけはなされていなかったと考えられるのです。確かにこの『プラウダ批判』の中では、「粗野さと野蛮さを根絶するというソ連文化の要請を、彼は無視した」と書いてはいるものの、ショスタコーヴィチを明確に形式主義者と断罪してはいないのです。この見方は、次のローレル・E.・ファーイの指摘からも窺うことができます。
*「形式主義」:後のジダーノフ批判(1948年)における「反形式主義運動」、「反コスモポリタニズム」で明らかになった批判対象で、芸術のための芸術を標榜し、より大きな社会の目的に貢献しない、役に立たない音楽のこと。

 「マクベス夫人への攻撃は、形式主義についての議論が巻き起こった初めての事例ではありませんでした。ソヴィエトの音楽家たちはかねてから、他の芸術分野の同業者たちと同様に、社会主義リアリズムの美的理念を口先だけで唱えてはいました。しかし音楽に関しては、その概念の意味するところが十分理解されていませんでした。そのことは音楽家や批評家の大多数が揃いも揃って、『マクベス夫人』をソヴィエト芸術の最高峰の輝かしい模範として推奨していたことからもよくわかります(“Shostakovich: A Life” by Laurel Fay p.87-88)。」

 また、ロシア出身のヴァイオリニストであり音楽者でもあったボリス・シュワルツは『ソヴィエト・ロシアにおける音楽と音楽生活、1917-1970年』において次のように述べています。

 「彼(ショスタコーヴィチ)はレスコフの古典短編小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を、社会批評的な色合いを帯びた心理劇へと作り変え、そこに現代的なヴェリズモの音楽を加えることで、その独立精神を示しました。その音楽は、熱烈で、粗野で、風刺的で、情熱的なものでした。ソヴィエトの批評家たちは、このオペラのより刺激的な側面のいくつかを嘆きながらも、1932年4月23日の “歴史的法令” に述べられているように、それを “社会主義建設の全般的な成功、党の正しい政策の結果” と見なしました( “Music and Musical Life in Soviet Russia Enlarged Edition, 1917–1981” by Boris Schwarz )。」

 この“歴史的法令”とは、ソヴィエト共産党の中央委員会決議「文学・芸術団体の改組について」を1932年4月23日に発出して既存の芸術団体を解散させて作曲家同盟の組織化し、党・政府の管理強化を図ったものです。さらに、1934年8月には第1回全ソ作家大会が開催され、ソヴィエト連邦作家同盟が発足してスターリンが提唱した『社会主義リアリズム』を公式の創作方法として掲げたのでした。しかし、その時点ではショスタコーヴィチの『マクベス夫人』は「社会主義建設の全般的な成功、党の正しい政策の結果」と称賛されていたのでした。

 では、ショスタコーヴィチの音楽の何が共産国家の根本思想を揺るがしかねないのでしょうか。ボストン交響楽団のホームページにある『ムツェンスク郡のマクベス夫人』のプログラム・ノートにも次のように書かれています。

 「ショスタコーヴィチへの攻撃は、スターリンの文化政策の根本的な転換を告げるものでした。スターリンは『社会主義リアリズム』の旗印の下、あらゆる芸術活動分野における絶対的な権力を強化しようとしていました。ソヴィエト当局はまた、このオペラが権威と家父長制による抑圧を風刺的に攻撃していることが、様々な解釈が可能であり、当時のソヴィエト社会の現実に対する婉曲的な批判としてさえ解釈できることを理解していました。(ボストン交響楽団ホームページ “Lady Macbeth of Mtsensk“ by Harlow Robinson )」

 つまり、スターリンが「あらゆる芸術活動分野における絶対的な権力」を強化するために、危険思想の芽を摘むことを具体的に開始したのが、まさにショスタコーヴィチのオペラにおいてだったということになります。そしてその弾圧の根拠となる形式主義という考え方をこの事件を契機に整えていったのだと考えられます。では、たまたまこのオペラの客席にいたスターリンがその危険思想に気づいたということなのでしょうか。ボリス・シュワルツは前掲書でさらに次のように書いています。

 「スターリンは現代のソヴィエト・オペラについても独自の考えを持っていました。彼は、社会主義的なテーマを扱った台本、国民的表現を重視した写実的な音楽言語、そして新しい社会主義時代を象徴する肯定的な英雄など、望ましい基本的な属性を挙げました。これらの基準は、1936年1月17日の会議でオペラ専門家のグループに提出されました。同じ夜、スターリンはソヴィエト連邦人民委員会議議長ヴャチェスラフ・モロトフと教育人民委員アンドレイ・ブブノフに同行し、ミハイル・ショーロホフの有名な小説に基づいた、若手作曲家イワン・ジェルジンスキーのオペラ『静かなドン』の公演を観劇しました( "Music and Musical Life in Soviet Russia: Enlarged Edition, 1917–1981" by Boris Schwarz )。」

 このスターリンが『マクベス夫人』のオペラを観に行った日の9日前の1月17日にも別のオペラも観に行っていたという事実に注目しなければなりません。そのオペラとは、イヴァン・ジェルジンスキー作曲の歌劇『静かなドン』でした。終演後、スターリンは非常に満足し、作曲者と演出家と直に膝をまじえて「理念的にも、政治的にも著しい価値ある上演」とこれを褒めそやしたのでした。さらに重要なのは、そのスターリンのコメントが広く報道されたということなのです(『驚くべきショスタコーヴィチ』 ソフィヤ・ヘーントワ著 p.11 )。

 英雄的で愛国的なドン・コサックの精神を称えるこのオペラこそ、スターリンにとってまさに戦争の際に必要なものであり、そのいわばプロパガンダ的価値を見出された『静かなドン』は社会主義リアリズム路線に沿ったソヴィエト・オペラの模範として公式に認められ、ジェルジンスキーは後にスターリン賞を授与されています。スターリンがこれら2つのオペラを続けて観るということは十分に練られた筋書に沿って行われたということが推測されます。批判すべきオペラと褒めるオペラを周到な調査の元に選択し、鑑賞した後に何を言うか、そしてどの辺で退出するかも決まっていたと考えられます。こうしてソヴィエトにとって正しい音楽はこの『静かなドン』であり、『マクベス夫人』は間違った音楽であることをわかりやすく世に知らしめたことになったのです。

 なお、スターリンが賞賛した『静かなドン』は現在では一部の合唱曲を除いてほとんど演奏されていないようです。ジェルジンスキーはショスタコーヴィチの3歳年下の作曲家で、この作品はショスタコーヴィチの助言を得て完成されたとのことです。ジェルジンスキーはこの『プラウダ批判』の後にショスタコーヴィチを擁護していますので、両作曲者間に確執があったとは考えられないので、おそらく作曲者たちの与り知らないところで賞賛と非難の選別が行なわれたのでしょう。なお、ショスタコーヴィチがスターリン賞を授与されたのは交響曲第7番のときでした(ショスタコーヴィチ:交響曲第7番『レニングラード』参照)。


第二の攻撃〜バレエ『明るい小川』
 1月28日の『プラウダ批判』から9日後の2月6日に、追い打ちをかけるように『プラウダ』紙は「バレエの偽善」という匿名の論説でショスタコーヴィチのバレエ『明るい小川』を酷評します。この1年前の1935年に初演されたバレエ曲は、コルホーズの農民たちと芸術家たちとの出会いや相互理解をテーマとしていて、題名通り明るく平明な音楽に満ちた作品に仕上がっていました。初演後の批評も悪くなく、観客からもある程度好評を持って迎えられたものでした。しかし、1年たったこの時期に次のように批判されたのでした。

 「集団農場の生活をよく知りもせずに非現実的な描写を行ったとして、糾弾されていた。また、そのバレエに信憑性を与えたであろう、民謡、遊び、踊りを傲慢にも避けていると批判された。『明るい小川』の音楽が『マクベス夫人』のそれに比べて、耳障りでも不自然ではないことは認められたが、それが集団農場ともクバン地方とも共通点をまったくもたないこと、そして、作曲家が自分の工業に関するバレエ『ボルト』の音楽を再利用したことが、大失敗のもとであるとみなされた(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 p.120)。」

 先に述べたように、『マクベス夫人』に対する批判記事はその音楽の一面をよく捉えている文章であったのに対して、『明るい小川』を実際に聴いてみると「民謡、遊び、踊りを避けた音楽」という言い方が今ひとつピントずれているように思われます。これに先立つバレエ音楽の『黄金時代』(1930年)と『ボルト』(1931年)が初演後直ぐに上演禁止になったことからショスタコーヴィチは次の作品では意図的にシンプルなメロディー、ハーモニー、リズム、色彩を取り入れたとされているのです。現在の評価では「ショスタコーヴィチらしさに欠ける」と言われてもおかしくない音楽に対して、この批判記事が『ボルト』の痕跡の指摘するのはこじつけの感が拭えません。
 
 『マクベス夫人』に対する「音楽のかわりに荒唐無稽」の記事では原作者や出演者は擁護しているのに対し、ここではバレエの台本にも非難を浴びせています。このバレエの台本の共同執筆者のひとりであるエイドリアン・ピオトロフスキーという劇作家がこの1年後に逮捕されて死刑判決を受け、4ケ月後に銃殺されたという事実があり、この『プラウダ』紙の「バレエの偽善」の記事はピオトロフスキーを陥れるために書かれたという見方もできるかもしれません。劇作家として劇場や教育現場で活躍していたピオトロフスキーは、1930年代から「形式主義者」と批評家やライバルから攻撃されていたとも言われています。なお、ピオトロフスキーはプロコフィエフのバレエ『ロミオとジュリエット』の台本作成にも関与していたことでも知られていて、『ロミオとジュリエット』がその後なかなか初演できなかったことを考えると、その裏にも何かがあったのではないかとも推測されます。

 スターリンお墨付きの『プラウダ批判』の花火が打ち上げられてしまうと、ショスタコーヴィチの他の作品を批判しても誰も文句は言わないという構図ができあがったとも考えられます。このことは、ショスタコーヴィチの劇場での活躍を快く思っていなかった勢力にとっては千載一遇のチャンスとなり、彼の作品に対して攻撃を始めたのではないでしょうか。しかも、その攻撃の本命は同じく劇場で活躍するピオトロフスキーであったということが、この「バレエの偽善」という論説における説得力に欠ける音楽批判と何故か台本に対する批判から見えてくるのです。ショスタコーヴィチはこれ以降、オペラとバレエの作曲からは手を引くことになります(例外的に3作あります)。
*バレエ『お嬢さんとならず者(1962年)』:過去の自身のいくつかのバレエ作品をレフ・アトヴミャーンが編集再構築したもの。
*歌劇『賭博師』(1941年):未完。
*歌劇『カテリーナ・イズマイロヴァ(1963年)』:『マクベス夫人』の改作。


ショスタコーヴィチの動揺
 この『プラウダ批判』が掲載されたときショスタコーヴィチは地方での公演にでかけていました(*)。この記事を読んだショスタコーヴィチは、友人のイサーク・グリークマンに新聞の切り抜きサービスに契約するよう大至急で依頼しています。この時から関連記事のスクラップブックを作り始め、1ケ月もたたないうちに78ページもあるその1冊目を使い切ったとされています。いかに自分の音楽に関わる多くの記事が紙上をにぎわしていたか、そしていかにショスタコーヴィチがその内容に神経を尖らせていたかがわかります。
*地方公演:ロシア北西の白海沿岸にあるアルハンゲリスクという都市。レニングラードから現在の電車でも24時間近くかかります。ヴィクトル・クバツキーと共にピアノ協奏曲第1番とチェロ・ソナタを演奏するツアーに出ていました。

 イサーク・グリークマン(1911–2003)は、ソヴィエト連邦の文芸評論家、演劇評論家、台本作家、脚本家でした。レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の大衆教育ユニットで事務職員として働いていた1931年にショスタコーヴィチと初めて出会い、その後終生の親友となっていますが、この時のことを次のように語っています。

 「モスクワやレニングラードで起きたことをおうむ返しするように、主要都市の音楽界は『マクベス夫人』だけでなく、ショスタコーヴィチのほぼすべての作品に非難の声を上げ始めました。スクラップブックの最初のページには、プラウダ紙の記事が鮮やかに輝いていました。私がそれは自己満足的なマゾヒズムだとショスタコーヴィチを非難すると、彼は無表情でこう答えました。「そこに書いてあるはずだ、そこに書いてあるはずだ」と。スクラップブックはすぐに切り抜きでいっぱいになりましたが、ショスタコーヴィチはたいてい何も言わずにそれらを読んでいました( “Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Appendix2 p.214 )。」
*ショスタコーヴィチのこの発言を説明する文はありませんが、「そこに何がいけないのかが書いてあるはずだ」と解釈しました。

 しかし、新聞紙上で記事が踊っていたにもかかわらず、スターリンが『マクベス夫人』に腹を立てた後に『プラウダ紙』で批判が掲載されたというだけで、ソヴィエト共産党や芸術問題委員会から正式な通達も何もなかったとされていて、ショスタコーヴィチは何をどうしたらいいかわからなかったのでした。

 アンディ・マクスミスによると、『プラウダ批判』が掲載された10日後の2月7日にショスタコーヴィチは地方公演の帰路モスクワに立ち寄り、プラトン・ケルジェンツェフに助言を求め、大衆に理解しやすい、よりシンプルな音楽を作曲するよう指示されています( Fear and the Muse Kept Watch by Andy McSmith p.174-175 )。ローレル・E・ファーイもそれに加えて、ケルジェンツェフは、「作曲家としての根本的な能力を疑うことはなかったが、攻撃にさらされたショスタコーヴィチに対する忠告を公に示した。」として次のようにケルジェンツェフの演説を引用しています。

 「彼(ショスタコーヴィチ)の作品は、今何よりもまず、我が国に数多く存在する民謡をその出発点にすべきである。ショスタコーヴィチにとって、リムスキー=コルサコフをお手本にすることは嫌なことではないはずだ。(中略)ショスタコーヴィチは全ソ連邦を旅して、ソ連邦の諸民族の音楽伝承の豊かな鉱脈に馴染むべきである。(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 p.119)。」

 このプラトン・ケルジェンツェフは、『プラウダ批判』の11日前の1936年1月17日に芸術問題委員会議長に就任し体制による芸術支配を推進させた人物で、外交官、歴史家、劇作家、演劇・芸術理論家としても知られていました。芸術問題委員会は後に文化省となります。なお、このケルジェンツェフ議長はプロコフィエフの名作バレエ『ロメオとジュリエット』の結末をハッピー・エンドにするかどうかをめぐる論争の中で指導的役割を果たした人物のひとりとして音楽史にその名を留めています。また、このバレエ曲が1935年に作曲が完了していたにもかかわらず5年も初演できなかったことも、ケルジェンツェフの命令で行われたボリショイ劇場のスタッフの刷新が原因という説もあります。なお、ケルジェンツェフはこの『プラウダ批判』のわずか2年後には失脚しています。

 エリザベス・ウィルソンは、ショスタコーヴィチがケルジェンツェフに会った時にミハイル・トゥハチェフスキー元帥も一緒にいたとして次のように書いています。トゥハチェフスキーはショスタコーヴィチのパトロンとされていたため、救いを求めたショスタコーヴィチをトゥハチェフスキーがケルジェンツェフに一緒に連れて行ったとみるのが自然かもしれません。

 「レニングラードに戻る前に、ショスタコーヴィチはモスクワに立ち寄って党からの批判にどう対処すべきか、芸術問題委員会議長のP・ケルジェンツェフとトゥハチェフスキー元帥に相談しました。ケルジェンツェフはショスタコーヴィチに『誤りを認めること」が最善の策だと助言し、トゥハチェフスキーはショスタコーヴィチに代わってスターリンに手紙を書きました。トゥハチェフスキーは当時、強力なパトロンであったように思われましたが、わずか1年後に逮捕され、翌1937年の夏に人民の敵として銃殺されました。その直後、ショスタコーヴィチのもう一人の親しい友人である音楽学者ニコライ・ジリャエフがトゥハチェフスキーとの関係を理由に逮捕されました( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.145 )。」

 おそらくこのエリザベス・ウィルソンの記述は、グリークマンの書簡集(“Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips)を元にしていると思われますので、その一部をご紹介します。

 「(演奏旅行とモスクワ訪問から戻った)彼は一度もその驚異的な控えめさを失うことはありませんでした。感情を爆発させることも、苦悩のため息をつくことも、怒りの不満の声をあげることもありませんでした。帰宅後、ショスタコーヴィチはほとんど何も語りませんでしたが、文化委員会委員長プラトン・ケルジェンツェフ、そしてミハイル・トゥハチェフスキー元帥との会談については話してくれました。彼らから言われたことで、プラウダ紙の社説が下した判決を変えるようないかなる要求や抗議も不可能であることを彼ははっきりと理解しました。いずれにせよ、ショスタコーヴィチはそのような要求や抗議もしませんでした。非常に教養があり礼儀正しい人物であったケルジェンツェフは、ショスタコーヴィチに残された唯一の道は、歌劇『マクベス夫人』を作曲する際に若さゆえの奔放さが過ちを招いたということを公に認めることであると主張したのでした( “Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Appendix2 p.215 )。」


 ケルジェンツェフに会ってからレニングラードに戻ったショスタコーヴィチはスターリンに謁見を申し込んでいたとされていますが、それは実現しなかったようです。自作のオペラが「粗野で、原始的で、俗悪」と批判され、「民謡を出発点にすべき」と言われたショスタコーヴィチはどうしたらいいのか、はっきりした回答が欲しかったと考えられます。しかし、当時の関係者の中で正解を持っていた者は誰もいなかったと考えられます。先にローレル・E・ファーイが「音楽おける社会主義リアリズムの概念の意味するところが十分理解されていなかった」と述べたように、芸術問題委員会のトップですら「民謡をその出発点にすべき」というアドヴァイスしかできなかったのです。

 現在の研究においてはある程度分かっていて、ローレル・E・ファーイは、演繹的に導き出された社会主義リアリズム的手法、労働者階級にふさわしい音楽芸術はどういうものかについて、次のように掲げています。

 「ソヴィエト国家が求める唯一の音楽芸術は、その理解のしやすさ、旋律の豊かさ、伝統主義的様式、そして、民族的な鼓舞が、その特質であると定義されるべきであった。それは、楽天的で勇壮で気分を引き立てるものであるべきだった(ローレル・E.・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』p.119)。」

 また、梅津紀雄氏は当時のソ連音楽界の特質を5つにまとめる中で、その背景やソヴィエトの考え方について簡潔に説明しています(5番目は政策の変化についての記述のため割愛します。)。

1:ソ連が教養主義的傾向を持った国家だった。
2:ソ連は階級や性差、民族の差別を撤廃する、格差是正を理念に掲げていた国家と言えるが、そこまで貴族やブルジョワが享受していた高級文化(ハイ・カルチャー)を一般大衆にまで普及させることを真剣に考えていた。
3:民族音楽が国民形成(ネイション・ビルディング)に動員されたことが挙げられる。オペラやバレエ、五線譜や平均律が導入されていない地域に、民俗文化を利用しながら、それらを導入し、民族オペラや民族バレエの創作を促したのである。
4:共産党や政府が芸術に介入するということは、それだけそれらを重視したいたからであり、抑圧と保護の二つの側面があったといえる。(梅津紀雄著『芸術音楽から見たソ連』 p.206 )。」

 しかし、実際に音符を並べて音楽を創り出す作曲家にとってこれを実現することは難題であったことは容易に想像できます。そんな状況下でショスタコーヴィチは交響曲第4番を第2楽章まで完成させていて、第3楽章(終楽章)に取り掛かろうとしていたのでした。ということは、第1,2楽章までの音楽と第3楽章の音楽には大きな断絶があるはずと考えられるのですが、実際この曲を聴いたり演奏したりしてもそういったことはあまり感じられません。ショスタコーヴィチの作曲の仕方は、既に頭の中で全曲が出来上がってから音符に書き留めるとされていますので、『プラウダ批判』が作曲の途中に襲い掛かっても作品にはなんの影響もなかったとも考えられます。マーク・ウィグルワースは次のように述べています。

 「プラウダ紙の記事が掲載された当時、ショスタコーヴィチが作品のどの部分に取り組んでいたのかは不明です。様々な日付の文献から、フィナーレのどこかだったと推測できますが、ショスタコーヴィチは作曲前に作品全体を構想していた作曲家であるため、具体的な箇所を見つけようとするのは結局のところ無駄な作業なのです。(プラウダ紙の)攻撃によって作品が全く影響を受けなかった可能性も十分に考えられます。この記事がショスタコーヴィチという人間にどんな変化を強いたとしても、作曲家としてのショスタコーヴィチはおそらく一歩も道を踏み外すことはなかったでしょう。プラウダ紙掲載後の問題は、作品を完成させるかどうかではなく、演奏するかどうかだったのです。(中略)

 理由が何であれ、それは極めて緊張した時代でした。誰もが社会主義リアリズムの要求に従わなければならず、それに従わないことの危険性は誰にとっても身に染みるものでした。『私は恐れていました』とショスタコーヴィチは語っています。『当時、恐怖は誰もが抱く共通の感情でした。私もその恐怖を痛感しました。危険に怯え逃げ道はどこにも見当たりませんでした。必死に消え去りたいと思いました。その可能性を心から楽しみました。私は完全に打ちのめされました。それは私の過去を消し去るどん底でした。そして未来も。戦前の恐ろしい日々。それが、交響曲第4番から始まる私の作品のテーマなのです。』と( “Mark’s notes on Shostakovich Symphony No. 4 “ by Mark Wigglesworth )。」

 『プラウダ批判』以降、ショスタコーヴィチの動揺は計り知れないものであったことは想像に難くないと思われますが、一方で、いやいやショスタコーヴィチはそんなやわな作曲家ではない。という主張もあります。

 「ショスタコーヴィチは私にこう言いました。『たとえ両手を切り落とされ、歯でペンを握らなければならなくなったとしても、私は音楽を書き続ける。』と。この恐ろしい言葉は私を心の底から震え上がらせましたが、それは何気なく、全く気取ったところのない素朴さで発せられたものでした。その光景に身震いし、一瞬、ダンテ風の恐ろしい幻想が実際に起こっているのだと想像したものです。(中略)ショスタコーヴィチの書斎の窓から太陽の光が差し込み、まだ30歳にもならない彼はその光を浴びながら立っていました。その姿には若さの輝きと何があっても芸術を追求するという恐れを知らない決意に満ちていたのでした。プラウダ紙の記事が掲載されると、ショスタコーヴィチはレニングラード作曲家組合で何日も続いた討論会に意図的に参加しませんでした。遠方のモスクワに滞在していたショスタコーヴィチは私に、各セッションの後にできるだけ詳細に、そして客観的で感情に左右されない報告者として、討論会の内容を手紙で伝えるように頼みました( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140-143 及び “Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Preface p.xix )。」

 1974年1月29日に『プラウド批判』を回想してショスタコーヴィチは次のように語っています。

 「あの記事はもはや人々を怖がらせる力はないが、あの頃はずっと、人々の不安と恐怖の源だった。スターリンは望みを叶えた。記事に異議を唱えられないというだけでなく、記事の内容についてほんの少しでも疑うことを禁じられた。疑う者はスターリン体制に対する罪を犯したとされ、罪人は悔い改めることによってのみ自らを救うことができた。そして記憶にあるように、『音楽の代わりに荒唐無稽』の後、当局は私に悔い改めさせ、罪を償わせようとあらゆる手を尽くした。しかし私は拒否した。当時私は若く、体力もあった。悔い改める代わりに、交響曲第4番を作曲したのだ( “Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips p.194 )。」



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