「劇場に着くと、その晩のオペラにはスターリンを含む政治局員が数人来ていたことが分かりました。公演は順調に進んでいたのですが、カテリーナの結婚シーンの直前のオーケストラによる間奏曲で、演奏者(特に木管楽器と金管楽器のグループ)は夢中になって大音量で演奏していました。そればかりかその日のバンド群は増員されていて、しかも金管楽器セクションは政府高官達のボックスのすぐ下にいたのです。監督席をちらっと見るとショスタコーヴィチが入ってくるのが見えました。第3幕が下りるとショスタコーヴィチはステージに上がって喝采を受けましたが(*)、顔面は蒼白で、お辞儀をするとそそくさと舞台袖に引っ込みました。ショスタコーヴィチはバックステージで私に『レフ、さぁ急ごう。電車に間に合わせないと。』と言いました。ショスタコーヴィチは駅に向かう途中、どうしても落ち着くことができず、イライラしながら『何故バンドを騒音のレベルにまで誇張する程に増員する必要があったのだ?(中略)政府高官席にいた人たちは金管楽器の音量に耳を塞がれたに違いないと思う。これには嫌な予感がする。今年は閏年だから、いつも通りの幸運が訪れるはずなのに。』としゃべり言い続けたのです(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.127-8 )。」
*第3幕の後というのはアトヴミャーンの記憶違いで、実際は最終幕(第4幕)の後だったとされています。ショスタコーヴィチのソレルチンスキーへの手紙(1月28日)には「全曲の幕が下りて私はステージに上がって観客にお辞儀をした。後悔しているのは、第3幕が下りた後にそうしなかったことだ。」と書いているからです。つまり、スターリンらが帰る前にそうしなかったことを悔いていたということになります。
*レフ・アトヴミャーンは交響曲第4番のスコア復元の際に再度登場します。
「スターリン、ジダーノフ、ミコヤンがオーケストラ・ピットの右側にある政府高官のボックス席に座っていました。そこはちょうど金管と打楽器とセクションの真上でした。そのボックス席はピットからのいかなる暗殺行為からも守られるよう鋼鉄で装甲されていました。ショスタコーヴィチ、メイエルホリド、アフメテリと私は彼らとは反対側のボックスに座っていてそこからはスターリンの姿は見えませんでした。スターリンは観客の好奇の目を避けつつ舞台を観ることができるようにカーテンの後ろに座っていたのです。ジダーノフとミコヤンが金管と打楽器がフォルティッシモで演奏する度に肩を揺らし、笑いながらスターリンに振り向いていたのが我々の席からも見えました。ショスタコーヴィチはこの「三人組」が笑い転げる様子を見て、私たちのボックス席の奥に隠れ、両手で顔を覆っていました。彼はひどく動揺していました(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.128-9 )。」
『マクベス夫人』は海外のブルジョワ層の間で大成功を収めている。彼らがこのオペラを賞賛するのは、政治的要素がなく、難解だからではないだろうか。それとも、落ち着きがなく神経質な音楽がブルジョワ層の倒錯した嗜好をくすぐるからではないだろうか。(
ARNOLD SCHALKS INTERNET ARCHIEF )」
「マクベス夫人への攻撃は、形式主義についての議論が巻き起こった初めての事例ではありませんでした。ソヴィエトの音楽家たちはかねてから、他の芸術分野の同業者たちと同様に、社会主義リアリズムの美的理念を口先だけで唱えてはいました。しかし音楽に関しては、その概念の意味するところが十分理解されていませんでした。そのことは音楽家や批評家の大多数が揃いも揃って、『マクベス夫人』をソヴィエト芸術の最高峰の輝かしい模範として推奨していたことからもよくわかります(“Shostakovich:
A Life” by Laurel Fay p.87-88)。」
「彼(ショスタコーヴィチ)はレスコフの古典短編小説『ムツェンスク郡のマクベス夫人』を、社会批評的な色合いを帯びた心理劇へと作り変え、そこに現代的なヴェリズモの音楽を加えることで、その独立精神を示しました。その音楽は、熱烈で、粗野で、風刺的で、情熱的なものでした。ソヴィエトの批評家たちは、このオペラのより刺激的な側面のいくつかを嘆きながらも、1932年4月23日の
“歴史的法令” に述べられているように、それを “社会主義建設の全般的な成功、党の正しい政策の結果” と見なしました( “Music and
Musical Life in Soviet Russia Enlarged Edition, 1917–1981” by Boris
Schwarz )。」
「ショスタコーヴィチへの攻撃は、スターリンの文化政策の根本的な転換を告げるものでした。スターリンは『社会主義リアリズム』の旗印の下、あらゆる芸術活動分野における絶対的な権力を強化しようとしていました。ソヴィエト当局はまた、このオペラが権威と家父長制による抑圧を風刺的に攻撃していることが、様々な解釈が可能であり、当時のソヴィエト社会の現実に対する婉曲的な批判としてさえ解釈できることを理解していました。(ボストン交響楽団ホームページ
“Lady Macbeth of Mtsensk“ by Harlow Robinson )」
「スターリンは現代のソヴィエト・オペラについても独自の考えを持っていました。彼は、社会主義的なテーマを扱った台本、国民的表現を重視した写実的な音楽言語、そして新しい社会主義時代を象徴する肯定的な英雄など、望ましい基本的な属性を挙げました。これらの基準は、1936年1月17日の会議でオペラ専門家のグループに提出されました。同じ夜、スターリンはソヴィエト連邦人民委員会議議長ヴャチェスラフ・モロトフと教育人民委員アンドレイ・ブブノフに同行し、ミハイル・ショーロホフの有名な小説に基づいた、若手作曲家イワン・ジェルジンスキーのオペラ『静かなドン』の公演を観劇しました(
"Music and Musical Life in Soviet Russia: Enlarged Edition, 1917–1981"
by Boris Schwarz )。」
「モスクワやレニングラードで起きたことをおうむ返しするように、主要都市の音楽界は『マクベス夫人』だけでなく、ショスタコーヴィチのほぼすべての作品に非難の声を上げ始めました。スクラップブックの最初のページには、プラウダ紙の記事が鮮やかに輝いていました。私がそれは自己満足的なマゾヒズムだとショスタコーヴィチを非難すると、彼は無表情でこう答えました。「そこに書いてあるはずだ、そこに書いてあるはずだ」と。スクラップブックはすぐに切り抜きでいっぱいになりましたが、ショスタコーヴィチはたいてい何も言わずにそれらを読んでいました(
“Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Appendix2
p.214 )。」 *ショスタコーヴィチのこの発言を説明する文はありませんが、「そこに何がいけないのかが書いてあるはずだ」と解釈しました。
アンディ・マクスミスによると、『プラウダ批判』が掲載された10日後の2月7日にショスタコーヴィチは地方公演の帰路モスクワに立ち寄り、プラトン・ケルジェンツェフに助言を求め、大衆に理解しやすい、よりシンプルな音楽を作曲するよう指示されています(
Fear and the Muse Kept Watch by Andy McSmith p.174-175
)。ローレル・E・ファーイもそれに加えて、ケルジェンツェフは、「作曲家としての根本的な能力を疑うことはなかったが、攻撃にさらされたショスタコーヴィチに対する忠告を公に示した。」として次のようにケルジェンツェフの演説を引用しています。
「レニングラードに戻る前に、ショスタコーヴィチはモスクワに立ち寄って党からの批判にどう対処すべきか、芸術問題委員会議長のP・ケルジェンツェフとトゥハチェフスキー元帥に相談しました。ケルジェンツェフはショスタコーヴィチに『誤りを認めること」が最善の策だと助言し、トゥハチェフスキーはショスタコーヴィチに代わってスターリンに手紙を書きました。トゥハチェフスキーは当時、強力なパトロンであったように思われましたが、わずか1年後に逮捕され、翌1937年の夏に人民の敵として銃殺されました。その直後、ショスタコーヴィチのもう一人の親しい友人である音楽学者ニコライ・ジリャエフがトゥハチェフスキーとの関係を理由に逮捕されました(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.145 )。」
おそらくこのエリザベス・ウィルソンの記述は、グリークマンの書簡集(“Story of a Friendship” by Isaak
Glikman & Anthony Phillips)を元にしていると思われますので、その一部をご紹介します。
「(演奏旅行とモスクワ訪問から戻った)彼は一度もその驚異的な控えめさを失うことはありませんでした。感情を爆発させることも、苦悩のため息をつくことも、怒りの不満の声をあげることもありませんでした。帰宅後、ショスタコーヴィチはほとんど何も語りませんでしたが、文化委員会委員長プラトン・ケルジェンツェフ、そしてミハイル・トゥハチェフスキー元帥との会談については話してくれました。彼らから言われたことで、プラウダ紙の社説が下した判決を変えるようないかなる要求や抗議も不可能であることを彼ははっきりと理解しました。いずれにせよ、ショスタコーヴィチはそのような要求や抗議もしませんでした。非常に教養があり礼儀正しい人物であったケルジェンツェフは、ショスタコーヴィチに残された唯一の道は、歌劇『マクベス夫人』を作曲する際に若さゆえの奔放さが過ちを招いたということを公に認めることであると主張したのでした(
“Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Appendix2
p.215 )。」
理由が何であれ、それは極めて緊張した時代でした。誰もが社会主義リアリズムの要求に従わなければならず、それに従わないことの危険性は誰にとっても身に染みるものでした。『私は恐れていました』とショスタコーヴィチは語っています。『当時、恐怖は誰もが抱く共通の感情でした。私もその恐怖を痛感しました。危険に怯え逃げ道はどこにも見当たりませんでした。必死に消え去りたいと思いました。その可能性を心から楽しみました。私は完全に打ちのめされました。それは私の過去を消し去るどん底でした。そして未来も。戦前の恐ろしい日々。それが、交響曲第4番から始まる私の作品のテーマなのです。』と(
“Mark’s notes on Shostakovich Symphony No. 4 “ by Mark Wigglesworth
)。」
「ショスタコーヴィチは私にこう言いました。『たとえ両手を切り落とされ、歯でペンを握らなければならなくなったとしても、私は音楽を書き続ける。』と。この恐ろしい言葉は私を心の底から震え上がらせましたが、それは何気なく、全く気取ったところのない素朴さで発せられたものでした。その光景に身震いし、一瞬、ダンテ風の恐ろしい幻想が実際に起こっているのだと想像したものです。(中略)ショスタコーヴィチの書斎の窓から太陽の光が差し込み、まだ30歳にもならない彼はその光を浴びながら立っていました。その姿には若さの輝きと何があっても芸術を追求するという恐れを知らない決意に満ちていたのでした。プラウダ紙の記事が掲載されると、ショスタコーヴィチはレニングラード作曲家組合で何日も続いた討論会に意図的に参加しませんでした。遠方のモスクワに滞在していたショスタコーヴィチは私に、各セッションの後にできるだけ詳細に、そして客観的で感情に左右されない報告者として、討論会の内容を手紙で伝えるように頼みました(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140-143 及び
“Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Preface
p.xix )。」
1974年1月29日に『プラウド批判』を回想してショスタコーヴィチは次のように語っています。
「あの記事はもはや人々を怖がらせる力はないが、あの頃はずっと、人々の不安と恐怖の源だった。スターリンは望みを叶えた。記事に異議を唱えられないというだけでなく、記事の内容についてほんの少しでも疑うことを禁じられた。疑う者はスターリン体制に対する罪を犯したとされ、罪人は悔い改めることによってのみ自らを救うことができた。そして記憶にあるように、『音楽の代わりに荒唐無稽』の後、当局は私に悔い改めさせ、罪を償わせようとあらゆる手を尽くした。しかし私は拒否した。当時私は若く、体力もあった。悔い改める代わりに、交響曲第4番を作曲したのだ(
“Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips p.194 )。」