その夜クレンペラーは、満員のフィルハーモニー大ホールで、ベートーヴェンを指揮して大喝采を博しました。ドミトリー・ドミトリエヴィチは、この24時間の興奮ですっかり疲れ果てており、コンサートには出席しませんでした。ソレルチンスキーと私は会場で聴いた後に舞台裏に行ってクレンペラーに心からの祝福を贈りました。彼は、今日の祝福は自分ではなく、交響曲第4番の作曲家であるショスタコーヴィチに捧げられるものだと、きっぱりと断言したのでした(
“Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140-143 及び
“Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Preface
p.xxii )。」 *(中略)の部分は、その晩に第1子ガリーナが生まれたことの描写であるため割愛しました。
*「事態は一変したのでした。」とは、後に初演が中止になったことを示します(後述)。
*「斧で消すことはできない」とは、おそらくロシアの諺で、書かれた言葉の永続的な性質と力を強調する意味と考えられます。
*6本ものフルートを必要とする譜面について、この曲を一緒に演奏しているフルート奏者に尋ねたところ、エキストラ3人を入れて6人体制でやっていますが、リハーサルでエキストラが休みの時は正規メンバーでほとんど代奏できているとのことでした。スコアを見ると大半はユニゾンで吹くことになっている、つまり人数を倍にして音量の補強を目的としているようです。全曲で数小節ほど6人が別々の音を吹きますが、ほとんど聞き取ることはできません。一般的に指揮者は必要に応じて管の人数を倍にして音量を増強させることがあります。ショスタコーヴィチはそれを拒んですべてを自分で決めたかったのでしょう。
なお、指揮者のオットー・クレンペラーは、南米に演奏旅行に出かけるなどしてロシアを離れていますので、その後の交響曲第4番をめぐる出来事には関わることはありませんでした。この曲を指揮すると誓ったクレンペラーですが、生涯ショスタコーヴィチの作品を取り上げることは少なかったようで、商業録音は1枚も遺していません。筆者の知る限りでは、1956年12月21日にトリノで行われたRAI交響楽団とのショスタコーヴィチの交響曲第9番のライブ録音があるのみです。
*この時期を語る最も信頼できる一次資料はイサーク・グリークマンとショスタコーヴィチとの書簡集“Story of a Friendship:
The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman,
1941-1975”とされています。しかし、その後のレニングラードの包囲とそこから避難の混乱で多くの書簡が紛失してしまったため、この書簡集にはクイビシェフに落ち着いた1941年11月以降のものが収録されています。そのため、それ以前のことについて、つまりショスタコーヴィチにとって重要な時期(『マクベス夫人』公式に非難・禁止され、交響曲第4番が作曲され、撤回された時期)のことは、『序文』の中でグリークマンのその記憶に基づいて書いているというかたちになっています。