ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第4章 作曲再開と完成

 
           Klemperer

オットー・クレンペラー 1927年レニングラード


第4交響曲の作曲再開と完成
 1936年が年明けに起きた『プラウダ批判』以来中断していた交響曲第4番は、その年の4月の中旬には最終楽章のオーケストレーションがほぼ終了したとされています(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 p.125)。この交響曲は全3楽章で構想されていたらしく、最終楽章とは第3楽章のことになります。ショスタコーヴィチは交響曲第1番では伝統的な4楽章で作曲しましたが、第2番、第3番では共に単一楽章として完成させています。第4番を書こうと決めた時に楽章の数をどのような認識を元に3楽章としたかはわかっていません。

 その後、ローレル・E・ファーイによると、「従来は1936年5月20日とされてきたが、ショスタコーヴィチはクバツキー宛の4月27日付けの手紙に、『昨日交響曲第4番を完成させた。』と書いている。これは、作曲家が他の友人たちに語った予測と一致する。(ローレル・E・ファーイ著『ショスタコーヴィチ ある生涯』 p.125)」となっていて、つまり4月26日に完成したということになります。なお5月22日に、ショスタコーヴィチは大好きなサッカーの試合を観戦しに行ったとのことです。

 交響曲第4番が完成した1ケ月後、指揮者オットー・クレンペラーがショスタコーヴィチを訪問しています(1936年5月29、30日:当時クレンペラーはロサンゼルス・フィルハーモニックの音楽監督でした。)。この訪問の主な目的は、ショスタコーヴィチが新たに作曲した交響曲第4番を知ることでした。この時、クレンペラーは2回のコンサート(ベートーヴェンの交響曲第3、5番など)を指揮するためにレニングラードに来ていたのですが、ショスタコーヴィチの交響曲第1番を高く評価していて、当時この曲の演奏者のひとりでもありました。ショスタコーヴィチの友人であるイサーク・グリークマンによると、クレンペラーの演奏会を聴きに行ったことをショスタコーヴィチに伝えたところ、5月30日の正午にクレンペラーの訪問を受けることになっていて、その際、交響曲第4番を聴かせることになっているので一緒に来ないかと誘われたとして、次のように述べています。

 「ドミトリー・ドミトリエヴィチ(ショスタコーヴィチ)は、この壮大で複雑な交響曲を演奏し、最高の状態で指揮するのは彼(クレンペラー)にとっては至難の業だろうと語りました。彼はこの作品に大きな期待を寄せ、深い愛情を抱いていて、特にまだ世に出たばかりだったのでなおさらそうでした。

 その晩、ショスタコーヴィチは妻のニーナ・ヴァシリエヴナと私とで、交響曲を演奏した後のクレンペラーをどのようにもてなそうかと相談していました。夕食のメニューを話し合っていると、ドアベルが鳴りました。全く予想外のことでしたが、玄関ホールにはオットー・クレンペラーがイヴァン・ソレルチンスキーと共に立っていたのです。彼らは、フリッツ・シュティードリー指揮の『フィガロの結婚』を観ていたマリー・オペラ劇場からどうやって抜け出したかを話してくれました。シュティードリー自身が、クレンペラーとイヴァン・ソレルチンスキーに公演に来るよう強く勧めていたのでしたが、第1幕が終わるとクレンペラーはもっといい考えを思いつき、翌日の約束の時間を待つのではなく、こっそり抜け出してショスタコーチに会いに行くのだと言い出したのでした。

 ディミトリ・ショスタコーヴィチは予期せぬ客を好まないのですが、地球の反対側からレニングラードにやって来たクレンペラーの突然の出現には感動し、丁重に迎え入れました。クレンペラーは非常に教養があり、素晴らしい語り手であり、会話の達人であることが判明しました。ちなみに、クレンペラーは、彼の膨大なレパートリーの中に、交響曲第1番、ピアノ協奏曲、黄金時代組曲、ボルトからなる「ショスタコーヴィチ」のプログラムがお気に入りで、それで南北アメリカ各地をツアーしたことがある、と話してくれました。(中略)

 (翌日の)12時までには、クレンペラー、シュティードリー、ソレルチンスキー、ガウク、オボーリン、そしてフィルハーモニー管弦楽団の事務局長E.ネリウスが到着しました。(中略)ディミトリ・ドミトリエヴィチは、眠れぬ不安な夜を過ごした後、本来の自分とは程遠い状態だったが、私が知る誰よりも気を引き締めることができました。彼は交響曲の全曲を力強く演奏しました。楽譜は机の上に置かれ、指揮者のクレンペラー、ガウク、シュティードリーは皆、楽譜を囲んでいました。クレンペラーはその屈強な体格を活かして最も有利な位置にいたのを記憶しています。

 この交響曲は強烈な感動をもたらしました(ソレルチスキーと私は既に聴いていました。)。 クレンペラーとシュティードリーは心底から熱意を搔立てられ、両者は秋にはこの作品の演奏を予定に入れました。クレンペラーは南米で、シュテッドリーはレニングラード・フィルハーモニーの首席指揮者としてレニングラードで。しかし、事態は一変したのでした。

 その後夕食の席で、クレンペラーは天が自分に素晴らしい贈り物、交響曲第4番を指揮する機会を与えてくれたと情熱を込めて語りました。指揮できることを心から喜んだクレンペラーでしたが、作曲家に一つだけ謙虚なお願いをしました。フルートの数を減らしてほしい、一流のフルート奏者を6人も揃えるなんて、どこでも不可能なのです、と。しかし、ドミトリー・ドミトリエヴィチは譲りませんでした。彼は微笑みながらこう答えた。『ペンで書かれたものは斧で消すことはできない。』、と。

 その夜クレンペラーは、満員のフィルハーモニー大ホールで、ベートーヴェンを指揮して大喝采を博しました。ドミトリー・ドミトリエヴィチは、この24時間の興奮ですっかり疲れ果てており、コンサートには出席しませんでした。ソレルチンスキーと私は会場で聴いた後に舞台裏に行ってクレンペラーに心からの祝福を贈りました。彼は、今日の祝福は自分ではなく、交響曲第4番の作曲家であるショスタコーヴィチに捧げられるものだと、きっぱりと断言したのでした( “Shostakovich : A Life Remembered” by Elizabeth Wilson p.140-143 及び “Story of a Friendship” by Isaak Glikman & Anthony Phillips, Preface p.xxii )。」
*(中略)の部分は、その晩に第1子ガリーナが生まれたことの描写であるため割愛しました。
*「事態は一変したのでした。」とは、後に初演が中止になったことを示します(後述)。
*「斧で消すことはできない」とは、おそらくロシアの諺で、書かれた言葉の永続的な性質と力を強調する意味と考えられます。
*6本ものフルートを必要とする譜面について、この曲を一緒に演奏しているフルート奏者に尋ねたところ、エキストラ3人を入れて6人体制でやっていますが、リハーサルでエキストラが休みの時は正規メンバーでほとんど代奏できているとのことでした。スコアを見ると大半はユニゾンで吹くことになっている、つまり人数を倍にして音量の補強を目的としているようです。全曲で数小節ほど6人が別々の音を吹きますが、ほとんど聞き取ることはできません。一般的に指揮者は必要に応じて管の人数を倍にして音量を増強させることがあります。ショスタコーヴィチはそれを拒んですべてを自分で決めたかったのでしょう。

 この記述によれば、ショスタコーヴィチはひとりでピアノを弾いて聴かせたということになります。ピアノの名手オボーリンがいたとしても2台のピアノ版で弾いたのではないことは間違いないでしょう。ショスタコーヴィチがこの曲を2台のピアノ版に編曲したのはこの時ではなかったことになりますが、何時その編曲を行なったかを示す資料は今のところ見つかっていません。この時総譜は1冊しかなかった可能性は高く、それを皆が見ていたとするとショスタコーヴィチは暗譜で弾いたことになります。後にこの総譜(自筆譜)が紛失するという事件が起こるのですが、もしコピーがあったとすれば何の問題も起きなかった、つまり事件にならなったことになるからです(紛失については後述)。

 なお、指揮者のオットー・クレンペラーは、南米に演奏旅行に出かけるなどしてロシアを離れていますので、その後の交響曲第4番をめぐる出来事には関わることはありませんでした。この曲を指揮すると誓ったクレンペラーですが、生涯ショスタコーヴィチの作品を取り上げることは少なかったようで、商業録音は1枚も遺していません。筆者の知る限りでは、1956年12月21日にトリノで行われたRAI交響楽団とのショスタコーヴィチの交響曲第9番のライブ録音があるのみです。
*この時期を語る最も信頼できる一次資料はイサーク・グリークマンとショスタコーヴィチとの書簡集“Story of a Friendship: The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman, 1941-1975”とされています。しかし、その後のレニングラードの包囲とそこから避難の混乱で多くの書簡が紛失してしまったため、この書簡集にはクイビシェフに落ち着いた1941年11月以降のものが収録されています。そのため、それ以前のことについて、つまりショスタコーヴィチにとって重要な時期(『マクベス夫人』公式に非難・禁止され、交響曲第4番が作曲され、撤回された時期)のことは、『序文』の中でグリークマンのその記憶に基づいて書いているというかたちになっています。



*参考文献の一覧は≪目次≫をご覧ください。 


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