「1934
年11月という早い時期に、作曲家は交響曲第4番の第1楽章の作曲を開始したものの、一時的に保留していたことを明らかにしました。その後、ショスタコーヴィチは、交響曲第4番の完成を1935年の主要な課題の一つと定め、四部作の第2番目のオペラの作曲と並んで、この交響曲を『偉大な思想と情熱を込めた記念碑的な標題音楽』と構想しました(後註1)。彼はこの作品が何年も温めてきたものだとしながらも、それまでに描いたスケッチに満足せず、また最初からやり直すつもりだと述べています(12月28日付『プラウダ』紙)。交響曲第4番の完全なオーケストレーションされた冒頭部分の自筆原稿が現存しているのですが、それは完成した作品とは何の共通点がないため、おそらくこの放棄された自筆譜の一部であると考えられます(
“Shostakovich: A Life” by Laurel Fay p.93 )。」
ポポフの訴えが解決するとすぐに、ショスタコーヴィチは交響曲第4番の決定版に取り掛かりました。その第1楽章を見せられたポポフは感銘を受けると同時に、この曲が自身の交響曲第1番の第1楽章にどれほど影響を受けているかに気づかずにはいられませんでした。実際、ポポフの交響曲第1番とショスタコーヴィチの交響曲第4番のつながりは非常に印象的で、両作品は対話の中で作られたかのように聞こえます。どちらも巨大な構造を持ち、大胆で、金管楽器を多用し、畏敬の念を抱かせる作品です。ショスタコーヴィチはこれまで交響曲の規模でこれに匹敵するものを試みたことがなかったため、この関連性は避けられないように思われるのです(
The New York Times “ Shostakovich's Long-Lost Twin Brother “ by Laurel
E. Fay )。」
「この交響曲(第4番)は、全体的な効果と、劇的な休止、長く熱狂的な楽章、そして大胆不敵な巨大さといった細部において、ガヴリール・ポポフの初期の交響曲第1番に大きく影響を受けています。(中略)初めてポポフの交響曲第1番を聴いたとき、ショスタコーヴィチがあまりにもそれを模倣しているように思えて私は一抹の憤りを感じました。ショスタコーヴィチの大規模な構成に目新しいところほとんどないというのは事実として、ポポフの作品を知るうちにこのふたつの交響曲の違いもわかるようになりました。ポポフの作品の方が親しみやすく魅力的でそれ自体の意味でより成功していると言えるかもしれません。しかし、ショスタコーヴィチの第4番はよりダークでエッジの効いた作品で、ユーモアはより辛辣で、劇的な爆発は心理的に奥深いと感じます(
The Exhaustive Shostakovich )。」
ショスタコーヴィチは明らかにポポフの劇場的な交響曲形式という考え方に注目していました。作曲者自身の死に酔ったような第4交響曲は、ポポフの第1交響曲と構成が似ているだけでなく、時折その音楽を引用しているようにも思えるのです。ショスタコーヴィチがこれらのほぼ引用に近い表現で密かにメッセージを送っていたかどうかは誰にも分かりませんが、1920年代に音楽院から一時的に追放され、1935年3月の初演後に再び非難を浴びたポポフとの連帯を示したかったのかもしれません。この作品は「我々に敵対する階級のイデオロギーを描いていると評されたのでした(
“The
Popov Discontinuity” by Alex Ross )。」
最後にもうひとつ、2024年1月、シドニーのラジオ局『2MBS Fine Music
Sydney』がポポフとショスタコーヴィチの特集を放送するに先立ちWebに公開されたパオロ・フックによる両曲への熱い想いを紹介します。
マーラーは『交響曲は世界と同じでなければならない。すべてを包含しなければならない』という有名な言葉を残していますが、ショスタコーヴィチの交響曲第4番は紛れもなく壮大な作品です。『125人のオーケストラを必要とするにもかかわらず、真の過剰さはその形式、いやむしろ形式の欠如にある』と、著名な英国の指揮者でありショスタコーヴィチ専門家のマーク・ウィグルスワースはこの交響曲の解説の中で述べています。『しかし、この点でこの作品を批判することは、一見するとまとまりがなく、時に支離滅裂な構成こそがこの作品の真髄であるという事実を無視することになる。この音楽が壮大で大げさなのは、壮大さと大げささを体現しているからだ。誇張することを意図しているのである。』ショスタコーヴィチは、自らが生きた世界を痛烈に描写しているのです。『巨人狂』とは大きなものすべてが称賛された1930年代のソヴィエト連邦のの国民感情を表現するのに使われた言葉だったのです(
"The World of a Symphony: Popov and Shostakovich" By Paolo Hooke 11
December 2023, Fine Music Magazine )。」
なお、このポポフの交響曲第1番はショスタコーヴィチの尽力もあって復権を遂げはしたにもかかわらず、交響曲は1972年まで再演されませんでした。イサーク・グリークマンによると、ショスタコーヴィチはポポフが没した1972年に「彼には才能がありました。彼の交響曲第1番は多くの素晴らしい要素を含んでいましたが、当時形式主義反対運動によって禁止されました。私はポポフ追悼委員会の委員長に任命されていますが、彼の作品が演奏されることは不可欠です。」と語っています(
Story of a Friendship: The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak
Glikman, 1941-1975 p.186 )。」