ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第1章 第4交響曲の萌芽

 
       Popov  Shostakovich

ガヴリール・ポポフとショスタコーヴィチ


 ショスタコーヴィチが最初この曲の作曲にどのように取りかかったか、ローレル・E.・ファーイの著作『ショスタコーヴィチ ある生涯』に詳しく書かれています。

 「1934 年11月という早い時期に、作曲家は交響曲第4番の第1楽章の作曲を開始したものの、一時的に保留していたことを明らかにしました。その後、ショスタコーヴィチは、交響曲第4番の完成を1935年の主要な課題の一つと定め、四部作の第2番目のオペラの作曲と並んで、この交響曲を『偉大な思想と情熱を込めた記念碑的な標題音楽』と構想しました(後註1)。彼はこの作品が何年も温めてきたものだとしながらも、それまでに描いたスケッチに満足せず、また最初からやり直すつもりだと述べています(12月28日付『プラウダ』紙)。交響曲第4番の完全なオーケストレーションされた冒頭部分の自筆原稿が現存しているのですが、それは完成した作品とは何の共通点がないため、おそらくこの放棄された自筆譜の一部であると考えられます( “Shostakovich: A Life” by Laurel Fay p.93 )。」

 なおこの放棄された自筆譜の演奏は、オレグ・カエターニ指揮ミラノ・ジュゼッペ・ヴェルディ交響楽団による交響曲第4番のCD(2004年3月録音)の余白に5分半ほど収録されていて、YouTubeでも聴くことができます。確かに全く別物ですね。
Fragment Of The Unpublished Movement: Adagio - Allegro Non Troppo

 1934 年の年末に、何故ショスタコーヴィチが交響曲第4番の作曲を最初からやり直すつもりになったのかを示す資料や証言はないようです。ローレル・E.・ファーイは続けてこう書いています。

 「1935年4月、ショスタコーヴィチは『形式主義者』というレッテルを否定したのと同じ自信をもって、交響曲第4番が彼の創作活動の『信条』を体現するものになるだろうと発表しました。しかし、この時点ではショスタコーヴィチには報告すべきものは何もありませんでした。4月中旬、トルコへの出発前夜に発表された記事の中で、彼は将来の交響曲がどのような形になるかまだ不透明だと認め、準備作業として室内楽や器楽作品を作曲する予定と述べています(同上)。」

 つまり、1934年の年末から翌1935年の4月までの間に、中断していた交響曲第4番を書こうとしていたことが窺えます。では、この時期ショスタコーヴィチの背中を押すような出来事はあったのでしょうか。ここで1935年3月22日に初演されたガヴリール・ポポフの交響曲第1番に注目したいと思います。


ポポフの交響曲第1番
 ガヴリール・ポポフはショスタコーヴィチより2歳年上でショスタコーヴィチとモーツァルトの2台ピアノ協奏曲のソリストを務めたこともある作曲家で、その頃は劇場で脚本を書いたり映画のピアノ伴奏をしたりと活躍していました。1935年3月22日に、ポポフが作曲した交響曲第1番がレニングラードで初演されました。初演に先立つ1932年9月に(不思議なことにまだ草稿だった段階で)ボリショイ劇場と『プラウダ』紙によって提供された賞金を得た作品なのですが、ショスタコーヴィチとの関わりについてローレル・E.・ファーイは『ニューヨーク・タイムズ』誌に次のように書いています。

 「1932年、ようやく作品がほぼ完成すると、革命15周年を記念した全国コンクールで最高賞を共同受賞しました。著名な音楽家たちで構成される審査員は、スコアリングの卓越した技術と、衰えることのないダイナミズムを高く評価しました。それでもポポフはさらに2年間、作品に磨きをかけました。7年以上の歳月を費やし、1935年3月、レニングラード・フィルハーモニー管弦楽団の音楽監督フリッツ・シュティードリーの指揮により、ついに初演されました。

 しかし、反応は予想外でした。翌日、地方(レニングラード)の検閲委員会によって『我々とは異質な階級のイデオロギー』を体現しているとして発禁処分となり、レニングラード作曲家連合の役員が署名した新聞記事では大衆には理解できない『ヒステリックな混沌』と評され、ポポフを真のソヴィエト芸術の対極に位置する形式主義の厚かましい支持者と烙印を押されました。ソヴィエトの美的価値観を定義するための継続的な闘争において、これほどひどい烙印は他にありませんでした。(中略)

 ところが、ポポフはこの判定を受け入れることを拒否し、それをひとりの役人による権力の乱用とみて憤慨し抗議を申し立てました。さらに、著名な作曲家たちがポポブの側に結集することとなり、ショスタコーヴィチはポポフに同行してモスクワに出向き、文化人民委員との会談に臨んだのでした。驚くべきことに、ポポフの訴えは認められ、数週間後にモスクワの中央検閲機関は禁止令を覆されました。(中略)

 ポポフの訴えが解決するとすぐに、ショスタコーヴィチは交響曲第4番の決定版に取り掛かりました。その第1楽章を見せられたポポフは感銘を受けると同時に、この曲が自身の交響曲第1番の第1楽章にどれほど影響を受けているかに気づかずにはいられませんでした。実際、ポポフの交響曲第1番とショスタコーヴィチの交響曲第4番のつながりは非常に印象的で、両作品は対話の中で作られたかのように聞こえます。どちらも巨大な構造を持ち、大胆で、金管楽器を多用し、畏敬の念を抱かせる作品です。ショスタコーヴィチはこれまで交響曲の規模でこれに匹敵するものを試みたことがなかったため、この関連性は避けられないように思われるのです( The New York Times “ Shostakovich's Long-Lost Twin Brother “ by Laurel E. Fay )。」


 筆者が約10年前にこのポポフの交響曲第1番を演奏することが決まってパート譜を手にしたとき、1小節ごとにめまぐるしく変わる拍子と延々続くフォルティッシモに面食らったものです。確かに初演当時でなくても今現在においても「大衆には理解できないヒステリックな混沌」と言われても仕方のない曲というのが正直のところです。しかしショスタコーヴィチの交響曲第4番を演奏していると、このローレル・E.・ファーイの「ポポフの交響曲第1番とショスタコーヴィチの交響曲第4番のつながりは非常に印象的で、両作品は対話の中で作られたかのように聞こえます。」という指摘は正鵠を射ていることは肌で感じられるところです。ポポフの冒頭でチェロによって印象的に開始されるくだりを聴くと、ショスタコーヴィチとポポフの親しい関係からして1935年3月の初演以前にショスタコーヴィチがこの曲に接していたことは間違いないと思われます。

 Webで見つけたショスタコーヴィチの4番に関するサイトでもポポフとの類似について次のように言及しています。

 「この交響曲(第4番)は、全体的な効果と、劇的な休止、長く熱狂的な楽章、そして大胆不敵な巨大さといった細部において、ガヴリール・ポポフの初期の交響曲第1番に大きく影響を受けています。(中略)初めてポポフの交響曲第1番を聴いたとき、ショスタコーヴィチがあまりにもそれを模倣しているように思えて私は一抹の憤りを感じました。ショスタコーヴィチの大規模な構成に目新しいところほとんどないというのは事実として、ポポフの作品を知るうちにこのふたつの交響曲の違いもわかるようになりました。ポポフの作品の方が親しみやすく魅力的でそれ自体の意味でより成功していると言えるかもしれません。しかし、ショスタコーヴィチの第4番はよりダークでエッジの効いた作品で、ユーモアはより辛辣で、劇的な爆発は心理的に奥深いと感じます( The Exhaustive Shostakovich )。」


 また、1992年から1996年までニューヨーク・タイムズ紙の音楽評論家を務めていたアレックス・ロスは『ポポフ不連続性』と題して次のように書いています。

 「彼の芸術的な信条を表明している作品は交響曲第1番であり、それは驚異的な表現力と感情の複雑さを湛えた作品です。その直後に書かれたショスタコーヴィチの交響曲第4番と非常によく似ており、一部を爆破されたマーラーを思わせるような、この世のものとは思えない風景を長い時間かけてよろめきながら進んでいきます。最後の楽章は特に注目に値します。モソロフの『鉄工所』やプロコフィエフの『パ・ダシエ(鋼鉄の歩み)』風のソヴィエトの工場を思わせるオスティナートで始まり、その後、機械の内部から人間の姿が現れ、恍惚とした声と悪魔的な声を交互に歌い出します。交響曲はワーグナーの『モンサルヴァート』やリムスキー=コルサコフの『キーテジ』の魔法の鐘を思わせる響き渡る音型とトリルを伴う和音の荘厳の連続で曲を閉じます。

 ショスタコーヴィチは明らかにポポフの劇場的な交響曲形式という考え方に注目していました。作曲者自身の死に酔ったような第4交響曲は、ポポフの第1交響曲と構成が似ているだけでなく、時折その音楽を引用しているようにも思えるのです。ショスタコーヴィチがこれらのほぼ引用に近い表現で密かにメッセージを送っていたかどうかは誰にも分かりませんが、1920年代に音楽院から一時的に追放され、1935年3月の初演後に再び非難を浴びたポポフとの連帯を示したかったのかもしれません。この作品は「我々に敵対する階級のイデオロギーを描いていると評されたのでした( “The Popov Discontinuity” by Alex Ross )。」


 最後にもうひとつ、2024年1月、シドニーのラジオ局『2MBS Fine Music Sydney』がポポフとショスタコーヴィチの特集を放送するに先立ちWebに公開されたパオロ・フックによる両曲への熱い想いを紹介します。

 「ポポフは1934年に交響曲第1番を完成させました。極めて印象的な作品で、表現主義的カタストロフィズムの様式に基づく破滅とヒステリーとも言うべき雰囲気を漂わせています。悲劇的で不協和音に満ちた終末論的なこの作品は、作曲家が生きていた世界を映画のように描写しています。このポポフの交響曲はショスタコーヴィチの交響曲第4番と多くの類似点を持ち、多くの点でその先駆者と言えるでしょう。特筆すべきは、ポポフの冒頭の強烈なアレグロ・エネルジーコが20分以上も持続することです。クレッシェンドにクレッシェンドを重ね、容赦ないリズムによるエネルギーと極限に迫るオーケストレーションが織りなす効果は圧倒的です。

 ショスタコーヴィチは1936年に完成させた自身の交響曲第4番の創作への刺激として、ポポフの交響曲第1番を用いたと思われます。ポポフの交響曲にはマーラーの精神が漂っており、ショスタコーヴィチは親しい友人であったロシアの音楽学者で評論家のイヴァン・ソレルチンスキーからマーラーの音楽を紹介され、マーラーを敬愛していたことで知られています。

 マーラーは『交響曲は世界と同じでなければならない。すべてを包含しなければならない』という有名な​​言葉を残していますが、ショスタコーヴィチの交響曲第4番は紛れもなく壮大な作品です。『125人のオーケストラを必要とするにもかかわらず、真の過剰さはその形式、いやむしろ形式の欠如にある』と、著名な英国の指揮者でありショスタコーヴィチ専門家のマーク・ウィグルスワースはこの交響曲の解説の中で述べています。『しかし、この点でこの作品を批判することは、一見するとまとまりがなく、時に支離滅裂な構成こそがこの作品の真髄であるという事実を無視することになる。この音楽が壮大で大げさなのは、壮大さと大げささを体現しているからだ。誇張することを意図しているのである。』ショスタコーヴィチは、自らが生きた世界を痛烈に描写しているのです。『巨人狂』とは大きなものすべてが称賛された1930年代のソヴィエト連邦のの国民感情を表現するのに使われた言葉だったのです( "The World of a Symphony: Popov and Shostakovich" By Paolo Hooke 11 December 2023, Fine Music Magazine )。」



  なお、このポポフの交響曲第1番はショスタコーヴィチの尽力もあって復権を遂げはしたにもかかわらず、交響曲は1972年まで再演されませんでした。イサーク・グリークマンによると、ショスタコーヴィチはポポフが没した1972年に「彼には才能がありました。彼の交響曲第1番は多くの素晴らしい要素を含んでいましたが、当時形式主義反対運動によって禁止されました。私はポポフ追悼委員会の委員長に任命されていますが、彼の作品が演奏されることは不可欠です。」と語っています( Story of a Friendship: The Letters of Dmitry Shostakovich to Isaak Glikman, 1941-1975 p.186 )。」




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