ショスタコーヴィチ:交響曲第4番

第2章 作曲開始

 
                              Shostakovich

 


第4交響曲の作曲開始
 1935年3月22日に初演されその翌日に批判されたポポフの交響曲に対して、ショスタコーヴィチがその名誉挽回に奔走したのが数週間だったとして、その後、手の空いたショスタコーヴィチが4月の半ばにトルコに出かけたことは既述の通りです。ローレル・E.・ファーイはさらに次のように述べています。

 「準備作業として実現したのは『管弦楽のための5つの断章』作品42で、6月9日の一日でそのすべての草稿が出来上がりました。交響曲第4番の完成形となる作品の着手は、通常1935年9月中旬とされています。10月末、ガヴリール・ポポフは第1楽章を再現部まで聴き、『きわめて厳格で、力強く、そして格調高い』と評しました。( “Shostakovich: A Life” by Laurel Fay p.93 )。」

 ここでファーイが「準備作業」という書き方をしているのは非常に示唆に富んでいると思われます。この『管弦楽のための5つの断章』は、管弦楽のためというより室内楽と言うべきで、管楽器のみ、弦楽器のみ、ほぼヴァイオリン・ソロのみといった編成の曲となっています。そして、これから書かれる交響曲第4番にその断片をそのまま埋め込んでも全く違和感がなさそうなものに仕上がっているのです。旋律が同一ということではありませんが(だからちゃんと作品番号を与えています。)、この曲と似通った編成、テイストの音楽が交響曲第4番にもちりばめられているのです。まさしく交響曲を書くための練習用の作品と言っても過言ではない作品なのです。特にソロ・ヴァイオリンの使い方は、マーラー風のところがあったり、その後のショスタコーヴィチの作品を予告するようなところがあったりと非常に興味深いものがあります。見方を変えれば、ショスタコーヴィチはそれだけ慎重にかつ周到な準備の元に新しい交響曲に取り組もうとしていたということになります。もちろん、ポポフに負けない作品にしなければならないと思っていたのは言うまでもありません。この『管弦楽のための5つの断章』のスコア付きの動画は YouTube で視聴できます。

 ショスタコーヴィチが交響曲第4番に集中できる環境が整ったのが『管弦楽のための5つの断章』の完成後であるとすると1935年の6月中旬以降とも考えることができます。そして実際に音符を紙に書き始めたのが9月半ばとされています。ショスタコーヴィチがポポフにピアノで第1楽章の再現部まで聴かせたのが10月31日、12月初旬には第1楽章を完成させ、年明け早々には第2楽章を完成せます。これについてローレル・E.・ファーイは次のように述べています。

 「12月初旬までにはまばゆいばかりにオーケストレーションされた第1楽章が完成し、『壮大な(30分に及ぶ!)』という言葉がモスクワにもたらされました。さらに、1936年1月6日、ショスタコーヴィチはモスクワからソレルチンスキーに連絡を取り、交響曲の第2楽章を数日前に完成させたことを『アレグレットのテンポで間奏曲のような雰囲気です。演奏時間は10分です。出来栄えに満足しています。』と伝えています。ソレルチンスキーはその時、ボリショイ劇場の不運な『マクベス夫人』の公演(*)とマールイ・オペラ劇場の巡業にも関わっていたのでした( “Shostakovich: A Life” by Laurel Fay p.93 )。」
*1月26日にスターリンが臨席することになる公演の準備をしていました。次章『プラウダ批判』参照。

 しかし、第2楽章まで完成した交響曲第4番は思わぬ事件の勃発で一時中断されることになります。その事件とは、第2楽章の完成を伝えた20日後に起きた不運な『マクベス夫人』の公演となるのです。
 




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