二条為遠 にじょうためとお 暦応四〜永徳元(1341-1381)

二条家嫡流、為定の子。母は土御門禅尼(草庵集)。洞院公賢の猶子となる。兄の左少将為貫・定世、弟の左中将為有らは早世した。子に左中将為衡(新続古今集入集歌人)がいる。御子左家系図
蔵人頭などを経て、貞治三年(1364)、参議に任ぜられる。応安二年(1369)、権中納言に昇進。同六年(1373)、従二位に昇叙。永和四年(1378)、権大納言に至る。
延文四年(1359)、父に代り新千載集奏覧を行なう。貞治六年(1367)三月の新玉津島社歌合に出詠。後光厳天皇に信任され、たびたび内裏歌会に出詠、応安二年(1369)九月十三夜内裏和歌会では題者・御製講師をつとめた。しかし北朝歌壇の実力者二条良基は二条家庶流の為重を重用し、晩年は為重の後塵を拝する有様であった。永和元年(1375)、足利義満の執奏により新後拾遺集の撰者に任命されたが、撰集作業は遅々として進まず、義満に二度に渡り籠居を命ぜられた。結局完成を見ぬまま、永徳元年八月二十七日、病没。四十一歳。酒に溺れ、懈怠の人であったという(後愚昧記)。延文・永和百首作者。新千載集初出。勅撰入集三十首。

延文百首歌に

今もなほ咲けばさかりの色みえて名のみ古りゆく志賀の花園(新後拾遺94)

【通釈】今もなお、花が咲けば真っ盛りの美しい色が見えて、古びてゆくのは名前ばかりである、志賀の花園よ。

【補記】「志賀の花園」は、天智天皇の近江大津宮にあった桜の園。中世にも残存したようで、昔を偲ぶ歌枕として、たびたび歌に詠まれている。延文百首は延文元年(1356)、新千載集撰進にあたり後光厳院により召されたもの。

【参考歌】祝部成仲「千載集」
さざ浪や志賀の花ぞのみるたびにむかしの人の心をぞしる
  藤原俊成女「新千載集」
故郷となりにしかども桜さく春やむかしのしがの花ぞの

康暦二内廿首

山里もかくやは思ふさびしさの心にかなふ秋の夕ぐれ(題林愚抄)

【通釈】山里でもこれほどに思うだろうか。物寂しさが、沈んだ私の心にぴったり叶っている、都の秋の夕暮よ。

【補記】「やは」は反語。康暦二年(1380)の内裏二十首。室町中期の類題歌集『題林愚抄』に収録。

寄玉恋といふ事を

せきあへぬ袖よりおちて憂きことの数にもあまる滝の白玉(新続古今1081)

【通釈】堰き止めようにも止められぬ袖からこぼれ落ちて、辛いことの数にもまさって多い、滝の白玉よ。

【補記】「滝の白玉」は滝の飛沫。下記本歌により涙を指す。

【本歌】在原行平「古今集」
こきちらす滝の白玉ひろひおきて世のうき時の涙にぞかる


最終更新日:平成15年05月25日