二条為藤 にじょうためふじ 建治元〜元亨四(1275-1324)

権大納言為世の息子。母は賀茂氏久女。叔父の参議為雄の猶子となるが、兄為道が早世したため、嫡家を嗣いだ。為冬為子の兄。子に為明・為清・為忠がいる。御子左家系図
後宇多天皇の弘安九年(1286)正月、初叙。左少将・右中将・右兵衛督・蔵人頭などを経て、花園天皇の延慶元年(1308)十二月、参議に任ぜられ従三位に叙せられる。正和六年(1317)十二月、権中納言。後醍醐天皇の文保二年(1318)三月、従二位。八月、侍従を兼ねる。元亨四年(1324)、正二位中納言。同年七月十七日、薨去。五十歳。
二条家の嫡流として歌壇に重きをなし、嘉元元年(1303)十二月に奏覧された新後撰集の連署に名を列ねる。元亨三年(1323)七月、父の推挙により続後拾遺集の単独撰者となったが、完成を見ずに没した。たびたび自邸で歌会を催し、後宇多・後醍醐の仙洞・内裏での歌会・歌合を中心として歌壇で活躍。正安四年(1302)六月の当座歌合、乾元二年(1303)七月の後二条院歌合、元亨三年(1323)七月七日後宇多院の亀山殿七百首、元亨四年(1324)二月後宇多院の石清水社歌合などに出詠した。また文保三年(1319)の文保百首、嘉元元年(1303)の嘉元百首に詠進した。新後撰集初出。勅撰入集計百十六首。

嘉元々年後宇多院に百首歌奉ける時、春雪

吹きまよふ磯山あらし春さえて沖つ潮あひに淡雪ぞふる(続後拾遺16)

【通釈】海辺の切り立った岩山に嵐は吹き迷い、春の日も寒々として、沖の潮合に淡雪が降るよ。

【補記】磯山の上で嵐に吹かれつつ、沖合いを眺めている。雪は強風に煽られてひとかたまりになり、沖の方にだけ降っているように見えるのだろう。荒々しい浅春の磯辺を詠む、珍しい趣向。

【参考歌】鷹司冬平「玉葉集」
雲はるる磯山あらしおとふけて沖つしほせに月ぞかたぶく

今上いまだみこの宮と申し侍りし時、講ぜられし五首歌の中に、花

さざなみや志賀の古郷あれまくを幾代の花に惜しみきぬらん(続千載110)

【通釈】由緒ある志賀の古里が荒れてしまうのを、幾年の花に惜しんで来たことだろう。

【補記】詞書の「今上」は後醍醐天皇。「さざなみ」(楽浪)は琵琶湖西南部一帯の古名。「さざ波」の意を響かせ、琵琶湖西岸の地「志賀」の枕詞として用いている。志賀は景行・成務・仲哀三代の皇居の地と伝わり、天智天皇の大津京もこの地に営まれたので、「古郷」(古い由緒のある里)と呼ばれる。「志賀の花園」がたびたび歌に詠まれ、桜の名所でもあった。

【参考歌】平忠度「千載集」
さざ浪や志賀の都はあれにしを昔ながらの山ざくらかな

元亨四年正月、後宇多院に十首歌講ぜられける次に、人々題をさぐりて百首歌つかうまつりける時、雲間郭公を

ほととぎす雲のいづくに忍びきて空よりもらす初音なるらむ(新千載224)

【通釈】時鳥よ、いつのまに雲のどこかに忍び入って、空から初音を洩らしたのだろうか。

【補記】飛びながら鳴くことが多く、しかも滅多に姿を見せない時鳥の特質をよく捉えているだけでなく、「雲に忍びきて」「空よりもらす」など、表現の工夫が光る。

文保三年後宇多院へ奉りける百首歌の中に

月影に鵜舟のかがりさしかへて暁やみの夜川こぐなり(風雅371)

【通釈】沈んでしまった月の光に代えて、鵜飼船は篝火を燃やし、暁闇の夜川を漕いでゆくようだ。

【補記】闇夜の川面に映える篝火を詠むのは歌題「鵜舟」の本意(本来的な情趣)であるが、月影から篝火に「さしかへ」た時を捉えたのは、粋な趣向。

百首歌奉りし時

すむ月の影さしそへて入江こぐ芦分け小舟(をぶね)秋風ぞ吹く(続千載491)

【通釈】澄んだ月の光を連れ添わせながら、入江を漕いでゆく葦分け小舟――秋風が吹き寄せる。

【補記】水面に映った月と共に、芦を分けつつ移動してゆく小舟。作者(作中の我)は舟の同乗者と考えるべきか。「芦分け小舟」は万葉集に由来する歌語。

難波に月見にまかりて五首歌よみ侍りけるに、海上暁月といふことを

難波がた入潮(いりしほ)ちかくかたぶきて月より寄する沖つ白波(新拾遺442)

【通釈】満潮近い難波潟に月は沈みかけて、その月から寄せて来る、沖の白波。

【補記】水平線に没しようとする月を始発点とするかのように、月光に照らされつつ寄せて来る白波。「月より寄する」は独創の秀句。

嘉元百首歌の中に霰

あられふる雲のたえまの夕づく日ひかりをそへて玉ぞみだるる(玉葉1008)

【通釈】霰の降る雲の絶え間に夕日がさし、その光にいっそう輝きを増して霰の珠が散り乱れる。

【参考歌】源義氏「続拾遺集」
あられふる雲のかよひぢ風さえて乙女のかざし玉ぞみだるる

【補記】ヒントをもらった先行歌に似すぎているが、霰に焦点を絞った分、先行歌よりも印象は鮮明になった。しかも夕日の光で珠を彩ったことが、玉葉集撰者為兼の眼鏡にかなったか。

正和五年九月十三夜後醍醐院みこの宮と申しける時、五首歌めされけるに、月前恨恋

人をこそ恨み果つとも面影のわすれぬ月をえやはいとはん(新拾遺1352)

【通釈】つれない恋人を最後まで恨み通すとしても、あの人の面影を思い出させる月までも厭うことはできようか。

【参考歌】肥後「新古今集」
面影のわすれぬ人によそへつつ入るをぞしたふ秋のよの月

後宇多院に十首歌たてまつりける時

こえかぬるいはねの道に宿とへばなほ山ふかき鐘の音かな(新続古今977)

【通釈】越えるのに難渋する岩の道を行きつつ今宵の宿を尋ねれば、なお山奥の方から鐘の音が響くことだよ。

【補記】宿を借りるつもりであった寺は、なお山奥にあった。この鐘は入相の鐘であろう。

【参考歌】藤原隆信「正治初度百首」
とはばやな猶山ふかき宿もあらばこれより月やさびしかるらむ


公開日:平成14年11月23日