源通親 みなもとのみちちか 久安五〜建仁二(1149-1202) 号:土御門内大臣・源博陸(げんはくろく)

村上源氏。内大臣久我(こが)雅通の長男。母は藤原行兼の息女で美福門院の女房だった女性。権大納言通資の兄。子には、通宗(藤原忠雅女所生)、通具(平道盛女所生)、通光・定通(藤原範子所生)がいる。道元(松殿基房女所生)も通親の子とする説がある。後鳥羽院后在子は養女。
保元三年(1158)八月、従五位下に叙される。仁安二年(1167)、右近衛権少将。同三年正月、従四位下に昇叙され、加賀介を兼任する。同年二月、高倉天皇が践祚すると昇殿を許され、以後近臣として崩時まで仕えることになる。同年三月、従四位上、八月にはさらに正四位下に叙せられ、禁色宣下を受ける。嘉応元年(1169)四月、建春門院(平滋子)昇殿をゆるされる。承安元年(1171)正月、右近衛権中将。十二月、平清盛の息女徳子の入内に際し、女御家の侍所別当となる。治承二年(1178)、中宮平徳子所生の言仁(ときひと)親王(安徳天皇)の立太子に際し、東宮昇殿をゆるされる。同三年(1179)正月、蔵人頭に補される。十二月、中宮権亮を兼ねる。同四年正月、参議に任ぜられる。同年三月、高倉上皇の厳島行幸に供奉。六月には福原遷幸にも供奉し、宮都の地を点定した。
平安京還都後の治承五年(1181)正月、従三位に叙されたが、その直後、高倉上皇が崩御(二十一歳)。上皇危篤の時から一周忌までを通親が歌日記風に綴ったのが『高倉院升遐記』である。同年閏二月には平清盛が薨じ、政治の実権は後白河法皇へ移る。以後、通親も法皇のもとで公事に精励することになる。改元して養和元年の十一月、中宮権亮を罷め、建礼門院別当に補される。同二年正月、正三位。
寿永二年(1183)七月、平氏が安徳天皇を奉じて西下すると、通親はそれ以前に比叡山に逃れていた後白河天皇のもとに参入。ついで院御所での議定に列した。同年八月、後鳥羽天皇践祚。この後、通親は新帝の御乳母藤原範子(範兼の娘)を娶り、先夫との間の子在子を引き取って養女とした。
元暦二年(1185)正月、権中納言に昇進。文治二年(1186)三月、源頼朝の支持のもと、九条兼実が摂政に就任。この時通親は議奏公卿の一人に指名された。同三年正月、従二位。同五年正月、正二位(最終官位)。同年十二月、法皇寵愛の皇女覲子内親王(母は丹後局高階栄子)の勅別当に補される。以後、丹後局との結びつきを強固にし、内廷支配を確立してゆく。
建久元年(1190)七月、中納言に進む。同三年三月、後白河院が崩じ、摂政兼実が実権を握るに至るが、通親は故院の旧臣グループを中心に反兼実勢力を形成した。同六年十一月、養女の在子が皇子を出産(のちの土御門天皇)。同月、権大納言に昇る。建久七年(1196)十一月、任子の内裏追放と兼実の排斥に成功。同九年(1198)には外孫土御門天皇を即位させ、後鳥羽院の執事別当として朝政の実権を掌握。「天下独歩するの体なり」と言われ、権大納言の地位ながら「源博陸」(博陸は関白の異称)と呼ばれた(兼実『玉葉』)。
正治元年(1199)正月、右近衛大将に任ぜられる。その直後源頼朝が死去すると、通親排斥の動きがあり、院御所に隠れ籠る。結局幕府の支持を得て事なきを得、同年六月には内大臣に就任し、同二年四月、守成親王(のちの順徳天皇)立太子に際し、東宮傅を兼ねる。
和歌は若い頃から熱心で、嘉応二年(1170)秋頃、自邸で歌合を催している。同年の住吉社歌合・建春門院滋子北面歌合、治承二年(1178)の別雷社歌合などに参加。
殊に内大臣となって政局の安定を果したのちは、活発な和歌活動を展開し、後鳥羽院歌壇と新古今集の形成に向けて大きな役割を果すことになる。正治二年(1200)十月、初めて影供歌合を催し、以後もたびたび開催する。同年十一月には後鳥羽院百首歌会に参加(正治初度百首)。建仁元年(1201)三月、院御所の新宮撰歌合、同年六月の千五百番歌合に参加。同年七月には、二男通具と共に後鳥羽院の和歌所寄人に選ばれた。
しかし新古今集の完成は見ることなく、建仁二年(1202)冬、病に臥し、同年十月二十日夜(または二十一日朝)、薨去。五十四歳。民百姓に至るまで死を悲しみ泣き惑ったという(源家長日記)。贈従一位を宣下される。
著書には上記のほか『高倉院厳島御幸記』などがある。千載集初出。勅撰入集三十二首。

  4首  4首  3首 計11首

 

有明の月をこずゑにのこしおきて花よりしらむみ吉野の里(三百六十番歌合)

【通釈】有明の月を梢に残しておいたまま、花の咲いているところから白み始めるよ、吉野の里の夜明けは。

【語釈】◇有明の月 明け方まで空に残る月。ふつう、陰暦二十日以降の月。◇花よりしらむ 山桜の白い花の咲く梢に、有明の月が残っているので、そのあたりはひときわ早く明るくなるように見える。◇み吉野の里 奈良県吉野郡。桜の名所。

【補記】「三百六十番歌合」は正治二年(1200)八月二十六日の日付をもつが、成立は建仁元年(1201)三月以後(和歌文学辞典)。公任撰の「三十六人撰」などに倣った紙上歌合。

【類想歌】九条良経「南海漁父北山樵客百番歌合」(建久五年(1194)以前の成立。通親の歌との先後関係は不明。)
泊瀬山をのへの鐘の明がたに花よりしらむ横雲の空

 

月ならぬ花も山路はおくりけり雲ゐをしのぶ旅の空には(三百六十番歌合)

【通釈】月の光が旅人を送ってくれるとはよく聞くが、月ならぬ桜の花も山路を送ってくれるのだなあ。雲のかなた、遥かな都を偲びつつゆく、旅の空では。

【語釈】◇雲ゐ 原義は「雲のあるところ」、すなわち空のこと。「遥かな遠い場所」「宮中」などの意にもなる。◇旅の空 旅の途次にある不安な胸中の意がかかる。

久我内大臣の家にて、「身にかへて花を惜しむ」といへる心をよめる

桜花うき身にかふるためしあらば生きて散るをば惜しまざらまし(千載92)

【通釈】どうせ辛い現世を生きているこの身なのだ、桜の花が散るのを命に代えて止めたい。そんなことができる例(ため)しがあるというのなら、私は進んで身を捨てようから、花の散るの生きて惜しむことなどないだろうに。

【語釈】◇久我内大臣 作者の父、源雅通。◇うき身 憂き身。辛い現世を生きている身。◇ためし 前例・先例。◇惜しまざらまし 惜しむことはないだろう。「まし」はいわゆる反実仮想の助動詞。現実には不可能な仮定のもとで、「こうであろう」と予想する心をあらわす。

【参考歌】藤原長能「拾遺集」
身にかへてあやなく花を惜しむかな生けらば後の春もこそあれ
  源俊頼「詞花集」
身にかへて惜しむにとまる花ならばけふや我が世のかぎりならまし

 

をしみかねまどろむ夢のうちにさへ暮れぬとみゆる春ぞはかなき(正治初度百首)

【通釈】いくら惜しんでも惜しみきれず、うとうとした眠りの中でさえ、春が暮れてしまった夢を見た。こんな夢まで見させる春とは、なんてはかないものなんだ。

法住寺殿の殿上の歌合に、臨期違約恋といへる心をよめる

いましばし(そら)だのめにもなぐさめて思ひ絶えぬる宵の玉づさ(千載777)

【通釈】もう少しだけ待ってみよう。もう少しだけ…あてにならないあの人の約束に、空しい期待を寄せて、自分の気持ちを慰めていたけれど、とうとう心も尽き、諦めてしまったわ。あの人が宵になって寄越した手紙を読みながら。

【語釈】◇法住寺殿の殿上の歌合 嘉応二年(1170)建春門院北面歌合。「建春門院」は平滋子。◇臨期違約恋 期に臨んで約を違ふる恋。逢瀬の時になって約束を破られた、という恋の状況設定。◇いましばし 「今しばらくしたら行く」という男の手紙の内容を指しているとも考えられる。◇空だのめ その気もないのにあてにさせること。また、それによる「むなしい期待」の意にもなる。◇思ひ絶え 期待する気持ちが途切れてしまう。逢うことを諦める。

【補記】女の立場で詠んだ歌。

建仁元年三月歌合に、逢不遇恋の心を

あひみしは昔がたりのうつつにてそのかねごとを夢になせとや(新古1299)

【通釈】逢って思いを遂げたのは、もう昔話になってしまったと言うのですか。それが現実であって、あの約束の言葉は夢と思ってくれとでも?

【語釈】◇建仁元年三月歌合 建仁元年(1201)三月二十九日、新宮撰歌合。◇逢不遇恋 逢ひて遇はぬ恋。ひとたび思いを遂げたが、その後逢い難くなった状況にある恋。◇昔がたりのうつつ 昔の思い出になってしまったという現実。◇かねごと 約束した言葉。

題しらず

死ぬとても心をわくるものならば君にのこしてなほや恋ひまし(千載903)

【通釈】あなたへの恋の苦しさに、私は死んでしまうだろう。死んだとしても、心を分けてこの世に残すことができるなら、あなたのもとに残して、さらに恋し続けようものを。

九月つごもりに女につかはしける

世にしらぬ秋の別れにうちそへて人やりならず物ぞかなしき(千載949)

【通釈】これまでの人生で、こんなに悲しい秋との別れはありませんでした。しかもそれに加えて、人に飽きられ、世間に隠し通してきたこの恋も、終りを迎えたのです。いえ、誰のせいでもありゃしません。自分の心からのことなのですが、なんとも悲しい気持ちです。

【語釈】◇世にしらぬ 「自分の人生でこれまで知らなかった(秋との悲しい別れ)」「世間に知られなかった(あなたとの秘かな恋)」の両意。◇秋の別れ 恋人に「飽き」られての別れ、を掛けていると思われる。◇人やりならず 人から強いられたのでなく、自分の心から。「人やり」は人からの強制。この「人」はもちろん相手の女を暗示し、実は「こんなに悲しいのはあなたのせいだ」と言外に女を責めているのである。

春ころ、久我(こが)にまかれりけるついでに、父のおとどの墓所のあたりの花の散りけるを見て、むかし花を惜しみ侍りける心ざしなど思ひいでてよみ侍りける

ちりつもる苔の下にも桜花をしむ心やなほのこるらん(千載1155)

【通釈】墓所の苔の生えた地面には、桜の花びらが散り積もっています。生前、父上は花の散るのを愛惜されたものですが、この土の下でも、花を惜しむ御心は、まだ残っているのでしょうか。

【語釈】◇久我 今の京都市伏見区、桂川の西岸。源師房以来、久我源氏の別荘があった。◇父のおとど 作者の父、内大臣源雅通。承安五年(1175)二月二十七日、五十八歳で薨じた。◇苔の下 墓のこと。

 

あくがれて今はと思ふ山里にすみなれにける夜はの月かな(千五百番歌合)

【通釈】心が惹き寄せられて、今こそ出家したい――そんな風に思える山里に、もうすっかり住み慣れたとでもいうように、澄んだ光を投げかけている、夜の月だなあ。

【語釈】◇あくがれて 「あくがれ」の原義は、魂が身体を離れる。ここでは、山里での閑居に心が惹かれることを言っている。◇すみ 澄み・住みの掛詞。

【補記】千五百番歌合、秋三、七百二十番右持。

【参考歌】
ながめわびて今はと思ふ山里の有明の月に衣うつなり(慈円)

百首歌たてまつりしとき

朝ごとに(みぎは)の氷ふみわけて君につかふる道ぞかしこき(新古1578)

【通釈】毎朝、水際に張った氷を踏み、道をつけて、宮城に通います。そのように、陛下にお仕えする臣下の道は、身も竦むように畏れ多いものです。

【語釈】◇氷ふみわけて 「ふみわけ」は踏んで道をつけることを言う。氷をよけて通ることではない。「薄氷を履(ふ)む如し」(詩経)を踏まえるとする説もある。◇道ぞかしこし この「道」は、宮廷に仕える臣下としての、然るべきあり方・生き方を言う。「かしこし」は、霊威に対し畏怖を感じる心をいうのが原義。身も心もすくむような感情。

【補記】正治二年(1200)の後鳥羽院初度百首。

【他出】定家十体(有一節様)、新時代不同歌合

【本歌】「源氏物語・浮舟」
峰の雪みぎはの氷ふみわけて君にぞまどふ道はまどはず


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:平成22年04月14日