九条兼実 くじょうかねざね 久安五〜建永二(1149-1207) 通称:月輪殿・後法性寺殿・後法性寺入道関白など

九条家の祖。関白藤原忠通の子。母は藤原仲光女、加賀。覚忠・崇徳院后聖子・基実・基房らの弟。兼房・慈円らの兄。子には良通・良経・良輔・良平・後鳥羽院后任子ほかがいる。
保元元年(1156)二月、母を亡くす。同三年正月、元服し、正五位下に叙せられる。この年、兄の基実は二条天皇の関白となった。
永暦元年(1160)二月、従三位。 同年八月、権中納言。応保元年(1161)、権大納言。長寛二年(1164)には十六歳にして内大臣に任ぜられた。同年二月、父が逝去。
永万元年(1165)六月、六条天皇の践祚とともに兄基実は摂政に就くが、翌年七月、二十四歳で夭折したため、次兄基房が代わって摂政となった。兼実は仁安元年(1166)、右大臣に昇る。
承安二年(1172)十二月、基房は関白に転じ、やがて反平氏政策を実行、治承三年(1179)十一月、平清盛のクーデタにより解官され備前国に流された。清盛は娘婿の基通(基実の子)を関白とし、後白河法皇の院政を停止。翌年、福原に遷都したが、兼実はこの時京都に留まった。この間、承安四年(1174)には従一位に叙されている。
寿永二年(1183)、平氏都落ちの際、これに同行しなかった摂政基通と共に、後鳥羽天皇の擁立に動いた。木曽義仲入京の際は静観を通したが、源頼朝とは互いに接近し、連絡を取り合った。同三年、義仲誅滅と共に基通が摂政に復帰。しかし基通は文治二年(1186)三月、前年の頼朝追討宣旨の責めを負って辞任し、頼朝の支持のもと、代わって兼実が摂政に就任した。
文治五年(1189)十二月、太政大臣。建久元年(1190)正月、娘の任子を後鳥羽天皇に入内させる。同年、大臣を辞し、翌建久二年、関白に転ずる。同三年(1192)三月、後白河法皇が崩御すると、実権を掌握し、頼朝の征夷大将軍宣下を実現した。
しかし建久七年(1196)、源通親の策謀により関白を罷免され、任子は皇子をなさぬまま内裏を追われた。建仁二年(1202)二月、法性寺で出家し、円証を称す。同年、通親が没し、後鳥羽院が実権を握ると、良経が摂政に任ぜられ、九条家復活の兆しが見えたものの、元久三年(1206)三月にはその良経に先立たれた。翌年の承元元年(1207)四月五日、法性寺にて逝去。享年五十九。
和歌は初め六条家の清輔を師としたが、その死後、俊成を迎えた。承安から治承にかけてさかんに歌会・歌合を開催し、九条家歌壇の基礎をつくった。この歌壇は息子の良経に引き継がれて、慈円・定家ら新風歌人たちの活躍の場となる。千載集初出。勅撰入集計六十首。長寛二年(1164)から正治二年(1200)に及ぶ日記『玉葉』がある。

  4首  1首  1首  3首  1首 計10首

右大臣に侍りける時、家に歌合し侍りけるに、霞の歌とてよみ侍りける

霞しく春の潮路を見わたせばみどりを分くる沖つ白波(千載8)

【通釈】すみずみまで霞が広がる、春の航路を見わたせば、水の色に染まった霞と、青い海原と、ひとつに融け合ったようないちめん真っ青な景色を、沖に立つ白波だけがくっきりと分けているようだ。

【語釈】◇潮路(しほぢ) 話手が乗っている船の前に広がる海原。◇みどりをわくる 霞と海がひとつに融け合ったような景色の中で、水平線に白く立つ波が霞と海とを分けて見せている、ということ。海や空の青色を当時は「みどり」と言った。

【参考歌】藤原忠通「詞花集」
わたの原こぎ出でてみれば久方の雲居にまがふ沖つ白波

文治六年女御入内屏風に

今日よりは君にひかるる姫小松いくよろづ代か春に逢ふべき(玉葉13)

【通釈】入内した今日からは、陛下と連れ立ってゆく我が娘よ。これから先、何万年のめでたい春を迎えることになるだろう。

【語釈】◇文治六年女御入内屏風 兼実のむすめ任子が後鳥羽天皇に入内した祝いの屏風。◇君にひかるる姫小松 正月最初の子日(ねのひ)に野で小松を根引きする行事をかけて言う。「姫」は「小さな、可愛らしい」意を添える語。作者にとっての娘の意を掛けている。

【参考歌】大中臣能宣「拾遺集」
千とせまで限れる松もけふよりは君にひかれて万代やへむ
  藤原清輔「清輔集」
身をつめば老木の花ぞあはれなるいまいくとせか春にあふべき

「深き山の花を尋ぬ」といへる心をよみ侍りける

咲きぬやと知らぬ山路にたづね入る我をば花のしをるなりけり(千載60)

【通釈】咲いたかと思って、知らない山道に尋ね入った私に、花が道案内をするのだった。

【語釈】◇花のしをるなりけり 「しをる」は元来「枝折しをる」で、木の枝を折って道しるべにするのを言うが、この原義を生かし、桜の方が人を「しをる」という洒落になっている。

右大臣に侍りける時、家に百首歌よみ侍りける中に

桜咲く高嶺に風やわたるらむ雲たちさわぐを初瀬の山(玉葉220)

【通釈】峰の高いところに桜が咲いていて、そこを風が吹いてわたるのだろうか。雲があわただしく動いているように見えるよ、初瀬の山は。

【語釈】◇雲たちさわぐ 桜の散り乱れるさまを喩えて言う。◇を初瀬の山 奈良県桜井市の初瀬周辺の山。長谷寺がある。桜の名所でもあった。

【参考歌】よみ人しらず「後撰集」
菅原や伏見の暮にみわたせば霞にまがふを初瀬の山

右大臣に侍りける時、家に百首の歌よませ侍りけるに、時鳥(ほととぎす)の歌とてよみ侍りける

思ふことなき身なりせば時鳥夢に聞く夜もあらましものを(千載160)

【通釈】辛いことがある時に聞くと、ほととぎすの声は人を憂鬱にさせるものだ。何も悩みがない身分だったら、夜、夢の中でだってほととぎすの声を聞きたいものなのに。

右大臣の時の百首に

大空にあかぬ心の満ちぬれば我が身のうちの月かとぞ見る(万代集)

【通釈】飽きずに眺めているうち、大空いっぱいに月をめでる心が満ちてしまったので、この月は我が身中にあるのかと思って見るのだよ。

【語釈】◇あかぬ心 いくら見ても見飽きず、月を賞美する心。

右大臣に侍りける時、家歌合に、恋の歌とてよみ侍りける

行きかへる心に人の馴るればや逢ひ見ぬ先に恋しかるらむ(千載742)

【通釈】いつもあの人のもとに通(かよ)っている私の心に、あの人も馴れ親しんだのではないか。だからきっと、実際に逢う前からもう、私のことが恋しくてならないことだろうよ。

【語釈】◇行きかへる心 体を離れて往き来する魂。◇人の馴るればや あの人も私の魂が通って来ることに馴れたからだろうか。◇恋しかるらむ 「恋し」がる主体は「人」。助動詞「らむ」は、目に見えない現在の事態を「今頃はさぞかし…ことだろう」と推量する心をあらわす。ここでは恋人の気持ちを推測しているのである。

右大臣に侍りける時百首歌よませ侍りけるに、後朝(きぬぎぬ)の歌とてよみ侍りける

帰りつる名残(なごり)の空をながむれば慰めがたき有明の月(千載838)

【通釈】あの男(ひと)が帰ってしまったあとの、なごり尽きない空を眺めると、ただ有明の月が残っているだけ。なんの慰めにもなりはしないわ。

【参考歌】藤原範兼「千載集」
月待つと人にはいひてながむれば慰めがたき夕暮の空

題しらず

惜しみかねげに言ひ知らぬ別れかな月もいまはの有明の空(千載946)

【通釈】惜しむに惜しみきれず、これはほんとうになんと言っていいのかわからないほど悲しい別れだなあ。月も今にも沈もうとしている、有明の空…。

【語釈】◇月もいまはの 月も今となっては沈もうとしている。恋人が去って、月も…という心。

題しらず

昔よりはなれがたきはうき世かなかたみにしのぶ中ならねども(新古1832)

【通釈】昔から、辛くとも離れがたいのは憂き世であるよ。互いに忍び合うような、仲ではないけれども。

【語釈】◇うき世 つらい世の中。つらい男女の仲の意もあるので、憂き世との仲を恋仲になぞらえて詠んだのであろう。◇かたみにしのぶ仲ならねども 互いに隠し、堪えるような仲というわけではないけれども。

【補記】一見恋歌のようにも見えるが、新古今集に雑歌とし述懐の歌として収めるので、そのような解釈をとった。


更新日:平成15年03月21日
最終更新日:令和4年07月09日