京極為子 きょうごくためこ 生没年未詳(1251?-1316?) 通称:従二位為子・藤大納言典侍

京極為教の子。為兼の姉。生年は建長三年(1251)頃かという。しばしば二条為子(贈従三位為子、権大納言局)と混同されるので注意されたい。
はじめ大宮院(西園寺実氏女。後嵯峨院后)に仕えて大宮院権中納言と称し、のち伏見院永福門院に仕えて藤大納言典侍・大納言三位などと称した。花園院の乳母もつとめる。正和三年(1314)、従二位に至る。同五年までに六十五歳くらいで没したかという。
弘安八年(1285)四月の歌合をはじめ、正応三年(1290)九月十三夜歌会、永仁五年(1297)八月十五夜歌会、正安元年(1299)春の五種歌合、乾元二年(1303)閏四月の仙洞五十番歌合・為兼卿家歌合、嘉元元年(1303)頃の当座三十番歌合など、前期京極派の主な歌会・歌合のほとんどに出詠している。弘安・嘉元両百首にも詠進。家集「藤大納言典侍集(典侍為子集)」がある。続拾遺集初出(続古今集とする説もある)。勅撰入集は計百二十六首。

  8首  3首  4首  3首  10首  11首 計39首

早春霞といふことをよみ侍りける

春霞かすみなれたるけしきかな睦月(むつき)もあさき日数と思ふに(玉葉6)

【通釈】のどかに霞みわたる今日――春霞は、すっかり霞み慣れたといった様子だなあ。正月になってまだ日数も浅いと思うのに。

【補記】早くも駘蕩とした気分を漂わせるかのように立ちこめる霞。「かすみなれたる」の一句で、悠揚たる新春の季節感を適確に表現すると共に、親しみを籠めて霞を冷やかすかのような可笑しみも感じさせる。春霞を山ないし春の女神がまとう衣に擬えた例は多いが、この歌のように霞自体を擬人化してしまったのは珍しい。

春夕の心を

ももちどり声のどかにて遠近(をちこち)の山はかすめる春の日ぐらし(玉葉25)

【通釈】たくさんの色々な小鳥たちのさえずりがのどかで、遠く近くの山々は霞んでいる――春の日が暮れるまで。

【補記】「ももちどり」は古今伝授の三鳥の一つ(他の二つは呼子鳥・稲負(いなおほせ)鳥)。様々な多くの鳥の意と思えるが、鶯の別名とも言い(八雲御抄)、千鳥の異称としても用いられたらしい。

【先蹤歌】藤原定家「拾遺愚草」
ももちどり声ものどかにかすむ日に花とはしるしよもの白雲

題しらず

のどかなる霞の空の夕づく日かたぶく末にうすき山の端(風雅28)

【通釈】のどかに霞みわたる空も暮れて、夕日が沈んでゆく――その先には、なおうっすらと霞んでいる山の稜線。

【補記】「むらむら」「しほる」などと並んで、「のどか」も玉葉風雅で非常に好まれた語。光線などのやわらかさを言うのと、心持のゆったりとした様を言うのと、主に二つの用い方がある。しかし気象を天地の心のあらわれと見なすかのような京極派の自然観にとって、両義は分かちがたく結びついていた。

曙花を

あはれしばしこの時過ぎでながめばや花の軒ばの匂ふあけぼの(玉葉197)

【通釈】ああ、今しばらくこの時が過ぎてしまわないで眺めていたいものだ。花の咲く軒端の山が朝日に美しく映える曙の景色よ。

【補記】「過ぎで」の「で」は打消の接続助詞。「この時過ぎで」とは「この時が過ぎずに」、すなわち時間を止めて花を眺めていたい、との心。「軒ばの匂ふ」は、軒端に眺められる山の桜が朝日に照り映える情景。

前大納言為兼、家に歌合し侍りけるに、春夜を

花白き梢のうへはのどかにて霞のうちに月ぞふけぬる(風雅206)

【通釈】おぼろ月に花が白く映える木々の梢――その上の空は風もなくのどかで――霞のうちに月夜も更けたことだよ。

【補記】乾元二年(1303)閏四月の京極為兼家歌合。なお、歌合の本文は結句を「月ぞふけゆく」とする。

落花をよみ侍りける

梢よりよこぎる花をふきたてて山もとわたる春の夕風(風雅234)

【通釈】梢から横ざまに散ってゆく花を、追い立てるように吹き飛ばしながら、山の麓を渡ってゆく春の夕風よ。

【補記】本来垂直の運動である落花が、春の強風によって水平に運動するという、着眼の面白さ。乾元二年(1303)仙洞五十番歌合、七番左勝、第三句は「さきだてて」。

雨中春庭といふことを

さきいづる八重山吹の色ぬれて桜なみよる春雨の庭(玉葉266)

【通釈】咲き出した八重山吹の花はしっとりと濡れた色になり、すでに散った桜の花びらは波のように寄せる、春雨の降る庭。

【補記】晩春、甘雨の降る庭という舞台で、季節の主役が交代する。「なみよる」は、水たまりに散った花びらが白波のように片方へ寄ること。

【先蹤歌】源雅兼「金葉集」
花さそふ嵐や峰をわたるらん桜なみよる谷川の水

暮春朝といふことを人々によませさせ給うけるに

ながめやる外山(とやま)の朝けこのままにかすめや明日も春を残して(玉葉288)

【通釈】眺めやる外山の早朝の景色――このまま霞み続けていてくれよ。暦は夏になる明日も春を残して。

題しらず

夏あさき青葉の山の朝ぼらけ花にかをりし春ぞわすれぬ(新拾遺200)

【通釈】夏浅い青葉の山に、ほのぼのと朝が明ける――花にけむっていた春の景色は決して忘れないよ。

【補記】乾元二年(1303)閏四月の為兼家歌合、題は「夏朝」、八番左持。

夏夜といふことを

星おほみはれたる空は色こくて吹くとしもなき風ぞ涼しき(風雅393)

【通釈】星がたくさん出て晴れた夜空は藍色が濃くて、吹くという程でもない風が涼しいなあ。

【補記】「色こくて」は、星の光に対する闇の色の濃さを言うのだろう。星が明るいからこそ、背景の闇も濃やかに美しく感じられる。またそれゆえにこそ、微風で十分爽涼な夏の夜なのだ。

夏歌とて

風の音にすずしき声をあはすなり夕山かげの谷の下水(玉葉440)

【通釈】夕暮の山陰――風の吹く音に、涼しげな声をあわせて合奏しているのだなあ。谷底を流れる水は。

古寺月を

初瀬山ひばらがあらし鐘のこゑ夜ぶかき月にすましてぞ聞く(玉葉644)

【通釈】初瀬山の檜林に吹き荒れる風、古寺の鐘の声――それらの響きを、深夜の月の光に照らされ、澄み切った空気のうちに聞くよ。

【補記】初瀬山は奈良県桜井市、長谷寺のある山。

万葉集歌の一句を題にて人々歌つかうまつりけるに、かくれぬ程に

花の色はかくれぬほどにほのかなる霧の夕べの野べのをち方(玉葉746)

【通釈】花の色は隠れない程度に、ほのかに霧がかかっている、夕方の野辺の彼方――。

【補記】万葉集巻十四東歌「妹が門いや遠そきぬ筑波山かくれぬ程に袖はふりてな」の第四句「かくれぬ程に」を題として詠んだ歌。

秋里といふことを

あれわたる庭は千草に虫のこゑ垣ほは蔦のふるさとの秋(玉葉804)

【通釈】見渡す限り荒れた庭は、様々な草の陰に虫の声がして、垣根には蔦が這いまとわって紅葉している――さびれてしまった古里の秋よ。

題しらず

かれつもるもとの落葉のうへに又さらに色にてちる紅葉かな(玉葉880)

【通釈】枯れて積もった、もとからの落葉の上にまた、新たに鮮やかな色を重ねて散る紅葉だなあ。

寒樹をよみ侍りける

葉がへせぬ色しもさびし冬ふかき霜の朝けの岡のべの松(玉葉900)

【通釈】枯れて生え変わることのない、常に緑の葉の色――こんな季節にはそれがかえって物悲しい。冬も深まった、霜の置いた早朝の岡のほとりの松は。

【補記】霜をつけたまま厳しい寒気に耐えているかのような松の葉に感傷する。冬の間、いっそ枯れ落ちてしまえば、冷たい霜を受けずにすむのに…。

雪の歌に

花よただまだうすぐもる空の色に梢かをれる雪の朝あけ(風雅840)

【通釈】まるでもう花が咲いたようだよ、まだ薄ぼんやりした空の色に、白い梢がほのぼのと映えている、雪の積もった明け方は。

【補記】佳詠夥しい風雅集冬の部でも殊にめだつ秀逸。

題をさぐりて人々歌よみ侍りし時、海辺雪といへる心を

しほ風にたちくる波とみる程に雪をしきつの浦のまさごぢ(玉葉968)

【通釈】潮風に立つ白波が寄せて来ると見ていると、それは波ではなく雪で――敷津の浦の砂浜に、白く敷き詰めるように雪が積もってゆくのだった。

【補記】「しきつの浦」は万葉集以来の歌枕。摂津国住吉神社の南西の海浜と言う。地名に動詞「敷き」を掛けた掛詞。

題しらず

我も言ひきつらくは命あらじとは憂き人のみやいつはりはする(風雅1173)

【通釈】私も偽りを言った――あなたがあまりつれないと、とても生きてはいられまいと。偽りを言うのは無情な恋人ばかりだろうか。いや、冷たくされる相手こそ、切羽詰って偽りを言うのだ。

恋歌の中に

憂き人よ我にもさらばをしへなんあはれもしらぬ心づよさを(玉葉1292)

【通釈】冷たい人よ、それなら私にも教えてほしい。恋の切ない思いも理解しない、そんな非情な心にどうしてなれるのかと。

月前恋を

恋ひ(うれ)へひとりながむる夜はの月かはれやおなじ影もうらめし(玉葉1485)

【通釈】恋に悩み一人眺める夜半の月――光よ変わってくれよ。あの人と逢った時と同じ光であると思えば、それも恨めしいのだ。

恋歌とて

物おもへばはかなき筆のすさびにも心に似たることぞ書かるる(玉葉1535)

【通釈】物思いをしていると、何ということもない筆のすさびにでも、自然と自分の心に思っているのと似たようなことが書けてしまう。

【補記】いたずら書きにも無意識のうちに恋の思いが顕れてしまう。岩佐美代子『玉葉和歌集全注釈』は、源氏物語若菜上の一節「手習などするにも、おのづからふるごとも物思はしき筋のみ書かるるを、さらば我が身には思ふことありけりと、自らぞ思し知らるる」との関連を指摘している。

恋十首御歌の中に

あはれをも憂きにのみこそ人はなすに我ぞ憂きをもあはれにはなす(玉葉1559)

【通釈】私の心の深い思いも恋人は煩わしがってばかりいるのに、私と来たら、あの人のすることであれば、普通なら愉快でないようなことでも皆いとしく感じてしまうのだ。

【補記】下記参考歌を始めとして、「あはれ」と「うし」を対立的に捉えた例は多い。きわめて大づかみに言えば、「あはれ」は世界や他人に対する肯定的・共感的な感情であり、「うし」は否定的・離反的な感情である。

【参考歌】よみ人しらず「古今集」
あはれとも憂しとも物を思ふ時などか涙のいとながるらむ

恋歌に

我が心うらみにむきて恨みはてよあはれになれば忍びがたきを(風雅1307)

【通釈】私の心よ、恨みの方へ向かって、徹底的に恨み切れ。愛しいと思ったら、耐え難いのだから。

三十首歌召されし時、恨恋を

あはれにもこと遠くのみなりゆくよ人のうければ我も恨みて(玉葉1705)

【通釈】悲しいことに、二人の間柄は遠くなってゆくばかりだよ。あの人が冷たくすれば、私も恨んで。

題しらず

せめてさらば今一度の契りありて言はばやつもる恋も恨みも(玉葉1749)

【通釈】あの人とはこれきりの縁だと諦めたけれどもそれならせめてもう一度だけ逢瀬を遂げて、思う存分言ってやりたいものだ、積もり積もった恋しさも恨みも。

恋歌あまたよみ侍りけるに

たのみありて待ちし()までの恋しさよそれも昔のいまの夕暮(風雅1404)

【通釈】まだ期待があって待った夜までだった、恋しさを抱き続けたのは。それも昔になってしまって、今や待つ人もなく、思い出だけの虚しい夕暮。

【先蹤歌】殷富門院大輔「千載集」
なほざりの空頼めとて待ちし夜のくるしかりしぞ今は恋しき

弘安百首歌の中に

恋ひ死なん後も心のかはらずはこの世ならでも物やおもはん(新続古今1153)

【通釈】このまま恋い死にしてしまった後も、心は同じままであるなら、この世以外の世でも私は思い悩み続けるのだろうか。

【補記】続拾遺集撰定に際し、亀山院が召した百首歌。

題しらず

清見がた浦風さむきよるよるは夢もゆるさぬ波の関守(新後撰590)

【通釈】清見潟に浦風が寒く吹く夜な夜な、ひっきりなしの波音が夢を見ることも許してくれない――あたかも波が、故郷の人に逢いに行くのを遮る関の番人であるかのように。

【補記】清見潟は駿河国の歌枕、今の静岡市清水区興津あたり。富士や三保の松原を望む絶景の地で、「清く見ゆ」の意が掛かる。更級日記に「関屋どもあまたありて、海まで釘貫したり」云々と描かれているように、旅人を遮る柵が海まで続いていた。「よるよる」は夜々だが波の「寄る寄る」を掛けている。せめて夢にも都を見たいとの希望は、響き止まない波音によって邪魔される。想像裡の羈旅歌である。

【参考歌】源俊頼「散木奇歌集」「新後撰集」
さらでだにかわかぬ袖ぞ清見がたしばしなかけそ浪の関守

野夕雨

雨のあしも横さまになる夕風に蓑ふかせゆく野べの旅人(玉葉1202)

【通釈】雨脚も横ざまになる激しい夕風に蓑を吹かせながら、野を歩いて行く旅人。

【補記】玉葉集旅歌の秀逸。

月をよみ侍りける

我のみぞもとの身にして恋ひしのぶ見し面影はあらぬよの月(玉葉1982)

【通釈】私ばかりが昔のままの身で恋い慕っている。かつての恋人の面影はもうこの世になく、月もあの頃とはすっかり変わってしまったのに。

【本歌】在原業平「古今集」
月やあらぬ春や昔の春ならぬ我が身一つはもとの身にして
【先蹤歌】藤原俊成女「続後撰集」
ながむればわが身ひとつのあらぬ世に昔に似たる春の夜の月

雑歌の中に

時ありて花も紅葉もひとさかりあはれに月のいつもかはらぬ(風雅1683)

【通釈】花も紅葉も、それぞれの季節があって、盛りはひとときだ。ところがあわれ深いことに、月はいつも変わらぬ姿で空にある。

【参考歌】承均「古今集」
いざ桜われも散りなむ一さかりありなば人にうき目みえなむ

住吉にまうでて侍りけるに、浪にうつれる入日の影いとおもしろく見えければ

浦とほくならべる松の()の間より夕日うつれる浪のをち方(玉葉2090)

【通釈】浦の遠くに並んでいる松の木々の間から眺めると、沈もうとする夕日が波に映り、ずっと海の果てまできらめいている。

【補記】住吉神社に参詣した時の作。住吉は西側が海に面しているので、入日は海に沈むように見える。

三十首歌めされし時、暁雲を

むらむらに雲のわかるるたえまより暁しるき星いでにけり(玉葉2138)

【通釈】所々むらがるように雲が分かれてゆく――その絶え間から、暁をはっきりと知らせて輝く星があらわれた。

【補記】「暁しるき星」は明けの明星、金星。

題をさぐりて人々に歌よませさせ給ひけるに、雨中灯と云ふ事を

ふりしめる雨夜(あまよ)のねやはしづかにて(ほのほ)みじかき(ともしび)の末(玉葉2170)

【通釈】しっとりと湿ったような雨夜――寝室の内はひどく静かで、灯の火先(ほさき)は炎が短く、あまり明るくならない。

【補記】湿気のために炎も高く燃え立たない。雨夜の情趣を「灯の末」の一点に絞って捉えた。映画におけるクローズアップの技法を思わせる。

海辺松を

波のうへは雨にかすみてながめやる沖の白洲に松ぞ残れる(玉葉2184)

【通釈】波のたつ海面はすっかり雨に煙り、眺めやる沖に突き出た白い砂洲に立つ松だけが、霞まずに残っている。

百首歌の中に閑居の心を

松に嵐あさぢが露に月のかげそれより外にとふ人はなし(玉葉2252)

【通釈】松には山からの激しい風、浅茅の露には月の光――それらより外に、私の住まいを訪問する者などない。

【補記】松・浅茅は閑居の庭に生えているもの。

月をよみ侍りける

なれみるもいつまでかはとあはれなりわが世ふけゆく行末の月(玉葉2493)

【通釈】こんなふうに馴れ親しんで眺めるのもいつまでだろうかと、しみじみ悲しいことだ。残り少なくなった我が人生の行末を思いつつ眺める、更け行く夜の月は。

【参考歌】待賢門院堀河「千載集」
残りなく我が世ふけぬと思ふにもかたぶく月にすむ心かな

題しらず

人も世も思へばあはれいく昔いくうつりして今になりけん(玉葉2586)

【通釈】人間も世の中も、思えば鳴呼いとしいものだ。どれほどの昔から、どれほどの移り変わりを経て今のようになったのだろうか。


更新日:平成18年01月26日
最終更新日:平成22年01月16日