源高明 みなもとのたかあきら 延喜十四〜天元五(914-982) 通称:西宮左大臣

醍醐天皇の第十皇子。母は更衣源周子(右大弁従四位上源唱女)。子に俊賢(母は右大臣藤原師輔三女)・経房(母は師輔五女)ほかがいる。女子は村上天皇の第四皇子為平親王に嫁いだ。
七歳の時臣籍に下る。近江権守・大蔵卿などを経て、天慶二年(939)、二十六歳で参議に任ぜられる。天暦元年(947)、権中納言従三位。同二年、中納言。同七年、大納言。同十年、正三位。応和元年(961)、従二位。康保三年(966)、右大臣。同四年、左大臣正二位に昇ったが、安和二年(969)三月、いわゆる「安和の変」により大宰権帥に左遷された。聟の為平親王を奉じて謀反を起こすとの密告があったためであるが、藤原氏による策謀との見方が強い。即日出家入道し、京に留まることを請うが許されず、任所に赴いた。天禄三年(971)、赦されて帰京、封戸を賜わる。以後は葛野に隠棲した。天元三年(980)十二月、薨ず。六十九歳。
天徳四年(960)の内裏歌合に出詠。琵琶に堪能で、朝典などに造詣が深く、有職故実の書『西宮記』を著す。後拾遺集初出。家集に『西宮左大臣集』がある。

題しらず

空にもや人はしるらんよとともに天つ雲ゐをながめくらせば(続千載1113)

【通釈】空によって、あの人は私の思いを知ってくれるだろうか。私がこの世にある限り空をじっと眺めて暮らしていれば。

女のもとに言ひつかはしける

さりともと思ふ心にひかされて今まで世にもふる我が身かな(後拾遺653)

【通釈】「それでも、もしかしたら…」と思う心に引っ張られるようにして、今まで生き長らえてきた我が身だなあ。

【補記】小野宮太政大臣女の返歌は「たのむるに命をのぶるものならば千歳もかくてあらむとや思ふ」(大意:期待することで命が延びるというのなら、千年もこのまま逢わないでいようと思うのだろうか)。


最終更新日:平成16年04月27日