藤原朝忠 ふじわらのあさただ 延喜十〜康保三(910-966) 号:土御門中納言

右大臣藤原定方の五男(公卿補任)。母は中納言藤原山蔭女。出羽守忠舒の娘との間に理兼(摂津守正四位下に至る)、鷹司殿女(倫子)との間に、左大臣源雅信の室となった穆子がいる。また左大臣源重信の室となった女子がいる。系図
延長四年(926)正月、従五位下。同五年十一月、侍従。同八年、蔵人となり、朱雀天皇に近侍。右兵衛佐・左近権少将・内蔵頭・近江守などを経て、天暦五年(951)正月、左中将。同六年十二月、参議に就任。応和元年(961)十二月、従三位に昇り、同三年(963)五月、中納言に至る。康保三年十二月二日、薨。五十六歳。
醍醐・朱雀・村上三代にわたり厚い信任を受ける。また天慶九年、村上天皇即位の大嘗会では悠紀方の歌を詠み、天徳内裏歌合では巻頭歌を出詠するなど、歌人としても重んじられた。
少弐・大輔右近本院侍従など宮廷の才女と恋歌を贈答している。三十六歌仙の一人。家集『朝忠集』がある。小倉百人一首に歌を採られている。後撰集初出、勅撰入集二十二首(金葉集三奏本の三首を除く)。

村上御時歌合 霞

くらはしの山のかひより春がすみ年をつみてやたちわたるらむ(朝忠集)

【通釈】倉橋山の谷あいから、春霞はめでたい年を積み重ねてたち渡るだろう。これから先、何年にもわたって。

【語釈】◇くらはしの山 奈良県桜井市辺りの山。記紀歌謡等にも見え、古い由緒ある歌枕。多武峯に同じとする説などがある。◇年をつみて 何年にもわたって。毎年、春が来る毎に。

【補記】「倉」と「つみ」、「橋」と「渡る」はそれぞれ縁語の関係にある。「倉に(ものを)積む」、「橋を渡る」といった意味の連鎖は、歌の主意と直接関係はないが、それぞれの語の価値を高め、一首に緊張感を与えている。天徳四年(960)内裏歌合の巻頭歌。

【他出】天徳内裏歌合、朝忠集、三十人撰、三十六人撰、金葉集初度本、金葉集三度本、新撰朗詠集、俊成三十六人歌合

天徳四年内裏歌合に、鶯

わが宿の梅が枝に鳴く鶯は風のたよりに香をや()めこし(玉葉42)

【通釈】私の居る家の梅の枝で鳴く鶯は、風の案内によって香を求めてやって来たのだろうか。

【補記】風を、梅の香を運ぶ使者になぞらえている。天徳四年(960)内裏歌合、題「鶯」、三番左勝。

【他出】金葉集三奏本、袋草紙、万代集

小弐につかはしける

時しもあれ花のさかりにつらければ思はぬ山に入りやしなまし(後撰70)

【通釈】時もあろうに、花の盛りの今にあって、あなたの心がつれないので、思いもしなかった山に入ろうかとも思います。

【補記】詞書の「小弐」は女房名。少弐命婦。山に入る、とは出家すること。小弐命婦の返しは「我がために思はぬ山の音にのみ花さかりゆく春をうらみん」。便りだけくれて、あなたは離れてゆくのですね、と恨んだ。

天暦御時、斎宮くだり侍りける時の長奉送使にてまかりかへらむとて

万代(よろづよ)のはじめと今日を祈りおきて今行末は神ぞ知るらむ(拾遺263)

【通釈】万代も続く御代の始まりとして、今日が佳き日であらんことを祈っておきましょう。そしてこれから後のことは、ただ神のみぞ知っておりましょうから、神意のままに委ねましょう。

【補記】拾遺集巻五、賀歌巻頭。村上天皇の天暦十一年(957)九月、楽子内親王(村上天皇第六皇女)の伊勢下向の時、長奉送使(斎宮群行の見送りをする勅使)として派遣され、帰京する時の歌。

【他出】朝忠集、拾遺抄、三十人撰、三十六人撰、俊成三十六人歌合、定家八代抄

天暦御時歌合に

人づてに知らせてしがな隠れ()のみごもりにのみ恋ひやわたらむ(新古1001)

【通釈】人を通して知らせたいものだ。ひっそりとした沼のように、思いを胸に秘めたまま恋し続けるのだろうか。

【語釈】◇隠れ沼の 草などに覆われて水面の見えない沼のように。◇みごもりにのみ 「みごもり」は水籠り。水中に隠れているように、思いを胸に秘め外にあらわさないことを言う。

【補記】村上天皇主催の天徳四年(960)の内裏歌合、題「恋」、十六番左勝。藤原実頼の判詞は「左歌いとをかし、つよきことなけれど、さてもありなん」。

【他出】朝忠集、袋草紙、定家八代抄、八雲御抄

天暦御時歌合に

逢ふことのたえてしなくは中々に人をも身をも恨みざらまし(拾遺678)

【通釈】そもそも逢うということが全くないのならば、なまじっか、相手の無情も自分の境遇も、恨んだりしなかっただろうに。

【語釈】◇逢ふこと 逢って情交を遂げること。◇たえて 下に打消の語を伴って「絶対(…ない)」「全然(…ない)」といった意味になる副詞としての用法。◇中々に むしろ。かえって。「中途半端になるよりは、いっそのこと…」といった気持をあらわす。◇人をも身をも 「人」は恋する相手。「身」は自分。◇うらみざらまし 恨みはしないだろう。「まし」は反実仮想の助動詞と呼ばれ、現実に反する仮定のもとで「こうなっただろう」と仮想する心をあらわす。

【補記】拾遺集の排列からすると恋の初期段階の歌で、上句は「そもそも逢うことが期待できないものであるなら」といった意味合いを帯びる。すなわち「未逢恋」の風情である。ところが『定家八代抄』では恋三の巻にあり、例えば藤原道雅の「今はただ思ひたえなんとばかりを…」などの後に置かれている。このことからすると、定家は「逢不逢恋」(一度逢ったのち何かの事情で逢えなくなった恋)の歌として読んでいたに違いない。宗祇抄をはじめ後世の主たる百人一首注釈書も同様の解釈を取る。

【他出】天徳内裏歌合、朝忠集、三十人撰、拾遺抄、金玉集、前十五番歌合、三十六人撰、深窓秘抄、俊成三十六人歌合、定家八代抄、百人一首

【参考歌】在原業平「古今集」
世の中にたえて桜のなかりせば春の心はのどけからまし

【主な派生歌】
我が恋は庭のむら萩うらがれて人をも身をも秋の夕暮(慈円[新古今])
うくつらき人をも身をもよししらじただ時のまの逢ふこともがな(藤原定家)
身をしれば人をも世をもうらみねどくちにし袖のかわく日ぞなき(〃)
たへてやは人をも身をも恨むべき木の葉しぐるる秋の山里(光西[続後撰])
忍び音の絶えてしなくは時鳥五月待つまを恨みざらまし(今出川院近衛[続後拾遺])

朝忠の中将、人の妻にてありける人に忍びて逢ひわたりけるを、女も思ひかはして、通ひ住みけるほどに、かの男、人の国の守になりてくだりければ、これもかれも、いとあはれと思ひけり。さて、よみてやりける

たぐへやる我が魂をいかにしてはかなき空にもてはなるらむ(大和物語)

となむ、くだりける日、いひやりける。

【通釈】あなたのもとに寄り添わせた私の魂を、どうして頼りない旅の空に置き去りにするのでしょうか。

【補記】『大和物語』第六段。朝忠はある人妻と密通していたが、その夫が国守に任命され、女も共に地方に下ることとなった。その際、朝忠が女に贈った歌。新千載集には謙徳公(藤原伊尹)の歌として載る。また朝忠集には次のようにある。
  人知れぬ中の女、男司得てくだるに、男あはれと思ひて
 数へやるわが魂のいかにしてむなしき空にもて離るらむ

おなじ諒闇のころ、よみてつかはしける

夢かとぞわびては思ふたまさかに問ふ人あれや又やさむると(続古今1396)

【通釈】これは夢ではないかと、嘆き侘びては思うのです。たまに問いかけてくれる人はいないでしょうか、もう目は覚めたかと。

【補記】詞書の「おなじ諒闇のころ」とは、延長八年九月に崩じた醍醐天皇の服喪期間を指す。朝忠集では「だいごのみかどかくれ給ひてのころ、よしふるの宰相に」とあり、參議小野好古に贈った歌。好古の返しは「あはれとも思ひぞわかぬうばたまのおなじ夢ぢにまどふ身なれば」。

【参考歌】在原業平「古今集」
わすれては夢かとぞ思ふ思ひきや雪ふみわけて君を見むとは

題しらず

世の中はただ今日のごと思ほえてあはれ昔になりもゆくかな(続千載1944)

【通釈】現実とは、たった今、この日この時の出来事のように思えて、ああ、たちまち昔のことになってゆくのだ。

【補記】『朝忠集』では朱雀天皇崩後の哀傷歌群に挿まれている。すなわち天暦六年(952)の作と思われる。


公開日:平成12年08月31日
最終更新日:平成16年04月03日