藤原道雅 ふじわらのみちまさ 正暦三〜天喜二(992-1054) 通称:道雅三位・荒三位

中関白道隆の孫。父は儀同三司伊周。母は大納言源重光女。高階貴子の孫、定子の甥にあたる。山城守藤原宣孝の娘を妻とし、上東門院中将をもうける(中古歌仙伝)。妻にはほかに平惟仲女がいたが、離婚して皇太后宮妍子に仕え、大和宣旨と号したという(大鏡)。
幼名を松君といい、祖父道隆に溺愛されて育った。しかし長徳元年(995)道隆は死去し、翌年父伊周が花山院に対する不敬事件で大宰権帥に左遷されて、中関白家は没落へ向かう。この時道雅は五歳であった。長保六年(1004)、従五位下に叙せられ、寛弘二年(1005)、侍従に任ぜられる。以後、右兵衛佐・左近少将と進み、寛弘六年(1009)、従四位下に至る。同八年には春宮権亮となって敦成親王(のちの後一条天皇)に仕え、のち左権中将となる。長和五年(1016)正月、後一条天皇践祚の際には蔵人頭に補せられ、翌月従三位に叙せられた。ところが、同年九月に伊勢斎宮を退下し帰京した当子内親王と密通し、これを知った三条院の怒りに触れて寛仁元年(1017)勅勘を被った。万寿三年(1026)、中将を罷免され、右京権大夫に遷される。寛徳二年(1045)、左京大夫。永承六年(1051)、備中権守。晩年は西八条邸に閑居し、歌会を催すなどして、藤原範永・同経衡ら和歌六人党や、藤原家経同兼房ら風流士との雅交を楽しんだ。天喜二年七月二十日、出家の直後、薨ず。六十三歳。
『小右記』によれば、法師隆範を用いて花山院女王を殺させたり、敦明親王雑色長を凌辱したり、博打の場で乱暴を働いたりと、乱行の噂が絶えなかったようである。「悪三位」とも称された。
後拾遺集初出。勅撰入集は六首。中古三十六歌仙小倉百人一首に歌をとられている。

東山に百寺拝み侍りけるに、時雨のしければよめる

もろともに山めぐりする時雨かなふるにかひなき身とはしらずや(詞花149)

【通釈】山をめぐるように時雨が降っている。俺と一緒に寺めぐりをしようというのか、時雨よ。降る峡がない――生きていても甲斐のないこの身だと知らないのか。

【語釈】◇東山 京都賀茂川の東に連なる峰々。北は比叡山から南は伏見稲荷あたりまでを言う。延暦寺・六勝寺・清水寺・法性寺・長楽寺・泉涌寺など多くの寺があった。◇山めぐり 時雨が山をめぐるように降ることと、東山の寺を巡礼することを掛ける。◇ふる 「経る」「降る」の掛詞。◇かひなき 値打ちのない。「かひ」には「峡」の意が掛かり山の縁語。

【他出】玄々集、俊頼髄脳、金葉集三奏本、袋草紙、題林愚抄

【主な派生歌】
夕暮のひとむら雲の山めぐり時雨はつれば軒端もる月(藤原良経)
木の葉さへ山めぐりする夕べかな時雨をおくる峰の嵐に(*嘉陽門院越前[続古今])
もろともに山辺をめぐる村時雨さても憂き世にふるぞ悲しき(聖覚)

伊勢の斎宮わたりよりのぼりて侍りける人に、忍びて通ひけることをおほやけも聞こしめして、まもりめなど付けさせ給ひて、忍びにも通はずなりにければ、よみ侍りける(三首)

逢坂はあづま路とこそ聞きしかど心づくしの関にぞありける(後拾遺748)

【通釈】逢坂の関は、そこを越せば東(あづま)へ通じる道と聞いていたけれども、あなたと逢ったのち、障害が出来て、吾妻(あづま)とすることは適わない。逢坂の関と思ったのは、心魂尽きさせる、筑紫の関だったのだなあ。

【語釈】◇伊勢の斎宮わたりよりのぼりて侍りける人 三条院皇女で前斎宮の当子内親王。長和五年(1016)九月、父帝の譲位により斎宮を退下した。◇おほやけ 天皇・朝廷。ここでは三条院を指す。◇まもりめ 守り目、または守り女。お目付役のこと。◇逢坂(あふさか) 山城・近江国境の峠道。東国へと通じる関があった。「逢ふ」と掛詞。◇心づくしの関 心をすり減らす、筑紫の関。「尽し」「筑紫」の掛詞。

【補記】当子内親王と道雅が密通したことを漏れ聞いた三条院は当子内親王にお目付役を付け、以後二人は逢えなくなった。その際に道雅が詠んだ歌。

【他出】後六々撰、五代集歌枕、定家八代抄、歌枕名寄

 

榊葉のゆふしでかけしそのかみにおしかへしても似たる頃かな(後拾遺749)

【通釈】斎宮であった貴女は、榊葉の木綿四手を掛け、伊勢の神に仕えておられて、触れることのできない存在だった。まるで、その当時に戻ってしまったような今の状態ですよ。

【語釈】◇榊葉(さかきば) 榊の葉。榊(賢木とも書く)は常緑樹、特に神事などに用いる木を指す。◇ゆふしで 木綿でつくった四手(幣)。玉串や注連縄などに垂らす。◇そのかみ 当時。榊葉・ゆふしでの縁語「神」との掛詞になる。

【他出】栄花物語、後六々撰、定家八代抄

【主な派生歌】
みちのくの安達の真弓そりたかみおしかへしても惜しき春かな(衣笠家良)
秋もいなばいとど故郷あれまくもおしかへしてもいかがとどめむ(藤原為家)

 

今はただ思ひ絶えなむとばかりを人づてならで言ふよしもがな(後拾遺750)

【通釈】今はただ、こう思うだけです。あなたのことは諦めよう――そのことだけを、人伝でなく、なんとか直接あなたに言いたい、と。

【語釈】◇今はただ 「今」とは、密通が三条院に知られ、もはや逢うことが困難になった現状を指す。◇思ひ絶えなむと 当子内親王との恋を断念しようと。◇人づてならで 他人を通じての伝言でなく。直接に。◇言ふよしもがな 何とかして言う手立てがあってほしい。

【他出】後六々撰、定家八代抄、八代集秀逸、別本八代集秀逸(後鳥羽院撰)、百人一首、十訓抄

【参考歌】藤原敦忠「後撰集」
いかにしてかく思ふてふ事をだに人づてならで君にかたらむ
  同上「拾遺集」
いかでかはかく思ふてふ事をだに人づてならで君にしらせむ

【主な派生歌】
忘れねよこれは限りぞとばかりの人づてならぬ思ひ出でも憂し(藤原定家)
おなじくは思ひ絶えなむ言の葉を人づてならで言ふにかへばや(藤原助連)
遥かなる生駒の山のほととぎす人伝ならで聞くよしもなし(熊谷直好)

また同じところに結びつけさせ侍りける

みちのくの緒絶(をだえ)の橋やこれならむふみみ踏まずみ心まどはす(後拾遺751)

【通釈】陸奥にある緒絶の橋とはこれのことだったのか。手紙をもらえたりもらえなかったり、その度に心をまどわせる――あなたとの繋がりが絶えてしまいはしないかと。ちょうど、いつ断ち切れてしまうかわからない橋を、踏んだり踏まなかったり、ビクビクしながら渡るようなものだ。

【語釈】◇緒絶の橋 芭蕉の『おくのほそ道』などに拠り、宮城県古川市を流れる緒絶川に架かっていた橋とされる。◇ふみみ踏まずみ 踏んだり踏まなかったり。二つの「み」は動作が交互におこなわれることを示す接尾語。「ふみみ」には「文見」の意が掛かるので、《恋人の手紙を見れたり見れなかったり》の意が響く。

【補記】『栄花物語』には、「榊葉の…」の歌を当子内親王に送ったあと、今度はこの歌を高欄に結びつけたとある。

【他出】栄花物語、五代集歌枕、定家八代抄、歌枕名寄

【参考歌】「源氏物語・藤袴」(先後関係は不明)
妹背山ふかき道をばたづねずて緒絶の橋にふみまどひける

題しらず

涙やはまたも逢ふべきつまならむ泣くよりほかのなぐさめぞなき(後拾遺742)

【通釈】なぜこんなに涙があふれてくるのだ。涙がまたあの人に逢うための糸口になるとでもいうのか。そんなわけもあるまいに、俺にはもう泣くよりほか慰めがないのだ。

【語釈】◇つま ものの端をいう語。端緒、手がかりなどの意味にもなる。また、妻(契りを交わした相手)の意を帯びる。

【他出】後六々撰、古来風躰抄


更新日:平成17年05月05日
最終更新日:平成21年12月23日