知里幸恵 ちり・ゆきえ(1903—1922)


 

本名=知里幸恵(ちり・ゆきえ)
明治36年6月8日—大正11年9月18日 
享年19歳 
北海道登別市富浦町188番地1 富浦墓地
 



アイヌ文化伝承者。北海道生。旭川区立女子職業学校卒。北海道幌別のアイヌ酋長の家柄。17歳の時に、金田一京助に勧められて「カムイユカラ」をアイヌ語から日本語に翻訳する作業を始めた。大正11年『アイヌ神謡集』草稿執筆を開始。金田一の勧めにより同年5月に上京。9月に原稿を書き終えるが、心臓発作のため急逝した。



 



 その昔この広い北海道は、私たちの先祖の自由の天地でありました。天真爛漫な稚児の様に、美しい大自然に抱擁されてのんびりと楽しく生活していた彼等は、真に自然の寵児、なんという幸福な人だちであったでしょう。
 冬の陸には林野をおおう深雪を蹴って、天地を凍らす寒気を物ともせず山又山をふみ越えて熊を狩り、夏の海には涼風泳ぐみどりの波、白い鴎の歌を友に木の葉の様な小舟を浮べてひねもす魚を漁り、花咲く春は軟らかな陽の光を浴びて、永久に囀ずる小鳥と共に歌い暮して蕗とり蓬摘み、紅葉の秋は野分に穂揃うすすきをわけて、宵まで鮭とる篝も消え、谷間に友呼ぶ鹿の音を外に、円かな月に夢を結ぶ、嗚呼なんという楽しい生活でしょう。平和の境、それも今は昔、夢は破れて幾十年、この地は急速な変転をなし、山野は村に、村は町にと次第々々に開けてゆく。
 太古ながらの自然の姿も何時の間にか影薄れて、野辺に山辺に嬉々として暮していた多くの民の行方も亦いずこ、僅かに残る私たち同族は、進みゆく世のさまにただ驚きの眼をみはるばかり、しかもその眼からは一挙一動宗教的感念に支配されていた昔の人の美しい魂の輝きは失われて、不安に充ち不平に燃え、鈍りくらんで行手も見わかず、よその御慈悲にすがらねばならぬ、あさましい姿、おお亡びゆくもの……それは今の私たちの名、なんという悲しい名前を私たちは持っているのでしょう。
 その昔、幸福な私たちの先祖は、自分のこの郷土が末にこうした惨めなありさまに変ろうなどとは、露ほども想像し得なかったのでありましょう。
 時は絶えず流れる、世は限りなく進展してゆく、激しい競争場裡に敗残の醜をさらしている今の私たちの中からも、いつかは、二人三人でも強いものが出て来たら、進みゆく世と歩をならべる日も、やがては来ましょう。それはほんとうに私たちの切なる望み、明暮祈っている事で御座います。
 けれど……愛する私たちの先祖が起伏す日頃互いに意を通ずる為に用いた多くの言語、言い古し、残し伝えた多くの美しい言葉,それらのものもみんな果敢なく、亡びゆく弱きものと共に消失せてしまうのでしょうか。おおそれはあまりにいたましい名残惜しい事で御座います。
 アイヌに生れアイヌ語の中に生いたった私は、雨の宵、雪の夜、暇ある毎に打集って私たちの先祖が語り興じたいろいろな物語の中極く小さな話の一つ二つを拙ない筆に書連ねました。
 私たちを知って下さる多くの方に読んでいただく事が出来ますならば、私は、私たちの同族祖先と共にほんとうに無限の喜び、無上の幸福に存じます。

(『アイヌ神謡集』序)



 

 〈銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに、〉とはじまる『アイヌ神謡集』、自由の大地、自然への畏怖、因果応報、民族口承詩として語り継がれたユーカラの原稿校正もすべて終わらせて、大正11年9月18日午後8時30分、寄寓していた東京本郷の金田一京助宅で心臓麻痺のため死んだ。わずか19年と3か月の命。
 北海道幌別村のアイヌ部族長を祖として生まれた幸恵は、〈人と自然の共生〉を夢みた。滅びゆくアイヌ、愛する神々の美しい大自然、望郷の、還り来ぬ懐かしい野辺の暮らし、「私は書かねばならぬ、知れる限りを、生の限りを」と。アイヌに生まれアイヌ語の中に育ち、アイヌ語唯一の記録を編んだ知里幸恵は、「文明世界」の東京で死んだ。



 

 〈雑司ヶ谷の奥、一むらの椎の木立の下に、大正十一年九月十九日、行年二十歳、知里幸恵之墓と刻んだ一基の墓石が立っている。〉と金田一京助が書き記した墓は50数年の歳月を経て昭和50年9月、北海道登別の西方、ハシナウシの丘にある一族の墓地に改葬された。
 旭川でともに暮らした伯母金成マツの十字架石碑に並んである「知里幸恵之墓」。遺骨とともに雑司ヶ谷の墓碑も埋葬されている。緑静かな丘の朝、霧雨が途切れなく降って、しとどに濡れそぼつ叢、墓原のすべてを紗のベールで包み込んだ白い雨煙、見えるはずの海は幽かにも見えない。控えめに着飾った木々はそよそよと揺れて、白菊の生える天国の原、梟の神が歌っている。
 〈銀の滴降る降るまわりに、金の滴降る降るまわりに〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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