茅野蕭々 ちの・しょうしょう(1883—1946) 茅野雅子  ちの・まさこ(1880—1946)


 

本名=茅野儀太郎(ちの・ぎたろう)
明治16年3月18日—昭和21年8月29日 
享年63歳(智真院誠誉義岳蕭々居士)
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種14号10側


独文学者・歌人。長野県生。東京帝国大学卒。旧制第三高等学校(現・京都大学)教授を経て慶應義塾大学教授。ゲーテ及び近代詩の研究で名を知られた。また歌人として『明星』『スバル』に於いて活躍した。翻訳『リルケ詩抄』、『ギョエテ研究』『独逸浪漫主義』などがある。




本名=茅野まさ(ちの・まさ)
明治13年5月6日—昭和21年9月2日 
享年66歳(智薫院誠誉雅月白梅大姉)


歌人。大阪府生。日本女子大学卒。大学在学中に与謝野晶子・山川登美子と共著で歌集『恋衣』刊行。「明星派」女流歌人として知られた。同じ『明星』同人の茅野蕭々と結婚、母校で作歌の講義をした。大正7年歌集『金沙集』刊行。随筆集『朝の果實』(蕭々と共著)などがある。



 
 



何とない寂しさに、
祈りたさに、
タぐれの寺に入れば
しんと匂ふ蜜柑の香。
涙がこぼれた。

冷たい寺の内陣に、
氷ったやうな金色に、
赤く熟す果實が、
しんと匂ふ悲しさ、
涙がこぼれた。

少年の日のこの記憶、
それ故に寺の悲しく。

茅野蕭々(記憶)




すなほなる我が黒髪を撫づるにも若き命の惜しまるるかな         

てゃむれの軽き言葉の不思議にも我をさいなむ日となりしかな       

我等より見る天地の外をゆく星に等しと男をおもふ           

足あかき蟹は蟹としたはむれぬ憂ひて一人帰る渚路           

地の上の小さき蟲の幸すらも我れ無かりしと思ふ頃かな         

なるままになれと冷たく思ひ捨つ命をかけし戀にやはあらぬ 

茅野雅子
      




 ともに与謝野鉄幹が主宰する新詩社に入り、それぞれが『明星』同人として短歌や詩、評論などを投稿していたのだが、3歳年上の増田雅子に東京帝国大学生の茅野儀太郎(蕭々)が好意を寄せ、熱烈なプロポーズをしたのであった。
 明治40年7月、親の反対を受けた雅子が日本女子大学を卒業するまで待った結婚であったが、以来39年〈見かへれば死よりも更らに難き路つまづきつつも君と来しかな〉と雅子が回顧したような二人の生活も、東京大空襲で被災した翌年の昭和21年8月29日、蕭々が脳溢血で死んだ。晩年まで母校の日本女子大学の教壇に立っていた雅子も、わずか4日後の9月2日に死んでその幕は閉じられた。



 

 雅子は日本女子大学在学中、白梅と号し、与謝野晶子、山川登美子らとともに「明星派」の三大才媛と謳われ、歌集『恋衣』の共著もしたのだったが、一方の蕭々はゲーテの研究や『リルケ詩抄』の名翻訳で知られており、堀辰雄や立原道造などの眼をリルケに向けさせた功績は大きかった。
 ——衰えた陽光が遠慮がちに差し込む彼岸過ぎの雑司ヶ谷霊園。「茅野家之墓」に花はない。土庭の塋域に建つ墓石の下に二人が眠ってから、はや半世紀が過ぎていったが、「雅子」「儀太郎」の名が並んで記された碑の側面に刻まれた横なぐりの傷は、いったい何を物語っているのであろうか。淡々と移りゆく天と地の匂いを嗅いで若き日の想いは次々と巡ってくる。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


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