鈴木大拙 すずき・だいせつ(1870—1966)


 

本名=鈴木貞太郎(すずき・ていたろう)
明治3年10月18日—昭和41年7月12日 
享年95歳(風流庵大拙居士)
神奈川県鎌倉市山ノ内1367 東慶寺(臨済宗)



仏教哲学者。石川県生。東京帝国大学卒。明治30年渡米、東洋学者ポール・ケイラスの助手となって、英訳『大乗起信論』や『禅と日本文化』を発表する。帰国後、英文雑誌『Easternb Buddhist』を創刊。昭和11年世界宗教会議に日本代表として出席。晩年は東慶寺に自ら創設した『松ヶ丘文庫』で研究生活を送った。『日本的霊性』『東洋の心』などがある。







 死ぬというのは、自分の身と考えているところに生ずる事件であるから、そして一遍死んだものは、そのままでまた生まれ還るということがないから、自分自身で確かめられる問題でない。(中略)しかし死後の問題になるとそうはいかない。証拠に立ってくれてがない。いずれも死んでいくのであって、還りてがない。直接の知識はいうまでもなく、間接の知識でさえも獲られぬ。
 隣の人が死んで、そしてその人と共に住んでいたと思う世界がまだそのままに在るようだから、それで自分の死んだ後でも同一の世界が残っているだろう。こんなことは考えられないでもないが、それは自分の死後の世界でなく、残っている人人の世界である。自分はそこにはもはやいないのである。自分の死後の世界というのは、自分で経験し能う世界である。そしてその自分がすでに死んでいるとすれば、死後の世界というのは自己矛盾でなくてはならぬ。浄土であろうと、地獄であろうと、その矛盾たることは同一である。そんな矛盾なものがあるだろうか。
                                                            
(浄土系思想論)

      


 

 禅の心や体験、研究を西洋に禅文化として広めていった鈴木大拙を哲学者梅原猛は「近代日本最大の仏教者」と賛辞をおくっており、金沢時代の友人で商社・安宅産業の創業者安宅弥吉は〈お前は学問をやれ、俺は金儲けをしてお前を食わしてやる〉とパトロン的役割を担ってくれた。
 禅の研究をしていた神智学徒のビーアトリス・レインとの結婚もあった。
 最晩年は北鎌倉の東慶寺に自ら創設した松ヶ岡文庫での研究生活を続け、昭和38年、94歳にして『教行信証』全六巻の英訳を完成させた。しかし昭和41年7月12日早暁、腹痛を発病して、11日午後、東京聖路加国際病院に入院したのだが、12日午前5時5分、咬扼性腸閉塞のため95年の長い生涯を終えた。



 

 平成18年に遷化した元住職の井上禅定と一緒に研究生活を送った懐かしい松ヶ岡文庫の前を通って、深閑とした杉木立に向かって歩いて行く。経済的支援を惜しまなかった旧友安宅弥吉の墓もある北鎌倉の東慶寺墓地。
 同郷の親友西田幾太郎の墓をすぎ、小さな坂をのぼって左手に突き進んでいくと奥まったところに、鈴木家の塋域はあった。正面に苔生した五輪塔、大振りの花生には、色鮮やかな瑞々しい花と花が供えられてあり、大拙の死より27年前の昭和14年に亡くなった愛妻ビーアトリス・アースキン・レーンと共に眠っている。傍らには「鈴木大拙夫妻之墓」と彫られた石柱が墓守の如くぽつねんとあった。
——〈大巧は拙なるに似たり〉。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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