杉本苑子 すぎもと・そのこ(1925—2017)


 

本名=杉本苑子(すぎもと・そのこ)
大正14年6月26日—平成29年5月31日 
享年91歳(彩文院花智滋光大姉)
熱海市水口町17–24 海蔵寺(臨済宗)


 

小説家。東京都生。文化学院卒。吉川英治の門下生。昭和38年『孤愁の岸』で直木賞受賞。幅広い時代の歴史小説を多く発表。53年『滝沢馬琴』で吉川英治文学賞、61年『穢土荘厳』で女流文学賞、平成14年文化勲章受章。ほかに『春日局』『埋み火』などがある。








 自分を含めて、島津藩上下、薩摩の国人すべてが否応なく体験させられるであろう苦しみの、ひとつひとつの性格は、今、平田にもわからない。ただ、商量できないほど巨大ななにかがこれから始まる……同時に、自分自身のすベては、今日で終ってしまったのだという動かしがたい実感はあった。
 用机の上にの上には薄くほこりが浮いていた。平田は机のおもてに指で花押を書きかけ、ゆっくりそれを指で消した。
 (そうなのだ)
 心のうちで彼はうなずいた。
 (私の生涯は終ってしまったのだ。今夜をかぎりに……)
 そのくせ虚しさは少しも無く、かえって軀の末端にまで沁み渡るような力の充実を平田は感じていた。怒りが、その力感の正体だった。
 のしかかって来た理不尽な重圧——。抗うすベがないのに、その重圧を怒ることの無意味は平田も知っている。だが、知ることと納得することとはおのずから別だった。
 理性の水をはね返して、ひとすじの炎のように執ねく生き残ったその怒りは、出口を塞がれ、平田の中で内攻しはじめた。平田自身、どうすることもできない利害を越えた感情だった。いや、めめしい愚痴であり、嘆息であるかも知れないが、自分の内奧に点じたこのひと筋の火を、平田はあえて消そうとしなかった。やがては炬となってみずからを焼きつくす危険を予測しながらも、その火を踏みにじる気は起らなかった。


                                                      
   
(孤愁の岸)



 

 昭和39年10月10日、快晴の神宮外苑競技場で開催された東京オリンピックの開会式に参加した杉本苑子。女学生であった20年前の秋雨の日、おなじ場所で学徒出陣の見送りをしたという記憶がいやおうなく蘇り、〈きょうのオリンピックはあの日につながり、あの日もきょうにつながっている。私にはそれが恐ろしい。祝福にみち、光と色彩に飾られたきょうが、いかなる明日につながるか、予想はだれにもつかないのである。私たちにあるのは、きょうをきょうの美しさのまま、なんとしてもあすへつなげなければならないとする祈りだけだ〉と記している。歴史の中に不変のものはないのだという彼女の信念によっては時の流れに翻弄される人物の登場する作品を多く発表してきたが、生涯独身を貫き、平成29年5月31日、老衰のため熱海市西熱海町の自宅で死去した。



 

 〈目に入るのは遠い海の色と近くに迫る山の緑の重なりばかり……。動くものといったら雲の流れ、飛ぶ鳥の影しかない。〉熱海の町を見下ろす山の中腹、終の住まいから坂道を下り、来宮駅前を通り越しさらに下って初川に架かる社宮神橋を渡って進むと坪内逍遙の旧宅双柿舎の前に出る。すぐその先にある錦峰山海蔵寺には坪内逍遙の墓所があり、杉本苑子の墓所も同寺にある。本堂横裏の高台に逍遙の墓はあるのだが、杉本苑子の墓はその奥の裏門を出て道路を隔てた墓地の右高壇奥にあった。自然石に「苑」と大書刻された碑、右前に「杉本家」墓、夕暮れの熱海の海が見える。高尾の霊園にあった父の骨を引き上げ、父母とともに苑子もここに眠っている。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


   須賀敦子

   菅原克己

   杉浦翠子

   杉浦明平

   杉田久女

   杉本鉞子

   杉本苑子

   鈴木大拙

   薄田泣菫

   鈴木真砂女

   鈴木三重吉

   住井すゑ

   住宅顕信

   諏訪 優