森田たま もりた・たま(1894—1970)


 

本名=森田たま(もりた・たま) 
明治27年12月19日—昭和45年10月31日 
享年75歳 
静岡県駿東郡小山町大御神 冨士霊園1区5号202番
 


 

筆家。北海道生。庁立札幌高等女学校(現・札幌北高等学校)中退。18歳の時上京して大正2年森田草平に師事。『新潮』に『片瀬まで』『うはさ』などを発表するが、5年結婚を機に断筆。作家活動を再開し始めた昭和7年『着物・好色』、11年『もめん随筆』で女流随筆家としての地位を得た。ほかに『随筆きぬた』『をんな随筆』、小説に『石狩少女』などがある。







  

 

 人間はなぜ死ぬんでせうねえ。……人間ばかりではない。およそ生きとし生けるもの、鳥獣草木、萌えいづるも枯るるもおなじ野辺の草、いづれか秋にあはではつべきと仏御前がよんだやうに、道ばたの草でさへも枯れる時は枯れるのである。生あるものはすべて死ぬために生きてゐるといっても過言ではないであらう。しかも、枯れた草がまた萌え出すやうに、いのちといふものには終止符がなく、過去から未来へ永劫に流れてゐる。私は死んでも人間は生きつづける。 
 そのいのちの流れの中へ身をおいて、私自身が千年も万年も生きたいと思ふのが、私たちの願ひである。人聞はみんな生きてゐたいのに、みんな死んでしまふことにきまってゐる。さうして死後の世界のことは誰も知らない。誰も知らない不安が一そう現在の生へ執着させるもととなる。
 若い日の自分が思ひなやんだのは、人聞はなぜ死ぬのかといふ疑問ではなく、自分は何のために生きてゐるのかといふ疑ひであった。究極はそれも、死ぬときまってゐるもんが、なぜ生きてゐるのかといふ問ひであり、私はその答へを得るために、教会へ行ったり、親鸞上人の本を読んだり、禅宗のお寺で他力本願を否定し、己れのことは己自身で考へよといふ教へを受けたりした。しかし、どの宗教も私の気持にぴったりとしなかった。私は敢然と、この得体のしれぬ人生に挑戦する覚悟をきめた。つまり、死んでやったのである。自分の意志で自分を抹殺したのである。

(『随筆をんなの旅』いのち)



 

 人間不信や自らの才能に絶望し、茅ヶ崎の南湖院で自殺を図った20歳の森田たま。〈だが、それにもかかはらず私は生きかへった。私の意志は通らなかった。人間が、自分の力で何か成しとげるなどと考へるほど、思ひあがったことはないと、否応なしに知らされた〉彼女の青春。魂は彷徨をつづけたが、やがて〈生まれたものは素直にその一生を生きなくてはならない。それがどんなに苛酷な道であっても、拒否することはできない。〉と、生命の尊さを胸に秘めて邁進を重ねてきた彼女にもついに最期の時はやってきた。昭和45年4月の右大腿骨骨折につづき、10月には腎盂炎のため東京・信濃町の慶應義塾大学付属病院に入院。31日午後10時20分、尿毒症のため75年の生涯を閉じた。



 

 その年の一月に死を予期して書いておいたという会葬お礼の文章が美しい。〈皆様、長い間お世話になりました。私はこれから未知の世界へまいりますが、そこでの新しい経験を皆さまにお伝へできないのが残念です。ではご機嫌よう。お元気でお暮らし下さい。 お別れの日  森田たま〉。〈ひまわりの花のように、明るい陽なたばかりむいて考えるひまもなかった〉と懺悔した青春の日々はたぐり寄せることもできない程遠くになってしまったが、峰の白雪もすっかり消えて、清々しい富士の姿が右前方にクッキリと浮かんでいるこの大霊園、粒子の荒い碑肌に歳月を経て、ほとんど判然としない彫り文字で「たま女」の句が記された森田家墓は、彼女の人柄そのまま謙虚で落ち着いた態度で建っていた。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

編集後記


墓所一覧表


文学散歩 :住まいの軌跡


記載事項の訂正・追加


 

 

 

 

 

 

ご感想をお聞かせ下さい


作家INDEX

   
 
 
   
 
   
       
   
           

 

   


    森 敦

   森 有正

   森 鴎外

   森田草平

   森田たま

   森 茉莉