森田草平 もりた・そうへい(1881—1949)


 

名=森田米松(もりた・よねまつ)
明治14年3月19日—昭和24年12月14日 
享年68歳(浄光院寂然草平居士)
東京都豊島区南池袋4丁目25–1 雑司ヶ谷霊園1種東6号3側9番


 
小説家・翻訳家。岐阜県生。東京帝大卒。夏目漱石に師事。明治42年平塚らいてうとの心中未遂事件によった『煤煙』を発表。次いで『自叙伝』「十字街」などを発表。大正12年『輪廻』、昭和3年『吉良家の人々』を発表。『父と母と娘』『細川ガラシャ夫人』などがある。







  

 私は詩人である、芸術の徒である、美の崇拝者である。君を殺す、君を滅する瞬間に於て、我戀人は何んなに美しく我眼に映ずるか。總てうつくしきものはその滅ぶる前の瞬間に於て最も美はしいといふにあらずや。私は許されざるものを見る第一の人であらなければならぬ。
 貴方ばかりとは云わぬ。私は貴方を殺したといふことが、私自身の上に及ぼす影響をみたかった。何物の前にもたじろがぬ科学者の好奇心を以て、自分の心理に及ぼす反應が見たかった。只、科学の研究は実験者其人に取って最も危険なものである。私はその儘永久に帰って来ないかも知れぬ。そんな事は私の知ったことではない。
                                                        
 (煤 煙)



 

 雪の塩原温泉・尾花峠での奥村明(のちの平塚らいてう)との情死行は、森田草平27歳、奥村明22歳、明治41年3月23日夕刻のことであった。東京帝国大学卒で夏目漱石門下の草平と日本女子大学卒で会計検査院高官の娘明との心中未遂事件は世間の恰好の餌食となった。翌年朝日新聞に事件の顛末を連載した『煤煙』は、彼を有名作家の一人にしたものの、そののちの作品としては注目されるものは少なく、翻訳を主体にするようになった。やがて『細川ガラシャ夫人』などの歴史小説の分野に新境地を開いていった。
 晩年の昭和23年、68歳にして日本共産党に入党して話題をまいたが、昭和24年12月14日、疎開先の長野県下伊那・長岳寺離れで、肝臓肥大黄疸によって死去。



 

 内田魯庵の〈好箇の滑稽劇〉など四方の諸家から強烈な批判があがり、一般世間からは社会的に葬られるべき行動と白眼視された、いわゆる「煤煙事件」によって苦境に立った門下の草平を庇護し、〈小説でも書く外に生きる道はなかろう〉と、情死行を作品に描くことをすすめた夏目漱石も眠るこの雑司ヶ谷霊園。
 蚊の乱れ飛ぶ隣家の塋域の草群と檜を背にして、言語学者金田一京助の墓の筋違いにある「森田家之墓」は、ぼんやりとした薄くらがりのなかで僅かに淡い陽を浴びて淋しげに建っていた。
 ——草平の墓は雑司ヶ谷霊園の分骨墓のほか、亡くなった疎開先の長野県下伊那郡阿智村駒場の旧長岳寺裏山墓地と多磨霊園など三箇所にある。



 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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