寿岳文章 じゅがく・ぶんしょう(1900—1992)


 

本名=寿岳文章(じゅがく・ぶんしょう)
明治33年3月28日—平成4年1月16日 
享年91歳 
京都府京都市左京区南禅寺福地町86–14 南禅寺塔頭慈氏院東墓地(臨済宗)



英文学者・随筆家。兵庫県生。京都帝国大学卒。旧姓名・鈴木(小林)規矩王麻呂。明治43年十歳の時長姉の婚家である寺の養子となり、得度して寿岳文章となる。関西学院大学、甲南大学などの教授を歴任。イギリスの詩人ブレイクを研究。ダンテの『神曲』の翻訳で読売文学賞受賞。ほかに『書物の世界』『和紙風土記』などがある。







 私が、そして先輩の柳さんもおそらく、ブレイクに心をひかれたそもそもの動機は、東洋の、とりわけ仏教の、神秘主義と共通するブレイクの発想と表現であった。かつて竹島泰氏がこころみたように、臨済禅的な立場からでも、ブレイクの心境は感知されないことはない。しかしちかごろの私は、合理をあれほどまでにきらう禅の立場ほど、すかっとした合理主義は、実はほかに求められないのではないか、と考えるようになった。ところがブレイクの反理性は、とてもそんなものではない。もっとどろどろして、ねばっこく、デモニッシュである。法華経や華厳経をひらひらさせながら、いい気になってやにさがっていると、思わぬところで背負い投げをくい、二進も三進もいかなくなってしまう。カバラまでも動員しての異形のものが、深淵のかなたに目をぎらぎらと光らせているのである。そして何よりも、ブレイクの心底に強靱な根を張りめぐらしているのは、東洋ではなく、キリスト教を中核として、時間的にまた場所的に、その前後左右にひろく深くからみあう西欧精神の伝統であることをゆめ忘れてはならない。


                                                         
 (ブレイクと日本)



 

 昭和56年6月27日、ともに和紙の研究を行い、共著『紙漉村旅日記』をものした最愛の妻しづが逝った。寿岳文章の業績や生涯を愛にみちた理解をもって支え続けてきたしづの死は彼にとって大きな衝撃であったが、妻の存命中に持病の変形関節症や前立腺手術など満身創痍と闘いながらもダンテの『神曲』を翻訳することができたことは幸いであった。しづの死後は娘章子と二人で昭和10年以来、60年近くの間住み続けてきた京都府向日市上植野浄徳の居宅・向日庵で暮らしていたのだが、しづを失った落胆は著しく、心臓に由来する発作や急性腎盂炎で入院するなど心身共に衰弱していった文章は平成4年1月16日午前7時40分、肺浮腫のため91年の生涯を閉じた。


 

 終の棲家向日庵に移る前の7年間を北門近くにあった僊壺庵の一隅で過ごしたことがある南禅寺は寿岳文章にとって馴染みの寺であった。南禅寺三門の前を横切って鍵の手に曲がる角に位置する塔頭慈氏院、通称だるま寺と呼ばれる寺の門は朝からの雨でしとどに濡れそぼっていた。石畳を踏んで右に行くと達磨堂、清冽とした小さな庭園の池に石橋が架かり、白砂の整えられた本堂前を回り込んだ参道をしばらく進むと生け垣で囲まれた東墓地に入る。中ほど右、自然石平台石の上に「壽岳文章/しづ墓」と刻された衣を羽織ったような和かな碑がポンとのっている。背後には長男の潤夫妻と平成17年に亡くなった長女章子の墓が並んで建つ。墓石や卒塔婆、供え花、生け垣を濡らす雨は何時までも降り止まない。


 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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