箱館戦争

慶応4(1868)年1月3日に勃発した鳥羽伏見の戦いに始った戊辰戦争は明治2(1869)年5月18日の箱館戦争の終結をもって最終的に終了する。その最後の戦い箱館戦争はこの道南の各地を戦場に巻き込んでいった。

(1)箱館戦争がおきるまで
 慶応4年8月19日、新政府の徳川家に対する処遇に不満を持つ旧幕府海軍副総裁榎本武揚率いる艦隊が、東北諸藩救援・旧幕臣による蝦夷地開拓を目指し品川沖から脱走した。また、旧幕府歩兵奉行大鳥圭介率いる陸軍も江戸を脱走し東北へと向った。
 しかし、東北諸藩で結成した奥羽越列藩同盟が崩壊したために両軍は仙台から蝦夷地へ向った。
 明治元(1868)年10月20日、旧幕府脱走軍は開港場箱館での戦闘を避けるため、鷲ノ木(現森町)に上陸した。上陸の意図を箱館府(新政府機関)に通達する前に戦端が開かれることになった。

(2)旧幕府脱走軍の箱館進攻
 箱館府は、弘前・盛岡藩が東北戦争のため箱館から引き上げた後在住隊と親兵隊を組織するとともに、新政府に兵の派遣を要請し福山藩・大野藩・弘前藩が明治元年10月20日に箱館に到着した。
 旧幕府脱走軍は、はじめに蝦夷地開拓の嘆願書を箱館府知事清水谷公考に届けようとする。続いて大鳥圭介率いる隊と土方歳三率いる隊の二手に分かれ箱館を目指す。大鳥隊は峠下(現七飯町)・大野村(現大野町)で、土方隊は川汲峠(現南茅部町)での戦闘に勝利する。全軍敗走を聞いた清水谷は25日に青森へ退却する。
 26日、大鳥隊・土方隊は五稜郭を占拠し、回天・蟠龍が箱館港に入港し、箱館と五稜郭は旧幕府脱走軍の占領下となる。

(3)松前福山城の制圧
 箱館・五稜郭を占領した旧幕府脱走軍は、松前藩に対し降伏勧告の使者を送りますが失敗に終わった。そのため10月28日土方隊約800名(彰義隊・額兵隊・遊撃隊陸軍隊・衝鋒隊・工兵隊)が松前に向けて出発した。
 11月1日知内村(現知内町)、2日福島村(現福島町)の戦闘の後、5日松前福山城の攻撃を開始した。海上からは回天・蟠龍が砲撃をしますが波が高く途中で退く。その日のうちに松前福山城を制圧するが、松前藩兵は逃走の際に市街に火を放ち多くの民家や寺院が焼かれた。
 松前に陸軍隊・遊撃隊を残し諸隊は江差に向う。14日大滝(現上ノ国町)での戦闘を経て、16日江差へ到着する。

(4)館城の制圧
 松岡四郎次郎率いる隊約200名が江差へ向う。11月11日二股(現大野町)、12日稲倉石(現厚沢部町)の松前藩の隊を敗り、15日館城(現厚沢部町)での戦闘となる。
 館城は、慶応4年10月に2ヶ月という短期間で築造された城だった。築造には、松前藩下級藩士が中心となって結成した正義隊があたった。
 館城の戦闘では旧幕府脱走軍が勝利するが、松前法華寺の僧で正義隊のメンバーでもあった三上超順が奮戦した。
 松前福山城から館城へ移っていた松前藩主徳広は、熊石(現熊石町)へ逃れそこから青森へ渡り11月29日弘前で亡くなった。

(5)開陽の座礁
 開陽は損傷した舵の修理をすませ、11月14日午前箱館港を出航し松前福山城を占領した土方隊と会議をするために松前に立ち寄った。その夜松前を出航し、15日未明江差沖についたが松前藩兵はすでに退去していたため、使者数名を上陸させ土方隊・松岡隊へ報告に向わせた。その夜6時頃から暴風雪となり10時過ぎ浅瀬に乗り上げ、座礁した。暴風雪はなお激しく3日後にようやく上陸し、武器や物資の一部を荷揚げしたが、数日後に開陽は海のもくずとなった。
 また、救援にむかった神速も22日に座礁し、数日後に沈没した。
 開陽の損失は大きな痛手となり、その後の宮古湾奇襲作戦などに関連していく。

(6)蝦夷地領有宣言
 旧幕府脱走軍が蝦夷地を占領した目的は、新政府からの独立ではなく、新政府下での徳川家による蝦夷地開拓だった。
 12月15日旧幕府脱走軍は士官以上の入札により各役職を決定した。これは指揮系統を明確にする目的と、蝦夷地開拓の許可がおりた際に徳川家の血をひく者を迎え入れるための準備であると思われる。
 また入札の結果は局外中立をとっていた諸外国にも通達され、反乱軍とされないための配慮がうかかえる。
 旧幕府脱走軍は軍用金の不足からあらゆるものに税金をかけ、箱館の外れに関門(一本木の関門)を設置するなど、箱館のひとにとっては迷惑な存在だったようだ。

(7)宮古湾奇襲作戦
 新政府は諸外国の局外中立撤廃(明治元年12月28日)により、旧幕府がアメリカから購入し引き渡しが保留されていた甲鉄を手に入れ、陸軍の主力艦とした。
 新政府軍の艦隊が宮古湾(現岩手県宮古市)に集結するという情報を得た旧幕府脱走軍は、開陽損失後の主力艦補填のため甲鉄奪取の作戦を実行した。
 回天・蟠龍・高雄の3艦共同作戦だったが、悪天候により明治2(1869)年3月25日回天のみが宮古湾に乗り込んだ。しかし、甲鉄の攻撃を受け作戦は失敗した。
 この戦闘で回天はアメリカの国旗を揚げ入港し、攻撃直前に日の丸の旗にかえる作戦をとった。これは当時の国際法にもとづいた作戦だった。

(8)新政府軍の箱館進攻
 新政府軍の先発隊1500名は4月6日青森港を出航し、9日乙部(現乙部町)に上陸した。12日に400名、16日には2500名が上陸した。
 松前に向った隊は17日に松前福山城を制圧し、22日には江差から木古内(現木古内町)へ向ったが、新政府軍が茂辺地と矢不来(現上磯町)を制圧したため、土方隊は退路を断たれる危険があるため撤退した。これにより旧幕府脱走軍は箱館と五稜郭を残すのみとなった。
 新政府軍は有川(現上磯町)付近に滞陣し、青森からの補給を待ち箱館総攻撃の準備を整えた。

(9)箱館総攻撃
 5月11日新政府軍の箱館総攻撃が開始された。有川を出発した陸軍は七重浜・桔梗・四稜郭に向い、海軍は甲鉄・春日が弁天岬台場沖、朝陽・丁卯が七重浜沖、陽春が大森浜沖から陸軍を援護する。さらに豊安・飛龍に乗り込んだ奇襲部隊は箱館山裏手から市街を攻撃する。
 この日の戦闘で箱館市街は新政府軍制圧され、旧幕府脱走軍は五稜郭・弁天岬台場千代ケ岡陣屋を残すのみとなる。
 またこの戦闘により箱館の街は大きな被害を受けた。とくに弁天岬台場の旧幕府脱走軍によるといわれる放火(脱走火事)により市街の3分の1(約800戸)が焼失した。

(10)戊辰戦争終結
 5月12日、かつて京都警備を行った会津藩と薩摩藩を窓口に、降伏勧告交渉がはじまったが、榎本は14日に降伏拒否の意志を伝える。しかし、15日弁天岬台場が降伏し、16日千代ケ岡陣屋が制圧され、17日降伏を決定する。
 18日五稜郭が明け渡され、21日榎本・松平・大鳥・荒井郁之助・永井玄蕃・松岡盤吉・相馬主計の7名は東京へ護送される。その他の者は青森・弘前へ護送されたが、10月旧幕臣と仙台藩兵は再び弁天岬台場に収容され、明治3(1870)年4月に釈放された。
 戊辰戦争は各地を戦火に巻き込み箱館を最後に終結した。北海道では箱館や松前などが大きな被害を受け、その復興には多くの時間と費用がかかった。

[参考文献]
(1)市立函館博物館五稜郭分館配布資料

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