千代ヶ岡陣屋

概説地名の由来:寛政、弘化、文化年代の菅江真澄、間宮林蔵あるいは仙台藩士らの記録の中に、「千代ヶ岡」「千世の岡」「千代ヶ岱」「千代ヶ台」などの呼び名が現れると言う。岡、台、岱は何れも小高いところを表すが、いつの間にか「千代ヶ岱」が定着した。しかしその後の住居表示変更で現在は千代台町になっている。
陣屋の変遷:前幕領時代の文化5(1808)年、幕府から蝦夷地警備を命じられた仙台藩が、択捉などの出張陣屋の元陣屋として、東西約130m、南北約150mの土塁を築き陣屋を置いたのが最初である。場所は現在の中島小学校付近から千代台公園野球場にかけての丘陵地帯と言われる。その後、択捉方面の問題が終息したため仙台藩は箱館から藩兵を引き揚げた。
 後幕領時代の安政2(1855)年になると、幕府が津軽藩に対して、西は乙部から神威岬まで、東は箱館から恵山岬までの警備を命じたため、津軽藩は出張陣屋を寿都に設け、仙台藩の千代ヶ岡陣屋跡地に元陣屋を置いた。そのため後年「津軽陣屋」と呼ばれるようになった。
 戊辰戦争が起こると、明治元(1868)年10月、道南一帯を掌握した榎本武揚率いる旧幕府軍は五稜郭に本拠を置き、弁天台場や津軽藩が引き上げて空塁になっていた千代ヶ岡に兵を配置した。陣屋の範囲も津軽藩時代のさらに外側へ拡張したようである。しかし、明治2年5月16日、新政府軍の総攻撃により守将中島三郎助はその子恒太朗、英次郎と共に壮烈な最期を遂げ陣屋は陥落した。[『函館市史資料集第26集』および現地説明板を参考にした]
中島三郎助碑の変遷(下図参照):代々中島三郎助父子の碑を守ってきている中島町のO氏に話を伺った。現在の函館税務署西側の空き地部分(1)に土盛と池があり、そこに中島三郎助の木碑が立っていた。その地に(旧)松川中学校を建設するに当たり一旦碑は(2)へ移されたが、市議会に図って「中島三郎助父子最期の地碑」として現在の(3)へ移してもらった、ということらしい。
中島小学校(左手)
中島三郎助碑変遷図(mapion地図を使用)
その他の写真
  1. 千代台公園オーシャンスタジアム
  2. 中島三郎助父子最期の地碑南側住宅地
訪問記[2001/08/05]土塁が残ると書いてある文献もあるが、どこにあるのかわからない。
[2002/08/26]中島三郎助父子最期の地碑南側住宅地の中に土塁の一部が残っていたと聞いたので行ってみたが、はっきりしたものは無かった。土塁の斜面の残りや石組みの残りかもしれないと思ったのは考え過ぎか?
[2006/09/02〜04]今年の3日間の函館滞在でのテーマは「千代ヶ岡陣屋の本当の場所探し」。箱館戦争の後、陸軍軍用地、監獄所、小学校、公園および市街地と変遷を経て今ではどこにあったものかさっぱり分からなくなっている。およその場所は千代台公園と中島小学校付近と言われ、函館市の現地説明版も陸上競技場の南西角に立っている。しかし、「東西約130m、南北約150mの土塁を築き」と書かれていることからするとそれではあまりに大雑把過ぎやしないか。陣屋の位置を正確に記した古絵図または古地図は見たことがないが、明治・大正期の地図を頼りに現在の町割りに重ねる方法で、陣屋の位置およびその中の土塁の位置をもう少し正確に決められないものか。
(1日目)函館へ出発する前夜に急遽、即席の対照地図をこしらえた。それを頼りに早朝6時から中島町をウロウロ。
(2日目)即席地図と詳しい方々からの情報で分かったいくつかのこと。
(1)現地説明版のある陸上競技場の南西角の場所は、土塁の北東の角に相当する
(2)土塁の南北のラインは、陸上競技場西側を南北に走る道(教育大通り)に沿っていたこと
(3)中島小学校校地の北側半分と小学校西側の住宅地の一部が土塁内部だったこと
(4)箱館戦争時代の千代ヶ岡陣屋の範囲は津軽藩陣屋時代よりも拡張されていたこと、などなど。
(3日目)ほぼ全日昨年末に新装なった函館中央図書館に籠もって千代ヶ岡陣屋関連の史料を検索。その合間に中島町一帯を歩いて地形の特徴を記録。来年は出来上がった地図を持って現地へ再確認に行きたいものだ。現時点での管理人による土塁推定位置を上図に入れておいた。
【訂正】これまで見出し写真のキャプションを「中島小学校(左手)と陣屋通り」としていましたが、中島小学校東側のこの通りは陣屋通りではなく教育大通りでした。訂正します。「陣屋通り」は中島小学校や千代台公園の北側を通り、五稜郭から一本木へ向かう直線道路のことでした。と、書いたところ「陣屋通りと教育大通りは呼び方が違うだけで、同じものです。昔ながらの呼び方では「陣屋通り」ですが、今はほとんどそう呼ぶ人はおらず、教育大通りと呼ばれています。なお、五稜郭から一本木へ向かう、ガソリンスタンドの脇を通る道路は高砂(たかさご)通りと言います。」とのご指摘をいただいた。書き方が不正確でした。以下のように解釈して下さい。確かにあの道は現在は高砂通りなのですがかつては五稜郭に近い辺りを「五稜郭通」、陣屋跡(監獄署)の北側部分を「陣屋通」と呼んでいたことを示唆する地図があります。『市立函館図書館蔵 函館の古地図と絵図(1988)』の明治32年から昭和初期にかけての何枚かの地図には陣屋跡北側(現在の中島町の高砂通り北側)部分に字陣屋通の地名が入っています。例えば「114.最新/函館市街全図(明治44年)」の該当部分をご覧ください。少なくともその時点では教育大通り(現在の陣屋通り)はないので、当時「陣屋通」と呼ばれたのは陣屋跡北側の通りと考えて良いのではないでしょうか。ということで、いつの「陣屋通」かを書かなかったために混乱を生じさせてしまいました。
所在地北海道渡島支庁函館市中島町、千代台町。中島小学校からオーシャンスタジアムにかけての場所。
参考書『函館市史資料集第26集』、『函館歴史散歩』、『箱館戦争写真集』