五稜郭

概説 五稜郭は、安政元(1854)年に結ばれた日米和親条約(神奈川条約)によって開港された箱館をはじめとする北辺の防備のため、江戸幕府の手により、安政4(1857)年に着工され、元治元(1864)年に完成した西洋式の城であり、慶応3(1867)年10月の大政奉還後、新政府に移管された。明治元(1868)年におこった戊辰戦争では旧幕府脱走軍榎本武揚らによって短期間占拠されたが、新政府軍に平定されてから開拓使、陸軍省の所管を経て、大正3(1914)年以降公園として市民に開放されている。城の形が五稜形をしているのは、守備の際に死角をなくすためであり、武田斐三郎の指導のもとに、西洋式の築城法をとりいれて造られたものである。[五稜郭正面説明板より抜粋]
 明治32年に行われた伊庭八郎を偲ぶ会での発言のひとつに、「八郎君の墓は函館五稜郭、土方歳三氏の墓の傍にあり」(「旧幕府」)というものがある。したがって、伊庭たちがここに埋葬されているのであれば、5月11日に一本木で戦死し、五稜郭に運ばれた土方歳三の遺体もかたわらに葬られていたことになる。[箱館戦争写真集(新人物往来社)P174より抜粋]
 ただし、土方歳三の埋葬地に関しては諸説あり今なお謎を秘めている。函館山のどこか埋葬説、函館山の碧血碑埋葬説、神山町の大円寺埋葬説、願乗寺埋葬説などがある。これら諸説については『土方歳三の埋葬地』にまとめてあります。
新五稜郭タワーからの眺望
その他の写真
  1. 旧五稜郭タワーからの眺望
  2. 五稜郭築城当時(1864)の建築物として唯一残る兵糧庫
  3. 兵糧庫および函館市立博物館分館周囲の土塁
  4. 馬出半月堡の石垣と武者返
  5. 馬出半月堡の上から
  6. 箱館戦争で戦死した土方歳三や伊庭八郎らを埋葬したといわれる土饅頭
  7. 市立函館博物館五稜郭分館
訪問記[2001/06/16]
[2006/09/04]函館のガッカリ名所と言われていた五稜郭タワーだったが、2006年4月1日、旧タワー南側に新たにほぼ2倍の高さの新タワーがオープンした。これで五稜郭のほぼ全景を眺望出来るようになり、「ガッカリ名所」の汚名は返上出来そうだ。
[2007/09/01]午前中、市立函館博物館五稜郭分館の2007特別展『さらば五稜郭の星第1部 血戦!戊辰戦争』を見る。五稜郭分館はこの後開催される『さらば五稜郭の星第2部 さよならこれが五稜郭分館だ!』を最後に52年の歴史に幕を降ろす。ここ10年ほど毎年見てきたので寂しい限り。
所在地北海道渡島支庁函館市五稜郭町44-2
参考書『箱館戦争写真集』、『新撰組研究最前線(下)』