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「この人を見よ (光文社古典新訳文庫)」フリードリヒ ニーチェ (著), Friedrich Nietzsche (原著), 丘沢 静也 (翻訳)(光文社 2016年10月)

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■「神は死んだ」という言葉の真意はどこにあるのだろう■

言葉とは何でしょうか。初期大乗仏教が厳しく否定したように、言葉に対応する実体的な存在など持たないものではないでしょうか。直接経験の原則が強く反映されたピダハンの言語世界や、抽象概念を表すことが難しい手話の世界、言葉がなくとも意志を通じあっている動物たちの生活を見ると、言葉は私たちがありがたがっているほど素晴らしい存在ではないようです。

このように言葉についての事実を確認していったとき、気になるようになった哲学者がニーチェでした。ニーチェには「神は死んだ」の他にも、気になる言葉があります。

まったく、人間は木と同じようなものだ。 高く明るい上の方へ、伸びて行けば行くほど、その根はますます力強く、地のなかへ、下のほうへ、暗黒のなかへ、深みのなかへ、――悪のなかへとのびて行く。(「ツァラトゥストラはこう言った」より)

果たしてニーチェとはどのような人だったのでしょうか。また、実際にどのような意味で「神は死んだ」と言ったのでしょうか。

この本では、皮肉を交えながら自画自賛を展開するとともに、それまでに出されたニーチェの著作を自ら総括しているとのことで、ニーチェの思想を知るために適した本であるようです。

難解な文章ではあるものの、幸い太字を適宜入れてあるために飛ばし読みがしやすいという特長にも助けられて何とか、それらしい部分に行きつくことができました。

「神は死んだ」につながる言葉は、なんのことはない、おわり近くの部分に記されており、訳者による巻末の「解説」でも、該当部分が抜き出されていました。

……「神」という概念は、生の反対概念として発明された。[中略]「彼岸」や「真の世界」という概念がでっち上げられたのは、存在している唯一の世界を無価値にするためである。[中略]「魂」や「霊」や「精神」という概念が。それになんと「不滅の魂」という概念までがでっち上げられたのは、からだ(、、、)を軽蔑するためである。からだ(、、、)を病気に――「神聖」に――するためである。人生で真剣に考えられるべきすべてのこと、つまり栄養、住居、精神の食餌、病気の治療、清潔、天気の問題を、身の毛もよだつほど軽率に扱わせるためである!健康のかわりに「魂の平安」が持ち出されるが、――それは、懺悔の痙攣と救済のヒステリーを往復する周期性痴呆症なのだ!

「「神聖」に――するためである。」までの部分は『人間が好き』に示された生き方をみればニーチェの言わんとしたことははっきりと読みとれると私は受け止めています。「たくさん遊び、走り、楽しんだ。わたしはもう、休む時間だ」と言って死を迎える。このような生き方(実際の生)を知れば、ニーチェが指摘したのは、抽象概念をでっちあげることで本来のたくさん遊び、走り、楽しむ、生き方ができなくされているという事実なのでした。ニーチェは人々が神を信じなくなったことや、教会がキリスト教を腐敗させたことなどを指摘しているのではなく、神というありもしない概念を持ち出して、現実の世界から目をそらさせている人々との決別を宣言したのです。

もう一か所引用してみましょう。

善人たちはけっして真実をしゃべらない。偽りの海岸や偽りの安全を、君たちは善人から教えられた。善人たちの嘘のなかで、君たちは生まれ、保護されていた。すべてが善人たちの手によって、徹底的に嘘で固められ、ねじ曲げられている」[『ツァラトゥストラ』第3部「新しい石板と古い石板について」28]。世界は幸いなことに、本能にもとづいては建てられていない。たんなるお人好しの畜群がそのなかで狭苦しい幸せを見つけられるわけはない。すべての者に対して、「善人」に、畜群の動物に、青い目のお人好しに、好意のある人に対して、「美しい魂」になれ、――またはハーバート・スペンサーが望んでいるように、利他的になれ、と要求するとすれば、それは、現実に存在している者からその大いなる性格を奪うことになるだろう。人類を去勢して、憐れな宦官にしてしまうことになるだろう。――しかしそういうことが試みられてきたのだ!……そしてそれこそが道徳と呼ばれていたのだ!(208-209)

この言葉を踏まえてみると、先ほどの「――悪のなかへとのびて行く」という言葉は、道徳を持ち出すことで人類が終わりを迎えるという意味を込めた言葉だったようです。そして、言葉に重きを置き身体性を顧みないキリスト教や、民主主義・博愛といった思想を広めつつ経済活動に人々を巻き込む世界システムの広まりに伴って、意味を増している言葉であると思えます。

一方この言葉を読んで私が思うのは、やはり、未開と呼ばれる人々の生き方です。裁判所も警察も国家権力も必要としない人々(ピダハン、ブッシュマン、ピグミーら)の暮らしと私たちの暮らしとを比べてみれば、野蛮で非人道的と思える生き方にこそ、主体的で自主的な生き方があることが見えてきます。しかし、ニーチェは私があらわれてようやく地上に大いなる政治が生まれるのだとも語っており、人類史上の99%を占めてきて、今やほとんど失われた、国家も教会も裁判所もない暮らしのことは眼中にないようです。

こうして必要な部分を調べ出すために本書をめくってみて、ニーチェの思想を知るにはなかなか適した本であることがわかりました。さまざまな著作について本人が位置付けを明らかにしているということは大いに助かります。しかし、やはり哲学者の書いた本というのは難解かつ曖昧であり、そのような著作を理解するために時間を割くのは無駄が多く、しかも自らの思想でないためにしっかりとした根を持たない知識になってしまうと改めて感じました。実際に生きて暮らしている人々や動物たちから学ぶことのほうが多いと私は感じます。

内容の紹介


栄養の問題と密接な関係があるのが、土地気候の問題である。自由に、どこにでも暮らせる人はいない。そして、全力が要求されるような大きな使命をかかえている者は、選択の幅が非常に狭くさえなる。気候が新陳代謝におよぼす影響、新陳代謝を抑制したり促進したりする影響は、とても大きいため、土地や気候を選びそこなうと自分の使命から遠ざけられるだけでなく、使命そのものを取り上げられることにもなってしまう。 使命の顔を見ることができなくなる。動物的な活力が十分な大きさにならなかったので、精神的な高みに達するようなあの自由には、「それができるのは私だけだ」と気づくような場所には、届かない。……ほんのわずかでも内臓が活力をなくして、それが悪い習慣になるだけで、天才は、すっかり凡庸なもの、「ドイツ的なもの」になってしまう。頑丈で、英雄的でさえある内臓をしょんぼりさせるには、ドイツの気候のなかに置くだけで十分である。 新陳代謝のテンポは、精神の足がよく動くか、それとも麻痺しているかに精確に比例する。[後略] - 54ページ

土地と気候が人間の生き方や精神に影響することは事実でしょうが、ニーチェがパリ、アテネ、フィレンツェ、エルサレムなどの土地を前提として精神的な高みを想定していることには、違和感があります。そうした場所こそ、道徳の発祥地のように思えます。

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「ルビリン」は東山動物園にいたアムールトラの名前です。土手で出会った子猫を迎え入れ、「るびりん」と命名しました。

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