登山NO.0056 高 妻 山( 高妻山:2,353m ) 1995.9.30登山


 四普賢付近から見た高妻山( 1995.9.30 )

【高妻山登山記録】

【高妻山登山データ】

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再登山


NO.56 高妻山登山記録

高妻山は私にとっては遠い山のように思え、確かにそのアプローチの大変さ故になかなか登山計画を組むのが難しかったのであるが、 今年の夏に 火打山妙高山を登ってみて、 意外にこの周辺のアプローチも容易であることに気づき、俄然 登る対象の山としてクローズアップされてきたのであった。
火打山妙高山を登った時のように前夜に東京を出発する長野行きの夜行バスに乗れば、 翌朝 6時には長野に着くことができるので、長野バスターミナルを 6時55分に出発する戸隠キャンプ場行きのバスにて高妻山に登ってくることが可能になるというわけである。

というわけで長野行きの夜行バスの予約を入れるにあたり、折角 山に登るのなら天候の良い時を選びたいと考えて、 出発日ギリギリまで天気を見て好天なら予約を入れるという方法をとったところ、それが裏目となって週末のバスは既に満員で断られてしまい、 仕方なく金曜日の晩に長野まで行って泊まるという方法をとることにした。
金曜日に会社をやや早く退出し、午後 7時に上野を出発する特急に乗り、長野のビジネスホテルに着いたのは夜 10時過ぎであったが、 金はかかるとは言えこちらの方が身体的にはずっと楽である。
翌朝、予定通り長野バスターミナルから戸隠キャンプ場に向かい、終点の戸隠キャンプ場に着いたのは朝の 8時を少し回っていた。
バスを降りてからキャンプ場の水場に寄って水を補給した後、広い草地を通って戸隠牧場へと向かう途中、 振り返ってみると朝靄の中に飯縄山の頂上部分が浮かんでいるのが見え、何か墨絵のようなその光景に暫し見とれてしまった。

戸隠牧場は登山者以外が入場する場合は有料だそうであるが、 そのようなことが書かれた看板のある料金所を抜けて牧場内を進んでいくと、先ほどまで朝靄に隠れて見えなかった戸隠連峰が目の前に現れ、 それが屏風のように立ち塞がっているようでかなりの威圧感を受けた。
牧場の中を柵に沿って暫く進むと登山口を示す標識があったので、そこから柵を抜け、その少し先で樹林帯の中に入るようになる。
やがて大洞沢を渡ると、沢近くの岩に私より先の方を歩いていた人が座っていて、着ていた上着を脱ぎかけていた。
当然の如く私は抜きさったのだが、このことが辛い登り競争の始まりとなってしまったのであった。

沢を何回か渡り返しながら緩やかに登っていき、やがて沢が分かれた場所があったので左の沢を進んでいくと、 登りもややキツくなり始め、やがて目の前に鎖場が現れた。
鎖場の傾斜はさほどキツくないものの、岩が水でヌルヌルしていて滑りやすく最初は戸惑ったが、足場となる穴も掘られていたので、 どうにか登りきることができた。
そこからは沢の右岸を進んで、急な登りを喘ぎながら登っていくことになったが、それよりも先ほど大洞沢の所で抜いた男性 (50歳代くらい) がつかず離れずついてくる方が気になって、ややペースが乱れ気味であった。

帯岩と呼ばれる大きな 1枚岩の所を慎重にトラバースし、不動滝の上部に出て、 水量の少ない沢を登っていくと、一杯清水と呼ばれる水場であった。
後ろを見ると、例の男性は先ほど帯岩の手前でかなり差をつけたためか姿が見えず、これでホッと一息つけると思い沢の水で喉を潤していると、 何と再び勢い良く登ってくる男性の姿が見えてきたので、少々慌てさせられた。
私も脚力には自信がある方であり、人を抜くことはあっても抜かれることは滅多になく、ましてや自分より年上の人に抜かれることなど許されないと考えていることもあって、 このように元気な年上の方に迫ってこられると、抜かれまじとついムキになって足を早めてしまうのである。

少し足を早めて、一杯清水からササに囲まれた涸れ沢の道を登っていくと、 やがて丁字路に飛び出ることとなり、左の方には 一不動避難小屋があった。
小屋の前で少々休み、一不動を示す祠でもないかと小屋の周囲を回ってみると、ボンヤリではあるが樹林の間から高妻山の鋭角的な三角錐の姿が見え、 そこまでの遠さに驚き、さらに登ることができないのではないか と思わせる程のその鋭い傾斜に驚かされてしまった。

小屋を後にして北へと進むとすぐまた登りで、この辺に来ると周囲の木々も大分紅葉し始めているのが目につきだし、 それを楽しみながら登っていくとやがて登山道のワキに石の祠が現れ、その傍らには 「ここは二釈迦 と書かれた白い標示板が置かれていた。
この石祠はそれからも道標のように規則的に現れ、三文殊四普賢と続いていて、 五番目は 五地蔵岳と呼ばれる山の頂上に置かれていた。

二釈迦を過ぎてからは頻繁に高妻山の姿を木の間越しに見ることができるようになったのだが、 五地蔵岳に至るまでの高妻山の姿は、先ほど一不動避難小屋の裏手から見たように、谷から一気に空へと突き上げて鋭く尖っており、 とても人が登れそうもない近づき難い雰囲気を醸し出していた。
しかし、ササに囲まれた小広い五地蔵岳以降の登山路から見る高妻山の姿は、徐々にその角度を緩やかにし始め、 登り坂のピークにある九勢至の石祠の先に見えたその姿は、最早 大きな傘のように緩やかな傾斜角をしていた。
また、紅葉は 六弥勒を過ぎる頃から今までとは違った色鮮やかさを見せ始め、赤やオレンジ色、 そしてやや少ないものの黄色く色づいた木々が、薄緑色をしたササをバックに山の斜面を彩っており、登りの苦しさを暫し忘れさせてくれた。

先ほどの男性であるが、一不動で長い休憩をとったらしくかなり差が開いていたのだが、 七観音付近ではその距離も急激に縮まってきており、またもや私にプレッシャーをかけることになった (抜かせてしまえば良いのだが、なかなかプライドがそうさせない)
八薬師九勢至と高度を上げていく中、かなりペースを上げて進んで行ったのだが、 九勢至を過ぎてからの最後の登りは本当にキツく、一気に頂上へと続く直線的な道でヘトヘトになってしまった。
それでも、後ろから来る男性に抜かれまいとして、ほとんど休まずに登ってしまい、このままこの状態が続けば足が痙攣するのではないかと思い始めたところ、 やや傾斜も緩やかになって頂上の一角に飛び出したので本当に嬉しかった。

岩場に阿弥陀如来と御鏡が祀られている 十阿弥陀を過ぎると、 前方に紅葉した木々で赤や黄色に染まったピークが見え、そこに向かって岩場を辿っていくとやがて高妻山の頂上であった。
ここまでずっと私の後ろをつかず離れずついてきた男性とも、頂上近くからは並んで歩きながら話をしたが、 その人は最後の登りで私を抜こうと思えばできるところを、ワザと抜かないでくれたのではないかと感じさせる程元気であった (一番乗りではないのだから競争しても仕方がないのであるが)

頂上からの展望は素晴らしく、北には乙妻山とその後ろに 雨飾山、そしてその右にはやや雲がかかってはいたものの焼山、 火打山妙高山とお馴染みの山が続いていたが、 それよりも西から南に続く雲の上に 白馬岳鹿島槍ヶ岳五竜岳などの 北アルプス後立山連峰の山々が見えたことが、何よりもここまでの苦労を吹き飛ばしてくれることになった。
頂上の展望の素晴らしさや、ここまでの石祠とその傍らに置かれた標識の丁寧さと比べ、 頂上の標識は寂しいもので、二等三角点の傍らに風化した標識と、そこに後から付けられたと思われる高妻山と書いた小さな札があるだけであった。

小 1時間ほど頂上での展望を楽しんだ後、また同じ道を下ったが、 このように登りが苦しかった道は、得てして早く下ることができるもので、今度は先ほどの男性と仲良く並んで (それも結構な早足で) 話をしながら一気に牧場まで駈け下った。
そのお陰か、かなり短い時間で下山でき、3時にはバス停に着くことができたのだが、やはりさすがに疲れており、 バスに乗って長野へ帰る車中をほとんど寝て過ごすことになった (戸隠神社も見たいという気はあったが、 それもあきらめてまっすぐ帰った)

しかし、その登り応えといい、また頂上での展望といい、 また自分の頑張りも含めて、かなり満足感を得られた山行であった。


高 妻 山 登 山 デ ー タ

上記登山のデータ登山日:1995.9.30 天候:晴れ時々曇り単独行前日泊
登山路:戸隠キャンプ場−戸隠牧場−大洞川−帯岩−一不動避難小屋− 二釈迦−三文殊−四普賢−五地蔵岳−六弥勒−七観音−八薬師−九勢至−十阿弥陀−高妻山−十阿弥陀 〜五地蔵岳〜一不動避難小屋−帯岩−大洞川−戸隠牧場−戸隠キャンプ場
交通往路:横浜−(東海道本線)−東京−(山手線)−上野− (信越本線)−長野()−(バス)−戸隠キャンプ場
交通復路:戸隠キャンプ場−(バス)−長野()。 翌日美ヶ原へ。
その他:9月29日に長野泊。翌30日に高妻山登山。30日も長野泊。
その他の
高妻山
登山
戸隠神社奥社駐車場−戸隠神社奥社−百間長屋−蟻の戸渡−八方睨−戸隠山−九頭竜山− 不動避難小屋−五地蔵山− 九勢至−十阿弥陀−高妻山−十阿弥陀−九勢至−五地蔵山−不動避難小屋− 氷清水−不動滝−戸隠牧場−戸隠神社奥社駐車場 ( 2008.7.21:曇り )
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